遠藤事件
遠藤事件(えんどうじけん)は、1975年に新潟県東蒲原郡で発生した交通事件である。新潟(津川町)ひき逃げ事件[1]とも呼ばれる[注 1]。
年 | 月日 | 事柄 |
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1975年 | 12月20日 | 事件発生。 |
12月23日-24日 | 遠藤祐一、取調べを受ける。 | |
1976年 | 初頭 | 遠藤に90日間の免許停止処分。 (後に45日間に短縮) |
3月 | 遠藤、書類送検される。 | |
1977年 | 2月12日 | 遠藤、在宅起訴される。 |
5月24日 | 新潟地裁で一審公判開始。 | |
1982年 | 9月3日 | 一審終了。 遠藤に禁錮6か月執行猶予2年の有罪判決。 |
1983年 | 4月19日 | 東京高裁で控訴審開始。 |
1984年 | 4月12日 | 控訴審終了。高裁が控訴を棄却。 |
1989年 | 4月21日 | 最高裁が破棄自判により無罪判決。 |
1991年 | 1月7日 | 遠藤、国家賠償を請求。 |
1996年 | 3月16日 | 東京地裁、請求を棄却。 |
2002年 | 3月13日 | 東京高裁が控訴を棄却。 |
2003年 | 7月11日 | 最高裁が上告を棄却。遠藤の敗訴が確定。 |
1975年12月20日夜、東蒲原郡津川町を走る国道49号上で轢死体が発見された。捜査の結果、事件発生時前後に現場を通過していた当時20歳のトラック運転手、遠藤祐一がひき逃げ犯として浮上した。ほどなく警察の調べに対し遠藤はひき逃げを自供し、そのトラックからも多数の血痕や毛髪が発見されたとされた。しかし、1977年に新潟地裁へ在宅起訴された遠藤は容疑を全面的に否認した。弁護側も、トラックの付着物には不自然な点があり、真犯人は他に存在する、と法廷で訴えた。だが、1982年に下った一審判決は執行猶予付きの有罪判決だった。弁護側は東京高裁へ控訴するも、1984年に控訴は棄却された。
しかし、冤罪を訴える弁護側にもやがて支援の声が集まり、1989年の上告審判決において最高裁は、最高裁判断において極めてまれな、破棄自判による無罪判決を言渡した。これにより遠藤の無罪は確定し、事件は発生から13年を経て冤罪と認められた。その後、遠藤は国のみならず起訴検察官と一審、控訴審裁判官らに対しても国家賠償請求訴訟を提起したが、訴えはすべて退けられている。
事件現場
1975年当時、福島県いわき市から新潟県新潟市までを結ぶ国道49号は、両県県境の新潟側で最初に東蒲原郡津川町を通過していた[2]。阿賀野川と会津街道の交錯する要衝である津川町は、古くは津川城の城下町として栄え、それと同時に城下町の特徴として弓矢や鉄砲などの飛び道具を無効化するために、道路がほぼ直角にねじ曲げられてクランクを形成している地点が存在した[2]。事件当時、このクランクには信号機がなく、さらに直角のカーブ地点では中量級車同士がすれ違うだけの道幅はなかった[3]。そして、クランクから新潟市方面へ約140メートル進んだ地点にはタクシー会社の電飾看板が設置されていた[4]。遠藤事件の現場となったのは、国道49号上のこのクランクから新潟市方面へおよそ270メートル進んだ地点である[4]。
1975年12月20日の21時25分頃[6]、頭部から胸部にかけてを轢過された状態の土木作業員(当時40歳)の遺体が現場で発見された[7]。被害者は酩酊して道路中央で寝込んでいたところを轢き殺されたとみられたが[7]、現場には血液によるタイヤ痕はなく、塗膜片などの車の遺留物も発見されなかった[8]。しかし現場の状況から、加害車両はいわき市方面へ走行する単一の中量級トラックないしバスであると推定された[4]。
被疑者
後に被害者を轢き殺したとして起訴される遠藤祐一(えんどう ゆういち)は、宮城県岩沼市の建材メーカーに勤務する、当時20歳のトラック運転手だった[9]。運転する車は1973年式(初代)いすゞ・フォワードSBR型ロングボディ、最大積載量4.5トンの平ボディ中量級車である[4]。
事件前後の行動
事件当日、12月20日の11時10分頃に遠藤車は、取引先である富山県高岡市の工場を、積荷をすべて降ろした空荷の状態で出発した[10]。国道8号から白根バイパスを経由して国道49号に入った遠藤車は、阿賀野川に架かる麒麟橋を21時20分頃に通過している[9]。その直後に差しかかった現場のクランクは、往路を含めても遠藤にとっては2度目の通過に過ぎなかったが、自動車教習所にあるようなその直角のカーブは遠藤に強い印象を与えたという[3]。クランク付近で対向車線から大型バスがやって来るのを視認した遠藤は、トラックを左へ寄せて速度を落とした[11]。この時、トラックがバスとすれ違った地点はタクシー会社の電飾看板があった付近である、と遠藤は後の取調べの段階から一貫して主張している[12]。
バスとすれ違った遠藤車は、クランクを通過してさらに国道49号を進んだ。およそ30分後、遺体発見の報を受けて緊急配備検問を行っていた福島県警喜多方署西会津派出所前で、停車させられた遠藤車は2人の警官によって5、6分程度車体の点検を受けている[13]。そして、この検問を通過した遠藤車は翌21日の深夜2時過ぎに、岩沼市へ帰還した[13]。休日を挟んで22日月曜日に遠藤が建材メーカーへ出社すると、ほどなく宮城県警岩沼署から2人の警官が会社へやって来て、トラックを見せるよう遠藤に要求した[7]。この時、遠藤車は2人の警官と遠藤の同僚ら4、5人によって10分程度見分されたが、何の異状も発見されなかった[7]。遠藤車に異状が認められなかったことは、この時会社に居合わせた遠藤の同僚全員が確認している[7]。警官らは一度引き揚げたが、10時過ぎに再び会社へ現れ、トラックを新潟県警にも見分させるために岩沼署へ移動させるよう要求した[14]。遠藤はこれを受け入れ、自らトラックを運転し11時過ぎに岩沼署へ乗りつけた[15]。
付着物の発見
画像外部リンク | |
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右後輪外側面のシミ | |
シミを指さす遠藤 ともに実況見分調書添付写真[16][17] |
岩沼署へ到着した遠藤は近郊で昼食を済ませ、1時間ほど後に遠藤立会いのもとでトラックの実況見分が開始された[15]。そしてその直後、遠藤車の右後輪外側面に19×20センチメートルの黒いシミが発見された[15]。さらに翌23日に新潟県警の技官らによって続けられた実況見分でも、遠藤車からは多数の付着物が次々と発見されていった[18]。
最終的に、遠藤車からは以下の付着物と痕跡が発見されている[19]。
- 右後輪外側面からの、19×20センチの血液様の物
- 右後輪外側面からの、2本の毛髪様の物(血液様の物に塗り込められた状態で付着)
- 右前輪ショックアブソーバー下部ステーからの、皮膚片様の物
- 右前輪ショックアブソーバー下部ステーからの、毛髪様の物
- 右後輪フェンダーからの、血液様の物
- 右後輪フェンダーからの、毛髪様の物
- ラジエーターコアサポーター中央部からの、長さ21センチの布目痕[20]
- ラジエーターシュラウド中央部からの、長さ6センチの布目痕[20]
23日に宮城県警本部鑑識課が後輪外側面のシミについて行った血痕鑑定の結果、そのシミは人血であると判定された(下表参照)。しかし、証拠品の押収に際しては必ず作成されるはずの押収調書は、これらの付着物に対しては一枚も作成されていない[21]。
自供
付着物が人血と鑑定された直後から遠藤は被疑者として扱われ、23日には岩沼署で、翌24日には出頭を命じられた新潟県警津川署で取り調べを受けた[18]。当初、遠藤は調べに対して人を轢いたことを否定していたが、「お前の車のタイヤに人の血が付いている」として、弁明は聞き入れられなかった[18](しかし、この段階では新潟県警による正式な検査の結果は出ておらず[22]、この取調べ手法は偽計に該当する可能性がある[23])。取られた調書の内容に訂正を要求するも拒否され、やがて遠藤は、自身も気づかないうちに被害者を轢いたのかも知れない、と思うようになった[24]。ほどなく、遠藤は調書の中でひき逃げを認めた。
上のように、調書において遠藤は、現場での異常走行体験とひき逃げの容疑を認める供述をしている。しかし、異常走行体験について遠藤は、消雪パイプを踏めば衝撃がある、とあくまで一般論として述べた部分を書き換えられたのだと後に主張している[18]。また、遠藤が署名する前に警官に読み聞かせられた調書は、実際の文面とは全く異なったものであったとも述べている[18]。一方で警察側によれば、24日の現場検証で遠藤は、痕跡が残っていない事件現場をほぼ正確に指示するという、秘密の暴露に類する供述をしたという[26]。これに対して遠藤は、事件現場には警官に誘導されたのだと反論している[27]。
年が明けて1976年の初め、遠藤は地元の公安委員会より90日間の免許停止処分を受けた[28]。講習を受けることによって遠藤の免停期間は45日間に短縮されたが、不服申立制度があることは知らなかった[29]。事件から3か月後、遠藤は新潟地検へ書類送検された[30]。しかし、これ以降遠藤に対する追及は途絶え、遠藤は逮捕されることもなく事件から1年を過ごしている[31]。
一審
事件から1年が過ぎようとしていた1976年12月6日、遠藤は突如として仙台地検古川支部へ召喚され[12]、さらに2か月が経過した1977年2月12日に、新潟地検によって新潟地裁へ在宅起訴された[31][32]。通常のひき逃げ事件では、道路交通法における負傷者救護義務違反が起訴理由に含まれるのが一般だが、遠藤に対する起訴理由は業務上過失致死罪のみであり、道路交通法違反は含まれていない[24]。
一審公判は5月24日から開始されたが、公判において遠藤は容疑を全面的に否認した[33]。遠藤の主任弁護人となったのは、弁護士登録から3年目の新人である阿部泰雄だった[34]。しかし阿部は、開示されていた捜査記録を閲覧した段階で、遠藤は無実でありひき逃げ車両は別に存在する、と確信していた[35][注 2]。
付着物に対する指摘
弁護側が主張したのは、遠藤車から発見されていた多くの付着物についての不自然さだった。
まず、検察側が提出した鑑定結果では、遠藤車ラジエーター付近から発見された布目痕 (7, 8) は被害者の着用していたポロシャツのものと一致したとされている[37]。これに対し弁護側は、遠藤車のラジエーターコアサポーターは地上から44センチ、ラジエーターシュラウドは地上から57センチの高さにあるが、路面に横臥していた被害者の、なおかつアノラックの内側に着用していたポロシャツの布目痕がそのような高さまで付着することは不自然である、と反論した[20]。
また、右前輪周辺からの毛髪様付着物 (4) についても、新潟県警本部科学捜査研究所(鑑識課)はこれを人の眉毛ないし睫毛であると鑑定している(下表参照)。これについて弁護側は、被害者は遠藤車の進行方向に対して、頭部を左側にして横臥していたのであるから、着衣の痕が発見された車体前面中央部よりも右の位置から被害者の頭部毛髪が発見されることはありえない、と主張した[20]。さらに、公訴事実の中では、遠藤車はその右後輪のみで被害者を轢過したとされているが、直進する遠藤車の前に横臥していた被害者が右前輪の轢過を受けずに右後輪に轢かれるような状況は想像し難い、とも主張した[38]。弁護側は物証であるポロシャツを再鑑定のため提出するよう検察側に求めたが、その時には被害者の着衣は遺族へ返却され、すでに焼却されていた[39]。これについて被害者遺族は、警察から着衣の返却を受けた際に「証拠の部分は切り取ってある」と言われた、と後に語っている[39]。
捏造の疑惑
異論は、付着物の発見経緯についても唱えられている。捜査記録によると、事件2日後の12月22日午前中に遠藤の職場を訪れた岩沼署の2人の警官は(上記参照)、その際に遠藤車を見分した段階で、右後輪にシミと毛髪が付着していたことを確認していた、とされている[40]。これについて弁護側は、記録が正しいとするならば、なぜ警官たちはシミを発見した時点で遠藤車の証拠保全を行わず、あまつさえ被疑者自身にトラックを運転させて署まで運ばせたのか、と疑義を呈した[41]。そして、そもそも事件直後に遠藤車は福島県警喜多方署西会津派出所前で検問を受けているのに(上記参照)、付着物が見過ごされることがあるのだろうか、とも指摘した[41]。
このように付着物の発見経緯が不自然であったことから、遠藤の支援者の一部には、遠藤が岩沼署へトラックを運んだ直後、彼が昼食のために署を離れた隙(上記参照)に付着物が捏造されたのだと主張する者もいる[42](後の国家賠償請求訴訟で原告側応援団長を務めた[43]弁護士の庭山英雄など[44])。
しかし物証の捏造説に対しては、付着物が意図的に付けられたものにしては、その事件性が後の工学鑑定で強く否定されるなど(下記参照)、工作があまりに稚拙であること[42]。昼食を終えた遠藤が署に戻った際にはすでにシミが乾燥していたこと[42]。そもそも管轄外の事件に対して岩沼署がそうまでして解決を焦る理由がないこと[45]。そして何より、付着物が発見された後も遠藤が逮捕されることはついになかったこと、などの理由から、支援者の側からも否定の声が強い[42][45]。支援者のうち捏造説を否定する側からは、シミの正体は遠藤の職場から岩沼署までの4キロの道中で踏んだ泥[46]、あるいは接触した縁石の跡である[45]、といった推測がなされている(支援者らが実際に人血を用いて行った実験では、「タイヤは血液をはじく」との結果が得られている[42])。
これに対し捏造説を主張する側は、警察の手口はまず遠藤に物証を突きつけて自白させ、送検した後も犯人が挙がらない場合は略式手続にかける、というものだったと推測している[46]。
血痕鑑定
新潟県警鑑定と船尾鑑定
裁判で最大の争点となった右後輪外側面の付着物に対しては、検察側が新潟県警鑑識課による鑑定結果を提出した[47]。その鑑定書は本文3ページで検査経過の記載もない簡素なものだったが[48]、それによると右後輪のシミ (1) は人血であり、なおかつ血液型も被害者のものであるO型と一致する、とされている(下表参照)。これに対して弁護側は付着物の再鑑定を行うよう裁判所へ求め、これを容れた裁判所は、北里大学医学部法医学教室教授の船尾忠孝を付着物の再鑑定人として選任した[47]。そして、1978年10月9日付[49]で新潟地裁へ提出した鑑定書で船尾は、右後輪のシミは人血ではない、と結論した(下表参照)。
また、新潟県警によってO型の人肉片とされていた右前輪周辺からの皮膚片様の物 (3) についても、船尾は人肉ではないと鑑定し、食い違いを見せた(下表参照)。これについても弁護側は、両者が鑑定した試料は同一物であるはずにもかかわらず、新潟県警の鑑定書に添付された試料写真と船尾鑑定書に添付されたそれの間に量の違いがなく、新潟県警が試料を消費した形跡がない、と疑念を唱えた[50]。新潟県警側はこれについて、鑑定に使用した試料が実際には添付写真のものではなかったことを公判で認めている[50]。
一方で、シミの中に塗り込められていた毛髪様の物 (2)、そして右前輪周辺からの毛髪様の物 (4) については、新潟県警と船尾の双方が人毛であると鑑定した(下表参照)。しかし、右後輪からの毛髪様の物について弁護側は、新潟県警による鑑定の時点では2本であった試料の数が、船尾鑑定の時点では4本へと増えていることについて疑念を唱えている(ただし、弁護側は自陣営が追い込まれたかのような印象を与えかねない試料の捏造説については、これを主張しなかった)[51]。
桂鑑定
鑑定の対立を受け、検察側はさらなる鑑定人として岩手医科大学医学部法医学教室教授の桂秀策を裁判所へ申請した[52]。弁護側はこれに反対したが、裁判所は公判期日外に桂鑑定の採用を決定し、弁護側には一方的に通知を行ったのみであった[53]。弁護側は、証拠採用が露骨に検察側寄りであるとして裁判官忌避を申し立てたが[54]、却下された[33]。そして、1979年9月7日付[33]で新潟地裁へ提出した鑑定書の中で桂は、右後輪のシミ (1) のみならず、新潟県警の鑑定でも血痕であることが否定されていた(下表参照)はずの、右後輪周辺からの血液様付着物 (5) についても、O型の人血であると鑑定した(下表参照。ただしその根拠は、A型・B型抗体のどちらにも反応しなかったため、という消極的なものである[55])。
この桂鑑定で利用されている顕微沈降反応法は、桂自身が独自に開発したものであり[52]、5年から18年が経過した微量の血液にも反応する鋭敏性と、数時間で反応が得られる迅速性がその特長であると宣伝されていた[56]。しかし、試料とされた付着物は3年6か月前のものに過ぎないにもかかわらず、桂鑑定は陽性反応を得るまでに48時間から72時間という長時間を要している[56]。さらに、桂鑑定で検出された血痕はピコグラム(1兆分の1グラム)単位という極微量のものだった[56]。
これらの疑問点に対し桂は、そもそも血液が微量しか含まれない試料の鑑定では反応時間が長くかかって当然であり、新潟県警の鑑定結果との食い違いも、厳密には試料自体が異なっているのであるから、結果が異なるのも当然である、と後の最高裁判決後に反論している[57](新潟県警が鑑定した試料は1975年12月23日に新潟県警が採取したものであり、桂が鑑定した試料はその前日22日に宮城県警が採取したものを譲り受けたものである[58])。
だがそれと同時に桂は、検出結果が極微量だったのはみぞれか雨で流されたためであろうと鑑定当時は考えていたが、後に事件当夜の路面が乾燥していたことを知り違和感を抱いた、とも語っている[57]。この状況が考慮されていたならば判決は異なっていたかもしれない、とも述べた桂は[57]、結局遠藤は「たまたま不幸にしてトラックから極めて微量の人血が証明されたため第一審で有罪になったと思われる」と事件を総括している[59]。
鑑定人 | 鑑定時 | 鑑定試料 | 血液予備試験 | 本試験 | 血液型鑑定 | 結論 |
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宮城県警鑑識課 | 1975年 12月23日 |
1 | 沈降反応重層法[注 4]陽性 | 人血 | ||
新潟県警鑑識課 | 1976年 1月14日 (鑑定書作成日) |
1 | ロイコマラカイト緑反応[注 5]陽性 | フィブリン平板法[注 6]陽性 | O型 | O型の人血 |
5 | ロイコマラカイト緑反応陰性 (公判での証言) |
|||||
船尾忠孝 | 1978年 7月22日-10月9日[25] |
1 | ベンチジン反応[注 7]陽性 | 輪環反応法[注 8]陰性 | 人血の証明なし | |
フェノールフタレイン反応[注 9]陰性 | ||||||
桂秀策 | 1979年 5月17日-9月7日[25] |
1, 5 | ルミノール反応[注 10]陽性 | 顕微沈降反応法[注 11]陽性 | O型 | O型の人血 |
鑑定人 | 鑑定時 | 試料2 | 試料3 | 試料4 | 試料6 |
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新潟県警鑑識課 | 1976年 1月14日 (鑑定書作成日) |
性別不詳の人頭毛髪 (引き抜きによるものとみられる)[4] |
O型の人肉片 | 人の眉毛ないし睫毛 | わら繊維 |
船尾忠孝 | 1978年 7月22日-10月9日[25] |
性別不詳の人毛髪で、うち1本はO型 (引き抜きによるものかは不明。 被害者のものとみて矛盾しない) |
人の組織片ではない | O型の毛髪 |
工学鑑定
付着物の性質についての鑑定の他、弁護側は事件を自動車工学的に検討するため、交通事故に関する鑑定経験が豊富な成蹊大学工学部教授の江守一郎を、鑑定人として申請した[71]。「供述は多かれ少なかれ当事者の有利に歪む」とのスタンスを持つ江守は、証言をほとんど参考にせず、物証のみを解析する手法を採った[71]。その結果、1979年2月に提出した鑑定結果において江守は、右後輪のシミ (1) が血液ではないと工学的に断定した[72]。
鑑定書において江守はまず、右後輪のシミは地上高およそ15センチの位置にあるが、被害者頭部を轢き潰したタイヤの接地面から15センチ上方まで血液が飛散することは不合理である、と述べた[52]。仮に骨折の際にバーストがあったとしても、タイヤの側面に血液が接触すると推定される時間は0.04秒であり、そのような短時間ではシミのような血痕は形成されない、とも主張した[52]。そして、タイヤに大量の血液が付着した場合には1回転ごとに明瞭な血痕が路面に残るはずであるが、事件現場にはそれがない、とも述べた[52]。
その他の鑑定
事件の詳細な状況についての鑑定は、検察側が金沢大学の井上剛、弁護側が獨協医科大学の上山滋太郎の両大学医学部法医学教室教授を鑑定人として申請している[33]。
1980年5月に提出された井上鑑定によると、被害者の顔面上部が圧平された反動で下顎部が持ち上がり、その部分からの血液がタイヤ外側面に付着することが「ないとはいえない」とされている[73]。さらに、タイヤのシミが地上高19センチのリム付近まで達している点についても、「珍しいとは思われるが、周知のように交通事故の場合には、普通には一寸考え難いような事象が起こるものであるから」血痕付着の可能性は否定できない、とされた[73]。井上は、被害者は半ば倒れるような姿勢で遠藤車の前に飛び出し、右前輪と後輪の両方に轢過されたと鑑定し、右前輪周辺からの皮膚片様の物 (3) が人肉ではないとしていた船尾鑑定も無視している[74]。だが結局、井上鑑定は技巧的に過ぎるとして検察側にすら論告で無視された[75]。
一方、同年7月に提出された上山鑑定では、被害者はうつ伏せになっていたところを左から右方向に、右前輪で頭部を、右後輪ダブルタイヤの内側で再度頭部を、外側で背部を轢過されたとされている[76]。上山は、被害者が前輪と後輪の両方で轢過されたとすれば、地上高15センチの部位に血痕が付着する可能性はある、と鑑定している[73]。しかし、これについて弁護側は、被害者の出血は頭部顔面からのみであり、右後輪ダブルタイヤ外輪が背部を轢過したと鑑定された以上、外輪外側面に血液が付着することはあり得ない、と主張した[75]。
なお、遠藤の自供した異常走行体験は「車の後の方がバウンドした状態となり」という後輪のみによる轢過を示すものであり(上記参照)、前輪と後輪の両方による轢過とした井上鑑定、上山鑑定のいずれとも矛盾している[77]。
アリバイの主張
弁護側は遠藤車の付着物についても争点としたが、最も強く遠藤の無実の証明として主張したのは、遠藤には明白なアリバイが存在する、という点だった。
遠藤は事件直後の取調べの段階から一貫して、自分のトラックは事件現場を通過した後にクランク手前、電飾看板付近で大型バスとすれ違ったと供述している(上記参照)。遠藤がすれ違ったそのバスは後に新潟交通の津川駅行き最終バスであると分かったが[11]、バスの運転手は事件現場の状況を次のように語っている。
津川警察署のバス停[注 12]から約四〇メートル進んだところ、道路前方のセンターラインの付近に何かあるのが、その手前約二〇ないし三〇メートル位の地点で分かった。一〇メートル位に近寄って人と分かった [中略] その時は寝ていると思った。若し怪我をしたり死んでいるのが分かれば、現場を離れることはない。乗客もいなかったし、警察に連絡したと思う。ちょうどその人の横を通過する時、新潟市方向からタクシーがさしかかり、これも倒れている人を見て左に避けて徐行し、バスとは人をはさんですれ違う格好になったが、タクシーの運転手も窓を開けてその人の方を見ていた。このあと営業所に入構し、そこにいた車掌に、人が寝ていて危ないから警察に連絡してくれと頼んだ。 — バス運転手に対する尋問調書および員面調書より[4]
バス運転手は、現場で目撃した被害者が「寝ていると思った。若し怪我をしたり死んでいるのが分かれば、現場を離れることはない」として、その時点では生存していたと語った。また、その供述に登場するタクシー運転手も異変に気付いた形跡が全くなく[4]、公判での証言でもバス運転手は変わらずに、被害者は生きていたと述べている[79]。すなわち、バスは現場を通過してきた遠藤車とすれ違い、その後に現場で被害者の生存を確認しているのであるから、これは遠藤に完璧なアリバイがあることを示している、というのが弁護側の主張であった[79](ただし、バス運転手の証言にすれ違い車両について触れた部分はない[80])。
検察側はこの証言に対して、バス運転手はすでに死亡していた被害者を生きていると誤認した、と反論した[81]。しかし弁護側は、徐行していたバスとタクシーの運転手が揃って異変に気付かず、現場に広がっていた大量の出血を見逃すこともあり得ない、とさらに反論した[81]。
検問記録
遠藤のアリバイを主張する弁護側に対し、検察側は論告と最終弁論を残すばかりとなった第26回公判(1982年1月12日)の段階になって、事件当夜に行われた検問についての補充立証を裁判所へ求めた[82]。その結果として検察側が法廷に提出したのは、事件当夜の検問の際に担当警官が記したメモ書きである検問票の、さらにそれを書き写したという「検問表」だった[83]。この検問記録は、公判開始当初に弁護側が開示請求を行った際には、存在しないとされていたはずのものだった[84]。弁護側は引き続き検問票の原本を開示するよう求めたが、裁判所はこれを退けた[83]。
「検問表」によると、遠藤車は西会津派出所前で21時55分に検問を受けており、その一台後のトラックは22時ちょうどに検問を受けている[83]。検察側が求めたのは、この22時に検問を受けたトラックの運転手の証人申請だった[83]。裁判所はこの申請を容れ、さらに証人尋問はトラック運転手の仕事の都合により、福島地裁会津若松支部で非公開の期日外尋問として行う、と決定した[83]。憲法第82条で定められた裁判の口頭主義に反したこの決定に、弁護側は激しく反発したが、異議は退けられた[85]。
証言によれば、この証人のトラックは、遠藤車と同じく新潟市方面からいわき市方面へ走行中に、事故処理中の現場へ差しかかって停車させられた[82]。通行規制が解除されて最初に現場を発進したトラックは、22時ちょうど、「四トンの平ボディで空荷のトラックが検問所を出た直後に」西会津派出所前へ到着したという(対して遠藤は、検問所を出発する際に後続車はいなかったと主張している)[82]。さらに、証言においてトラック運転手は、「事故現場を出発して、時速六〇〜七〇キロくらいの速度で走り、西会津派出所に到着するまで、他のクルマを追い越したり、他のクルマに追い越されたりはしなかった」と述べている[82]。すなわち、このトラックは事件発生直後から封鎖されていた現場を真っ先に発進し、車列に変更が一切ないまま検問所で遠藤車に追いついたのであるから、犯行車両は遠藤車以外にはあり得ない、というのが検察側の主張であった[82]。
しかし、このトラック運転手の証言に対して弁護側は、車列に変更が起こらない状況は、対向車線がない一車線の道路で、かつ脇道がなく路肩に駐車場もないという極めて特殊な環境でしか起こり得ない、と反論した[86]。そして、現場から検問所までの26キロの道のりには、少なくとも県道レベルの脇道が4本あり、その他の道路や駐車場も多数ある、として検察側の主張を否定した[86]。これに加えてトラック運転手の証言には、7年前に受けた検問で偶然に自車の前に居合わせた車を「四トンの平ボディで空荷のトラック」と詳細に記憶していることは不自然である、といった指摘や、事故処理の状況からみてトラックが現場を発進したのは21時41分以降のことであるが、22時ちょうどに検問所に到着するためには、急カーブの続く山道を平均時速83.5キロで走行しなければならない、といった指摘がなされている[87]。
第一発見者の証言
加えて検察側に疑義が呈されたのは、遺体の第一発見者の供述の、ある部分についてであった。事件当夜、国道49号を遠藤車とは逆方向に、いわき市方面から新潟市方面へ走行していた第一発見者の車は、新潟交通のバスに追い越されて1分から1分半後にクランクへ差しかかっている[88]。そして、その際の状況を第一発見者は次のように公判で証言した。
事故現場から約二キロメートル近くある平掘の元ボーリング場付近で新潟交通のバスに追い越された。そのあとは追い越して行った車はないと思う。バスに追い越されたのが最後だったと思う。バスに追い越されたあとで妻を降ろした。平堀付近で連なって走って来た乗用車とすれ違い、津川の町なかでトラックとすれちがった。[中略] トラックとすれちがってからあとは、すれちがった車はないし追い越して行った車もない。事故現場にさしかかって路上に人らしいのを発見し、車から降りて見たら頭が砕けて血が出ていた。 — 第一発見者の一審供述より[25]
第一発見者は、バスに追い越された直後に現場で被害者の遺体を発見したと語っているが、現場に到達するまでに追い越し車両はなく、現場までにすれ違ったトラックも一台のみであったという。そして検察側は、第一発見者がクランク手前ですれ違ったそのトラックこそが遠藤車である、と断定した[88]。
ところが、そのトラックの特徴を尋ねる検察側の質問に対しては、第一発見者は「四角い箱みたいな感じ」の荷台をした、冷凍車のような形状の車両であったと述べている[注 13]。空荷の平ボディという遠藤車の外観とは食い違うこの目撃証言に対し、検察側は、目撃したトラックについて第一発見者が「少なくとも冷凍車のようなものではありませんでした」と正反対の供述をしている検面調書を提出した[93]。しかし、この検面調書について第一発見者は、「お前の記憶は間違っている」と検察官に説得されて作られた調書であり、「自己の記憶に反して不本意」なものであると反論している[94][注 14]。
一審判決
1981年4月の裁判所の構成変更を経て通算32回の公判を重ね、事件から7年近くが経過した1982年9月3日が、遠藤に対する判決言渡し日とされた[33]。傍聴に訪れたマスメディアの多くは無罪判決が下されることを確信し、予め無罪を報じる枠を取っていたテレビ局もあったという[97]。だが、阿部は「遠藤を有罪にするために裁判をしたような」裁判官の訴訟指揮から、有罪判決が下されることを危惧していた[97]。
そして、裁判長の宮嶋英世が言渡したのは、禁錮6か月、執行猶予2年の有罪判決だった[4]。
主文被告人を禁錮六月に処する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
判決は、「本件事故は被告人が惹起したものというほかなく、全証拠を精査しても、その間に合理的疑いは存しない」とした。個々の事実認定については、以下のように判断を下している。
付着物について
検察側と弁護側で意見の割れた血痕鑑定の結果については、一審判決は桂鑑定を全面的に採用した。船尾鑑定については、試料の古さに対する配慮が乏しく「検査を安易に進めた節の窺える」としてこれを排斥している。試料の本数の食い違い(上記参照)についても、単なる書類の誤記載であるとして退けた。最終的に判決は、右後輪周辺からの3点の付着物 (1, 2, 5) について、事件との関連を認めている。
轢過の様態については、右後輪のみによる轢過とした検察側の主張を否定し、被害者は右前輪で体を轢過された後に右後輪で頭部を轢過されたと認定した。このため、認定と矛盾する右前輪周辺の付着物 (3, 4) については判決では触れず[1]、布目痕 (7, 8) についても事件との関連を否定した[98]。付着物について工学的に疑義を呈した江守鑑定についても、「右後輪のみによる轢過を前提としたものであるうえ、その分析手法もいささか機械工学的なものに偏りすぎている」の一言で退けた。
西会津派出所前での検問で付着物が見過ごされたのは不自然である、との弁護側の主張に対しては、深夜に懐中電灯の明かりを頼りに5分程度行われた検問では、付着物が見過ごされたとしても不合理ではない、とした。付着物を見ていないとした遠藤の同僚の証言や、遠藤自身にトラックを岩沼署まで運ばせた不自然さについての弁護側の主張は、判決では触れられなかった[99]。
各証言について
判決は、遠藤の自供についても、目撃したトラックが冷凍車ではなかったという第一発見者の検面調書(上記参照)についても、検問所で遠藤車と入れ違いになったというトラック運転手の証言(上記参照)についても、そのすべてに証拠能力を認めた。第一発見者が目撃したのは遠藤車ではなくその後続車である、との弁護側の主張は、その証言にすれ違ったトラックが一台しか登場しないことから退けられた(これについて弁護側は、遠藤車は第一発見者が妻と荷物を降ろしている間にその車とすれ違った、と主張している[100])。トラック運転手の供述の時間的不自然さについても、数値の取りようによっては不合理ではない、とされた。
弁護側が遠藤の無実の証明であるとした、バス運転手の証言については、運転手が目撃したのは被害者の遺体であるとする検察側の主張は退けられた。判決は、バス運転手が生存中の被害者を見たと認定したが、それとほぼ同時刻に遠藤車が現場を通過したとするならば、遠藤が被害者を目撃していないのは不自然である、とした。そして、そもそもバスとすれちがったのが電飾看板付近(すなわち、現場からいわき市方面およそ130メートル地点)であったという遠藤の供述に信用性がなく、遠藤車とバスとの正確なすれ違い地点は、現場よりさらに新潟市方面の地点であったと認定した(すれ違い地点が現場よりいわき市方面であった点については、検察側すら争っていなかった[98])。この認定により判決は、バス運転手は生存中の被害者を目撃した後で遠藤車とすれ違い、その後に遠藤車は現場を通過したのであるから、遠藤のアリバイは成立しない、とした。
控訴審
一審の有罪判決に対し、弁護側は翌1983年1月6日に控訴趣意書を東京高裁へ提出した[101]。公判は同年4月19日に開始されたが[101]、弁護側はやはり起訴事実を全面的に争った。
控訴審で最大の争点となったのは、西会津派出所前での検問の記録についてであった。検問に立ち合った警官については、検察側と弁護側の双方から証人申請が求められていたが[102]、この警官は公判で、遠藤車の付着物を見落としたのは、暗い中を車体前面を中心に1、2分程度見分したのみであったためである、と述べた[103]。だが一方でこの警官は、検問を実施した際に遠藤車に後続車両はいなかった、とも証言している[85]。弁護側は検問時の状況について実地検証を求めたが、裁判所はこれを却下した[104]。
「検問表」ではなく原本の検問票を提出するよう求めた弁護側に対し、すでに3年の保存期間を過ぎたため検問票は廃棄処分された、と検察側は釈明した[102]。実際に検問票を作成した警官については、転勤のために出廷不能であるとされた[102]。だが、検察側はその代わりに検問票を「検問表」に書き写したという警官を証人として申請した[102]。裁判所はこれを受け入れ、さらに一審では認められていなかった「検問表」の証拠採用も認めている[105]。弁護側はこれに対し、伝聞証拠禁止の原則に反していると抗議したが、退けられた[105]。
また、一審判決で自身の鑑定が「右後輪のみによる轢過を前提としたもの」として退けられた点について、江守は7月に提出した鑑定補充書の中で、「鑑定結果は右前輪による轢過如何に影響を受けない」と反論した[106]。
控訴審判決
7回の公判を重ねた1984年4月12日が、控訴審判決の言渡し日とされた[101]。だが、その結果はやはり控訴棄却の有罪判決だった[25]。
主文本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
裁判長の山本茂が言渡したこの判決は、基本的には一審判決を追認するものであったが、以下の点では独自の認定を行っている。
江守から反論があった、右後輪付着物 (1, 2) についての発生経緯については、タイヤが被害者の顔面を皮膚を剥ぎ取りながら轢過し、その皮膚片がタイヤ側面に接触した結果生じた、とした。判決は、江守鑑定はタイヤが被害者の顔面上で横ずれした可能性を考慮していないと指摘し、路面に血のタイヤ痕が残されていない点についても、上のような発生経緯を取ったとすれば何ら不合理ではない、とした(これについて弁護側は、トラックのタイヤが横ずれを起こすことは人体のような軽量物を轢いた場合にはあり得ず、また左後輪には横ずれを起こした痕跡がない、と反論している[107])。右前輪周辺の毛髪様の物 (4) についても、一審とは異なり事件との関連を認めた。
これに加え、弁護側が後に「他に例をみない悪質極まる認定」[105]と批判したものに、「検問表」の作成者についてのものがある。公判で弁護側は、検問票を作成した本人が出廷できない状況での「検問表」は伝聞証拠に過ぎず、証拠能力を持たない、と主張していた(上記参照)。ところが判決は、「検問表」を書き写した警官について、その警官本人が「自分は検問に従事していない」と公判で証言していたにもかかわらず、「検問に従事して自ら検問票を作成した」と認定した[105]。さらに、判決文を遠藤に読み聞かせる際、裁判官はこの認定の部分を正確に朗読しなかった[105]。
30分に渡る判決文の朗読を終えた裁判官らが退廷しようとした時、遠藤は「裁判長! 裁判長が何と言おうと、私は轢いていないのです。私は……」と叫んだ[108]。だが、遠藤が言葉を終えないうちに、裁判官らは退廷した[108]。弁護側は直ちに上告を申立て、同年9月に上告趣意書を最高裁へ提出した[109]。
上告審
一審が始まってほどなく遠藤は職場を去り、裁判費用を捻出するために、高給を求めて職を渡り歩いた[110]。それでも足りずに親兄弟や金融機関へ借金を重ね、阿部の弁護活動も手弁当で行われた[111]。遠藤は公正判決を求める署名を集めるために全国を巡り、冤罪を訴える写真展も開かれた[112]。自鑑定を再三に渡って否定された江守も、右後輪の付着物について、1984年7月に提出した意見書において「物理法則に従って『残らない』と言うのであって、単に本鑑定人が個人的に『残らない』と考えたというのではない」「全く物理的に不可能なことであって、このような非科学的な推論がまかり通ることは許されない」として、激しい反発を示している[106]。
仕事を休めば収入がなく、支援要請に出掛ければ金がかかり、経済的には毎日毎日苦しい日が続いたのです。[中略] 死にたくなるほど何度も何度も悩み苦しんだのです。しかし、最高裁が残っている、信じてみようという気持ちが上告を決心し、また、この気持ちが現在まで裁判を闘ってきた最大の理由で、支えになっているのです。私も満三十一歳を過ぎ、人生の基礎ができていなければならない年代になりました。しかし、私には裁判しかないのです…… — 遠藤の最高裁宛上申書より[112]
やがて弁護側にも支援の声が集まり始め、当初は阿部一人であった弁護人は総勢約140人の大弁護団となった[113]。集まった署名の数も、1988年3月の時点で21万4122名に達した[113]。同月には最高裁が口頭弁論の開始を通告し、マスメディアの間にも、有罪判決が破棄差戻しされるとの見方が強まった[114]。
上告審判決
そして、事件から13年以上が経過した1989年4月21日、島谷六郎が指揮する最高裁第二小法廷により、上告審判決は言い渡された[1]。
主文原判決及び第一審判決を破棄する。
被告人は無罪。
それは、弁護側も支援者らも予想しなかった、極めてまれな破棄自判による無罪判決だった[115][注 15]。
- 遠藤の供述について
- 自車がバスとすれ違った地点は、電飾看板があった地点であるとの遠藤の供述は、現場に他に電飾看板と見誤るようなものが存在しないことからも、信用できる。さらに、その自供は右後輪のみによる轢過を推定させる内容であり、右側両輪による轢過とする各鑑定とは矛盾している。自供は取調官の誘導と遠藤の想像の産物である疑いが拭えない。
- 第一発見者の証言について
- 一審、控訴審判決は、第一発見者がすれ違ったトラックは一台のみであったという証言から、そのトラックを遠藤車と認定した。しかし、特に対向車線のトラックに注意を払っていたわけでもない第一発見者の証言にトラックが一台しか登場しないからといって、第一発見者が走行した2キロの区間でトラックが他にすれ違わなかったと断定することはできない。よって、遠藤車の後続車がひき逃げ車両である可能性は排除できない。
- 検問記録について
- 遠藤車の一台後のトラックが、車列に一切の変更のないまま検問所へ到着したとする一審、控訴審判決の認定は、現場から検問所までの区間に多数の脇道や駐車場があり、ひき逃げ車両がそれらを利用して車列を変更する、あるいは新潟市方面へ引き返すことが可能であるから、成り立たない。
- 血痕鑑定について
- 船尾鑑定は明快であり、むしろ一審、控訴審判決がそれの何を疑問としたのかが判然としない。桂鑑定については、反応までに48時間ないし72時間を要した点が、桂自身が謳う顕微沈降反応法の特長と矛盾しており、また仮に桂鑑定を採用したとしても、それは右後輪にピコグラム単位の極微量の血液が付着していることを示すに過ぎない。
- 工学鑑定について
- 一審判決は、江守鑑定を「機械工学的なものに偏りすぎている」として排斥したが、工学鑑定が機械工学的なのは当然である。井上鑑定および上山鑑定は江守鑑定に批判的であるが、説得的な論拠はない。よって、遠藤車の右後輪付着物を本件に由来する血痕と認めるには疑問が残る。
- 付着物の発見経緯について
- 検問が夜間に行われたために、19×20センチという大きな付着物も西会津派出所前で発見されなかった、との一審、控訴審判決の認定は首肯し難い。むしろ検問時に右後輪付着物は存在しなかった可能性も否定し切れない。また、警官らが遠藤の職場で付着物を発見しながら、即座に証拠保全もせず遠藤自身にトラックを岩沼署まで運ばせた、との一審、控訴審判決の認定は、それ自体不自然であると言わざるを得ない。
- その他の付着物について
- 遠藤車からの毛髪様付着物については、路面に毛髪が落ちているのはありふれたことなので、これを以てして遠藤車がひき逃げ車両であると推定させる力は強くない。ラジエーター周辺の布目痕についても、本件に関連するとは考えられない。
判決は個々の争点について上のように判示して、弁護側の主張をほぼ全面的に肯定した上で、「被告人を有罪とした第一審判決及びこれを是認した原判決は、それぞれ証拠の評価を誤り、判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認を犯したものといわざるをえず、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる」と結論した。
国賠訴訟
無罪判決が確定し、遠藤は442万5519円の刑事補償を受け取った[117]。だが、遠藤と弁護団は、この補償を全額注ぎ込んでの国家賠償請求訴訟を[117]、1991年1月7日に提起した[118]。1100万円の賠償を求めて[119]、遠藤と阿部を始めとする原告側が被告としたのは、国のみならず起訴検察官と一審、控訴審裁判官の計7個人であり、特に裁判官個人に対する提訴が行われた点では、極めて異色のものとなった[118][注 16]。そして原告側が何よりも問題視したのは、かつて遠藤に有罪判決を下した裁判官の中に、その後栄転した者が複数いるということだった[注 17]。
原告側の主張
裁判官の行為の違法性については、原告側証人として出廷した庭山が次のような主張を行っている。
まず、事件の様態については上山鑑定の「2回の轢過」という部分のみが採用され、「被害者がうつ伏せであった」との部分が対抗鑑定もなく無視されているが、これは証拠裁判主義に違反する(刑訴法第317条)[124]。ところが、「2回の轢過」を認定しながら、同時に判決は1回のみの轢過を示す遠藤の自供を証拠として認めており、理由齟齬を来たしている(刑訴法第378条第4項)[23]。また、第一発見者が目撃したトラックを「冷凍車のようではなかった」と述べている検面調書を、本人が不本意なものであると表明しているにもかかわらず証拠採用したのは、調書の任意性が否定されるので、自己矛盾供述の許容規定(刑訴法第321条第1項第2号)に当らない[125]。
検問記録については、上記のように伝聞証拠に過ぎない「検問表」が控訴審判決により証拠採用されたのは違法である(刑訴法第324条)。また、一審において立証がほぼ終了していた段階であったにもかかわらず、第26回公判での検察側補充立証の訴えを合理的な説明なく許容したのは、訴訟指揮権の濫用である[102]。控訴審判決が、付着物の発見時期について「被告人の員面調書には、職場で付着物が発見されていないとは明記されていない」と説明して職場での発見を認めたことは「推定有罪」の論理に他ならず、近代裁判の手法として許されるとは考えられない[99]。
そして何よりも、検察側との間にさえ争いのなかった遠藤車とバスのすれ違い地点に関して、裁判所が弁護側に抗弁する機会も与えずに、無断で「現場より新潟市方面の地点」へとずらしたのは不意打ち認定に他ならず、最高裁判例[126][127]にも違反する、明白な違法行為である(憲法第37条第2項)[128]。
庭山は、一審判決について「こういう判断をする裁判官はその職を退いてもらうほかないとさえ思う」と怒りを露わにし[129]、阿部もまた、控訴審裁判官が「検問表」作成者の立場を独自に認定したような、証人の立場を意図的に歪める行為は「もとより証拠の解釈などという問題ではない」、「司法権・裁判権を裁判官に付託した主権者の国民に対する重大な裏切り行為である」[105]と述べ、一審、控訴審判決は「結論を決めた行政処分のようなものであって、真の意味での裁判ではない」[130]と批判した。
国賠判決
だが、1996年3月19日に東京地裁裁判長の村田鋭治が言渡した判決は、国家賠償の実情について「画餅と化している」とまで批判しながら、原告側の主張をすべて退けるものだった[119]。
起訴検察官の賠償責任については、一審、控訴審と審理が重ねられてなお有罪判決が下された事実を考慮すれば、公訴の追行が違法であったとは言えない、とされた(検察官の責任については、その訴追裁量が極めて緩やかに設定されていることから、庭山も訴訟が成功するとは当初から考えていなかった[131])。裁判官の賠償責任については、判決はその責任が発生する基準を「普通の裁判官の少なくとも四分の三以上の裁判官が合理的に判断すれば、当時の証拠資料・情況の下では、到底そのような事実認定をしなかったであろうと考えられる」場合である、と設定した(どのように4分の3を超えたかを判断するかは不明[131])。そして、有罪判決は「『真犯人を見逃してはならない』との命題に近い立場から」自由心証主義の範囲内で下されたのであって、国家賠償法上の違法があったとまでは言えない、とされた。原告側が訴えた不意打ち認定の違法性については、触れられなかった[132]。検察官と裁判官の個人責任については、公務員が職務上与えた損害は個人が責を負わない、とする芦別事件国賠判例[133]を以て退けられた。
これについて庭山は、「『疑わしきは』の原則を守る姿勢がない」判決に対しては「問題を検討する意欲を失った」とまで述べている[134]。
原告側は判決を不服として控訴したが、2002年3月13日に東京高裁裁判長の雛形要松により控訴は棄却された[135]。原告側はさらに上告したが、2003年7月11日に梶谷玄が指揮する最高裁第二小法廷も上告を棄却し、遠藤の敗訴が確定した[136]。
脚注
注釈
- ^ ただし、後述するように被告人の罪状は業務上過失致死罪のみであり、道路交通法における負傷者救護義務違反は含まれていない。後の捜査や裁判でも、被告人に人を轢いた認識があったとは認められていないため、被告人に限って言えば、罪状は厳密にはひき「逃げ」ではない。
- ^ 阿部によれば、新潟地検で顔を合わせた公判立会担当検察官(起訴検察官とは別人)も「この事件はおかしい」と漏らしていたという(この検察官は翌年に一審結審を待たずして転任している)[36]。
- ^ 血痕検査の手順には、
- まず対象の状態を観察する肉眼的検査
- 次にそれが血液らしきものであるかを判定する血液予備試験
- 次にそれが血液であるかを判定する血液本試験
- 次にそれが人血であるかを判定する人血鑑定
- そして血液型鑑定
- ^ 生理食塩水から作成した試料の浸出液とヒト血成分の抗体を、試験管内で重層させ、境界面に白色の条が現れるかを観察する試験[63]。1902年にイタリアのマウリツィオ・アスコリ (it) によって報告された[64]。
- ^ マラカイトグリーンの還元型であるロイコ(無色)マラカイトを過酸化水素と混合させ、ヘモグロビンの触媒作用によって再度緑変させる検査法[65]。反応特異性は比較的高いが、血液以外にも銅とその合金にも反応する[65]。1904年にドイツのオスカー・アドラーらによって報告された[65]。
- ^ 凝血因子であるフィブリンを、霊長類の血液の特異成分であるプラスミノーゲンプロアクチベータによって間接的に溶解させる検査法[66]。デンマークのテーイ・アストロプにより報告された[66]。
- ^ ベンチジン反応は、鋭敏度においては本件の他の予備試験法と比べても随一であるが、反面特異性が低く、各種金属化合物や果汁などでも陽性反応をみる[65]。1904年にアドラーらによって報告された[65]。
- ^ 当時の一般的な人血試験法であり[1]、沈降反応重層法と同じもの[64]。
- ^ 機序としてはロイコマラカイト緑反応とほぼ同じであり、鋭敏度と特異性もほぼ同程度の試験[67]。
- ^ ルミノールのアルカリ溶液と過酸化水素水の混合溶液は、血液の特異成分であるヘモグロビン誘導体、ヘミンに対して強い化学発光を起こす[68]。鋭敏度はやはりロイコマラカイト緑反応と同程度であるが、ヘミンと反応せずとも試薬自体がわずかに発光する場合もあり、多用すると試料が変質し後続検査が不可能になるなどの欠点もある[68]。1936年にドイツのカール・グルーとカール・プファンスティールにより報告された[68]。
- ^ アガロースゾルとヒト血成分の抗体を混和し、ガラス枠でプレパラート状にしたものを光学顕微鏡で観察して、沈降反応を見る試験[69]。桂当人によって1964年に報告された[70]。
- ^ なお、津川署は1993年に当時の場所から移転している[78]。
- ^
国賠訴訟支援団体の代表を務める交通ジャーナリストの今井亮一は[90]、この「冷凍車」が米軍基地へ乳製品を運搬するトラックであり、それに対する政治的配慮から捜査の手が及ばなかったのだと推測している[91]。今井はその後も支援団体のサイト上で、「冷凍車」の運転手に対して、名乗り出るよう呼びかけを続けている[92]。
- ^ 第一発見者に関しては、そもそも被害者の遺体を最初に目撃したのは上記の人物ではない、との主張もある。支援者らの調査によると、事件当夜に現場をまず新潟市方面へ通過し、津川駅から再度いわき市方面へ通過したタクシーの運転手が、その2度目の通過時に路上で血を流して倒れている被害者を目撃していたという(このタクシー運転手は、路肩に停車して警察へ通報していた本来の第一発見者の姿を見ていない)[95]。タクシー運転手は、現場を1度目に何事もなく通過してからは、津川駅まで車とはすれ違わなかった[96]。そして、2度目に現場を通過した後に、荷台にシートを被せた平ボディの4トントラックに追いついたのだと語っている(事件当時の遠藤車には、シートは被せられていない)[96]。このタクシー運転手は、警察の事情聴取を受けて調書も取られたとされるが、開示された資料の中にその記録はない[95]。
- ^ 1980年から1993年までの14年間に最高裁で裁かれた刑事被告人2万4193人のうち、破棄自判により無罪判決を受けた者は16人、割合にしておよそ0.066パーセントである[116]。
- ^ このうち、控訴審裁判長の山本茂に対する訴訟は、山本が1991年12月に死去したため取り下げられた[119]。
- ^ 一審右陪席の若原正樹は、最高裁での逆転無罪判決後に司法研修所教官として若手裁判官の育成に当たり、その後も大阪高裁、東京高裁の各裁判長を歴任した[120]。同じく一審左陪席の出田孝一は、無罪判決の際も最高裁調査官の職に留任し、最終的に高松高裁の長官までなった[121]。一審裁判長の宮嶋英世、控訴審裁判長の山本茂、控訴審右陪席の篠原昭雄らも、退官後は裁判官の「論功行賞」とも称される[43]公証人に任命されている[122]。なお、1992年に司法研修所検察教官室が編纂した論文集『無罪事件に学ぶ 捜査実務の基本』の中でも、この事件は「推奨されるべき」「精緻な捜査」が行われた例として称賛されている[123]。
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参考文献
書籍
- 浅田和茂『科学捜査と刑事鑑定』有斐閣〈大阪市立大学法学叢書 (44)〉、1994年。ISBN 978-4641041356。
- 阿部泰雄 著「三つの轢逃げ無罪事件と刑事鑑定」、井戸田侃ほか編 編『竹澤哲夫先生古稀祝賀記念論文集 誤判の防止と救済』現代人文社、1998年、371-398頁。ISBN 978-4906531547。
- 阿部泰雄 著「体験的誤判原因論 - 刑事司法の担い手とシステムに注目して」、小田中聰樹ほか編 編『渡部保夫先生古稀記念論文集 誤判救済と刑事司法の課題』日本評論社、2000年、11-36頁。ISBN 978-4535512207。
- 飯室勝彦『裁判をみる眼』現代書館、1993年。ISBN 978-4768466315。
- 伊佐千尋『目撃証人』文藝春秋、1990年。ISBN 978-4163442303。
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- 遠藤祐一、阿部泰雄 著「ひき逃げ事件の捜査と裁判〜遠藤事件を検証」、伊藤真の司法試験塾・法学館編 編『明日の法律家へ』 VI 市民のための司法を、日本評論社、2001年、71-91頁。ISBN 978-4535512757。
- 木村康『血痕鑑定』中央公論社〈中公新書 654〉、1982年。ISBN 978-4121006547。
- 佐藤友之『ねらわれたドライバー - キミも逮捕される』青峰社、1986年。ISBN 978-4795274068。
- 庭山英雄「遠藤事件の誤判原因に関する一考察」『吉川経夫先生古稀祝賀論文集 刑事法学の歴史と課題』澤登俊雄、光藤景皎刊行発起(代表)、法律文化社、1994年、471-485頁。ISBN 978-4589018120。
- 庭山英雄 著「再論・最高裁破棄無罪事例」、光藤景皎編 編『事実誤認と救済』成文堂、1997年、161-186頁。ISBN 978-4792314545。
- 矢貫隆『ドキュメント交通事件』恒友出版〈ノンフィクションブックス〉、1988年。ISBN 978-4765280426。
- 全裁判官経歴総覧編集委員会編 編『全裁判官経歴総覧』(第五版 期別異動一覧編)公人社、2010年(原著1987年)。ISBN 978-4861620720。
- 司法研修所検察教官室編 編『無罪事件に学ぶ 捜査実務の基本』令文社、1992年。 NCID BN08735764。
雑誌
- 桂秀策「遠藤事件ならびに再審無罪三大事件における血痕鑑定の問題点 - 誤審を防ぐには、法医学の立場から」『法医学の実際と研究』第34号、法医学談話会、1991年12月、319-327頁、NAID 50007798238。
- 桂秀策ほか「少量ないし微量血痕からの輪環試験と顕微沈降反応法による人血証明の比較研究」『日本法医学雑誌』第35巻第6号、日本法医学会、1981年12月、422-431頁、ISSN 00471887、NAID 40003039376。
- 庭山英雄「遠藤事件の事実認定における法的問題点」『専修法学論集』第64号、専修大学法学会、1995年7月、45-63頁、ISSN 03865800、NAID 40002211808。
- 庭山英雄「遠藤事件国賠訴訟第一審判決批判」『専修法学論集』第68号、専修大学法学会、1996年11月、25-39頁、ISSN 03865800、NAID 40002211952。
- 和田兌「『轢き逃げ』冤罪事件の最高裁逆転無罪 - 『遠藤事件』をふり返って」『技術と人間』第18巻第7号、技術と人間、1989年7月、54-61頁、ISSN 02855186、NAID 40000630528。
外部リンク
- 裁判官を裁く - 遠藤国家賠償訴訟を支援する会
- 宗岡嗣郎「餅を描く判事 - 遠藤国賠事件に即して」(PDF)『久留米大学法学』第42号、久留米大学法学会、2001年12月、89-113頁、ISSN 09150463、NAID 110007176424。
座標: 北緯37度41分0.2秒 東経139度27分11.1秒 / 北緯37.683389度 東経139.453083度