筑前国

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筑前国

-筑前国
-西海道
別称 筑州(ちくしゅう)[1]
所属 西海道
相当領域 福岡県西部
諸元
国力 上国
距離 遠国
15郡102郷
国内主要施設
筑前国府 (推定)福岡県太宰府市
筑前国分寺 福岡県太宰府市(筑前国分寺跡
筑前国分尼寺 福岡県太宰府市
一宮 住吉神社(福岡県福岡市
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筑前国(ちくぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。

沿革

筑紫つくしのくに)の分割によって、筑後国とともに7世紀末までに成立した。7世紀後半のものと見られる太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡に「竺志前國」とある。

近世以降の沿革

国内の施設

全ての座標を示した地図 - OSM
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筑前国内に設けられた天皇の宮は次の通り。

大宰府

大宰府政庁跡(太宰府市観世音寺)

筑前国には大宰府が置かれ、西海道諸国の統括と対外交渉が行われた。政庁跡は太宰府市に所在(国の特別史跡、北緯33度30分52.34秒 東経130度30分54.52秒)。発掘調査により、7世紀後半から11世紀後半にわたる遺構が検出されている。

国府

国府御笠郡にあった。現在の太宰府市、大宰府に近い所に置かれたと推定されるが、遺構は見つかっていない。

易林本の『節用集』には、「上座郡に国府並びに大宰」と記載されている。

国分寺・国分尼寺

国分寺・国分尼寺の周辺では、瓦窯の遺構も見つかっている(国分瓦窯跡、国の史跡)。

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社16座8社・小社3座3社の計19座10社が記載されている(「筑前国の式内社一覧」参照)。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[4]

中世末期以降は筥崎宮(福岡市東区箱崎)を一宮とする史料も見られ、現在は筥崎宮も全国一の宮会に加盟する。二宮以下は不詳。

安国寺利生塔

  • 景福安国寺 - 福岡県嘉麻市下山田。

地域

15郡

  • 安佐久良/朝座郡(あさくらぐん)。延喜式までに上座郡と下座郡に分割。

江戸時代の藩

人物

国司

筑前守

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国時代

戦国大名

  • 少弐氏:平安以来の名門だが、戦国時代には周防の大内氏の侵攻を受け、肥前に後退する。1559年、家臣であった龍造寺氏に攻められ滅亡。
  • 大内氏:周防を本拠とし、豊前も領国としていたが、応仁の乱後に筑前にも進出、豊後の大友氏と戦いを繰り広げた。
  • 大友氏:豊後を本拠とするが、大内氏滅亡後、筑前国内の大内領を自領に組み入れ、1559年には筑前守護となった。龍造寺、島津に敗北後、衰退に向かい筑前への影響力も失った。
  • 秋月氏:少弐氏、大内氏、大友氏と主家を変えたが、戦国末期には島津氏と結んで大友氏に対抗し、筑前・筑後・豊前に推定36万石の所領を得た。豊臣秀吉の九州征伐に敗北、日向国高鍋に移封された。
  • 宗像氏:宗像大社大宮司。有力な水軍を有していた。秀吉の九州征伐直前に滅亡。

豊臣政権の大名

武家官位としての筑前守

江戸時代以前

  馬場信光

江戸時代

筑前国の合戦

脚注

  1. ^ 別称「筑州」は、筑後国とあわせて、または単独での呼称。
  2. ^ 藩庁は那賀郡。
  3. ^ 藩庁は夜須郡。
  4. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 576-578。

参考文献

外部リンク

関連項目