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'''新田 義貞'''(にった よしさだ)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[御家人]]・[[武将]]。正式な名は'''源 義貞'''(みなもと の よしさだ)。
'''新田 義貞'''(にった よしさだ)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[御家人]]・[[武将]]。正式な名は'''源 義貞'''(みなもと の よしさだ)。

鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、[[後醍醐天皇]]による建武新政樹立の立役者の一人となった<ref>峰岸・5頁</ref>。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である[[足利尊氏]]と対立<ref>安井『太平記要覧』173頁</ref>。尊氏が建武政権に反旗を翻すと後醍醐天皇の尖兵としてこれに対抗、各地で転戦するが、箱根や湊川での合戦で敗北、後醍醐天皇の息子の[[恒良親王]]、[[尊良親王]]を奉じて北陸に赴き、[[越前国]]を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した<ref>峰岸・5頁</ref>。


[[河内源氏]][[源義国|義国]]流[[新田氏]]本宗家の8代目棟梁。父は[[新田朝氏]]、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。[[官位]]は[[正四位]]下、[[近衛府|左近衛中将]]。[[明治]]15年([[1882年]])8月7日[[贈位|贈]][[正一位]]。
[[河内源氏]][[源義国|義国]]流[[新田氏]]本宗家の8代目棟梁。父は[[新田朝氏]]、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。[[官位]]は[[正四位]]下、[[近衛府|左近衛中将]]。[[明治]]15年([[1882年]])8月7日[[贈位|贈]][[正一位]]。

鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利家と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、[[足利尊氏]]の対抗馬であり、好敵手でもあった<ref>安井『太平記要覧』173頁</ref>。また、軍記物語『[[太平記]]』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である<ref>安井『太平記要覧』173頁</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
新田氏(上野源氏)は、河内源氏3代目である[[源義家]]の四男・義国の長子である[[源義重|新田義重]]に始まり、[[上野国]][[新田荘遺跡|新田荘]](にったのしょう、現在の[[群馬県]][[太田市]]周辺)を開発した。
新田氏(上野源氏)は、河内源氏3代目である[[源義家]]の四男・義国の長子である[[源義重|新田義重]]に始まり、[[上野国]][[新田荘遺跡|新田荘]](にったのしょう、現在の[[群馬県]][[太田市]]周辺)を開発した。


だが、義貞が家督を継承した頃の新田宗家の地位は低かった。義貞の代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。[[文保]]2年([[1318年]])10月に義貞が所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して[[北条高時]]が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、[[鎌倉幕府]]での新田本宗家の地位の低さを表している。
だが、義貞が家督を継承した頃の新田宗家の地位は低かった。義貞の代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。加えて、足利氏と比べると、新田氏は北条得宗家との関係が険悪で、鎌倉幕府から冷遇されていた<ref>南北朝の動乱・41頁</ref>。[[文保]]2年([[1318年]])10月に義貞が所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して[[北条高時]]が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、[[鎌倉幕府]]での新田本宗家の地位の低さを表している。


[[世良田満義]]や[[大舘家氏]]など、新田一門の面々も義貞同様に所領の一部を売却していた。本来であれば、手続きの折は宗家の承諾を得なければならないところだが、宗家の当主である義貞の承諾があった形跡はない。また、一族の[[大舘宗氏]](家氏の子)と[[岩松政経]]が水の利権を巡って控訴沙汰になった際は、両者は義貞を無視して幕府に裁定を仰ぎ、幕府は裁許状を下している。
[[世良田満義]]や[[大舘家氏]]など、新田一門の面々も義貞同様に所領の一部を売却していた。本来であれば、手続きの折は宗家の承諾を得なければならないところだが、宗家の当主である義貞の承諾があった形跡はない。また、一族の[[大舘宗氏]](家氏の子)と[[岩松政経]]が水の利権を巡って控訴沙汰になった際は、両者は義貞を無視して幕府に裁定を仰ぎ、幕府は裁許状を下している。


義貞の生年については判然としていない<ref>奥富・65</ref>。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ<ref>奥富・66、峰岸・13、山本・45</ref>、生年は[[正安]]2年([[1300年]])前後と考えられている。[[辻善之助]]は37歳没、峰岸純夫は39歳没説を採用している。
義貞の生年については判然としていない<ref>奥富・65</ref>。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ<ref>奥富・66、峰岸・13、山本・45</ref>、生年は[[正安]]2年([[1300年]])前後と考えられている。[[辻善之助]]は37歳没、峰岸純夫は39歳没説を採用している。


また『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が[[里見氏]]からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている<ref>奥富・66-68</ref>。
また『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が[[里見氏]]からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている<ref>奥富・66-68</ref>。


義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。
義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。
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:*碓氷郡里見郷([[榛名町]]):『新田正伝記』「里見氏系譜」より
:*碓氷郡里見郷([[榛名町]]):『新田正伝記』「里見氏系譜」より
とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。
とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。
[[正和]]3年([[1314年]])、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる<ref>奥富・70</ref>。文保2年(1318年)には、義貞が[[長楽寺 (太田市)|長楽寺]]再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。
[[正和]]3年([[1314年]])、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる<ref>奥富・70</ref>。文保2年(1318年)には、義貞が[[長楽寺 (太田市)|長楽寺]]再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。


義貞の育った新田荘は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、[[笠懸野]]という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、[[利根川]]で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている<ref>峰岸・32</ref>。
義貞の育った新田荘は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、[[笠懸野]]という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、[[利根川]]で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている<ref>峰岸・32</ref>。


=== 挙兵から鎌倉攻略まで ===
=== 挙兵から鎌倉攻略まで ===
{{Main|元弘の乱}}
{{Main|元弘の乱}}
[[元弘]]元年([[1331年]])から始まった元弘の乱では、[[大番役]]として上洛していたが、[[河内国]]で[[楠木正成]]の挙兵が起こり、幕府に従って正成討伐に向かい、[[千早城の戦い]]に参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『[[太平記]]』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事[[船田義昌]]と共に策略を巡らし、[[護良親王]]と接触して[[北条氏]]打倒の[[綸旨]]を受け取っていたという経緯を示している。奥富敬之は、護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい、文章の体裁が綸旨の形式ではない、などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない<ref>奥富・77項</ref>。山本隆志も、『太平記』の記述にある、義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している<ref>山本・60-65</ref>。
[[元弘]]元年([[1331年]])から始まった元弘の乱では、[[大番役]]として上洛していたが、[[河内国]]で[[楠木正成]]の挙兵が起こり、幕府に従って正成討伐に向かい、[[千早城の戦い]]に参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『[[太平記]]』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事[[船田義昌]]と共に策略を巡らし、[[護良親王]]と接触して[[北条氏]]打倒の[[綸旨]]を受け取っていたという経緯を示している。奥富敬之は、護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい、文章の体裁が綸旨の形式ではない、などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない<ref>奥富・77項</ref>。山本隆志も、『太平記』の記述にある、義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している<ref>山本・60-65</ref>。
また義貞は[[後醍醐天皇]]と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる<ref>山本・65</ref>。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。
また義貞は[[後醍醐天皇]]と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる<ref>山本・65</ref>。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。


義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、幕府の徴税の使いとの衝突あった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、[[北条氏 (金沢流)|金沢出雲介親連]](幕府引付[[奉行]]、[[北条氏]][[得宗家]]の一族、[[紀氏]]とする説もある)と[[黒沼彦四郎]]([[御内人]])が赴いた。親連と黒沼は、六万貫文の軍資金を、わずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を、短期間で納入するよう要請した理由は、世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである<ref>奥富・85、峰岸・34-35</ref>。
義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、幕府の徴税の使いとの衝突から生じた、徴税の使者の殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった<ref>南北朝の動乱 42頁</ref>。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、[[北条氏 (金沢流)|金沢出雲介親連]](幕府引付[[奉行]]、[[北条氏]][[得宗家]]の一族、[[紀氏]]とする説もある)と[[黒沼彦四郎]]([[御内人]])が赴いた。親連と黒沼は、六万貫文の軍資金を、わずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を、短期間で納入するよう要請した理由は、世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである<ref>奥富・85、峰岸・34-35</ref>。


両者の行動はますます増大し、譴責の様相を呈してきた。義貞の館の門前に、泣訴してくるものもあった。また、黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。彦四郎の首は世良田の宿に晒された。親連は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると幕府を刺激すると義貞が懸念したとも考えられている<ref>峰岸・36</ref>。
両者の行動はますます増大し、譴責の様相を呈してきた。義貞の館の門前に、泣訴してくるものもあった。また、黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。彦四郎の首は世良田の宿に晒された。親連は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると幕府を刺激すると義貞が懸念したとも考えられている<ref>峰岸・36</ref>。


[[得宗]]・北条高時は、これに対して、新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。義貞は得宗[[被官]]・[[安東聖秀]]の姪を妻としており、彼女を経由して情報を取得したと推測される<ref>奥富・88</ref>。義貞は一門、郎党を集め評定を行っていたが、幕府による新田討伐の情報を得るに至って、幕府との対決の戦略を講じるようになる。最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、弟・[[脇屋義助]]の演説が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換した。
[[得宗]]・北条高時は、これに対して、新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。義貞は得宗[[被官]]・[[安東聖秀]]の姪を妻としており、彼女を経由して情報を取得したと推測される<ref>奥富・88</ref>。義貞は一門、郎党を集め評定を行っていたが、幕府による新田討伐の情報を得るに至って、幕府との対決の戦略を講じるようになる。最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、弟・[[脇屋義助]]の演説が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換した。


元弘3年 / [[正慶]]2年([[1333年]])5月、義貞は挙兵した。挙兵の日時については史料によって若干隔たりがある。『太平記』は5月8日、『[[梅松論]]』は5月中旬、『[[神明鏡]]』は5月5日と記述している。[[千々和実]]は、幕府による平塚郷の長楽寺への寄進が5月8日であることを鑑み5月5日説を支持し、奥富敬之は徴税使殺害など前後の事象から5月8日説を支持している<ref>奥富・90</ref>。『太平記』には、挙兵に際して、新田荘にある生品明神社頭に義貞はじめ新田一族が参集して決起する逸話が描かれているが、義貞決起の経緯の記述構成が『太平記』と類似している『神明鏡』には神社で決起する描写がないことから、神社での決起は『太平記』における創作ではないかという指摘がある<ref>山本・69</ref>。この時点で集まった主なメンバーは、義貞に義助、大舘宗氏とその息子達、[[堀口貞満]]、[[岩松経家]]らであった。兵の数はわずか150騎であったが、これは騎馬武者のみを考慮した数であり、雑兵も計算に入れると数倍はいたと考えられる<ref>峰岸・34</ref>。
元弘3年 / [[正慶]]2年([[1333年]])5月、義貞は挙兵した。挙兵の日時については史料によって若干隔たりがある。『太平記』は5月8日、『[[梅松論]]』は5月中旬、『[[神明鏡]]』は5月5日と記述している。[[千々和実]]は、幕府による平塚郷の長楽寺への寄進が5月8日であることを鑑み5月5日説を支持し、奥富敬之は徴税使殺害など前後の事象から5月8日説を支持している<ref>奥富・90</ref>。『太平記』には、挙兵に際して、新田荘にある生品明神社頭に義貞はじめ新田一族が参集して決起する逸話が描かれているが、義貞決起の経緯の記述構成が『太平記』と類似している『神明鏡』には神社で決起する描写がないことから、神社での決起は『太平記』における創作ではないかという指摘がある<ref>山本・69</ref>。この時点で集まった主なメンバーは、義貞に義助、大舘宗氏とその息子達、[[堀口貞満]]、[[岩松経家]]らであった。兵の数はわずか150騎であったが、これは騎馬武者のみを考慮した数であり、雑兵も計算に入れると数倍はいたと考えられる<ref>峰岸・34</ref>。


挙兵した義貞は笠懸野に布陣した。これは『太平記』『神明鏡』による叙述で、『梅松論』は世良田に打って出たと叙述しており、矛盾が生ずる。しかし、矛盾を指摘した山本隆志は、当時は『笠懸野』が示す範囲が今よりも広く、世良田も笠懸野の一部であったと推量し、史料の齟齬を埋め合わせている<ref>山本・69項目</ref>。
挙兵した義貞は笠懸野に布陣した。これは『太平記』『神明鏡』による叙述で、『梅松論』は世良田に打って出たと叙述しており、矛盾が生ずる。しかし、矛盾を指摘した山本隆志は、当時は『笠懸野』が示す範囲が今よりも広く、世良田も笠懸野の一部であったと推量し、史料の齟齬を埋め合わせている<ref>山本・69項目</ref>。


義貞は、まず後顧の憂いを絶つべく進路を北西へ向け、幕府方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入って壊滅させた。幸先の良い快勝を収めた義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて[[越後国]]や[[信濃国]]・[[甲斐国]]の新田一族や、里見・[[鳥山氏|鳥山]]・[[田中氏|田中]]・大井田・[[羽川氏|羽川]]などの氏族が合流した。『太平記』によれば、彼らは[[山伏]]から義貞決起の情報を聞かされ馳せ参じたとされる。各地から参集した軍勢と合流して義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、態勢を整えると[[鎌倉]]を目指し一気呵成に進撃した。さらに、利根川を渡って[[武蔵国]]に入る際、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の[[足利義詮]])と合流した。千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。
義貞は、まず後顧の憂いを絶つべく進路を北西へ向け、幕府方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入って壊滅させた。幸先の良い快勝を収めた義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて[[越後国]]や[[信濃国]]・[[甲斐国]]の新田一族や、里見・[[鳥山氏|鳥山]]・[[田中氏|田中]]・大井田・[[羽川氏|羽川]]などの氏族が合流した。『太平記』によれば、彼らは[[山伏]]から義貞決起の情報を聞かされ馳せ参じたとされる。各地から参集した軍勢と合流して義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、態勢を整えると[[鎌倉]]を目指し一気呵成に進撃した。さらに、利根川を渡って[[武蔵国]]に入る際、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の[[足利義詮]])と合流した。千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。

尊氏の息子千寿王は鎌倉攻めのもう一人の大将とも言われる存在で、鎌倉攻めの軍勢には、義貞と千寿王、二人の大将がいた<ref>小林「元寇と南北朝の動乱」121頁</ref>。このことから、義貞の挙兵は尊氏の要請に応じて行われたものだと看做す解釈もある<ref>小林「元寇と南北朝の動乱」121頁</ref>。


=== 小手指原・分倍河原の戦い ===
=== 小手指原・分倍河原の戦い ===
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翌日、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した。桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。幕府軍は[[鶴翼の陣]]を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。桜田貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。
翌日、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した。桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。幕府軍は[[鶴翼の陣]]を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。桜田貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。


退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始する([[分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い]])。先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに[[北条泰家]]を大将とする新手の軍勢が加わり、士気が高まった。一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突するが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている<ref>奥富・100</ref>。しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されている。
退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始する([[分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い]])。先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに[[北条泰家]]を大将とする新手の軍勢が加わり、士気が高まった。一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突するが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている<ref>奥富・100</ref>。しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されている。


敗走した義貞は、退却も検討していた<ref>奥富・101</ref>。しかし堀兼に敗走した日の夜、[[三浦氏]]一族の[[大多和義勝]]が河村・[[土肥氏|土肥]]・[[渋谷氏|渋谷]]、[[本間氏|本間]]ら[[相模国]]の氏族を統率して義貞に加勢した。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は[[足利氏|足利]]一族の[[高氏]]から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている<ref>峰岸・56</ref>。
敗走した義貞は、退却も検討していた<ref>奥富・101</ref>。しかし堀兼に敗走した日の夜、[[三浦氏]]一族の[[大多和義勝]]が河村・[[土肥氏|土肥]]・[[渋谷氏|渋谷]]、[[本間氏|本間]]ら[[相模国]]の氏族を統率して義貞に加勢した。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は[[足利氏|足利]]一族の[[高氏]]から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている<ref>峰岸・56</ref>。


義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌日早朝、義勝を先鋒として義貞は虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け、大勝した。義勝の加勢の背景には、恐らく[[足利尊氏|足利高氏]]による[[六波羅探題]]滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である[[霞ノ関]]([[東京都]][[多摩市]]関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている([[関戸の戦い]])。
義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌日早朝、義勝を先鋒として義貞は虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け、大勝した。義勝の加勢の背景には、恐らく[[足利尊氏|足利高氏]]による[[六波羅探題]]滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である[[霞ノ関]]([[東京都]][[多摩市]]関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている([[関戸の戦い]])。


=== 稲村ヶ崎突破 ===
=== 稲村ヶ崎突破 ===
[[ファイル:Nitta Yoshisada at Inamuragasaki.jpg|thumb|250px|新田義貞と稲村ヶ崎]]
藤沢([[神奈川県]][[藤沢市]])まで兵を進めた義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨副呂坂(こぶくろざか)切通しから鎌倉を総攻撃した。しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は、波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとしたが、北条軍の迎撃によって討死した。宗氏の戦死によって指揮系統が失われたため、義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。
藤沢([[神奈川県]][[藤沢市]])まで兵を進めた義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨副呂坂(こぶくろざか)切通しから鎌倉を総攻撃した。しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は、波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとしたが、北条軍の迎撃によって討死した。宗氏の戦死によって指揮系統が失われたため、義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。


5月21日、義貞は[[稲村ヶ崎]]を突破する。現在、稲村ヶ崎突破については、[[干潮]]を利用して進軍したという認識が広く浸透している<ref>峰岸・66</ref>。『太平記』では、義貞が太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。
5月21日、義貞は[[稲村ヶ崎]]を突破する。現在、稲村ヶ崎突破については、[[干潮]]を利用して進軍したという認識が広く浸透している<ref>峰岸・66</ref>。『太平記』では、義貞が太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。


5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者[[小川清彦 (天文学者)|小川清彦]]の検証によって証明されている<ref>天文月報第八巻「太平記・稲村ケ崎長干のこと」</ref>。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、さらに結果として失敗したが先立って大舘宗氏が突破を敢行しており、干潮については把握していてもおかしくは無いと指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉していたと考えられる<ref>峰岸・66項目</ref>。
5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者[[小川清彦 (天文学者)|小川清彦]]の検証によって証明されている<ref>天文月報第八巻「太平記・稲村ケ崎長干のこと」</ref>。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、さらに結果として失敗したが先立って大舘宗氏が突破を敢行しており、干潮については把握していてもおかしくは無いと指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉していたと考えられる<ref>峰岸・66</ref>。

[[久米邦武]]は稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。これに影響を受け、[[三上参次]]も干潮虚構説を支持した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士[[三木俊連]]が、霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに対して、[[大森金五郎]]は、徒渉説を支持した。峰岸純夫は、突発的な地殻変動や自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した<ref>峰岸・67項</ref>。[[高柳光寿]]は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。[[石井進 (歴史学者)|石井進]]は、小川清彦の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を[[平成]]5年([[1993年]])に発表している<ref>細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 </ref>。


[[久米邦武]]は稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。これに影響を受け、[[三上参次]]も干潮虚構説を支持した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士[[三木俊連]]が、霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに対して、[[大森金五郎]]は、徒渉説を支持した。峰岸純夫は、突発的な地殻変動や自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した<ref>峰岸・67項</ref>。[[高柳光寿]]は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。


いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。最後の戦場は葛西谷に推移し、北条高時ら北条一族は菩提寺の東勝寺にて自害([[東勝寺合戦]])、鎌倉幕府は滅亡した。挙兵から2週間という迅速さであった。
いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。最後の戦場は葛西谷に推移し、北条高時ら北条一族は菩提寺の東勝寺にて自害([[東勝寺合戦]])、鎌倉幕府は滅亡した。挙兵から2週間という迅速さであった。


『太平記』は、幕府滅亡にあたって、義貞と舅安東聖秀の逸話を収録している。それによると、義貞の妻は、父である聖秀に勧告状を贈ったが、これを受け取った聖秀は「娘の真意であったとしても、義貞が真の勇士であれば、このようなことをすべきではない」と、憤然としてその書状で太刀を握り、割腹して果てたという。{{要出典範囲|date=2011年11月|安東聖秀という人物実在については明確な典拠はないが、実したと充分想定きる人物であるとい}}『太平記』は義貞を勇将として描く一方、義貞に親族の縁を利用して敵を懐柔する狡猾な一面があったことを指摘するためにこのような逸話を収録したとされる<ref>山本・111項</ref>。
『太平記』は、幕府滅亡にあたって、義貞と舅安東聖秀の逸話を収録している。それによると、義貞の妻は、父である聖秀に勧告状を贈ったが、これを受け取った聖秀は「娘の真意であったとしても、義貞が真の勇士であれば、このようなことをすべきではない」と、憤然としてその書状で太刀を握り、割腹して果てたという。聖秀は鎌倉幕府得宗被官であった[[安東蓮聖]]の一族と言われ<ref>峰岸・68-69頁</ref>、義貞が得宗被官との間にパイプを持っていたことを示唆している。またこの逸話について、聖秀という人物実在したかどうかとされてる<ref>山本・111頁</ref>が、義貞の妻が得宗被官の安東氏の血縁であったことは史料から確<ref>山本・111頁、山本が参考した系図は義貞の妻を、甘羅群地頭(得宗被官安東氏の役職)・[[藤原重保]]の娘としてい。</ref>されて。『太平記』は義貞を勇将として描く一方、義貞に親族の縁を利用して敵を懐柔する狡猾な一面があったことを指摘するためにこのような逸話を収録したとされる<ref>山本・111項</ref>。


=== 鎌倉占拠と足利氏との確執 ===
=== 鎌倉占拠と足利氏との確執 ===
鎌倉を陥落させた義貞は、[[勝長寿院]]に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂[[永福寺]]に布陣した。
鎌倉を陥落させた義貞は、[[勝長寿院]]に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂[[永福寺]]に布陣した。鎌倉陥落後ほどなくして、義貞は後醍醐天皇に幕府を打倒した旨を伝える使者を送らせた。<ref>山本・121-122頁、『太平記』、『新田足利両家系図』などに言及がある。ただし、義貞が戦勝を注進したことを記述する史料は二次史料のみである</ref>


鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ[[軍忠状]]、[[着到状]]を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した。5月28日には執事船田義昌が高時の嫡男、[[北条邦時]]を捕らえ斬首している。
鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ[[軍忠状]]、[[着到状]]を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した<ref>奥富・117頁</ref>。5月28日には執事船田義昌が高時の嫡男、[[北条邦時]]を捕らえ斬首している。


7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶える。後醍醐天皇が[[京都]]に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利高氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく高氏の子である千寿王の下へ集った。に、高氏は我が子を支援する為、[[細川和氏]]・[[細川頼春|頼春]]・[[細川師氏|師氏]]の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。
7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶える。後醍醐天皇が[[京都]]に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利高氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく高氏の子である千寿王の下へ集った。高氏が鎌倉陥落先んじて京都を制圧したという功績も武士達の高氏への評価を高める要因となった<ref>峰岸・75頁</ref>。他にも、三浦義勝など、足利と関わり深い武士達が目立つ武勲を挙げたことなどもあり、武士達は新田よりは足利へと接近していった。高氏は我が子を支援する為、[[細川和氏]]・[[細川頼春|頼春]]・[[細川師氏|師氏]]の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。


『梅松論』は、義貞が細川三兄弟と諍いを起こし、鎌倉を去って上洛するまでの経緯を記述している。鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛したというのが、梅松論が伝える義貞上洛の顛末である。
『梅松論』は、義貞が細川三兄弟と諍いを起こし、鎌倉を去って上洛するまでの経緯を記述している。鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛したというのが、梅松論が伝える義貞上洛の顛末である。


奥富敬之は、この騒動の為、義貞は鎌倉に逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した<ref>奥富・120項</ref>、峰岸純夫は義貞が対立の激化を回避する為に譲歩して鎌倉を去った<ref>峰岸・76項</ref>と指摘する。だが、『梅松論』は足利寄りの記述が多い為、尊氏を擁護するための潤色と推測される<ref>山本・131項</ref>。また、鎌倉で起こった騒擾については検証できる一次史料は存在しない。
奥富敬之は、この騒動の為、義貞は鎌倉に逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した<ref>奥富・120項</ref>、峰岸純夫は義貞が対立の激化を回避する為に譲歩して鎌倉を去った<ref>峰岸・76項</ref>と指摘する。だが、『梅松論』は足利寄りの記述が多い為、尊氏を擁護するための潤色と推測される<ref>山本・131項</ref>。また、鎌倉で起こった騒擾については検証できる一次史料は存在しない。[[森茂暁]]は、『梅松論』におけるこの騒動とそれに伴う義貞に起請文提出と鎌倉退去について、鎌倉攻めの戦功著しいはずの義貞が、簡単に鎌倉を退去してしまったのは、鎌倉を落とした軍功が義貞よりも尊氏に依拠するところが大きかった証であると言及している<ref>南北朝の動乱・43頁</ref>


契機こそ定かではないが、元弘3年(1333年)8月初頭、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。
契機こそ定かではないが、元弘3年(1333年)8月初頭、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。


=== 建武政権下の義貞 ===
=== 建武政権下の義貞 ===
上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は[[従四位]]上に叙され、[[馬寮|左馬助]]に任官した。さらに上野、越後、10月には、[[播磨国|播磨]][[国司|介]]となった<ref>山本・137項、峰岸・77項</ref>。弟の脇屋義助は駿河国司となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された<ref>ただし義助、義顕の国司任命については疑問も呈されている(峰岸・77項)</ref>。同時に義貞兄弟はじめ新田一族は多くの所領を拝領したものと思われるが、それを明示する史料は現存していない<ref>奥富・127項</ref>。既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている<ref>山本・137項</ref>。
上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は[[従四位]]上に叙され、[[馬寮|左馬助]]に任官した。さらに上野、越後、10月には、[[播磨国|播磨]][[国司|介]]となった<ref>山本・137項、峰岸・77項</ref>。弟の脇屋義助は駿河国司となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された<ref>ただし義助、義顕の国司任命については疑問も呈されている(峰岸・77項)</ref>。同時に義貞兄弟はじめ新田一族は多くの所領を拝領したものと思われるが、それを明示する史料は現存していない<ref>奥富・127項</ref>。既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている<ref>山本・137項</ref>。建武政権発足後、義貞は[[越後国]]で反乱を起こした旧北条勢力の[[大河将長]]、[[小泉持長]]らを討伐し、これを鎮圧した<ref>小林「元寇と南北朝の動乱」137頁</ref>。


一方、ライバルの足利尊氏は、[[従三位]]に叙され、武蔵守に任官された上、[[鎮守府将軍]]に任ぜられた。弟の直義は、[[相模国|相模]]守となった。義貞が叙任された四位と三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった<ref>奥富・128項</ref>。
一方、ライバルの足利尊氏は、[[従三位]]に叙され、武蔵守に任官された上、[[鎮守府将軍]]に任ぜられた。弟の直義は、[[相模国|相模]]守となった。義貞が叙任された四位と三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった<ref>奥富・128項</ref>。
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同年、[[建武の新政#中央|武者所]]の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治、江田行義ら、一族の多くも武者所に配された。また、上野・越後両国[[守護]]を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、[[衛門府|左衛門佐]]・[[兵衛府|左兵衛督]]などの官職を歴任。なお、上洛の時期から義貞の使用する[[花押]]の形に変化が生じている。
同年、[[建武の新政#中央|武者所]]の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治、江田行義ら、一族の多くも武者所に配された。また、上野・越後両国[[守護]]を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、[[衛門府|左衛門佐]]・[[兵衛府|左兵衛督]]などの官職を歴任。なお、上洛の時期から義貞の使用する[[花押]]の形に変化が生じている。


この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王、楠木正成、[[名和長年]]らと結託して、尊氏に対して軍事行動に及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王が尊氏に対して軍事行動を起こそうとした旨の記述は梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きがあったかもしれないと考えられている<ref>山本・165</ref>。
この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王、楠木正成、[[名和長年]]らと結託して、尊氏に対して軍事行動に及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王が尊氏に対して軍事行動を起こそうとした旨の記述は梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きがあったかもしれないと考えられている<ref>山本・165</ref>。


親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した<ref>山本・169-170、武者所の役目なども考慮して、義貞が親王捕縛に関与したとみなすのは妥当であると山本は判断している。</ref>。天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。
親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した<ref>山本・169-170、武者所の役目なども考慮して、義貞が親王捕縛に関与したとみなすのは妥当であると山本は判断している。</ref>。天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。
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親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある<ref>奥富・131項</ref>。この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。
親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある<ref>奥富・131項</ref>。この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。


=== 中先代の乱 ===
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・[[北条時行]]を擁立し、鎌倉を占領する[[中先代の乱]]が起こる。この戦乱の中で新田の傍流であり義貞と共に倒幕に功績のあった岩松経家が戦死した。他、新田一族の鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利の与党として合戦に参戦し戦死している。新田と足利の政争が中央で行われている折、新田一族から4人もの武士が足利の与党として戦い死んだことは、新田一族が分裂していたことを暗示している<ref>奥富・138-139項</ref>。また戦死した岩松経家に至っては、後継者(代官)に尊氏から所領が交付され、それによって岩松氏は足利と主従の関係となった。元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏の傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子を損なった<ref>山本・180-181項</ref>。新田と足利の対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・[[北条時行]]を擁立し、鎌倉を占領する[[中先代の乱]]が起こる。この戦乱の中で新田の傍流であり義貞と共に倒幕に功績のあった岩松経家が戦死した。他、新田一族の鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利の与党として合戦に参戦し戦死している。新田と足利の政争が中央で行われている折、新田一族から4人もの武士が足利の与党として戦い死んだことは、新田一族が分裂していたことを暗示している<ref>奥富・138-139頁</ref>。その後大舘、鳥山一族は、完全に義貞と決別する。また戦死した岩松経家に至っては、後継者(代官)に尊氏から所領が交付され、それによって岩松氏は足利と主従の関係となった。元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏の傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子を損なった<ref>山本・180-181項</ref>。新田と足利の対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。


時行蜂起に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。更に、尊氏は新田一族やその与党の所領を、時行撃退に武功のあった自分の与党への褒美として分給した。義貞が国司を担当した上野国の守護職が[[上杉憲房 (南北朝時代)|上杉憲房]]に与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏の本領である上野新田荘までもが、[[三浦高継]]に与えられた。尊氏は朝廷の帰京命令に従わず、「義貞や公家策謀して自分を陥ようとしている」と主張した。尊氏は義貞を君側であるとしてその追討を後醍醐天皇に上奏するが、天皇は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は[[尊良親王]]奉じ[[東海道]]を鎌倉へ向う。義貞は弟・脇屋義助とともに[[矢作川の戦い]]([[愛知県]][[岡崎市]])[[手河原戦い]]([[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]])で[[足利直義]]・[[高師泰]]の軍破るが、鎌倉から出撃した尊氏[[箱根・竹ノ下の戦い]](静岡県[[駿東郡]][[小山町]])で撃破さ、[[尾張国]]に敗走後、京へ逃げ帰る
時行蜂起に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。更に、尊氏は新田一族やその与党の所領を、時行撃退に武功のあった自分の与党への褒美として分給した。義貞が国司を担当した上野国の守護職が[[上杉憲房 (南北朝時代)|上杉憲房]]に与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏の本領である上野新田荘までもが、[[三浦高継]]に与えられた。義貞は、時行鎌倉を選挙してから足利軍に撃退さるまでの中、何もしていなかっわけではない。義貞の配下である[[堀口貞政]]が、時行蜂起背後からの攻撃計画しいた。し彼が武士達に出兵催促した時は既時行は敗敗走する最中であっ<ref>奥富・141頁</ref>


鎮圧後、尊氏は、信濃で北条の残党が蠢動しているという口実を設けて、朝廷の帰京命令に従わなかった。さらに、北条の残党が軒並み鎮圧されると、今度は「義貞と公家達が自分を讒訴している、」と主張し、鎌倉になお留まった。
建武3年([[1336年]])正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた[[北畠顕家]]と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。再入洛を目指す足利軍を[[摂津国]]豊島河原([[大阪府]][[池田市]]・[[箕面市]])で破る([[豊島河原合戦]])。この功により2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任。播磨守を兼任。さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の[[白旗城]]で篭城した[[赤松則村]](円心)に阻まれて断念。尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。楠木正成らと共同して戦った[[湊川の戦い]]([[兵庫県]][[神戸市]])において義貞は[[和田岬]]に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗して破れ、西宮(兵庫県[[西宮市]])で再起を図るが京へ敗走する。


『太平記』によると、10月、尊氏は細川和氏を使者に立て、君側の奸として義貞を誅伐することを趣旨とした奏状を提出した。尊氏は、
=== 北陸落ちと最期 ===

*義貞の鎌倉幕府に対する蜂起は、天皇への忠勤からではなく鎌倉幕府の使者を斬った罪を逃れるためにやむを得ず蜂起したものであること
*鎌倉幕府打倒は息子千寿王(義詮)に功績が大きく、その加勢を得るまで義貞は大して勝利を収めることもできず、帝の勝利に貢献しなかったこと
*そして、都において公家達と結託して自分を讒訴していること

これらの根拠から、義貞を君側の奸であると非難した。一方、義貞は、これらの非難に対して明確に反論した奏状を提出、さらに、その中で鎌倉将軍府の[[成良親王]]をないがしろにしていること、六波羅占拠時に専断により護良親王の部下を殺害したこと、そしてその護良親王を中先代の乱の時に、北条時行襲撃の混乱に便乗して殺害したこと等に言及し、尊氏にこそ非があると主張、尊氏、直義兄弟を逆賊として誅伐する許可を求めた。尊氏による義貞への非難は抽象的であるのに対し、それに対する義貞の反論は具体的で、なおかつ足利の護良親王殺害に言及していることもあって、義貞の奏状の方が朝廷に対しての説得力を持ちえたと考えられる<ref>峰岸・95-96頁</ref>。しかし、『太平記』における尊氏と義貞による互いの非難は、創作に過ぎないとの見方もある<ref>山本・182頁</ref>。

『太平記』では、この時[[坊門清忠]]が尊氏誅伐を促す発言をしたが、まだこの時点では護良親王殺害が明確になっていなかったため、そのまま朝議は終了したという。しかしその後、護良親王殺害に立ち会った女房の証言で直義による親王殺害が事実と判明した他、直義が[[赤松則村]]、[[那須資宿]]、[[諏訪部扶重]]、[[広峯貞長]]、[[長田教泰]]、[[田代顕綱]]ら、諸国武士に義貞討伐を促す檄文を送っていたことが判明する。信濃の[[市河近家]]、陸奥の[[伊賀盛光]]などに至っては、呼応して挙兵した<ref>山本・181頁</ref>。朝議は一気に尊氏誅伐の流れに向き、天皇は義貞に尊氏追討令を発する。この時、義貞は後醍醐帝から錦の御旗を賜ったと『太平記』は記述する<ref>山本・184頁</ref>。また奥富敬之は、『太平記』におけるこれらの記述から、未だ護良親王殺害が明確に知らされていない中、義貞が迅速にこれを察知したこと、弾劾状をつきつけられた時、まるであらかじめ弾劾状をつきつけられることが判っていたかのごとく、即座に反駁の奏状を提出できたことは、足利尊氏、直義兄弟の側近に、新田側のスパイがいた可能性があると分析している<ref>奥富・154-155頁</ref>。

=== 尊氏討伐と敗退 ===
義貞は上将軍として[[尊良親王]]を奉じ、脇屋義助、義治、堀口貞満、[[千葉貞胤]]、[[宇都宮公綱]]などを率い[[東海道]]を鎌倉へ向かう。軍勢は10万以上に膨れ上がった<ref>奥富・157頁</ref>。途中、[[東海道]]と[[東山道]]、軍勢を二手に分けて進軍した<ref>峰岸・99-100頁</ref>。同じ頃、[[北畠顕家]]も陸奥から手勢を率いて進軍を開始する。東海道、東山道、陸奥の三方向から鎌倉を突き、足利兄弟を討ち取るという作戦であったが、この大規模な軍勢は統率を欠いていた。形式上の総大将である尊良親王の周辺には側近の公家達がおり、彼らは「口煩いだけ」の存在<ref>奥富・157頁</ref>であった。加えて同時に進軍した北畠顕家は[[従二位]][[鎮守府]]将軍であり、[[従四位]]上の義貞は立場上顕家に指図できなかった。そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、義貞は顕家よりも早く軍を進めてしまい、挟撃のタイミングを逃したばかりか、足利側にとっては、兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう、早すぎ、かつ、遅すぎる進撃速度<ref>奥富・157頁</ref>であった。

足利尊氏は躁鬱の気質があったとされ、義貞と顕家から討伐を受けたこの時は護良親王を殺害した後悔や恩人である後醍醐帝に刃を向ける背信行為などから鬱状態にあった<ref>峰岸・100頁</ref>。そのため、代わりに直義が軍議を開き、軍勢を纏め上げて出撃する。出撃した足利勢は、[[三河国]]矢作で激突し、[[矢作川の戦い]]([[愛知県]][[岡崎市]])が生じる。この戦いでは、新田軍が勝利した。その後、東進して追撃する新田軍を足利軍は駿河国([[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]])で迎撃する([[手越河原の戦い]])が、ここでも敗北する。新田軍は官軍であり、足利軍の兵士達の中には朝敵の烙印を押される恐怖から新田軍に投降するものも多かった<ref>小林「元寇と南北朝の動乱」・144頁</ref>。敗退を重ねた足利軍は、箱根の水呑に陣を構え、新田軍の攻撃に備えた。同時に、直義や足利軍の主要武将が出家を企図していた尊氏を説得し、尊氏は翻意して出撃する。

なおも進撃した義貞は、箱根・竹下で足利勢と三度激突する。義貞は、箱根を越える道を二手に分かれて行動することを計画した。義貞は、足利軍は、箱根山の南を通り湯本へ繋がる「本道」の方に重点的に守備を固め、本軍をこちらに置くだろうと考え、<ref>奥富・160P</ref>本隊7万をこちらに向かわせた。一方で、箱根山の北を通る道は搦手の道であり、南側の険峻な道と比べると平坦で通りやすく、こちらには弟の脇屋義助に指揮権を任せ、尊良親王と側近の公家達、あわせて7000の軍勢を進軍させた。

しかし、鎌倉目前まで攻め込まれ、後がなくなった足利軍は、軍勢のほぼ大半を出撃させてきた。その数は20万以上にも及び、さらに、これだけの大軍では隘路である南側の本道では展開しづらいことから、その内[[斯波高経]]、[[土岐頼遠]]ら18万近くが、平坦な搦手道の方へ向かってしまった<ref>奥富・160-161頁</ref>。義貞本隊と激突するのは、直義が率いる6万程度の軍勢であった。その上、新田軍は士気が低下しており、義貞も陣頭に立って突撃することはなく、後方に構えて静観しているばかりであった。一方、搦手道を進んだ脇屋義助らは、多勢に無勢で苦戦を強いられていた。そんな折、説得に応じて前線に戻ってきた尊氏が指揮を取るようになった。これによって足利軍の士気が昂揚し、形勢は一気に足利軍に有利となり、新田軍は総崩れとなった。

=== 天竜川渡河 ===
敗退した義貞は伊豆で軍勢を建て直し、さらに西へと逃れる。途中、天竜川にて橋を駆けて渡る。『梅松論』によれば、義貞は三日の内に橋を作るよう命じ、橋が作られるとそれを渡って西へ逃れた。橋を渡った後、追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきであると義貞の部下が提案するが、義貞は「橋を切り落すのは確かに軍略の一つだが、敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である」として、橋を切り落す提案を受け入れなかった。足利勢はこの話を聞き、義貞の態度に感服した。また、世間も義貞の潔さを称賛した。『[[源威集]]』にも、ほぼ同様の記述がある。

一方で、『太平記』は、橋をかけてその上を渡ったところ、綱が千切れて橋が壊れ、義貞と部下達が川に流されそうになったが、義貞は[[船田義昌]]と手を組んで対岸へ飛び移り、他の部下達も同僚に助けられて無事川を渡りきれた、という話を載せている。梅松論は「義貞の名誉と恥」、太平記は「義貞主従の思いやり」を強調し、叙述しているとされる<ref>山本・193頁</ref>。また、『梅松論』も『太平記』も、双方、義貞は部下達を先に渡らせ、自分は最後に橋を渡ったと記述している。

義貞が武士としての恥を強く意識した背景には、朝廷から派遣された軍勢の大将という立場が大きく働いていたと見られる<ref>山本・194頁</ref>。また、太平記、梅松論の双方が記述した「部下に先を行かせ最後に自分が橋を渡る」という行為は、既存の道義や秩序が崩壊しつつあったこの時代において、あるべき武士の姿を描き強調しようとする書き手の意図があったと考えられている<ref>山本・193頁</ref>。

=== 京都での抗争 ===
義貞は12月30日に帰京した。しかし、義貞を追撃する尊氏が、破竹の勢いで京都まで攻め上がってきていた。年があけると、京都の覇権を巡り尊氏と後醍醐帝配下の諸将の間で激戦が始まる。

帰郷後も、義貞は尊氏討伐の全軍指揮官の地位にあったらしく<ref>山本・196頁</ref>、『太平記』には7月に義貞が各所に軍勢の配置を行っている記述が見られる。最初の内は、まだ総大将である尊氏、義貞らが陣頭に姿を現さず、小競り合いが続いたが、やがて尊氏に合力して山陰道から進撃してきた軍勢と尊氏の本隊が合流する。さらに、中国、四国地方の軍勢を糾合した[[細川定禅]]軍もこれに合流した。10日、淀川近辺で両軍は激突する([[淀大渡の合戦]])。この戦いは義貞らの敗北に終わり、後醍醐帝は遷幸し、義貞もこれに供奉した。京都は足利尊氏の軍勢に占領されることとなった。

だが、奥州より上ってきた[[北畠顕家]]が京都へ到着することで、この形勢が逆転する。13日に両者の軍勢が合流する<ref>奥富・170頁</ref>と、両軍は足利側の[[園城寺]]を攻撃し、陥落させる。16日には足利直義の軍勢に正面から突撃を敢行して蹴散らし、さらに[[高師直]]の軍勢までも破り、余勢を駆ってそのまま京都に攻め上り洛中を制圧した<ref>奥富・171頁</ref>。しかし、直後の市街戦において細川定禅の知略に翻弄されて敗退し、京都奪還は失敗する。これらの京都奪還を巡る戦いの中で、義貞は船田義昌を初め複数の重臣を喪った。船田らが戦死した場所、時期については、園城寺攻略時<ref>峰岸・103頁</ref>とも、京都での細川定禅との市街戦の時とも言われる<ref>奥富・171頁</ref>。また、果敢に京都に攻め入りながら敗北した義貞と、その義貞を手玉に取り、智謀を用いて敗退させた細川定禅を、京都の市民はそれぞれ[[項羽]]、[[張良]]に例えた<ref>奥富・171頁</ref>。

これに前後して、義貞が北国へ逃走を企てているという風聞が足利軍に流れる<ref>山本・198頁</ref>。この風聞に対して、足利直義は、若狭の[[本郷泰光]]に対して落ち延びる義貞を討伐するよう促す文書を送っている。この文書において、直義は義貞を「落人」と表現し、敗北者のように扱っている<ref>山本・199頁</ref>。

義貞の方は、20日に東山道を通って鎌倉から引き返してきた尊良親王の軍勢2万と合流した<ref>奥富・173頁</ref>。28日、義貞は楠木正成、北畠顕家、名和長年、千種忠顕らと共に、京都へ総攻撃を仕掛ける<ref>ただし合戦の火蓋が切られたのは27日とも言われる。山本・199頁より</ref>。この合戦は30日まで続いた<ref>山本・199頁</ref>。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。この合戦の最中、義貞は鎧を脱ぎ捨てて尊氏に一騎打ちを挑もうとした<ref>奥富・174頁頁</ref>が、果たせずに終わった。合戦は楠木正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れた。

足利軍はまだ再上洛を諦めず抵抗を続けていたが、[[摂津国]]豊島河原([[大阪府]][[池田市]]・[[箕面市]])の戦いで敗北([[豊島河原合戦]])。足利軍は九州へと落ち延びてゆく。義貞は、周防国の[[吉川実経]]に敗走する尊氏を討伐するよう要請した<ref>峰岸・103頁、山本・203頁</ref>。しかし、実経は直後に尊氏から勧誘され、尊氏側に与してしまった。そのため義貞の要請は無視されたものと見られる<ref>山本・204頁</ref>。

義貞は足利軍を打ち破った功績により、2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し。播磨守を兼任する。

=== 楠木正成による義貞誅伐の提案 ===
『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、楠木正成が、新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある。その根拠として、正成は、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい<ref>峰岸・107頁</ref>。さらに、義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったのが、尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である<ref>峰岸・107頁</ref>、というものであった。正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず<ref>山本・205頁</ref>、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とした洞察力に長けた正成は純粋に、武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた<ref>峰岸・108頁</ref>。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかった。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる<ref>山本・205頁</ref>。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方が徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている<ref>山本・205頁</ref>。

この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり<ref>山本・204頁、峰岸、107頁</ref>、にべもなく却下されてしまった。

=== 播磨攻め ===
九州へと落ち延びる途中、尊氏は光厳院から院宣を得る。新田義貞の討伐を促す趣旨であった。尊氏はこの院宣を根拠に、各地の武将に自分に合力して義貞を討ち取るよう促す。一方、義貞は尊氏を追撃し、その途上にある赤松円心の拠点である播磨を攻めることになるのだが、この際義貞の出兵に遅れが生じた。この遅れた出兵について、『太平記』は、[[藤原行房]]の娘<ref>[[尊卑分脈]]は行房の父[[藤原経尹]]の娘と記載する。</ref>[[勾当内待]]との色恋沙汰にうつつをぬかしていたと叙述し、これゆえ勝機を逃したと批判している<ref>奥富・180頁、山本・206頁</ref>。ただし、勾当内待との色恋沙汰により出陣が遅れたことについては、太平記以外に明確な典拠がなく、創作の可能性も高い<ref>太平記の群像・196頁</ref>。一方で、義貞は病に罹患していたために出陣が遅れたとも言われる<ref>奥富・180頁</ref>。病名はマラリア性の熱病とされる<ref>峰岸・104頁</ref>。いずれにせよ義貞の出陣には遅延が生じ、[[江田行義]]と[[大舘氏明]]が先発隊として播磨へ赴くこととなった。義貞本人が播磨へと出陣したのは、3月30日のことであった<ref>奥富・181頁、峰岸・206頁</ref>。一方、尊氏は[[多々良浜の戦い]]で快勝し、着実に九州で戦力を増強して巻き返しつつあった。

義貞は赤松円心の篭る[[白旗城]]を攻撃し、弟の脇屋義助が[[三石城]]を攻めることとなる。しかし、義貞は赤松攻めに手こずり、いたずらに時間を浪費してしまうこととなる。先発した江田行義と大舘氏明は、3月6日迎撃してきた赤松軍相手に播磨書写山で快勝を収めるが、その後10日余りここに留まり、後詰めの部隊の到着を待った<ref>奥富・183頁</ref>。その後、宇都宮公綱、[[城井冬綱]]、[[菊地武澄]]などが合流し、軍勢が数万に膨れ上がると、一気呵成に赤松軍に攻撃を仕掛けた。劣勢となった赤松軍は、白旗城で篭城戦の構えに出た。城に篭る円心は偽りの降伏の使者を送るなどして新田軍を欺き、時間を浪費させると共に隙をついて白旗城内に兵糧などを送り込むことに成功する<ref>奥富・184頁</ref>。この時、義貞はまだ京都におり播磨で指揮をとっていなかったが、『太平記』は、義貞自身が円心の巧妙な策に引っかかったと記述している<ref>奥富・184頁</ref>。

3月30日に到着した義貞は、円心の策略に江田、大舘らが翻弄されていたことを知り激怒する。そして、白旗城を包囲して猛攻を仕掛けた。しかし、円心はよく持ちこたえ、なかなか白旗城を陥落させることができず、50日近くも時間を費やしてしまった<ref>山本・207頁</ref>。攻めあぐねている中、弟の脇屋義助が、かつて鎌倉幕府が、楠木正成の篭る金剛山攻めに手こずったことが滅亡の遠因となった事例を引き合いに出し、別働隊を編成して備前・播磨の国境にある船坂峠へ攻め込ませるよう提案した<ref>奥富・185頁、山本・207頁</ref>。義貞はこの提案を受諾。別働隊が船坂に差し向けられることとなった。船坂へ進軍した新田軍は、[[児島高徳]]と連携して、[[斯波氏頼]]の軍勢を破って船坂峠の突破に成功、さらに、[[大井田氏経]]の軍勢がその勢いで備中まで進撃して[[福山城]]を制圧、江田行義の部隊も[[奈義城]]、[[能仙城]]、[[菩提寺城]]の三城を陥落させて、美作にまでなだれ込んだ。

その後、脇屋義助は斯波氏頼が篭城する三石城の攻略に着手する。赤松円心が篭城する白旗城にも、依然として攻撃が加えられていた。しかし、この二城はよく持ちこたえ、新田軍は容易に落とすことが出来ずにいた。義貞が城攻めに時間を浪費している内に、九州で巻き返しを図った足利尊氏が再度の上洛を目指して西から東進、5月1日には厳島に到着した<ref>奥富・168頁</ref>。義貞の播磨攻めもここに終わり、義貞は再度足利尊氏との決戦に及ぶこととなる。

=== 湊川の合戦 ===
5月18日、進撃してきた足利軍と新田軍はまず福山で合戦に及ぶ。この合戦で新田軍は破れ、義貞、脇屋義助、大井田氏経らは攝津まで退却する。さらに進撃を続ける尊氏を迎撃する為、義貞は楠木正成と共にを迎撃する。これに先んじて、義貞は正成と会見したが、その中で義貞は、先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい<ref>峰岸・109頁</ref>と内情を発露した。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げて以来、常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にしていた<ref>峰岸・110頁</ref>。箱根竹下での敗北、播磨攻めのへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。この義貞の心中の吐露に対して、正成は退くべき時は退くべきであり、他者の謗りなど気にしない方がいいと、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。しかし峰岸純夫は、「周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか」と分析している<ref>峰岸・110頁</ref>。

湊川の合戦において、義貞は輪田泊の西南にある和田岬に本陣を置いた。この陣立ては、「不思議な陣立て」であったと言われる<ref>奥富・191頁</ref>。南から上陸してくる足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、東西南の三方向が海に面している和田岬は足利軍に完全に包囲され退路をふさがれてしまう形になる。義貞は、あえて背水の陣を強いて、配下に決死の覚悟で合戦に挑むよう促したと推測される<ref>奥富・102頁</ref>。

合戦の趨勢は、細川水軍の突撃が契機となって<ref>山本・218頁</ref>一気に足利有利に傾き、新田、楠木軍は敗北、正成は自害して、義貞は敗走することとなった。細川水軍が義貞達を引き付けるためにあえて水軍を東へ移動させ、東側から上陸しようと見せかけた。義貞、義助らが誘導されてきたところを、船団の後方の軍船が方向転換して和田岬から上陸、新田、楠木の両軍を分断させて、それらを背後から奇襲し、勝敗が決したとされる。義貞は、先頭に立って東側に上陸しようとする細川水軍こそ尊氏の本隊だと誤認していた<ref>峰岸・218頁</ref>ようだが、実際には尊氏は方向転換して和田岬へと上陸した最後尾の軍船に乗船していた<ref>奥富・193頁</ref>。

尊氏の奇襲作戦は奏功したが、湊川合戦における正成、義貞の敗北の何よりの原因は、兵力の多さにあるとされる<ref>山本・219頁</ref>。『太平記』においては、正成、義貞共に、「敵は勢いに乗り大軍を率いているが、一方我々の軍勢は疲弊して人数も少なくなっている」と語っている。また、義貞と正成の間に戦術面における連携の不備があったとも言われる<ref>山本・218頁</ref>。

湊川合戦で、義貞は敗戦濃厚となりながら、馬が無数の矢を受けて倒れてもなお、太刀を振るって奮戦した。しかし、[[小山田高家]]が馬を失った義貞に自分の馬を与え、それに義貞を乗せて戦場から離脱させた。そして義貞は戦死を免れたが、高家は彼の身代わりとなって討死を遂げた<ref>奥富・194頁</ref>。

=== 北陸落ち ===
湊川での敗戦の報を聞き、宮方は5月27日に[[比叡山]]に遷幸する。義貞の軍勢は湊川での敗戦などにより四散して6000騎にまで減少していた。義貞は近江東坂本に本陣を置いた<ref>奥富・194頁</ref>。29日には、尊氏によって京都が占領される。尊氏は光厳上皇を奉じて京都東寺に入り、後醍醐帝、義貞と睨み合った。以降、6月から8月にかけて、京都を巡る攻防が展開される。しかし、楠木正成は既に亡く、奥州の北畠顕家も、妨害によって加勢に来るのが困難であり、義貞らは劣勢に立たされていた<ref>奥富・196頁</ref>。さらに、この攻防戦の中で、宮方で枢要な地位にいた名和長年、千種忠顕が戦死した。義貞は[[小笠原貞宗]]と戦ったり、尊氏を挑発して誘き出し<ref>奥富・200頁。義貞は矢を東寺へ打ち込み、尊氏に一騎打ちを所望、尊氏も奮起してこれを承諾しようとしたが、[[上杉重能]]にその軽率を窘められて思いとどまった。</ref>、雌雄を決しようとしたが、尊氏の首を取ることも京都の奪還も叶わずに終わった。

同時期、尊氏の弟直義は、比叡山、東坂本への糧道を断ち、宮方を追い詰めていった。また尊氏は、後醍醐帝との和平工作に着手した。後醍醐帝もこれに応じた。しかし、義貞には、秘密裏にこの和平工作が行われていたことは知らされていなかった。義貞は、天皇から切り捨てられた<ref>峰岸・110頁</ref>。義貞達がこの和平工作が行われていることを知ったのは、和議を結ぶ為比叡山を出立して京都に向かおうとするその直前、10月9日であった<ref>奥富・202頁</ref>。事情を知った義貞の部下堀口貞満が比叡山を駆け上がり、[[鳳輦]]にすがりついて、後醍醐帝の無節操を非難した<ref>峰岸・113頁</ref>。それから間もなく義貞達も駆けつけ、後醍醐帝は新田の軍勢に包囲された。後醍醐帝らは、和議を結んだのは「計略」であり、それを義貞に知らせなかったのも、計略が露呈して頓挫することを防ぐ為だと取り繕った<ref>峰岸・113-114頁</ref>。対して義貞は、自分に[[恒良親王]]、尊良親王を推戴させて、北国へと下向させてほしいと提言した。義貞の軍勢が後醍醐帝を包囲したことは、クーデターである可能性もあるとも解釈されている<ref>峰岸・113頁</ref>。義貞の提言の結果、宮方は、北国へ向かう義貞、恒良親王、尊良親王の軍勢と、後醍醐帝に付き従う軍勢の二つに分裂する。

後醍醐帝による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いもある<ref>山本・229頁</ref>。しかし、宮方がこの日を契機に分裂したことだけは確かである。新田一族の大半は義貞に随行したが、大舘氏明、江田行義らは後醍醐帝に随行した。その他には宇都宮公綱などが随行している<ref>山本・229頁、峰岸・114頁</ref>。

10月10日に出立した義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに[[北陸道]]を進み敦賀を目指した。比叡山を離れ北へ下向する際、義貞は日吉山王社に立ち寄り先祖伝来の鬼切太刀を奉納している<ref>峰岸・114頁</ref>。

義貞らは13日には敦賀[[金ヶ崎城]]へ到着した。『本副寺跡書』によれば、義貞一行は近江国堅田まで赴いた後そこから船で海津まで行き、敦賀へ下っていったという<ref>山本・231頁</ref>。同書によれば、義貞はその道中、堅田で足利軍の追撃を受けた<ref>峰岸・115頁</ref>。敦賀まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出したことが、『梅松論』や『太平記』に記述されている<ref>山本・232頁</ref>。しかし、義貞一行が猛吹雪に見舞われた場所が、『太平記』は[[木目峠]]、『梅松論』は[[荒芽山]]となっており、情報に齟齬が生じている。『太平記』によれば、[[斯波高経]]が待ち伏せをしていた為、塩津から東に向かい、板取を経由して西へ周り、木目峠を越えて敦賀へ至る遠回りな道を選ばざるを得なかったという<ref>山本・233頁</ref>。この年は通年に増して寒さが厳しい年であることが樹木の年輪から分かっており<ref>奥富・105頁、峰岸・117頁</ref>、降雪にはまだ早い時期でありながら<ref>峰岸・115頁</ref>、山中の積雪、降雪は著しく、義貞の敦賀までの道程は苦難を極めた。

義貞らが東へ進路を取ったのは遠回りをしたのではなく、その延長線上にある越前国府を目指し、そこを拠点とするためではなかったかという見解もある<ref>山本・234頁</ref>。しかし、越前国府は既に足利方の斯波高経に支配されていたため、西へ進路を代え、敦賀へ向かうことになったのではないかと推定されている<ref>山本・235頁</ref>。

金ヶ崎に到着した親王一行は、各地の武士へ尊氏らの討伐を促す綸旨を送っており、結城宗広に送られた綸旨が、『結城家文書』に現存している<ref>山本・241-242頁</ref>。10月15日、義貞の長男[[新田義顕]]は越後へ向かう為に出発し、弟脇屋義助は[[瓜生保]]への加勢に向かった<ref>奥富・207頁</ref>。義貞は、北畠顕家と連携して足利尊氏に対抗するが、北陸地方は越後を除き、新田氏の政治力が弱い地域であったため、義貞はその統治に苦労した<ref>奥富・208頁</ref>。義貞が越前にて周辺の武士らに発給した文書は見られない<ref>山本・246頁</ref>。影響力の大きい寺社勢力と関係を深めた形跡もない。義貞の越前における地盤固めが難航したのは、越前国府を押さえられなかったことによる弊害だと言われている<ref>山本・246頁</ref>。

=== 金ヶ崎落城 ===
[[ファイル:新田義貞戦没伝説地.jpg|thumbnail|250px|新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)]]
[[ファイル:新田義貞戦没伝説地.jpg|thumbnail|250px|新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)]]
金ヶ崎城は、義貞入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。金ヶ崎を出発した新田義顕と脇屋義助だが、瓜生保が、足利尊氏が出した偽の綸旨に騙されて<ref>奥富・208頁</ref>、足利側に転じていた。保の弟達([[義鑑]]、[[瓜生重]]、[[瓜生照]])が、このことを義助に知らせたため、義助、義顕は瓜生勢の加勢を諦めて金ヶ崎城へ引き返した。この際、義助は脇屋義治を瓜生三兄弟に預けて保護を頼んでいる。また、瓜生保離反を知らされたことによって軍勢は動揺し脱走者が続出、金ヶ崎城出発時には3000騎いた義助、義顕の軍勢は最終的に16騎にまで減ってしまった<ref>奥富・209頁</ref>。さらに、金ヶ崎城にまで引き返すと、すでに城は斯波高経らの軍勢に包囲されていた。[[栗生顕友]]が献策した奇襲によって、義助、義顕らは16騎は敵中へ突入して金ヶ崎城へ帰還することに成功した<ref>奥富・210頁</ref>。またこの際、義貞も味方が奇襲をしかけたことを即座に察知して、城内から800騎の手勢を差し向けて斯波軍を撹乱させ、奇襲成功に貢献した<ref>奥富・210頁</ref>。この時の斯波高経の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であり統率を欠いていたため、義助、義顕の奇襲に慌てふためき同士討ちまでした末に四散して逃走していった。
湊川の戦いの後、[[比叡山]]に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、新田一門の堀口貞満が、天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、直前に阻止した。後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を[[恒良親王]]に譲り、恒良親王と[[尊良親王]]を委任し[[官軍]]であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに[[北陸道]]を進み、折からの猛吹雪で凍死者を出したり足利方の執拗な攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも[[越前国]][[金ヶ崎城]]([[福井県]][[敦賀市]])に入るが、まもなく高師泰・[[斯波高経]]率いる軍勢により包囲される。義貞、義助は[[杣山城]](福井県[[南条郡]][[南越前町]])に脱出し、杣山城主・[[瓜生保]]と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は[[延元]]2年 / 建武4年([[1337年]])3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送された。


[[ファイル:新田義貞.jpg|thumb|240px|横笛を奏でる新田義貞([[菊池容斎]]画『[[前賢故実]]』より)]]
夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、[[武生市|越前府中]]を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年([[1338年]])閏7月、武家方に寝返った[[平泉寺]]衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県[[福井市]]新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、『[[史記]]』の[[項籍|項羽]]の最期や『[[平家物語]]』の[[源義仲]]の最期の記述にヒントを得た『太平記』の作者による創作であると思われる(義仲の最期も『平家物語』の作者による創作である可能性が高い)。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した[[清和源氏]]累代の家宝である名刀[[髭切|鬼切丸]]もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、[[正二位]]を贈位。[[大納言]]の贈官を受ける。
一度は足利軍を迎撃した義貞達には、つかの間の休息があった。10月20日、尊良、恒良両親王、義貞、義助、洞院実世らは、敦賀湾に船を浮かべ[[雪見]]をした。親王や各々の公家、武将達が得意とする楽器を奏でたと言われ、義貞は横笛を奏でた<ref>奥富・211</ref>。


敗北した足利軍は、再度軍勢を束ねて金ヶ崎を攻めた。斯波高経の他に、[[仁木頼章]]、小笠原貞宗、[[今川頼貞]]、[[高師泰]]、[[細川頼春]]ら6万の大軍を差し向け、さらに海上にも水軍を派遣して四方から金ヶ崎を包囲した<ref>奥富・211頁</ref>。
なお、[[江戸時代]]の[[明暦]]2年([[1656年]])にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、[[福井藩]]主[[松平光通]]に献上した。[[象嵌]]が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範[[井原番右衛門]]による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として[[越前松平家]]にて保管された。[[明治維新]]の後、義貞を祀る[[藤島神社]]が創建された際、福井松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。兜は、明治33年([[1900年]])の[[旧国宝]]指定を受けた後、昭和25年([[1950年]])に国の[[重要文化財]]に指定し直されている<ref>山上八郎『日本甲冑100選』p. 269 - 271(秋田書店、1974年)。</ref>。ただし、兜の実際に製作された時期については、甲冑研究家の[[山上八郎]]らによって、室町時代末期との鑑定が下されている(詳細は[[藤島神社#伝・新田義貞の兜|藤島神社の該当項]]を参照のこと)。


足利軍が総攻撃を仕掛けるが、最初は義貞達が優位な形勢にあった。さらに、一度は足利についた瓜生保が翻意して義貞に味方した。金ヶ崎城を包囲していた斯波高経の軍勢は、義貞と瓜生保に挟まれてしまうこととなった。さらに足利軍へ兵糧を補給する中継地であった新善光寺城を瓜生保が陥落させることに成功した<ref>奥富・215頁</ref>。
== 人物 ==
=== 評価 ===
[[ファイル:新田義貞.jpg|thumb|240px|新田義貞([[菊池容斎]]画『[[前賢故実]]』より)]]
同時代では、[[南朝 (日本)|南朝]]を主導していた[[北畠親房]]との確執があったとも言われ、親房の『[[神皇正統記]]』では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている<ref group="注">親房が「(義貞は)高氏が一族也」という表現を用いたのは、河内源氏義国流の嫡流を足利尊氏であると認識していたからであると取れる。[[清和源氏]]のうち、兄筋の[[摂津源氏]]は[[平安時代]]末に[[以仁王]]の挙兵に従って敗亡し、次に事実上の嫡流となった河内源氏[[源義朝|義朝]]流も鎌倉時代初期に[[源実朝|実朝]]が[[暗殺]]されて断絶したため、清和源氏の筆頭格は河内源氏義国流となった。義国流の代表格は、義国の長子義重を祖とする新田氏と義国の次子[[源義康|義康]]を祖とする足利氏であったが、義貞が挙兵した当時は、足利氏は[[三河国]]をはじめ全国に所領を持つ一大御家人であり当主の高氏(尊氏)も従五位下治部大輔に任官していたのに対して、足利氏の兄筋に当たる新田氏は上野国新田荘のごく一部を領するに過ぎない無位無官の弱小御家人でしかなかった。なお、『神皇正統記』は足利高氏が尊氏と改名した後も「高氏」と表記している。</ref>。
また、『[[増鏡]]』には、「高氏の末の一族なる、新田小四郎義貞といふ者、今の高氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさを起してけり」と書かれており、通称の小太郎を小四郎と、挙兵地の上野国を武蔵国と、それぞれ誤って述べられているばかりか、足利千寿王を鎌倉攻めの大将に立てたことにされてしまっている。


しかし、金ヶ崎城の兵糧は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われた。『太平記』は「死人の肉すら食べた」、『梅松論』は「兵糧がつきた後は馬を殺して食糧にした」「城兵達は飢えから『生きながらにして鬼となった』」と、その凄惨さを叙述している<ref>峰岸・119頁</ref>。[[1337年]](延元ニ年)になると攻撃はより激しさを増す。一月十二日、[[瓜生保]]とその弟達、[[里見時義]]らが、杣山城から兵糧を金ヶ崎城へ運び込もうと向かったが、足利軍に察知されて今川頼貞に迎撃され壊滅、瓜生兄弟、里見時義らは戦死した<ref>奥富・216-217頁、ただし、足利軍の軍忠状には、瓜生保が二月になっても杣山城の軍勢の一員として行動していて、生存している旨の記述がある。山本・249頁</ref>。二月には、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる[[杣山城]]の脇屋義助<ref>脇屋義助については義貞と共に金ヶ崎城にいたとも言われる、奥富・217頁</ref>を初めとする諸将と連携して足利軍を挟撃した。しかし、風雪の激しさからか、同時に挟撃することができなかった<ref>山本・250頁</ref>。この間、義貞は越後の[[南保重貞]]に救援の要請を出していたようであり、2月21日に重貞から義貞の元へ注進状が送られている<ref>山本・250頁</ref>。
これは、新田氏の祖である義重が[[源頼朝]]の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟足利義康の子[[足利義兼|義兼]]の系統に変移し、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説がある。実際に新田一族の中でも足利氏を武家の棟梁と考える者もおり、新田一族でも本宗家から遠い[[山名氏]]などは、義貞が挙兵した際、足利千寿王(義詮)の指揮下に入ってその後も足利方に就いている。


3月5日から足利軍による最後の攻撃が行われ、翌6日に金ヶ崎城は陥落する。落城に際して、新田義顕は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。義貞は、前日の夜に[[洞院実世]]らとともに脱出したと『太平記』には書かれているが、激戦の中、二人の親王を置いたまま脱出したことについては、義貞が本当にそのような行動を取ったのか、真偽を疑われている<ref>山本・254-255頁</ref>。また、義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に、金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見解もある<ref>山本・255頁</ref>。いずれにせよ、義貞が落城の折難を逃れて生き延びたことは事実であった。
また、『太平記』では、知略を巡らす智将として装飾的に描かれる楠木正成に対して、義貞には作者の共感が薄く、優柔不断で足利尊氏との棟梁争いに敗れる人物として描かれていると指摘される。その一例として、義貞が摂津豊島河原で尊氏を破り九州へ敗走させた後、[[勾当内侍]]との別れを惜しんで追撃を怠ったため、尊氏が勢力を盛り返し湊川で官軍を破って入京したという、義貞のだらしなさを強調する記述がある。しかし、別の部分では病気により追撃が遅れたとの記述もあり、実態は不明である。


=== 北畠顕家との連携失敗 ===
その一方、『梅松論』には箱根の戦いに負けた新田軍の兵士が[[天竜川]]にかかる橋を切り落とそうとした際、「橋を落としてもまた架けるのはたやすい。新田軍は橋を切り落とし慌てて逃げたと言われるのは末代までの恥となる」と言って、土地の者に橋の番を頼んで兵を引いた。その後追撃してきた足利軍の将兵がこの発言を聞き「弓矢取る家に生まれたものは誰でも義貞のようにありたいものだ」と賞賛したという記述がある。
足利尊氏が落城直後の3月7日に[[一色範氏]]と[[島津貞久]]に充てた[[御教書]]には、義貞以下悉く、新田勢を誅伐した、という記述がある<ref>山本・255頁</ref>。尊氏は、義貞をこの戦で討ち取ったと思い込んでいた。程なくして、義貞が生き延びたことを知るが、越前の南朝勢力への攻撃は以前と比べると激しくなくなり、新田一族が再び勢いをつけてゆくことになる。尊氏は、南朝勢力の内、義貞や彼が奉じた二人の親王のいる越前に最も兵力を割いていたが、これは、二人の親王を奉じて、さらに多数の公家を随伴させている義貞の勢力が、自分に敵対する政治勢力として規模が大きく、京都に近い越前を根拠地としていることも合わさり、南朝の勢力の中でもっとも脅威になると尊氏の目に映っていたからだと考えられている<ref>山本・256頁</ref>。しかし、金ヶ崎城が陥落し、二人の親王がそれぞれ自害、あるいは捕虜となり、義貞と離れたことで、この脅威が払拭され、越前攻めの勢いは衰えた<ref>山本・256頁</ref>。


3月14日、義貞は[[佐々木忠枝]]を越後守護代に任命する。金ヶ崎城を失った義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利に対抗する。弟義助は、越前国[[三嶺城]]を拠点とし、足利軍を牽制した。
明治維新から戦前戦中にかけては、[[皇国史観]]のもと、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として好意的に評価され、講談などで物語化された。戦後になると、東国の一武将に過ぎなかった者が能力以上の大任を与えられた凡将との見方が現れ、戦略家としては凡庸であり愚将であると評価する意見もある。しかし、『太平記』の物語描写のみからの評価を疑問視し、尊氏との人望の差はそもそも先祖からの家格の差が大きいことや、短期間で鎌倉を陥落させ、圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破するなどの点から、武将としての資質を評価する意見もある。


8月になると、奥州の北畠顕家が上洛の途につく。途中、義貞の次男[[新田義興]]と、南朝に帰参した北条時行がこれに合流する。翌延元三年、顕家は[[上杉憲顕]]などを退け、西へ破竹の勢いで進軍した。後醍醐天皇は、各地の南朝勢力に、顕家の挙兵に呼応して決起するよう促した<ref>峰岸・121頁</ref>。杣山城の義貞は、[[斯波直経]]を[[鯖江]]で討ち、越前国府の攻略に成功する<ref>峰岸・121頁</ref>。伊予の大舘氏明、丹波の江田行義らも呼応して決起し、京都の足利軍を包囲して一斉攻撃により殲滅するという構想であった。
また、群馬県の郷土かるたである[[上毛カルタ]]では「歴史に名高い新田義貞」で親しまれている。


しかし、義貞、顕家らが円滑に連携することはできなかった。[[青野原の戦い]]で土岐頼遠、高師冬らに快勝した顕家は、進路を転じて伊勢を経由して奈良へと向かった。その後は苦戦が続き、最終的に顕家は5月に和泉堺浦で足利軍に敗北、戦死した。
=== 勾当内侍 ===
軍記物の『太平記』では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である[[勾当内侍]]との別れを惜しみ時機を逸したとの逸話が記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた[[一条経尹]]の娘をさす。太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されており、この事から義貞は皇国史観などでは南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。内侍は義貞の戦死を聞いて[[琵琶湖]]に投身した、あるいは京都または堅田([[滋賀県]][[大津市]])で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されており、墓所と伝えられるものも複数存在する。


『太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している<ref>峰岸・121頁</ref>。[[佐藤進一]]は、顕家、その父[[北畠親房]]ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌った<ref>峰岸・121-122頁</ref>、また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した<ref>奥富・奥富・222頁</ref>。[[佐藤和彦]]は、北畠親房は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはい疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した<ref>奥富・222頁</ref>。奥富敬之は、佐藤進一の見解について、北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。また『太平記』の記述については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している<ref>奥富・222頁</ref>。義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない<ref>安井『太平記要覧』・202頁</ref>。また、越前へ向かう行程は難路であり、峰岸純夫は、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する<ref>峰岸・122</ref>。奥富は、佐藤和彦の見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している<ref>奥富・223頁</ref>。一方峰岸は、むしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している<ref>峰岸・122頁</ref>。さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる<ref>峰岸・122頁</ref>。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される<ref>安井『太平記要覧』・202頁</ref>
=== 稲村ヶ崎の太刀 ===
[[ファイル:Nitta Yoshisada at Inamuragasaki.jpg|thumb|250px|新田義貞と稲村ヶ崎]]
鎌倉攻撃の際に、[[大仏貞直]]の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が[[稲村ヶ崎]]で黄金造りの[[太刀]]を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られ、[[文部省唱歌]]にも唄われた。


=== 最期 ===
なお、『太平記』では、この日を元弘3年(1333年)5月21日としているが、[[大正]]4年([[1915年]])に[[小川清彦 (天文学者)|小川清彦]]がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には新田軍は稲村ヶ崎を渡ることができないと幕府軍が油断していたところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。これに対して、[[平成]]5年([[1993年]])になって[[石井進 (歴史学者)|石井進]]が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を発表している<ref>細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 </ref>。

翌延元3年/建武5年([[1338年]])閏7月、義貞は越前国藤島の灯明寺畷にて、斯波高経の軍勢と交戦中に戦死した。戦死した日時については7月2日<ref>山本・263頁、奥富・233頁</ref>、ないし7月7日<ref>峰岸・122頁</ref>と言われる。

その戦死の顛末は『太平記』に詳しく叙述されている。義貞は、斯波高経に所領を安堵された[[平泉寺]]の衆徒が篭城する[[藤島城]]を落とす為向かっていたところを、[[黒丸城]]から出撃してきた細川出羽守、鹿草公相(彦太郎)らが率いる斯波軍と遭遇し、乱戦に陥った末、水田に誘導されて<ref>峰岸・123頁</ref>身動きが取れなくなっていたところを、矢の乱射を受けた。楯も持たず、矢を番える射手も一人もいなかった義貞達は、細川・鹿草の軍勢に包囲されて格好の的となってしまった<ref>奥富・232頁</ref>。矢の乱射を浴びて義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する<ref>奥富・233頁</ref>。致命傷を負った義貞は観念し、頚を太刀で掻き切って<ref>奥富・233頁</ref>自害して果てたという<ref>峰岸・123頁</ref>。義貞の首を取ったのは[[氏家重国]]であった<ref>山本・264頁</ref>。この時、[[中野宗昌]]が退却するよう義貞に誓願したが、義貞は「部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意」と言って部下の願いを聞き入れなかったという<ref>奥富・233頁</ref>。

首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した[[清和源氏]]累代の家宝である名刀[[髭切|鬼切丸]]もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、[[正二位]]を贈位。[[大納言]]の贈官を受ける。

なお、[[江戸時代]]の[[明暦]]2年([[1656年]])にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、[[福井藩]]主[[松平光通]]に献上した。[[象嵌]]が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範[[井原番右衛門]]による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として[[越前松平家]]にて保管された。[[明治維新]]の後、義貞を祀る[[藤島神社]]が創建された際、福井松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。兜は、明治33年([[1900年]])の[[旧国宝]]指定を受けた後、昭和25年([[1950年]])に国の[[重要文化財]]に指定し直されている<ref>山上八郎『日本甲冑100選』p. 269 - 271(秋田書店、1974年)。</ref>。ただし、兜の実際に製作された時期については、甲冑研究家の[[山上八郎]]らによって、室町時代末期との鑑定が下されている(詳細は[[藤島神社#伝・新田義貞の兜|藤島神社の該当項]]を参照のこと)。


== 銅像・遺品・碑 ==
== 銅像・遺品・碑 ==
178行目: 271行目:
『[[熊谷家伝記]]』の伝承によれば、坂部熊谷家の初代[[熊谷直貞]]は、三河熊谷氏の祖である[[熊谷直重]]の娘、常盤と新田義貞との間の子であるとされている。
『[[熊谷家伝記]]』の伝承によれば、坂部熊谷家の初代[[熊谷直貞]]は、三河熊谷氏の祖である[[熊谷直重]]の娘、常盤と新田義貞との間の子であるとされている。



== 脚注 ==
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
{{Reflist|group=注}}
189行目: 282行目:
* {{Cite book|和書|author=[[奥富敬之]]|title=上州 新田一族|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=978-4-40-401224-1
* {{Cite book|和書|author=[[奥富敬之]]|title=上州 新田一族|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=978-4-40-401224-1
|date=1984-8}}
|date=1984-8}}
* {{Cite book|和書|author=[[森茂暁]]|title=太平記の群像 軍記物語の虚構と真実|publisher=角川選書|isbn=4-04-703221-2}}

* {{Cite book|和書|author=森茂暁|title=戦争の日本史8 南北朝の動乱|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-642-06318-0}}
== 登場作品 ==
* {{Cite book|和書|author=[[安井久善]]|title=太平記要覧|publisher=[[おうふう]]|isbn=4-273-02939-1}}
* [[新田次郎]] 『新田義貞』(新潮文庫)
* {{Cite book|和書|author=[[小林一岳]]|title=日本中世の歴史4 元寇と南北朝の動乱|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4-642-06404-0}}
* [[吉川英治]] 『私本太平記』(吉川英治歴史時代文庫)
* [[山岡荘八]] 『新太平記』(山岡荘八歴史文庫)
* [[森村誠一]] 『太平記』(角川文庫)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2013年5月26日 (日) 21:10時点における版

 
新田義貞
稲村ヶ崎の新田義貞(月岡芳年画)
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正安3年(1301年
正安2年(1300年)説あり
死没 延元3年/建武5年閏7月2日1338年8月17日
別名 小太郎(通称)
戒名 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位
金龍寺殿眞山良悟大禅定門
墓所 福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺
茨城県龍ケ崎市若柴町の金竜寺
官位 正四位下、左馬助上野介、播磨守、越後
左衛門佐左兵衛督左近衛中将
正二位大納言のち正一位
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王後醍醐天皇
氏族 新田氏
父母 父:新田朝氏
兄弟 義貞脇屋義助大舘宗氏
小田真知女、天野時宣女ほか
義顕義興義宗、娘(千葉氏胤室)、
嶋田義央(義峰)[1]
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新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。

鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった[2]。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立[3]。尊氏が建武政権に反旗を翻すと後醍醐天皇の尖兵としてこれに対抗、各地で転戦するが、箱根や湊川での合戦で敗北、後醍醐天皇の息子の恒良親王尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した[4]

河内源氏義国新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位正四位下、左近衛中将明治15年(1882年)8月7日正一位

鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利家と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった[5]。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である[6]

生涯

新田氏(上野源氏)は、河内源氏3代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、上野国新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発した。

だが、義貞が家督を継承した頃の新田宗家の地位は低かった。義貞の代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。加えて、足利氏と比べると、新田氏は北条得宗家との関係が険悪で、鎌倉幕府から冷遇されていた[7]文保2年(1318年)10月に義貞が所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して北条高時が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、鎌倉幕府での新田本宗家の地位の低さを表している。

世良田満義大舘家氏など、新田一門の面々も義貞同様に所領の一部を売却していた。本来であれば、手続きの折は宗家の承諾を得なければならないところだが、宗家の当主である義貞の承諾があった形跡はない。また、一族の大舘宗氏(家氏の子)と岩松政経が水の利権を巡って控訴沙汰になった際は、両者は義貞を無視して幕府に裁定を仰ぎ、幕府は裁許状を下している。

義貞の生年については判然としていない[8]。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ[9]、生年は正安2年(1300年)前後と考えられている。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は39歳没説を採用している。

また『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている[10]

義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。 義貞の出生地には三つの説がある。

  • 宝泉村由良(太田市):『新田義貞正伝』 より
  • 生品村反町館(新田郡新田町): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より 
  • 碓氷郡里見郷(榛名町):『新田正伝記』「里見氏系譜」より

とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。 正和3年(1314年)、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる[11]。文保2年(1318年)には、義貞が長楽寺再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。

義貞の育った新田荘は、気象の変化が激越で、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている[12]

挙兵から鎌倉攻略まで

元弘元年(1331年)から始まった元弘の乱では、大番役として上洛していたが、河内国楠木正成の挙兵が起こり、幕府に従って正成討伐に向かい、千早城の戦いに参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。『太平記』には、元弘の乱で出兵中、義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している。奥富敬之は、護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい、文章の体裁が綸旨の形式ではない、などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない[13]。山本隆志も、『太平記』の記述にある、義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している[14]。 また義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる[15]。ただし『太平記』には後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はない。

義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、幕府の徴税の使いとの衝突から生じた、徴税の使者の殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった[16]。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、金沢出雲介親連(幕府引付奉行北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎御内人)が赴いた。親連と黒沼は、六万貫文の軍資金を、わずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を、短期間で納入するよう要請した理由は、世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである[17]

両者の行動はますます増大し、譴責の様相を呈してきた。義貞の館の門前に、泣訴してくるものもあった。また、黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。彦四郎の首は世良田の宿に晒された。親連は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると幕府を刺激すると義貞が懸念したとも考えられている[18]

得宗・北条高時は、これに対して、新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。義貞は得宗被官安東聖秀の姪を妻としており、彼女を経由して情報を取得したと推測される[19]。義貞は一門、郎党を集め評定を行っていたが、幕府による新田討伐の情報を得るに至って、幕府との対決の戦略を講じるようになる。最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、弟・脇屋義助の演説が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換した。

元弘3年 / 正慶2年(1333年)5月、義貞は挙兵した。挙兵の日時については史料によって若干隔たりがある。『太平記』は5月8日、『梅松論』は5月中旬、『神明鏡』は5月5日と記述している。千々和実は、幕府による平塚郷の長楽寺への寄進が5月8日であることを鑑み5月5日説を支持し、奥富敬之は徴税使殺害など前後の事象から5月8日説を支持している[20]。『太平記』には、挙兵に際して、新田荘にある生品明神社頭に義貞はじめ新田一族が参集して決起する逸話が描かれているが、義貞決起の経緯の記述構成が『太平記』と類似している『神明鏡』には神社で決起する描写がないことから、神社での決起は『太平記』における創作ではないかという指摘がある[21]。この時点で集まった主なメンバーは、義貞に義助、大舘宗氏とその息子達、堀口貞満岩松経家らであった。兵の数はわずか150騎であったが、これは騎馬武者のみを考慮した数であり、雑兵も計算に入れると数倍はいたと考えられる[22]

挙兵した義貞は笠懸野に布陣した。これは『太平記』『神明鏡』による叙述で、『梅松論』は世良田に打って出たと叙述しており、矛盾が生ずる。しかし、矛盾を指摘した山本隆志は、当時は『笠懸野』が示す範囲が今よりも広く、世良田も笠懸野の一部であったと推量し、史料の齟齬を埋め合わせている[23]

義貞は、まず後顧の憂いを絶つべく進路を北西へ向け、幕府方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入って壊滅させた。幸先の良い快勝を収めた義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて越後国信濃国甲斐国の新田一族や、里見・鳥山田中・大井田・羽川などの氏族が合流した。『太平記』によれば、彼らは山伏から義貞決起の情報を聞かされ馳せ参じたとされる。各地から参集した軍勢と合流して義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、態勢を整えると鎌倉を目指し一気呵成に進撃した。さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、鎌倉を脱出してきた足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と合流した。千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢の規模は膨大なものとなった。その数について『太平記』は20万7,000騎、『梅松論』は20余万騎と言及している。

尊氏の息子千寿王は鎌倉攻めのもう一人の大将とも言われる存在で、鎌倉攻めの軍勢には、義貞と千寿王、二人の大将がいた[24]。このことから、義貞の挙兵は尊氏の要請に応じて行われたものだと看做す解釈もある[25]

小手指原・分倍河原の戦い

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分倍河原駅前の新田義貞像

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。幕府軍は、義貞が入間川を渡りきる前に迎撃する算段であったが、義貞の方が動きが迅速であった[26]

両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなかった。戦闘は30回を越える激戦となった。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、一旦撤退して軍勢を立て直した。

翌日、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した。桜田貞国は奇襲に対する備えを講じており、奇襲は成功しなかった。幕府軍は鶴翼の陣を敷いて義貞を挟みこむ戦法を採ったが、この戦法を義貞は看破し、戦法にかかったような芝居を見せ、陣を拡散させたため手薄になった本陣を狙い打ちにした。桜田貞国は軍勢を纏め、分倍河原まで退却した。

退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始する(分倍河原の戦い)。先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢が加わり、士気が高まった。一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突するが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き撤退した。もし、幕府軍が追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている[27]。しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した。『太平記』には、この合戦における両軍の軍勢の構成や、採用した戦法について、詳らかに記述されている。

敗走した義貞は、退却も検討していた[28]。しかし堀兼に敗走した日の夜、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥渋谷本間相模国の氏族を統率して義貞に加勢した。大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した。また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている[29]

義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌日早朝、義勝を先鋒として義貞は虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け、大勝した。義勝の加勢の背景には、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。

稲村ヶ崎突破

新田義貞と稲村ヶ崎

藤沢(神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂(けわいざか)切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨副呂坂(こぶくろざか)切通しから鎌倉を総攻撃した。しかし、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は、波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとしたが、北条軍の迎撃によって討死した。宗氏の戦死によって指揮系統が失われたため、義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った。

5月21日、義貞は稲村ヶ崎を突破する。現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している[30]。『太平記』では、義貞が太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。

5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは天文学者小川清彦の検証によって証明されている[31]。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、さらに結果として失敗したが先立って大舘宗氏が突破を敢行しており、干潮については把握していてもおかしくは無いと指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉していたと考えられる[32]

久米邦武は稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。これに影響を受け、三上参次も干潮虚構説を支持した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士三木俊連が、霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに対して、大森金五郎は、徒渉説を支持した。峰岸純夫は、突発的な地殻変動や自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した[33]高柳光寿は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。石井進は、小川清彦の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を平成5年(1993年)に発表している[34]


いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。最後の戦場は葛西谷に推移し、北条高時ら北条一族は菩提寺の東勝寺にて自害(東勝寺合戦)、鎌倉幕府は滅亡した。挙兵から2週間という迅速さであった。

『太平記』は、幕府滅亡にあたって、義貞と舅安東聖秀の逸話を収録している。それによると、義貞の妻は、父である聖秀に勧告状を贈ったが、これを受け取った聖秀は「娘の真意であったとしても、義貞が真の勇士であれば、このようなことをすべきではない」と、憤然としてその書状で太刀を握り、割腹して果てたという。聖秀は鎌倉幕府得宗被官であった安東蓮聖の一族と言われ[35]、義貞が得宗被官との間にパイプを持っていたことを示唆している。またこの逸話について、聖秀という人物が実在したかどうかは不明とされている[36]が、義貞の妻が得宗被官の安東氏の血縁であったことは史料から確実[37]とされている。『太平記』は義貞を勇将として描く一方、義貞に親族の縁を利用して敵を懐柔する狡猾な一面があったことを指摘するためにこのような逸話を収録したとされる[38]

鎌倉占拠と足利氏との確執

鎌倉を陥落させた義貞は、勝長寿院に本陣を敷いた。一方、足利千寿王は二階堂永福寺に布陣した。鎌倉陥落後ほどなくして、義貞は後醍醐天皇に幕府を打倒した旨を伝える使者を送らせた。[39]

鎌倉を占拠してしばらく、義貞は戦後処理に奔走した。各々の武将が義貞へ軍忠状着到状を提出し、義貞はそれに対して証判を書いた。諸将への宿の割り当てや、兵卒の喧嘩の仲裁、北条残党の追捕にも尽力した[40]。5月28日には執事船田義昌が高時の嫡男、北条邦時を捕らえ斬首している。

7月に入ると、義貞に矢継ぎ早に提出されていた軍忠状、着到状が突然途絶える。後醍醐天皇が京都に潜幸し、論功行賞が行われることを知った諸将が、次々と上洛してしまったためであった。更に、無官の新田小太郎であった義貞よりは、従五位上治部大輔であった足利高氏の方が武士の人気が高く、武士達は義貞の下ではなく高氏の子である千寿王の下へ集った。高氏が鎌倉陥落に先んじて京都を制圧したという功績も、武士達の高氏への評価を高める要因となった[41]。他にも、三浦義勝など、足利と関わり深い武士達が目立つ武勲を挙げたことなどもあり、武士達は新田よりは足利へと接近していった。高氏は我が子を支援する為、細川和氏頼春師氏の三兄弟を派遣した。鎌倉では、新田と足利が、互いに手柄を争って角逐する情勢を呈してきた。

『梅松論』は、義貞が細川三兄弟と諍いを起こし、鎌倉を去って上洛するまでの経緯を記述している。鎌倉の街中で武士同士の騒擾が起こった。それを鎮圧した細川三兄弟は、騒動を起こした原因は義貞にあると判断し、義貞を詰問した。義貞は陳弁し、起請文を提出した。事態が収束して程なく、義貞は軍勢を引き連れ鎌倉を去り、上洛したというのが、梅松論が伝える義貞上洛の顛末である。

奥富敬之は、この騒動の為、義貞は鎌倉に逗留したくてもいられなくなってしまい上洛した[42]、峰岸純夫は義貞が対立の激化を回避する為に譲歩して鎌倉を去った[43]と指摘する。だが、『梅松論』は足利寄りの記述が多い為、尊氏を擁護するための潤色と推測される[44]。また、鎌倉で起こった騒擾については検証できる一次史料は存在しない。森茂暁は、『梅松論』におけるこの騒動とそれに伴う義貞に起請文提出と鎌倉退去について、鎌倉攻めの戦功著しいはずの義貞が、簡単に鎌倉を退去してしまったのは、鎌倉を落とした軍功が義貞よりも尊氏に依拠するところが大きかった証であると言及している[45]

契機こそ定かではないが、元弘3年(1333年)8月初頭、義貞は鎌倉を去り、上洛した。義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになり、影響力を浸透させやすい土壌が鎌倉に形成された。これは武家政権である幕府再興の伏線の一つともなった。

建武政権下の義貞

上洛後の8月5日、叙位、除目が行われ、義貞は従四位上に叙され、左馬助に任官した。さらに上野、越後、10月には、播磨となった[46]。弟の脇屋義助は駿河国司となり、長男の義顕も越後守に任ぜられ、従五位上に叙された[47]。同時に義貞兄弟はじめ新田一族は多くの所領を拝領したものと思われるが、それを明示する史料は現存していない[48]。既に義貞は30代半ばの年齢に達していたと思われるが、この時期の義貞の行動を観察すると、あまり思慮深い行動が見られず、政治の世界における遊泳術はさほど達者でなかったと指摘されている[49]。建武政権発足後、義貞は越後国で反乱を起こした旧北条勢力の大河将長小泉持長らを討伐し、これを鎮圧した[50]

一方、ライバルの足利尊氏は、従三位に叙され、武蔵守に任官された上、鎮守府将軍に任ぜられた。弟の直義は、相模守となった。義貞が叙任された四位と三位では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、義貞兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて得宗が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった[51]

同年、武者所の長たる頭人となる。義顕、脇屋義治、江田行義ら、一族の多くも武者所に配された。また、上野・越後両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐左兵衛督などの官職を歴任。なお、上洛の時期から義貞の使用する花押の形に変化が生じている。

この頃、建武政権では足利尊氏と護良親王による政争が起こっていた。『梅松論』は、義貞が親王、楠木正成、名和長年らと結託して、尊氏に対して軍事行動に及ぼうとすることが度々あったと記する。義貞や親王が尊氏に対して軍事行動を起こそうとした旨の記述は梅松論以外の史料には見られないが、実際にそのような動きがあったかもしれないと考えられている[52]

親王は、やがて尊氏の策略によって父の命令により拘束、幽閉される。この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導した[53]。天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。

親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある[54]。この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。

中先代の乱

建武2年(1335年)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起こる。この戦乱の中で新田の傍流であり義貞と共に倒幕に功績のあった岩松経家が戦死した。他、新田一族の鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利の与党として合戦に参戦し戦死している。新田と足利の政争が中央で行われている折、新田一族から4人もの武士が足利の与党として戦い死んだことは、新田一族が分裂していたことを暗示している[55]。その後大舘、鳥山一族は、完全に義貞と決別する。また戦死した岩松経家に至っては、後継者(代官)に尊氏から所領が交付され、それによって岩松氏は足利と主従の関係となった。元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏の傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子を損なった[56]。新田と足利の対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。

時行蜂起に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。更に、尊氏は新田一族やその与党の所領を、時行撃退に武功のあった自分の与党への褒美として分給した。義貞が国司を担当した上野国の守護職が上杉憲房に与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏の本領である上野新田荘までもが、三浦高継に与えられた。義貞は、時行が鎌倉を選挙してから足利軍に撃退されるまでの中、何もしていなかったわけではない。義貞の配下である堀口貞政が、時行蜂起に際して、背後からの攻撃を計画していた。しかし、彼が越後の武士達に出兵を催促した時は既に時行は敗れて敗走する最中であった[57]

鎮圧後、尊氏は、信濃で北条の残党が蠢動しているという口実を設けて、朝廷の帰京命令に従わなかった。さらに、北条の残党が軒並み鎮圧されると、今度は「義貞と公家達が自分を讒訴している、」と主張し、鎌倉になお留まった。

『太平記』によると、10月、尊氏は細川和氏を使者に立て、君側の奸として義貞を誅伐することを趣旨とした奏状を提出した。尊氏は、

  • 義貞の鎌倉幕府に対する蜂起は、天皇への忠勤からではなく鎌倉幕府の使者を斬った罪を逃れるためにやむを得ず蜂起したものであること
  • 鎌倉幕府打倒は息子千寿王(義詮)に功績が大きく、その加勢を得るまで義貞は大して勝利を収めることもできず、帝の勝利に貢献しなかったこと
  • そして、都において公家達と結託して自分を讒訴していること

これらの根拠から、義貞を君側の奸であると非難した。一方、義貞は、これらの非難に対して明確に反論した奏状を提出、さらに、その中で鎌倉将軍府の成良親王をないがしろにしていること、六波羅占拠時に専断により護良親王の部下を殺害したこと、そしてその護良親王を中先代の乱の時に、北条時行襲撃の混乱に便乗して殺害したこと等に言及し、尊氏にこそ非があると主張、尊氏、直義兄弟を逆賊として誅伐する許可を求めた。尊氏による義貞への非難は抽象的であるのに対し、それに対する義貞の反論は具体的で、なおかつ足利の護良親王殺害に言及していることもあって、義貞の奏状の方が朝廷に対しての説得力を持ちえたと考えられる[58]。しかし、『太平記』における尊氏と義貞による互いの非難は、創作に過ぎないとの見方もある[59]

『太平記』では、この時坊門清忠が尊氏誅伐を促す発言をしたが、まだこの時点では護良親王殺害が明確になっていなかったため、そのまま朝議は終了したという。しかしその後、護良親王殺害に立ち会った女房の証言で直義による親王殺害が事実と判明した他、直義が赤松則村那須資宿諏訪部扶重広峯貞長長田教泰田代顕綱ら、諸国武士に義貞討伐を促す檄文を送っていたことが判明する。信濃の市河近家、陸奥の伊賀盛光などに至っては、呼応して挙兵した[60]。朝議は一気に尊氏誅伐の流れに向き、天皇は義貞に尊氏追討令を発する。この時、義貞は後醍醐帝から錦の御旗を賜ったと『太平記』は記述する[61]。また奥富敬之は、『太平記』におけるこれらの記述から、未だ護良親王殺害が明確に知らされていない中、義貞が迅速にこれを察知したこと、弾劾状をつきつけられた時、まるであらかじめ弾劾状をつきつけられることが判っていたかのごとく、即座に反駁の奏状を提出できたことは、足利尊氏、直義兄弟の側近に、新田側のスパイがいた可能性があると分析している[62]

尊氏討伐と敗退

義貞は上将軍として尊良親王を奉じ、脇屋義助、義治、堀口貞満、千葉貞胤宇都宮公綱などを率い東海道を鎌倉へ向かう。軍勢は10万以上に膨れ上がった[63]。途中、東海道東山道、軍勢を二手に分けて進軍した[64]。同じ頃、北畠顕家も陸奥から手勢を率いて進軍を開始する。東海道、東山道、陸奥の三方向から鎌倉を突き、足利兄弟を討ち取るという作戦であったが、この大規模な軍勢は統率を欠いていた。形式上の総大将である尊良親王の周辺には側近の公家達がおり、彼らは「口煩いだけ」の存在[65]であった。加えて同時に進軍した北畠顕家は従二位鎮守府将軍であり、従四位上の義貞は立場上顕家に指図できなかった。そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、義貞は顕家よりも早く軍を進めてしまい、挟撃のタイミングを逃したばかりか、足利側にとっては、兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう、早すぎ、かつ、遅すぎる進撃速度[66]であった。

足利尊氏は躁鬱の気質があったとされ、義貞と顕家から討伐を受けたこの時は護良親王を殺害した後悔や恩人である後醍醐帝に刃を向ける背信行為などから鬱状態にあった[67]。そのため、代わりに直義が軍議を開き、軍勢を纏め上げて出撃する。出撃した足利勢は、三河国矢作で激突し、矢作川の戦い愛知県岡崎市)が生じる。この戦いでは、新田軍が勝利した。その後、東進して追撃する新田軍を足利軍は駿河国(静岡県静岡市駿河区)で迎撃する(手越河原の戦い)が、ここでも敗北する。新田軍は官軍であり、足利軍の兵士達の中には朝敵の烙印を押される恐怖から新田軍に投降するものも多かった[68]。敗退を重ねた足利軍は、箱根の水呑に陣を構え、新田軍の攻撃に備えた。同時に、直義や足利軍の主要武将が出家を企図していた尊氏を説得し、尊氏は翻意して出撃する。

なおも進撃した義貞は、箱根・竹下で足利勢と三度激突する。義貞は、箱根を越える道を二手に分かれて行動することを計画した。義貞は、足利軍は、箱根山の南を通り湯本へ繋がる「本道」の方に重点的に守備を固め、本軍をこちらに置くだろうと考え、[69]本隊7万をこちらに向かわせた。一方で、箱根山の北を通る道は搦手の道であり、南側の険峻な道と比べると平坦で通りやすく、こちらには弟の脇屋義助に指揮権を任せ、尊良親王と側近の公家達、あわせて7000の軍勢を進軍させた。

しかし、鎌倉目前まで攻め込まれ、後がなくなった足利軍は、軍勢のほぼ大半を出撃させてきた。その数は20万以上にも及び、さらに、これだけの大軍では隘路である南側の本道では展開しづらいことから、その内斯波高経土岐頼遠ら18万近くが、平坦な搦手道の方へ向かってしまった[70]。義貞本隊と激突するのは、直義が率いる6万程度の軍勢であった。その上、新田軍は士気が低下しており、義貞も陣頭に立って突撃することはなく、後方に構えて静観しているばかりであった。一方、搦手道を進んだ脇屋義助らは、多勢に無勢で苦戦を強いられていた。そんな折、説得に応じて前線に戻ってきた尊氏が指揮を取るようになった。これによって足利軍の士気が昂揚し、形勢は一気に足利軍に有利となり、新田軍は総崩れとなった。

天竜川渡河

敗退した義貞は伊豆で軍勢を建て直し、さらに西へと逃れる。途中、天竜川にて橋を駆けて渡る。『梅松論』によれば、義貞は三日の内に橋を作るよう命じ、橋が作られるとそれを渡って西へ逃れた。橋を渡った後、追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきであると義貞の部下が提案するが、義貞は「橋を切り落すのは確かに軍略の一つだが、敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である」として、橋を切り落す提案を受け入れなかった。足利勢はこの話を聞き、義貞の態度に感服した。また、世間も義貞の潔さを称賛した。『源威集』にも、ほぼ同様の記述がある。

一方で、『太平記』は、橋をかけてその上を渡ったところ、綱が千切れて橋が壊れ、義貞と部下達が川に流されそうになったが、義貞は船田義昌と手を組んで対岸へ飛び移り、他の部下達も同僚に助けられて無事川を渡りきれた、という話を載せている。梅松論は「義貞の名誉と恥」、太平記は「義貞主従の思いやり」を強調し、叙述しているとされる[71]。また、『梅松論』も『太平記』も、双方、義貞は部下達を先に渡らせ、自分は最後に橋を渡ったと記述している。

義貞が武士としての恥を強く意識した背景には、朝廷から派遣された軍勢の大将という立場が大きく働いていたと見られる[72]。また、太平記、梅松論の双方が記述した「部下に先を行かせ最後に自分が橋を渡る」という行為は、既存の道義や秩序が崩壊しつつあったこの時代において、あるべき武士の姿を描き強調しようとする書き手の意図があったと考えられている[73]

京都での抗争

義貞は12月30日に帰京した。しかし、義貞を追撃する尊氏が、破竹の勢いで京都まで攻め上がってきていた。年があけると、京都の覇権を巡り尊氏と後醍醐帝配下の諸将の間で激戦が始まる。

帰郷後も、義貞は尊氏討伐の全軍指揮官の地位にあったらしく[74]、『太平記』には7月に義貞が各所に軍勢の配置を行っている記述が見られる。最初の内は、まだ総大将である尊氏、義貞らが陣頭に姿を現さず、小競り合いが続いたが、やがて尊氏に合力して山陰道から進撃してきた軍勢と尊氏の本隊が合流する。さらに、中国、四国地方の軍勢を糾合した細川定禅軍もこれに合流した。10日、淀川近辺で両軍は激突する(淀大渡の合戦)。この戦いは義貞らの敗北に終わり、後醍醐帝は遷幸し、義貞もこれに供奉した。京都は足利尊氏の軍勢に占領されることとなった。

だが、奥州より上ってきた北畠顕家が京都へ到着することで、この形勢が逆転する。13日に両者の軍勢が合流する[75]と、両軍は足利側の園城寺を攻撃し、陥落させる。16日には足利直義の軍勢に正面から突撃を敢行して蹴散らし、さらに高師直の軍勢までも破り、余勢を駆ってそのまま京都に攻め上り洛中を制圧した[76]。しかし、直後の市街戦において細川定禅の知略に翻弄されて敗退し、京都奪還は失敗する。これらの京都奪還を巡る戦いの中で、義貞は船田義昌を初め複数の重臣を喪った。船田らが戦死した場所、時期については、園城寺攻略時[77]とも、京都での細川定禅との市街戦の時とも言われる[78]。また、果敢に京都に攻め入りながら敗北した義貞と、その義貞を手玉に取り、智謀を用いて敗退させた細川定禅を、京都の市民はそれぞれ項羽張良に例えた[79]

これに前後して、義貞が北国へ逃走を企てているという風聞が足利軍に流れる[80]。この風聞に対して、足利直義は、若狭の本郷泰光に対して落ち延びる義貞を討伐するよう促す文書を送っている。この文書において、直義は義貞を「落人」と表現し、敗北者のように扱っている[81]

義貞の方は、20日に東山道を通って鎌倉から引き返してきた尊良親王の軍勢2万と合流した[82]。28日、義貞は楠木正成、北畠顕家、名和長年、千種忠顕らと共に、京都へ総攻撃を仕掛ける[83]。この合戦は30日まで続いた[84]。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。この合戦の最中、義貞は鎧を脱ぎ捨てて尊氏に一騎打ちを挑もうとした[85]が、果たせずに終わった。合戦は楠木正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れた。

足利軍はまだ再上洛を諦めず抵抗を続けていたが、摂津国豊島河原(大阪府池田市箕面市)の戦いで敗北(豊島河原合戦)。足利軍は九州へと落ち延びてゆく。義貞は、周防国の吉川実経に敗走する尊氏を討伐するよう要請した[86]。しかし、実経は直後に尊氏から勧誘され、尊氏側に与してしまった。そのため義貞の要請は無視されたものと見られる[87]

義貞は足利軍を打ち破った功績により、2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任し。播磨守を兼任する。

楠木正成による義貞誅伐の提案

『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、楠木正成が、新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある。その根拠として、正成は、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい[88]。さらに、義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったのが、尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である[89]、というものであった。正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず[90]、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とした洞察力に長けた正成は純粋に、武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた[91]。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかった。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる[92]。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方が徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている[93]

この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり[94]、にべもなく却下されてしまった。

播磨攻め

九州へと落ち延びる途中、尊氏は光厳院から院宣を得る。新田義貞の討伐を促す趣旨であった。尊氏はこの院宣を根拠に、各地の武将に自分に合力して義貞を討ち取るよう促す。一方、義貞は尊氏を追撃し、その途上にある赤松円心の拠点である播磨を攻めることになるのだが、この際義貞の出兵に遅れが生じた。この遅れた出兵について、『太平記』は、藤原行房の娘[95]勾当内待との色恋沙汰にうつつをぬかしていたと叙述し、これゆえ勝機を逃したと批判している[96]。ただし、勾当内待との色恋沙汰により出陣が遅れたことについては、太平記以外に明確な典拠がなく、創作の可能性も高い[97]。一方で、義貞は病に罹患していたために出陣が遅れたとも言われる[98]。病名はマラリア性の熱病とされる[99]。いずれにせよ義貞の出陣には遅延が生じ、江田行義大舘氏明が先発隊として播磨へ赴くこととなった。義貞本人が播磨へと出陣したのは、3月30日のことであった[100]。一方、尊氏は多々良浜の戦いで快勝し、着実に九州で戦力を増強して巻き返しつつあった。

義貞は赤松円心の篭る白旗城を攻撃し、弟の脇屋義助が三石城を攻めることとなる。しかし、義貞は赤松攻めに手こずり、いたずらに時間を浪費してしまうこととなる。先発した江田行義と大舘氏明は、3月6日迎撃してきた赤松軍相手に播磨書写山で快勝を収めるが、その後10日余りここに留まり、後詰めの部隊の到着を待った[101]。その後、宇都宮公綱、城井冬綱菊地武澄などが合流し、軍勢が数万に膨れ上がると、一気呵成に赤松軍に攻撃を仕掛けた。劣勢となった赤松軍は、白旗城で篭城戦の構えに出た。城に篭る円心は偽りの降伏の使者を送るなどして新田軍を欺き、時間を浪費させると共に隙をついて白旗城内に兵糧などを送り込むことに成功する[102]。この時、義貞はまだ京都におり播磨で指揮をとっていなかったが、『太平記』は、義貞自身が円心の巧妙な策に引っかかったと記述している[103]

3月30日に到着した義貞は、円心の策略に江田、大舘らが翻弄されていたことを知り激怒する。そして、白旗城を包囲して猛攻を仕掛けた。しかし、円心はよく持ちこたえ、なかなか白旗城を陥落させることができず、50日近くも時間を費やしてしまった[104]。攻めあぐねている中、弟の脇屋義助が、かつて鎌倉幕府が、楠木正成の篭る金剛山攻めに手こずったことが滅亡の遠因となった事例を引き合いに出し、別働隊を編成して備前・播磨の国境にある船坂峠へ攻め込ませるよう提案した[105]。義貞はこの提案を受諾。別働隊が船坂に差し向けられることとなった。船坂へ進軍した新田軍は、児島高徳と連携して、斯波氏頼の軍勢を破って船坂峠の突破に成功、さらに、大井田氏経の軍勢がその勢いで備中まで進撃して福山城を制圧、江田行義の部隊も奈義城能仙城菩提寺城の三城を陥落させて、美作にまでなだれ込んだ。

その後、脇屋義助は斯波氏頼が篭城する三石城の攻略に着手する。赤松円心が篭城する白旗城にも、依然として攻撃が加えられていた。しかし、この二城はよく持ちこたえ、新田軍は容易に落とすことが出来ずにいた。義貞が城攻めに時間を浪費している内に、九州で巻き返しを図った足利尊氏が再度の上洛を目指して西から東進、5月1日には厳島に到着した[106]。義貞の播磨攻めもここに終わり、義貞は再度足利尊氏との決戦に及ぶこととなる。

湊川の合戦

5月18日、進撃してきた足利軍と新田軍はまず福山で合戦に及ぶ。この合戦で新田軍は破れ、義貞、脇屋義助、大井田氏経らは攝津まで退却する。さらに進撃を続ける尊氏を迎撃する為、義貞は楠木正成と共にを迎撃する。これに先んじて、義貞は正成と会見したが、その中で義貞は、先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい[107]と内情を発露した。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げて以来、常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にしていた[108]。箱根竹下での敗北、播磨攻めのへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。この義貞の心中の吐露に対して、正成は退くべき時は退くべきであり、他者の謗りなど気にしない方がいいと、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。しかし峰岸純夫は、「周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか」と分析している[109]

湊川の合戦において、義貞は輪田泊の西南にある和田岬に本陣を置いた。この陣立ては、「不思議な陣立て」であったと言われる[110]。南から上陸してくる足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、東西南の三方向が海に面している和田岬は足利軍に完全に包囲され退路をふさがれてしまう形になる。義貞は、あえて背水の陣を強いて、配下に決死の覚悟で合戦に挑むよう促したと推測される[111]

合戦の趨勢は、細川水軍の突撃が契機となって[112]一気に足利有利に傾き、新田、楠木軍は敗北、正成は自害して、義貞は敗走することとなった。細川水軍が義貞達を引き付けるためにあえて水軍を東へ移動させ、東側から上陸しようと見せかけた。義貞、義助らが誘導されてきたところを、船団の後方の軍船が方向転換して和田岬から上陸、新田、楠木の両軍を分断させて、それらを背後から奇襲し、勝敗が決したとされる。義貞は、先頭に立って東側に上陸しようとする細川水軍こそ尊氏の本隊だと誤認していた[113]ようだが、実際には尊氏は方向転換して和田岬へと上陸した最後尾の軍船に乗船していた[114]

尊氏の奇襲作戦は奏功したが、湊川合戦における正成、義貞の敗北の何よりの原因は、兵力の多さにあるとされる[115]。『太平記』においては、正成、義貞共に、「敵は勢いに乗り大軍を率いているが、一方我々の軍勢は疲弊して人数も少なくなっている」と語っている。また、義貞と正成の間に戦術面における連携の不備があったとも言われる[116]

湊川合戦で、義貞は敗戦濃厚となりながら、馬が無数の矢を受けて倒れてもなお、太刀を振るって奮戦した。しかし、小山田高家が馬を失った義貞に自分の馬を与え、それに義貞を乗せて戦場から離脱させた。そして義貞は戦死を免れたが、高家は彼の身代わりとなって討死を遂げた[117]

北陸落ち

湊川での敗戦の報を聞き、宮方は5月27日に比叡山に遷幸する。義貞の軍勢は湊川での敗戦などにより四散して6000騎にまで減少していた。義貞は近江東坂本に本陣を置いた[118]。29日には、尊氏によって京都が占領される。尊氏は光厳上皇を奉じて京都東寺に入り、後醍醐帝、義貞と睨み合った。以降、6月から8月にかけて、京都を巡る攻防が展開される。しかし、楠木正成は既に亡く、奥州の北畠顕家も、妨害によって加勢に来るのが困難であり、義貞らは劣勢に立たされていた[119]。さらに、この攻防戦の中で、宮方で枢要な地位にいた名和長年、千種忠顕が戦死した。義貞は小笠原貞宗と戦ったり、尊氏を挑発して誘き出し[120]、雌雄を決しようとしたが、尊氏の首を取ることも京都の奪還も叶わずに終わった。

同時期、尊氏の弟直義は、比叡山、東坂本への糧道を断ち、宮方を追い詰めていった。また尊氏は、後醍醐帝との和平工作に着手した。後醍醐帝もこれに応じた。しかし、義貞には、秘密裏にこの和平工作が行われていたことは知らされていなかった。義貞は、天皇から切り捨てられた[121]。義貞達がこの和平工作が行われていることを知ったのは、和議を結ぶ為比叡山を出立して京都に向かおうとするその直前、10月9日であった[122]。事情を知った義貞の部下堀口貞満が比叡山を駆け上がり、鳳輦にすがりついて、後醍醐帝の無節操を非難した[123]。それから間もなく義貞達も駆けつけ、後醍醐帝は新田の軍勢に包囲された。後醍醐帝らは、和議を結んだのは「計略」であり、それを義貞に知らせなかったのも、計略が露呈して頓挫することを防ぐ為だと取り繕った[124]。対して義貞は、自分に恒良親王、尊良親王を推戴させて、北国へと下向させてほしいと提言した。義貞の軍勢が後醍醐帝を包囲したことは、クーデターである可能性もあるとも解釈されている[125]。義貞の提言の結果、宮方は、北国へ向かう義貞、恒良親王、尊良親王の軍勢と、後醍醐帝に付き従う軍勢の二つに分裂する。

後醍醐帝による新田一族切捨てと尊氏との和睦は、『太平記』にしか見られない記述であり、創作の疑いもある[126]。しかし、宮方がこの日を契機に分裂したことだけは確かである。新田一族の大半は義貞に随行したが、大舘氏明、江田行義らは後醍醐帝に随行した。その他には宇都宮公綱などが随行している[127]

10月10日に出立した義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み敦賀を目指した。比叡山を離れ北へ下向する際、義貞は日吉山王社に立ち寄り先祖伝来の鬼切太刀を奉納している[128]

義貞らは13日には敦賀金ヶ崎城へ到着した。『本副寺跡書』によれば、義貞一行は近江国堅田まで赴いた後そこから船で海津まで行き、敦賀へ下っていったという[129]。同書によれば、義貞はその道中、堅田で足利軍の追撃を受けた[130]。敦賀まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出したことが、『梅松論』や『太平記』に記述されている[131]。しかし、義貞一行が猛吹雪に見舞われた場所が、『太平記』は木目峠、『梅松論』は荒芽山となっており、情報に齟齬が生じている。『太平記』によれば、斯波高経が待ち伏せをしていた為、塩津から東に向かい、板取を経由して西へ周り、木目峠を越えて敦賀へ至る遠回りな道を選ばざるを得なかったという[132]。この年は通年に増して寒さが厳しい年であることが樹木の年輪から分かっており[133]、降雪にはまだ早い時期でありながら[134]、山中の積雪、降雪は著しく、義貞の敦賀までの道程は苦難を極めた。

義貞らが東へ進路を取ったのは遠回りをしたのではなく、その延長線上にある越前国府を目指し、そこを拠点とするためではなかったかという見解もある[135]。しかし、越前国府は既に足利方の斯波高経に支配されていたため、西へ進路を代え、敦賀へ向かうことになったのではないかと推定されている[136]

金ヶ崎に到着した親王一行は、各地の武士へ尊氏らの討伐を促す綸旨を送っており、結城宗広に送られた綸旨が、『結城家文書』に現存している[137]。10月15日、義貞の長男新田義顕は越後へ向かう為に出発し、弟脇屋義助は瓜生保への加勢に向かった[138]。義貞は、北畠顕家と連携して足利尊氏に対抗するが、北陸地方は越後を除き、新田氏の政治力が弱い地域であったため、義貞はその統治に苦労した[139]。義貞が越前にて周辺の武士らに発給した文書は見られない[140]。影響力の大きい寺社勢力と関係を深めた形跡もない。義貞の越前における地盤固めが難航したのは、越前国府を押さえられなかったことによる弊害だと言われている[141]

金ヶ崎落城

新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)

金ヶ崎城は、義貞入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。金ヶ崎を出発した新田義顕と脇屋義助だが、瓜生保が、足利尊氏が出した偽の綸旨に騙されて[142]、足利側に転じていた。保の弟達(義鑑瓜生重瓜生照)が、このことを義助に知らせたため、義助、義顕は瓜生勢の加勢を諦めて金ヶ崎城へ引き返した。この際、義助は脇屋義治を瓜生三兄弟に預けて保護を頼んでいる。また、瓜生保離反を知らされたことによって軍勢は動揺し脱走者が続出、金ヶ崎城出発時には3000騎いた義助、義顕の軍勢は最終的に16騎にまで減ってしまった[143]。さらに、金ヶ崎城にまで引き返すと、すでに城は斯波高経らの軍勢に包囲されていた。栗生顕友が献策した奇襲によって、義助、義顕らは16騎は敵中へ突入して金ヶ崎城へ帰還することに成功した[144]。またこの際、義貞も味方が奇襲をしかけたことを即座に察知して、城内から800騎の手勢を差し向けて斯波軍を撹乱させ、奇襲成功に貢献した[145]。この時の斯波高経の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であり統率を欠いていたため、義助、義顕の奇襲に慌てふためき同士討ちまでした末に四散して逃走していった。

横笛を奏でる新田義貞(菊池容斎画『前賢故実』より)

一度は足利軍を迎撃した義貞達には、つかの間の休息があった。10月20日、尊良、恒良両親王、義貞、義助、洞院実世らは、敦賀湾に船を浮かべ雪見をした。親王や各々の公家、武将達が得意とする楽器を奏でたと言われ、義貞は横笛を奏でた[146]

敗北した足利軍は、再度軍勢を束ねて金ヶ崎を攻めた。斯波高経の他に、仁木頼章、小笠原貞宗、今川頼貞高師泰細川頼春ら6万の大軍を差し向け、さらに海上にも水軍を派遣して四方から金ヶ崎を包囲した[147]

足利軍が総攻撃を仕掛けるが、最初は義貞達が優位な形勢にあった。さらに、一度は足利についた瓜生保が翻意して義貞に味方した。金ヶ崎城を包囲していた斯波高経の軍勢は、義貞と瓜生保に挟まれてしまうこととなった。さらに足利軍へ兵糧を補給する中継地であった新善光寺城を瓜生保が陥落させることに成功した[148]

しかし、金ヶ崎城の兵糧は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われた。『太平記』は「死人の肉すら食べた」、『梅松論』は「兵糧がつきた後は馬を殺して食糧にした」「城兵達は飢えから『生きながらにして鬼となった』」と、その凄惨さを叙述している[149]1337年(延元ニ年)になると攻撃はより激しさを増す。一月十二日、瓜生保とその弟達、里見時義らが、杣山城から兵糧を金ヶ崎城へ運び込もうと向かったが、足利軍に察知されて今川頼貞に迎撃され壊滅、瓜生兄弟、里見時義らは戦死した[150]。二月には、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助[151]を初めとする諸将と連携して足利軍を挟撃した。しかし、風雪の激しさからか、同時に挟撃することができなかった[152]。この間、義貞は越後の南保重貞に救援の要請を出していたようであり、2月21日に重貞から義貞の元へ注進状が送られている[153]

3月5日から足利軍による最後の攻撃が行われ、翌6日に金ヶ崎城は陥落する。落城に際して、新田義顕は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。義貞は、前日の夜に洞院実世らとともに脱出したと『太平記』には書かれているが、激戦の中、二人の親王を置いたまま脱出したことについては、義貞が本当にそのような行動を取ったのか、真偽を疑われている[154]。また、義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に、金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見解もある[155]。いずれにせよ、義貞が落城の折難を逃れて生き延びたことは事実であった。

北畠顕家との連携失敗

足利尊氏が落城直後の3月7日に一色範氏島津貞久に充てた御教書には、義貞以下悉く、新田勢を誅伐した、という記述がある[156]。尊氏は、義貞をこの戦で討ち取ったと思い込んでいた。程なくして、義貞が生き延びたことを知るが、越前の南朝勢力への攻撃は以前と比べると激しくなくなり、新田一族が再び勢いをつけてゆくことになる。尊氏は、南朝勢力の内、義貞や彼が奉じた二人の親王のいる越前に最も兵力を割いていたが、これは、二人の親王を奉じて、さらに多数の公家を随伴させている義貞の勢力が、自分に敵対する政治勢力として規模が大きく、京都に近い越前を根拠地としていることも合わさり、南朝の勢力の中でもっとも脅威になると尊氏の目に映っていたからだと考えられている[157]。しかし、金ヶ崎城が陥落し、二人の親王がそれぞれ自害、あるいは捕虜となり、義貞と離れたことで、この脅威が払拭され、越前攻めの勢いは衰えた[158]

3月14日、義貞は佐々木忠枝を越後守護代に任命する。金ヶ崎城を失った義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利に対抗する。弟義助は、越前国三嶺城を拠点とし、足利軍を牽制した。

8月になると、奥州の北畠顕家が上洛の途につく。途中、義貞の次男新田義興と、南朝に帰参した北条時行がこれに合流する。翌延元三年、顕家は上杉憲顕などを退け、西へ破竹の勢いで進軍した。後醍醐天皇は、各地の南朝勢力に、顕家の挙兵に呼応して決起するよう促した[159]。杣山城の義貞は、斯波直経鯖江で討ち、越前国府の攻略に成功する[160]。伊予の大舘氏明、丹波の江田行義らも呼応して決起し、京都の足利軍を包囲して一斉攻撃により殲滅するという構想であった。

しかし、義貞、顕家らが円滑に連携することはできなかった。青野原の戦いで土岐頼遠、高師冬らに快勝した顕家は、進路を転じて伊勢を経由して奈良へと向かった。その後は苦戦が続き、最終的に顕家は5月に和泉堺浦で足利軍に敗北、戦死した。

『太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している[161]佐藤進一は、顕家、その父北畠親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌った[162]、また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した[163]佐藤和彦は、北畠親房は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはい疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した[164]。奥富敬之は、佐藤進一の見解について、北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。また『太平記』の記述については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している[165]。義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない[166]。また、越前へ向かう行程は難路であり、峰岸純夫は、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する[167]。奥富は、佐藤和彦の見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している[168]。一方峰岸は、むしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している[169]。さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる[170]。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される[171]

最期

翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、義貞は越前国藤島の灯明寺畷にて、斯波高経の軍勢と交戦中に戦死した。戦死した日時については7月2日[172]、ないし7月7日[173]と言われる。

その戦死の顛末は『太平記』に詳しく叙述されている。義貞は、斯波高経に所領を安堵された平泉寺の衆徒が篭城する藤島城を落とす為向かっていたところを、黒丸城から出撃してきた細川出羽守、鹿草公相(彦太郎)らが率いる斯波軍と遭遇し、乱戦に陥った末、水田に誘導されて[174]身動きが取れなくなっていたところを、矢の乱射を受けた。楯も持たず、矢を番える射手も一人もいなかった義貞達は、細川・鹿草の軍勢に包囲されて格好の的となってしまった[175]。矢の乱射を浴びて義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する[176]。致命傷を負った義貞は観念し、頚を太刀で掻き切って[177]自害して果てたという[178]。義貞の首を取ったのは氏家重国であった[179]。この時、中野宗昌が退却するよう義貞に誓願したが、義貞は「部下を見殺しにして自分一人生き残るのは不本意」と言って部下の願いを聞き入れなかったという[180]

首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、正二位を贈位。大納言の贈官を受ける。

なお、江戸時代明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、福井藩松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社が創建された際、福井松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。兜は、明治33年(1900年)の旧国宝指定を受けた後、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定し直されている[181]。ただし、兜の実際に製作された時期については、甲冑研究家の山上八郎らによって、室町時代末期との鑑定が下されている(詳細は藤島神社の該当項を参照のこと)。

銅像・遺品・碑

義貞所用と伝わる四十二間筋兜。藤島神社蔵。

子孫

室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」(いずれも北朝から見て)として討伐の対象となった。

義貞の直系では、応永年間に義宗の子・貞方(義邦)が捕縛され、長子の貞邦と共に鎌倉で処刑されて断絶したという。しかし、貞方の諸子の内堀江貞政堀江氏と称し、武蔵国稲毛に逃れた。貞政の子孫は後北条氏に仕えた。さらに、もうひとりの子の中村貞長陸奥に逃れ、中村氏と称し、伊達氏に仕えた。庶家は藤沢氏などが出て現存している。さらに、義宗の庶子とする新田宗親(親季)もひっそりと在続しているという。

その一方、一族の岩松満純(『系図纂要』等では義宗と岩松満国の妹との間の子とするほか、出自に諸説ある)も義宗の子と自称して、岩松氏養子に迎えられたと自称した。満純の子孫である岩松氏礼部家は、岩松氏の別流京兆家との争いを勝ち抜き、新田氏の故地である新田金山城を本拠とした。しかし、戦国時代には岩松氏は重臣の横瀬氏由良氏)に下克上されて没落した。新田一族の世良田得川氏の後裔と称する徳川家康が関東に入部したとき、岩松氏の当主守純が召し出されて新田氏の系図を求められたが拒否したため、守純は家康の直臣となるも禄高はわずか20石を与えられただけであった。岩松氏は守純の孫秀純の代に、表面上は新田宗家として交代寄合の格式を与えられながら、新田氏を姓とすることは許されず、禄高もわずか100石加増されただけで、交代寄合としては最低レベルの120石を与えられただけであった。江戸時代、岩松氏は交代寄合に準ずる家(交代寄合衆四州に準ずる家)として細々と続いた。

また、岩松氏の執権で戦国時代に主家を下克上した横瀬氏も政義・義貞・義宗の子孫と自称し、明治維新後に新田氏に復姓している。

明治維新後に岩松氏、由良氏ともに明治政府に義貞の子孫として認定され、新田氏に復姓した。いずれが新田氏の嫡流かを巡って争った末、岩松氏が嫡流と認められ、華族として男爵に叙されている。

女系では千葉氏胤室となった娘が氏胤との間に満胤を儲けており、満胤以降の千葉氏宗家にその血統を伝えている。

熊谷家伝記』の伝承によれば、坂部熊谷家の初代熊谷直貞は、三河熊谷氏の祖である熊谷直重の娘、常盤と新田義貞との間の子であるとされている。


注釈

出典

  1. ^ 浅田晃彦児島高徳と新田一族』によると、義貞には越前国河合庄の豪族・嶋田勘右衛門の娘との間に産まれた義央(別名:義峰、嶋田家の祖)という庶子がいたとする。また、義央は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると、多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・お舟に匿われたという。
  2. ^ 峰岸・5頁
  3. ^ 安井『太平記要覧』173頁
  4. ^ 峰岸・5頁
  5. ^ 安井『太平記要覧』173頁
  6. ^ 安井『太平記要覧』173頁
  7. ^ 南北朝の動乱・41頁
  8. ^ 奥富・65頁
  9. ^ 奥富・66頁、峰岸・13頁、山本・45頁
  10. ^ 奥富・66-68頁
  11. ^ 奥富・70頁
  12. ^ 峰岸・32頁
  13. ^ 奥富・77項
  14. ^ 山本・60-65頁
  15. ^ 山本・65頁
  16. ^ 南北朝の動乱 42頁
  17. ^ 奥富・85、峰岸・34-35頁
  18. ^ 峰岸・36頁
  19. ^ 奥富・88頁
  20. ^ 奥富・90頁
  21. ^ 山本・69頁
  22. ^ 峰岸・34頁
  23. ^ 山本・69項目
  24. ^ 小林「元寇と南北朝の動乱」121頁
  25. ^ 小林「元寇と南北朝の動乱」121頁
  26. ^ 奥富・98項
  27. ^ 奥富・100頁
  28. ^ 奥富・101頁
  29. ^ 峰岸・56頁
  30. ^ 峰岸・66頁
  31. ^ 天文月報第八巻「太平記・稲村ケ崎長干のこと」
  32. ^ 峰岸・66頁
  33. ^ 峰岸・67項
  34. ^ 細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4
  35. ^ 峰岸・68-69頁
  36. ^ 山本・111頁
  37. ^ 山本・111頁、山本が参考した系図では義貞の妻を、甘羅群地頭(得宗被官安東氏の役職)・藤原重保の娘としている。
  38. ^ 山本・111項
  39. ^ 山本・121-122頁、『太平記』、『新田足利両家系図』などに言及がある。ただし、義貞が戦勝を注進したことを記述する史料は二次史料のみである
  40. ^ 奥富・117頁
  41. ^ 峰岸・75頁
  42. ^ 奥富・120項
  43. ^ 峰岸・76項
  44. ^ 山本・131項
  45. ^ 南北朝の動乱・43頁
  46. ^ 山本・137項、峰岸・77項
  47. ^ ただし義助、義顕の国司任命については疑問も呈されている(峰岸・77項)
  48. ^ 奥富・127項
  49. ^ 山本・137項
  50. ^ 小林「元寇と南北朝の動乱」137頁
  51. ^ 奥富・128項
  52. ^ 山本・165頁
  53. ^ 山本・169-170、武者所の役目なども考慮して、義貞が親王捕縛に関与したとみなすのは妥当であると山本は判断している。
  54. ^ 奥富・131項
  55. ^ 奥富・138-139頁
  56. ^ 山本・180-181項
  57. ^ 奥富・141頁
  58. ^ 峰岸・95-96頁
  59. ^ 山本・182頁
  60. ^ 山本・181頁
  61. ^ 山本・184頁
  62. ^ 奥富・154-155頁
  63. ^ 奥富・157頁
  64. ^ 峰岸・99-100頁
  65. ^ 奥富・157頁
  66. ^ 奥富・157頁
  67. ^ 峰岸・100頁
  68. ^ 小林「元寇と南北朝の動乱」・144頁
  69. ^ 奥富・160P
  70. ^ 奥富・160-161頁
  71. ^ 山本・193頁
  72. ^ 山本・194頁
  73. ^ 山本・193頁
  74. ^ 山本・196頁
  75. ^ 奥富・170頁
  76. ^ 奥富・171頁
  77. ^ 峰岸・103頁
  78. ^ 奥富・171頁
  79. ^ 奥富・171頁
  80. ^ 山本・198頁
  81. ^ 山本・199頁
  82. ^ 奥富・173頁
  83. ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日とも言われる。山本・199頁より
  84. ^ 山本・199頁
  85. ^ 奥富・174頁頁
  86. ^ 峰岸・103頁、山本・203頁
  87. ^ 山本・204頁
  88. ^ 峰岸・107頁
  89. ^ 峰岸・107頁
  90. ^ 山本・205頁
  91. ^ 峰岸・108頁
  92. ^ 山本・205頁
  93. ^ 山本・205頁
  94. ^ 山本・204頁、峰岸、107頁
  95. ^ 尊卑分脈は行房の父藤原経尹の娘と記載する。
  96. ^ 奥富・180頁、山本・206頁
  97. ^ 太平記の群像・196頁
  98. ^ 奥富・180頁
  99. ^ 峰岸・104頁
  100. ^ 奥富・181頁、峰岸・206頁
  101. ^ 奥富・183頁
  102. ^ 奥富・184頁
  103. ^ 奥富・184頁
  104. ^ 山本・207頁
  105. ^ 奥富・185頁、山本・207頁
  106. ^ 奥富・168頁
  107. ^ 峰岸・109頁
  108. ^ 峰岸・110頁
  109. ^ 峰岸・110頁
  110. ^ 奥富・191頁
  111. ^ 奥富・102頁
  112. ^ 山本・218頁
  113. ^ 峰岸・218頁
  114. ^ 奥富・193頁
  115. ^ 山本・219頁
  116. ^ 山本・218頁
  117. ^ 奥富・194頁
  118. ^ 奥富・194頁
  119. ^ 奥富・196頁
  120. ^ 奥富・200頁。義貞は矢を東寺へ打ち込み、尊氏に一騎打ちを所望、尊氏も奮起してこれを承諾しようとしたが、上杉重能にその軽率を窘められて思いとどまった。
  121. ^ 峰岸・110頁
  122. ^ 奥富・202頁
  123. ^ 峰岸・113頁
  124. ^ 峰岸・113-114頁
  125. ^ 峰岸・113頁
  126. ^ 山本・229頁
  127. ^ 山本・229頁、峰岸・114頁
  128. ^ 峰岸・114頁
  129. ^ 山本・231頁
  130. ^ 峰岸・115頁
  131. ^ 山本・232頁
  132. ^ 山本・233頁
  133. ^ 奥富・105頁、峰岸・117頁
  134. ^ 峰岸・115頁
  135. ^ 山本・234頁
  136. ^ 山本・235頁
  137. ^ 山本・241-242頁
  138. ^ 奥富・207頁
  139. ^ 奥富・208頁
  140. ^ 山本・246頁
  141. ^ 山本・246頁
  142. ^ 奥富・208頁
  143. ^ 奥富・209頁
  144. ^ 奥富・210頁
  145. ^ 奥富・210頁
  146. ^ 奥富・211
  147. ^ 奥富・211頁
  148. ^ 奥富・215頁
  149. ^ 峰岸・119頁
  150. ^ 奥富・216-217頁、ただし、足利軍の軍忠状には、瓜生保が二月になっても杣山城の軍勢の一員として行動していて、生存している旨の記述がある。山本・249頁
  151. ^ 脇屋義助については義貞と共に金ヶ崎城にいたとも言われる、奥富・217頁
  152. ^ 山本・250頁
  153. ^ 山本・250頁
  154. ^ 山本・254-255頁
  155. ^ 山本・255頁
  156. ^ 山本・255頁
  157. ^ 山本・256頁
  158. ^ 山本・256頁
  159. ^ 峰岸・121頁
  160. ^ 峰岸・121頁
  161. ^ 峰岸・121頁
  162. ^ 峰岸・121-122頁
  163. ^ 奥富・奥富・222頁
  164. ^ 奥富・222頁
  165. ^ 奥富・222頁
  166. ^ 安井『太平記要覧』・202頁
  167. ^ 峰岸・122
  168. ^ 奥富・223頁
  169. ^ 峰岸・122頁
  170. ^ 峰岸・122頁
  171. ^ 安井『太平記要覧』・202頁
  172. ^ 山本・263頁、奥富・233頁
  173. ^ 峰岸・122頁
  174. ^ 峰岸・123頁
  175. ^ 奥富・232頁
  176. ^ 奥富・233頁
  177. ^ 奥富・233頁
  178. ^ 峰岸・123頁
  179. ^ 山本・264頁
  180. ^ 奥富・233頁
  181. ^ 山上八郎『日本甲冑100選』p. 269 - 271(秋田書店、1974年)。

参考文献

  • 峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年5月10日。ISBN 4642052321 
  • 山本隆志『新田義貞 関東を落すことは子細なしミネルヴァ書房日本評伝選、2005年10月10日。ISBN 4623044912 
  • 奥富敬之『上州 新田一族』新人物往来社、1984年8月。ISBN 978-4-40-401224-1 
  • 森茂暁『太平記の群像 軍記物語の虚構と真実』角川選書。ISBN 4-04-703221-2 
  • 森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館。ISBN 978-4-642-06318-0 
  • 安井久善『太平記要覧』おうふうISBN 4-273-02939-1 
  • 小林一岳『日本中世の歴史4 元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。ISBN 978-4-642-06404-0 

関連項目

先代
新田朝氏
新田氏第8代当主
1318年 - 1338年
次代
新田義宗