「出羽海部屋」の版間の差分

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歴代の出羽海は協会運営の重要職を司り、5代・6代は筆頭取締、7代・8代・9代は協会理事長を務めた。
歴代の出羽海は協会運営の重要職を司り、5代・6代は筆頭取締、7代・8代・9代は協会理事長を務めた。


長年「分家独立を許さず」という不文律があったが、[[1981年]](昭和56年)に元横綱[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]が[[武蔵川部屋]]を創設して以降、中立部屋(現在は[[境川部屋]]に改称)と[[田子ノ浦部屋]]が独立している。[[1999年]]([[平成]]11年)7月場所には101年ぶりに所属幕内力士が消えたものの、その後[[鳥羽の山喜充|鳥羽の山]]や[[普天王水|普天王]]といった幕内力士を輩出した。しかし[[2010年]](平成22年)5月場所には部屋唯一の[[関取]]である[[十両]]普天王が負け越し[[幕下]]に陥落し、[[1898年]](明治31年)5月場所元横綱常陸山が十両に昇進以来112年ぶりに関取が部屋から途絶えた。
長年「分家独立を許さず」という不文律があったが、[[1981年]](昭和56年)に元横綱[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]が[[武蔵川部屋]]を創設して以降、中立部屋(現在は[[境川部屋]]に改称)と[[田子ノ浦部屋]]が独立している。[[1999年]]([[平成]]11年)7月場所には101年ぶりに所属幕内力士が消えたものの、その後[[鳥羽の山喜充|鳥羽の山]]や[[普天王水|普天王]]といった幕内力士を輩出した。しかし[[2010年]](平成22年)5月場所には部屋唯一の[[十両]][[普天王水|普天王]][[負け越し]]、[[幕下]]に陥落。それにより[[1898年]](明治31年)5月場所元横綱常陸山が十両に昇進以来112年ぶりに[[関取]]番付からえた<ref>{{Cite web |url=http://www.daily.co.jp/general/2010/05/23/0003011451.shtml |title=出羽海部屋112年ぶり関取消滅か |author= |publisher=デイリースポーツ |date=2010-05-23 |accessdate=1月26日 |accessyear=2011年}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.daily.co.jp/newsflash/2010/07/05/0003167822.shtml |title=日本人大関は魁皇だけに 琴光喜の解雇処分で |author= |publisher=デイリースポーツ |date=2010-07-05 |accessdate=1月26日 |accessyear=2011年}}</ref>


== 所在地 ==
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*[[木村庄之助_(30代)|30代木村庄之助]](佐賀)
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== 脚注 ==
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2012年2月13日 (月) 16:12時点における版

出羽海部屋(でわのうみべや)は、日本相撲協会所属の相撲部屋。現存する部屋では最多の9人の横綱を育てたほか、3人が協会理事長を務めるなど相撲界随一の名門とされている。12の相撲部屋からなる出羽海一門の本家。

沿革

初代出羽ノ海寛政前頭筆頭・出羽海運右エ門である。出羽ノ海部屋を開き大関市野上浅右エ門らを育てた。1808年文化5年)に鹿間津滝右エ門年寄名跡を継承したが部屋は閉じられた。桂川立吉が出羽ノ海となったのは1862年文久2年)のこと。現出羽海部屋は桂川を現部屋の創設者としている。4代出羽ノ海の常陸山虎吉横綱常陸山らを育て、常陸山谷右エ門が後継者(5代)となると出羽ノ海部屋は栄華を極めた。

常陸山は大錦栃木山常ノ花の3横綱に對馬洋九州山大ノ里常陸岩の4大関を育てるなど、多くの力士を幕内まで仕立て上げた。1917年大正6年)1月場所から1921年(大正10年)5月場所までは、出羽ノ海部屋所属の力士で10場所連続優勝を占め(栃木山5回、大錦4回、常ノ花1回)、これは現在でも大相撲記録である(ほかに九重部屋1985年昭和60年)9月場所から1987年(昭和62年)3月場所まで記録)。

常陸山が1922年(大正11年)に死去すると弟子の両國(6代出羽海)が継いだ。両國は年寄名跡の「ノ」を取り出羽海と改称した。これは先代に畏敬を込めてのことらしい。両國の代でも部屋の勢いが消えることはなく、1931年(昭和6年)1月場所・3月場所では番付の西方片側の20名を全て出羽海部屋の幕内力士で占めるほどだった。

その後7代(常ノ花)、8代(出羽ノ花)と継承される間にも多くの横綱・大関らを輩出した。常陸山が1900年明治33年)1月場所に関脇に昇進してから横綱千代の山が引退する1959年(昭和34年)1月場所まで60年間138場所にわたり、常に三役力士を輩出してきたことも大きな伝統のひとつと言える。1968年(昭和43年)、横綱佐田の山は30歳の若さで引退すると出羽ノ花は部屋を譲った。佐田の山(9代)は部屋経営の傍ら協会の仕事にも従事していたが、協会の運営に専念するため1996年平成8年)に鷲羽山(10代)に継承させた。

歴代の出羽海は協会運営の重要職を司り、5代・6代は筆頭取締、7代・8代・9代は協会理事長を務めた。

長年「分家独立を許さず」という不文律があったが、1981年(昭和56年)に元横綱三重ノ海武蔵川部屋を創設して以降、中立部屋(現在は境川部屋に改称)と田子ノ浦部屋が独立している。1999年平成11年)7月場所には101年ぶりに所属幕内力士が消えたものの、その後鳥羽の山普天王といった幕内力士を輩出した。しかし2010年(平成22年)5月場所には部屋唯一の十両普天王負け越し幕下に陥落。それにより1898年(明治31年)5月場所、元横綱常陸山が十両に昇進以来112年ぶりに関取が番付から消えた[1][2]

所在地

師匠

力士

現役の関取経験力士

横綱・大関

横綱

大関

幕内

関脇

小結

平幕

十両

所属年寄

  • 出来山双一(できやま そういち、関脇・出羽ノ花、青森)
  • 山科盛夫(やましな もりお、小結・大錦、新潟)
  • 高崎昭和(たかさき あきかず、前2・小城ノ花、千葉)
  • 中立康照(なかだち やすてる、小結・小城錦、千葉)
  • 稲川有樹(いながわ ゆうき、小結・普天王、熊本)
  • 千田川龍水(せんだがわ りゅうすい、前6・金開山、長崎)

行司

脚注

  1. ^ 出羽海部屋112年ぶり関取消滅か”. デイリースポーツ (2010年5月23日). 1月26日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  2. ^ 日本人大関は魁皇だけに 琴光喜の解雇処分で”. デイリースポーツ (2010年7月5日). 1月26日閲覧。accessdateの記入に不備があります。