山科部屋

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山科部屋(やましなべや)は、かつて存在した相撲部屋

沿革[編集]

3代稲荷山長兵衛、6代がそれぞれ部屋を経営したが関取はでていない。

秀ノ山部屋の元幕内達ヶ関森右エ門明治12年(1879年)5月に引退して7代を襲名。しかし、関取を出すことができずに明治42年(1909年)3月に死去。所属力士は出羽ノ海部屋へ移籍した。その中に後の幕内釋迦ヶ嶽庄太郎がいた。

伊勢ノ海部屋の元幕内柏山吾郎大正2年(1914年)1月に引退して8代を襲名。柏山大五郎を関脇に育てた。また昭和5年(1930年)1月に師匠が廃業した元清見潟部屋岩木山謙治郎を引き取った。しかし、同年10月に岩木山が引退して以降は関取がでないまま昭和8年(1933年)1月に死去して部屋は閉じられた。