津川城
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津川城 (新潟県) |
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| 通称 | 狐戻城、麒麟山城 |
| 城郭構造 | 平山城 |
| 築城主 | 藤倉盛弘 |
| 築城年 | 1252年 |
| 主な城主 | 金上氏 |
| 廃城年 | 1627年 |
| 遺構 | 曲輪、土塁、堀切、竪堀、石垣、井戸 |
| 指定文化財 | なし |
津川城(つがわじょう)は、現在の新潟県東蒲原郡阿賀町にあった城。
[編集] 歴史
以降代々金上氏の居城となり、戦国時代には会津の越後への進出口として、蘆名氏の隣国への勢力拡張の拠点となり、度々上杉氏と争っている。
上杉謙信の急死により勃発した御館の乱で、城主の金上盛備は蘆名盛氏の命を受けて越後国蒲原郡に上杉景虎方として侵攻している。
天正9年(1581年)に勃発した新発田重家の乱においては、上杉景勝は蘆名盛隆が新発田重家に加勢しないように林泉寺の住持・宗鶴を会津に派遣。盛備にも誓書を求めた。盛備は表面上中立を保ったが重家を援助していた。やがてそれが発覚すると、景勝は1万騎の大軍を従え新発田城に侵攻。蘆名氏の援助を断つため赤谷城攻撃に向かった。盛備は援軍として向かうが敗北、赤谷城は落城し続いて新発田城も落城。乱は鎮圧された。
その後盛備は摺上原の戦いで戦死。蘆名氏は滅亡し、天正18年(1590年)、会津に蒲生氏郷が入封すると、津川城には北川平左衛門が、景勝の会津移封後は藤田信吉が城主となったが、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600年)、徳川家康に通じて脱国。鮎川帯刀が城主となった。
江戸時代になり会津に蒲生秀行が入封すると岡重政が城主となったが後に改易、寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津に入封した際に、幕府の命令により廃城となった。