大陸倭語

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大陸倭語
Peninsular-Japonic
話される地域朝鮮半島中央部及び南部
消滅時期西暦4-7世紀頃
言語系統日琉語族
  • 大陸倭語
Glottolog(未評価)
4世紀後期の朝鮮半島

大陸倭語(たいりくわご、英語: Peninsular Japonic[1]はかつて朝鮮半島の中央部と南部で話されていた絶滅した日琉語族の一種として、現在多くの言語学者が想定している言語(群)である。古代の文献に記載されている地名(主に『三国史記』(1145年編纂))が論拠となっている[2]

『三国史記』地名の訓釈

『三国史記』は、668年に終わる三国時代についての歴史書であり、古典漢語で記されている。三国史記の37巻は主に新羅に征服された高句麗などの地名とその意味について記述がある[2]。これらの記述は、1907年に内藤湖南によって最初に研究され、1960年代の李基文による一連の論文から実質的な分析が始まった[3][4]

たとえば「買忽一云水城」という文は現在水原として知られている都市について述べている[2]

買忽一云水城
「買忽、一に云ふ水城」

これは「買忽は(別の)或る箇所(文献)では水城と云う(記されている)」という意味であるが、買忽という文字は名前の音を記録したもので、水城という文字はその意味を表したものだというのが通説となっている[2]。このことから、〈買〉と〈忽〉はそれぞれ「水」と「城(都市)」の地元の単語の発音を表していると推測される[2]。このようにして、これらの地名から80から100語の語彙が抽出されてきた[5][2]。〈買〉や〈忽〉のような文字は、おそらく中古中国語のなんらかの方言に基づいて音写されていると考えられるが、これらがどのような音であったかは研究者の間に合意がない。この近似の方法の一つに、切韻(601年)などの当時の韻書に記載される中古音を使用することがある。これによると、〈買〉は と発音される。もう一つの方法は、15世紀の中期朝鮮語の朝鮮漢字音をもとに、may という音を充てることである。場合によっては、同じ単語が類似した音をもった別の文字で表される[2]

これらの名前から抽出された単語のうち何個かは、朝鮮語やツングース語に類似している[2]。ホイットマンによれば、在証される四つの数詞すべてを含む、他のいくらかは日琉語に似ており、現在は絶滅した日琉語と近縁な言語がかつて朝鮮半島で話されていた証拠としている[6]

抽出される単語のうち日本語に同根語が見出しうるもの
原語 訓釈 上代日本語
漢字 中古音[注釈 1] 中期朝鮮漢字音[注釈 2]
mit mil mi1[2][7]
于次 hju-tshijH wucha itu [2] [7]
難隱 nan-ʔɨnX nanun nana[2] [7]
tok tek to2wo [2][7]
tanH tan tani[2] [7]
twon twon
then thon
烏斯含 ʔu-sje-hom wosaham usagi1[2] [7]
那勿 na-mjut namwul namari[7] [2]
X may mi1(du) < *me [2][7][8]
mijX may
mjieX mi

これらの言語を研究した最初の研究者らは、これらの地名は高句麗の領土に当たるため、それらはその州の言語を表していたはずだと仮定した[6]。また李基文とサミュエル・ラムジーらは加えて、地名の音と意味を表すための漢字の二重使用は、朝鮮半島南部の諸国よりも早く漢字を受容していたであろう高句麗の記録者によって行われたとする仮説を提唱した[2]。彼らは、高句麗語が日本語、朝鮮語、ツングース諸語の間に繋がりを形成したと主張する[2]

クリストファー・I・ベックウィズは自身の研究において、これらのほとんどすべての単語が日琉語と同根であると提唱した[4]。彼はこれが高句麗の言語であったと考え、これを日本=高句麗語族(英語: Japanese-Koguryeoic)とベックウィズの呼ぶひとつの語族であったとみなした[4]。ベックウィズはこの語族は紀元前4世紀に遼寧省西部に存在し、一つのグループ(弥生文化と同定される)が海から朝鮮半島南部と九州に、他のグループが満州東部と朝鮮半島北部に、他のグループが海路で琉球諸島へ移動したとしている[4]。ただし、『Korean Studies英語版』の書評でトマ・ペラールは、ベックウィズ自身による中古音の再構のアド・ホックな特徴や、日琉語の資料のつかいかた、また他の言語との同根語の可能性を軽率に排除していることを指摘し、ベックウィズの言語分析を批判している[9]。歴史家のマーク・バイイントンによる別の書評では、ベックウィズの移住説の基礎となっている参照した史書の解釈に疑問が投げかけられている[10]

他のいくたりかの研究者は、提案された日琉語との同根語をもつ地名はどれも大同江の北にあるはずの高句麗の歴史上の原郷に分布しておらず、好太王碑などの地域の碑文にも日琉語の形態素が確認されていないことを指摘している[2][11]。『三国史記』で訓釈のある地名は一般に朝鮮半島中部からのもので、この地域は高句麗が百済や他の国家から5世紀に奪ったものであり、地名は高句麗の言語ではなく、それらの地域の言語に由来すると提唱している[2][3]。この説はこの地域の言語が複数の言語集団を反映していると考えられる理由を説明するかもしれない[12]。また、河野六郎金芳漢は、百済は日琉語族との二重言語使用であり、これらの地名は庶民の言語を反映していると主張していた[4]

その他の証拠

伽耶諸国の唯一の記録された単語は日琉語であったと何人かの研究者は考えた[2]。またアレキサンダー・ボビンは、古代中国と韓国の文書に登場する韓国南部のいくつかの単語と地名に関して日琉語を使った語源を提案している[8]

百済

上に説明したように、何人かの研究者は『三国史記』に記載されている地名の訓釈は百済の初期の言語を反映していると思っている。くわえて、『梁書』(635年)の第54巻に記載されている四つの百済語の単語のうち、二つは日本語と比較されるかもしれない[11]

  • 固麻 (kuH)「治城(統治拠点)」:: 上代日本語 ko2me2-「中に入れる」
  • 檐魯 (yemluX)「邑(集落)」:: 上代日本語 ya「家」,maro2「丸」

新羅

新羅とその前身の辰韓のいくつかの単語は、中国の歴史家によって『魏志』の第30巻と『梁書』の第54巻に記録されている。これらの多くは朝鮮語族のように見えるが、少数は日琉語の形態と一致する。例:mura〈牟羅〉「村」:: 上代日本語 mura「村」[11]

『三国史記』の第34巻では、新羅の旧地名と、8世紀に景徳王の下で二字で統一されて割り当てられた朝鮮漢字音の名前が記載されている。改称前の地名の多くは朝鮮語としての語源が成立しないが、日琉語族だとすると説明できる。たとえばそれらのうちいくつかが含んでいる要素であり、上代日本語の mi2ti「道」に似ている miti〈彌知〉などがある[11]

伽耶

伽耶諸国は、6世紀初頭に新羅に侵略されるまで、日本との貿易関係を維持していた[2]。『三国史記』の第四十四巻で記載されている1つの単語が日本語と比較される。

加羅語謂門爲梁。
「加羅語に門を謂ひて梁となす。」

この記述に於ける「梁」という漢字を*twolと朝鮮語式に訓読すべきであると仮定した上で、その発音が上代日本語で門を意味するto2と比較されている[2][4]

耽羅

済州島のことをかつて示した耽羅(Tanmura または Tammura)、𨈭(身偏に「冉」)牟羅が日本語で「谷の集落」を意味するtani mura または「人々の集落」を意味する tami mura が語源ではないかと提唱した[13][11]

済州島南西部にある柑山감산)という村は、「神山」という古名がある。古地名の最初の文字の〈神〉は朝鮮語でgam / kam と読むことはできないが、ボビンは最初の音節は元々上代日本語のkami2「神」と同族の単語であったと提唱した[13]

諸説

ジョン・ホイットマンは日琉語族の話者が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったと主張している[8]

朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[14][11][2][6][15]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマン宮本一夫らは山東半島から朝鮮半島の南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][16]。宮本一夫は東北アジア初期農耕化4段階説を提唱しているが、2段階目にあたる前4400BP頃に遼寧省遼西地域の偏堡文化遼東半島に拡散した。さらに偏堡文化が朝鮮半島に広まり、櫛目文土器と接触する中で、無文土器の祖型である公貴里式土器が生み出されたとしている。無文土器時代自体は3段階目にあたる前3500BP頃に山東半島の岳石文化の遼東半島への伝播に伴い、磨製石器群および水田などの灌漑農耕が朝鮮半島に広まって無文土器時代が始まったとしている[17]。そして、偏堡文化、無文土器文化、弥生文化は同じ土器生産技術で系譜的に繋がっており、言語によって生産技術が伝達されたと考えられることから、紀元前4400年の偏堡文化、紀元前1500年の早期無文土器(突帯文土器)、紀元前900年の弥生土器の系譜が古日本語の伝播を表す、としている[18]。一方でアレキサンダー・ボビンは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済新羅加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[11]

アムール川流域の祖先系統は赤、黄河流域の祖先系統は緑、縄文人の祖先系統は青で示されている。赤い矢印は、新石器時代にキビ農耕民が東へ移動し、朝鮮語族やツングース語族をもたらしたことを示している。黒の矢印は、後期新石器時代から青銅器時代にかけての稲作農業との統合を示し、朝鮮半島を越えて日本に日琉語族をもたらした[19]

マルティン・ロベーツは、農耕/言語拡散仮説に基づき、中国遼寧省西遼河流域で前9千年紀頃にキビの畑作農耕を行っていた興隆窪文化が日本語の起源となるトランスユーラシア語族(アルタイ諸語)の原郷であるとした[19] [20]。また、そこから東方にキビ農耕が伝わる中で、前9千年紀から7千年紀に他のアルタイ諸語から遼西地域において日流祖語と朝鮮祖語の共通祖語が分岐し、さらにキビ農耕民が前6千年紀の中頃、櫛目文土器時代の中期に朝鮮半島を南下し朝鮮祖語が分岐したとした[19]。また2017年の論文では、前6〜5千年紀以降に山東半島大汶口文化などと交流のあった遼東半島後窪遺跡の文化が日琉祖語ではないかとしており、この交流を通じて大汶口文化からオーストロネシア語族の影響があったのではないかとし、したがって日琉語族へのオーストロネシア語族の影響は遼東半島で起こったとした[20]。さらに前3300年頃に山東半島遼東半島から水稲稲作小麦大麦の農耕が朝鮮半島に伝わり無文土器文化が成立した[19][20]。ただし後に朝鮮半島を統一して朝鮮語の基礎になった新羅が成立する朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、畑作農耕が重要であった[20]。その無文土器文化が前3千年紀に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[19][20]

Janhunen(2010)は、言語の伝播と人の移動は必ずしも一致しないと断った上で、日琉祖語はまずシナ・チベット語族の影響を受けたとし、その場所は中国から朝鮮半島へのルートを考慮すると、可能性として挙げられるのは山東半島長江デルタではないかとした。そして朝鮮半島に移動した後で「アルタイ化」され、その後日本列島に入ったとした。そして日本列島で多少の「縄文語化」を受けたとした。また朝鮮半島に残った日本語(パラ日本語)話者の代表例として百済の言語を挙げた[21]

脚註

注釈

  1. ^ ウィリアム・バクスターによる。平声・入声は無標、上声は X、去声は H で表す。w:Baxter's transcription for Middle Chinese 参照。
  2. ^ イェール式英語版)表記。

出典

  1. ^ 伊藤英人(著)長田俊樹(編)「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」『日本語「起源」論の歴史と展望:日本語の起源はどのように論じられてきたか』三省堂、2020年。ISBN 978-4-385-36508-4
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Lee & Ramsey (2011).
  3. ^ a b Toh (2005).
  4. ^ a b c d e f Beckwith (2004).
  5. ^ Lewin (1976).
  6. ^ a b c d Whitman (2011).
  7. ^ a b c d e f g h 板橋 (2003).
  8. ^ a b c Vovin (2017).
  9. ^ Pellard (2005).
  10. ^ Byington (2006).
  11. ^ a b c d e f g Vovin (2013).
  12. ^ Whitman (2013).
  13. ^ a b Vovin (2010).
  14. ^ Bellwood (2013).
  15. ^ Unger (2009).
  16. ^ Miyamoto (2016).
  17. ^ 宮本一夫、宇田津徹朗、小畑弘巳、三阪一徳『東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究』九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室、2019年3月23日、199-209頁。
  18. ^ 宮本一夫近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散 (PDF)」九州大学人文科学研究院、2021年12月。2023年12月2日閲覧
  19. ^ a b c d e Robbeets, Martine; Bouckaert, Remco; Conte, Matthew; et al. (2021年11月10日). "Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages". Nature. 599: 616–621. doi:10.1038/s41586-021-04108-8. 2023年11月24日閲覧
  20. ^ a b c d e Martine Irma Robbeets (2017): "Austronesian influence and Transeurasian ancestry in Japanese: A case of farming/language dispersal". Language Dynamics and Change, volume 7, issue 2, pages 201–251, doi:10.1163/22105832-00702005
  21. ^ Johunen, Juha (2010), Reconstructing the language map of prehistorical Northeast Asia, Studia Orientalia Electronica, 108, pp. 281-304, https://journal.fi/store/article/download/52395/16245 2023年11月27日閲覧。 

参考文献

  • Byington, Mark E. (2006). “Christopher I. Beckwith, Koguryo – the Language of Japan's Continental Relatives (Leiden: Brill, 2004)”. Acta Koreana 9 (1): 141–166. 
  • 板橋義三 著「高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる」、Vovin, Alexander、長田, 俊樹 編『日本語系統論の現在』国際日本文化研究センター、京都市、2003年、131–185頁。doi:10.15055/00005276ISBN 9784901558174 
  • Lee, Ki-Moon; Ramsey, S. Robert (2011). A History of the Korean Language. Cambridge University Press. ISBN 978-1-139-49448-9. 
  • Toh, Soo Hee(都守熙) (2005). “About Early Paekche language mistaken as being Koguryŏ language”. Journal of Inner and East Asian Studies 2 (2): 13–31. 
  •     (2013). “A History of the Korean Language, by Ki-Moon Lee and Robert Ramsey”. Korean Linguistics 15 (2): 246–260. doi:10.1075/kl.15.2.05whi. 

関連項目