玉の海正洋
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基礎情報 | ||||
四股名 | 玉の海 正洋 | |||
本名 | 谷口 正夫 | |||
生年月日 | 1944年2月5日 | |||
没年月日 | 1971年10月11日(現役中) | |||
出身 |
愛知県宝飯郡蒲郡町 (現・蒲郡市) | |||
身長 | 177cm | |||
体重 | 130kg | |||
所属部屋 | 二所ノ関部屋-片男波部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 現役逝 | |||
最高位 | 第51代横綱 | |||
生涯戦歴 | 619勝305敗 | |||
幕内戦歴 |
469勝221敗 勝率.680 (46場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝6回 | |||
賞 |
殊勲賞4回 敢闘賞2回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1959年3月場所 | |||
入幕 | 1964年3月場所 | |||
引退 | 1971年9月場所 | |||
備考 | ||||
金星4個(栃ノ海2個、佐田の山2個) | ||||
2008年6月29日現在 |
玉の海 正洋(たまのうみ まさひろ、1944年(昭和19年)2月5日 - 1971年(昭和46年)10月11日)は、大相撲の第51代横綱。愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の蒲郡市)出身。身長177cm、体重130kg。
来歴
1944年2月5日大阪府大阪市に生まれる。本名善竹→谷口→竹内→谷口正夫。血液型はAB型。
大相撲入門
大阪大空襲で焼け出されて蒲郡に疎開、蒲郡市立蒲郡中学校(元前頭筆頭和晃の1年後輩)時代は柔道で鳴らし、警察官になることを目指していたが玉乃海に勧誘され、二所ノ関部屋に入門、1959年3月場所初土俵。四股名は玉乃嶋。
幕下時代に片男波(玉乃海)の独立騒動が起きた時は片男波について行くことを選んだ。独立が承認された時も、玉乃嶋の素質を高く評価していた二所ノ関からはどうにか連れて行かず残してほしいと言われたこともあるという。
1963年9月場所新十両、1964年3月場所新入幕、翌場所玉乃島と改名。
出世街道
系統別から部屋別総当たり制となった1965年1月場所初日には初対戦となった同門の横綱でありかつての兄弟子だった大鵬を破った。この一番が部屋別総当たり制の定着を決定づけたともいわれる。また、大関昇進までに栃ノ海、佐田の山から2つずつ金星を獲得した。1966年9月場所11勝4敗で場所後大関に昇進した。その後1968年5月場所の初優勝のときには横綱昇進も期待されたが、横綱審議委員会が相撲協会からの諮問に反対、昇進を見送られた。その後も最大の壁であった大鵬になかなか勝つことができず、このため昇進は遅れた。1969年9月場所に2度目の優勝、1970年1月場所で13勝を挙げ北の富士と優勝決定戦、敗退したが場所後2人揃って横綱に推挙され(横綱審議委員会の評価は玉の海の方が上だった)、「北玉時代」の到来といわれた。横綱昇進の際のエピソードは二つ伝わるが、いずれも人柄をしのばせるものである。横綱土俵入りは不知火型を選んだ。土俵入りの指導は二所ノ関一門の先輩でもある大鵬が務めた。性格が正反対の北の富士とは親友であった。
横綱
新横綱となった1970年3月場所から師匠である片男波の現役時代の四股名である『玉の海』の名を継いで玉の海正洋と改めた。3代目の玉の海である。
横綱昇進以後、横綱3場所目(1970年7月場所)で9勝6敗の他は毎場所優勝を争い12勝3敗さえ2場所のみ、1970年9月場所から4場所連続14勝、このうち3度優勝している。大鵬とは連続して14勝1敗同士の決定戦を行い、大鵬最後の優勝(通算32回目)を許した1971年1月場所には「なんのこれしき。弱いから負けるんだ」と再起を誓った。地元名古屋での7月場所には夢の全勝優勝を果たし、多くの識者から「まもなく北玉時代から、玉の海独走時代になる」と期待された。
玉の海 横綱時代の戦績詳細
玉の海の横綱時代の戦績詳細を、下記に記す。また、同時代に横綱を張った北の富士、大鵬の成績も併せて記す。
場所 | 玉の海成績 (地位) |
北の富士成績 (地位) |
大鵬成績 (地位) |
優勝力士 | 備考 |
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1970年3月場所 | 13勝2敗(西横綱) | 13勝2敗(東横綱) | 14勝1敗(東張出横綱) | 大鵬 | |
1970年5月場所 | 12勝3敗(東張出横綱) | 14勝1敗(西横綱) | 12勝3敗(東横綱) | 北の富士 | |
1970年7月場所 | 9勝6敗(東張出横綱) | 13勝2敗(東横綱) | 2勝2敗11休(西横綱) | 北の富士 | |
1970年9月場所 | 14勝1敗(西横綱) | 11勝4敗(東横綱) | 12勝3敗(東張出横綱) | 玉の海 | |
1970年11月場所 | 14勝1敗(東横綱) | 11勝4敗(東張出横綱) | 14勝1敗(西横綱) | 玉の海 | 千秋楽玉の海全勝、大鵬1敗で対戦し敗退。優勝決定戦で大鵬に勝利。 |
1971年1月場所 | 14勝1敗(東横綱) | 11勝4敗(東張出横綱) | 14勝1敗(西横綱) | 大鵬 | 千秋楽玉の海全勝、大鵬1敗で対戦し敗退。優勝決定戦も大鵬に敗退。 |
1971年3月場所 | 14勝1敗(東横綱) | 11勝4敗(東張出横綱) | 12勝3敗(西横綱) | 玉の海 | 千秋楽玉の海1敗、大鵬2敗で対戦し勝利。 |
1971年5月場所 | 13勝2敗(東横綱) | 15勝0敗(東張出横綱) | 3勝3敗(西横綱)(引退) | 北の富士 | 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦で敗退。 |
1971年7月場所 | 15勝0敗(西横綱) | 8勝7敗(東横綱) | - | 玉の海 | |
1971年9月場所 | 12勝3敗(東横綱) | 15勝0敗(西横綱) | - | 北の富士 |
- 在位10場所間、13勝以上を7場所記録。
- 1970年9月場所~1971年7月場所間、連続6場所勝利数84勝を記録。
- 1970年9月場所~1971年1月場所まで、3場所連続初日から14連勝を記録。
- 1970年11月場所~1971年5月場所まで、4場所連続優勝圏内千秋楽結びの一番出場(対戦相手 大鵬3回、北の富士1回)。
北玉 全対戦一覧
北玉両雄の対戦は、1964年5月場所~1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 北の富士勝敗 (通算成績) |
玉の海勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
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1964年5月場所 | 13千秋楽 | ●(0) | ○(1) | 栃ノ海 | 初対戦 |
1964年7月場所 | - | - | - | 富士錦 | 対戦なし。 |
1964年9月場所 | 7日目 | ●(0) | ○(2) | 大鵬 | |
1964年11月場所 | 4日目 | ○(1) | ●(2) | 大鵬 | |
1965年1月場所 | 14日目 | ○(2) | ●(2) | 佐田の山 | |
1965年3月場所 | 13日目 | ●(2) | ○(3) | 大鵬 | |
1965年5月場所 | 8日目 | ○(3) | ●(3) | 佐田の山 | |
1965年7月場所 | 11日目 | ○(4) | ●(3) | 大鵬 | |
1965年9月場所 | 3日目 | ●(4) | ○(4) | 柏戸 | |
1965年11月場所 | 9日目 | ●(4) | ○(5) | 大鵬 | |
1966年1月場所 | - | - | - | 柏戸 | 対戦なし。 |
1966年3月場所 | 2日目 | ●(4) | ○(6) | 大鵬 | |
1966年5月場所 | 14日目 | ●(4) | ○(7) | 大鵬 | |
1966年7月場所 | 千秋楽 | ○(5) | ●(7) | 大鵬 | |
1966年9月場所 | 千秋楽 | ●(5) | ○(8) | 大鵬 | 北の富士新大関 |
1966年11月場所 | 11日目 | ●(5) | ○(9) | 大鵬 | 玉の海(当時玉乃島)新大関 |
1967年1月場所 | 11日目 | ○(6) | ●(9) | 大鵬 | |
1967年3月場所 | 10日目 | ○(7) | ●(9) | 北の富士(1) | |
1967年5月場所 | 12日目 | ○(8) | ●(9) | 大鵬 | |
1967年7月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(9) | 柏戸 | |
1967年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(9) | 大鵬 | |
1967年11月場所 | 11日目 | ●(10) | ○(10) | 佐田の山 | |
1968年1月場所 | 11日目 | ●(10) | ○(11) | 佐田の山 | |
1968年3月場所 | 13日目 | ●(10) | ○(12) | 若浪 | |
1968年5月場所 | 13日目 | ●(10) | ○(13) | 玉の海(当時玉乃島)(1) | |
1968年7月場所 | 12日目 | ○(11) | ●(13) | 琴桜 | |
1968年9月場所 | 10日目 | ●(11) | ○(14) | 大鵬 | |
1968年11月場所 | 千秋楽 | ○(12) | ●(14) | 大鵬 | |
1969年1月場所 | 千秋楽 | ○(13) | ●(14) | 大鵬 | |
1969年3月場所 | 12日目 | ●(13) | ○(15) | 琴桜 | |
1969年5月場所 | 10日目 | ○(14) | ●(15) | 大鵬 | |
1969年7月場所 | 10日目 | ○(15) | ●(15) | 清国 | |
1969年9月場所 | 11日目 | ●(15) | ○(16) | 玉の海(当時玉乃島)(2) | |
1969年11月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(16) | 北の富士(2) | |
1970年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(17) | 北の富士(3) | 千秋楽北の富士1敗、玉の海(当時玉乃島)2敗で対戦 優勝決定戦は北の富士勝利。 |
1970年3月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(17) | 大鵬 | 北玉両者新横綱 |
1970年5月場所 | 13日目 | ○(18) | ●(17) | 北の富士(4) | |
1970年7月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(17) | 北の富士(5) | |
1970年9月場所 | 千秋楽 | ○(20) | ●(17) | 玉の海(3) | 玉の海全勝を千秋楽に阻止される |
1970年11月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(18) | 玉の海(4) | |
1971年1月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(19) | 大鵬 | |
1971年3月場所 | 13日目 | ●(20) | ○(20) | 玉の海(5) | |
1971年5月場所 | 千秋楽 | ○(21) | ●(20) | 北の富士(6) | 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦 |
1971年7月場所 | 千秋楽 | ●(21) | ○(21) | 玉の海(6) | |
1971年9月場所 | 千秋楽 | ○(22) | ●(21) | 北の富士(7) |
- 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗。
突然の悲劇
玉の海は全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に虫垂炎に罹患し、夏巡業を途中で休場するなど容態が芳しくなく、早急な手術が必要な状態だった。しかし横綱としての責任感と、同年9月場所後には大鵬の引退相撲も控えており、手術して本場所を休場すれば大鵬の引退相撲にも出場できなくなる為、虫垂炎の痛みを薬で散らし続けながら9月場所に強行出場した。この場所は肋骨を折るアクシデントもあったにも関わらず、12勝を挙げた。しかしこれが結果として、玉の海の生命をも縮める事にも繋がってしまった。
10月2日の大鵬引退相撲では、大鵬最後の横綱土俵入りで太刀持ちを務め、翌3日の淺瀬川引退相撲にも出場した。その後直ちに東京都港区の虎の門病院に入院し、虫垂炎の緊急手術を受けたが、腹膜炎寸前の危険な状態だったという。その時点での手術後の経過は順調で、10月12日にも退院する予定であった。なお11月場所の出場に関しては未定であったこともあり、本人も「退院後すぐに相撲は取れないが、(巡業先では)土俵下から挨拶でもしよう」と親しい人たちには伝えていたという。
ところが退院前日の10月11日朝、起床してトイレ後に洗顔を終えベッドに戻ったところ、突然「苦しい」と右胸部の激痛を訴えその場に倒れた。その時既にチアノーゼ反応が起きており、顔は真っ青だったという。意識不明の状態で急ぎ医師団の懸命な治療が行われたが、一時は快方しかけたもののその甲斐もなく、午前11時30分に死亡が確認された。27歳没。
玉の海の直接の死因は、虫垂炎手術後に併発した急性冠症候群(右肺動脈幹血栓症、現在の言い方では術後の肺血栓)であった。玉の海のような力士体型(肥満体)の人間が、手術後に血栓症を発症しやすいのは現代では常識であるが、その当時はまだあまり知られておらず、十分な予防策も取られていなかったものと考えられる。これから全盛期を迎えようとするのは確実だったため、誰もがその死を惜しんだ。
最大のライバルであり親友でもあった北の富士は、巡業先の岐阜県羽島市で「玉の海関が亡くなりましたよ」との一報を聞いた時、当初「解説の玉の海さんが亡くなったのか?」と思ったと云い、現役横綱の玉の海関のことだと伝えても「ふざけるのもいい加減にしろ!」と立腹、全く信じなかったと言う。しかしその後、本当に亡くなった人物が当の横綱玉の海であるという事実が判った時、「むごい…シマちゃん(玉の海の愛称)があまりにも可哀想だ」とその場で人目憚らず号泣した。
逝去当時、玉の海の死に顔を見た人達は皆口を揃えて「無念の形相だった」と答えている。ある付き人が納棺された肩幅の広い(これが最大の武器で、相手に上手を与えなかった)玉の海を見て「横綱、窮屈そうだな」と言い、皆涙が止まらなかった。ちなみに玉の海は、二所ノ関一門を育てた横綱玉錦(二枚鑑札で二所ノ関親方と現役力士を兼摂していた)の孫弟子に当たるが、奇しくも二人共に現役横綱として、しかも虫垂炎の悪化が原因で急逝した。
玉の海は自分の死を予感していたとも言われる。死の前日の10月10日、片男波部屋の女将(玉乃海大三郎夫人)が見舞いに来た際「昨日突然心臓が痛み出し、死ぬかと思いましたよ」とポツリと述べたそうである。また大鵬の引退相撲の際、二所ノ関一門の大関大麒麟(二所ノ関部屋)や琴櫻(佐渡ヶ嶽部屋)に「もし俺がいなくなったら、お前ら後を頼むぞ」との台詞まで言っていた事を、何人かの力士が証言している。
惜しまれる玉の海の死
玉の海の突然の死に周囲の人たちは狼狽し、ショックを隠し切れなかった。片男波部屋に手形が1枚もなかったので、師匠の片男波親方が彼の死後、後援会に頼んでかつて贈呈したものを返してもらわざるをえなかったほどである。
玉の海は体重、上背はそれほどなかったが、反り腰の強さと右四つの型の完成度は双葉山の再来とさえ言われ、投げ技も豪快だった。寄りながらサッと吊り上げる吊り出しの技術は相撲史上最高との評価もあった。欠点は脇の甘さで、大鵬・北の富士・長谷川・栃東ら、左四つで前捌きの上手い相手には差し負けることが多かったが、横綱昇進後は左四つでも廻しを取れば下位に負けることはほとんどなくなった。高くまっすぐ上がる四股の美しさも類を見ないものであった。
横綱10場所の成績は130勝20敗、1場所平均13勝2敗という恐るべき成績である。特に1970年9月場所以降に限っては96勝9敗、勝率は9割1分4厘に跳ね上がる。横綱在位中の勝率8割6分7厘は昭和以降では双葉山に次ぐ第2位、戦後ではもちろん1位[1]であり、その相撲の完成形を見ることができなかったのは今思えば当時考えられた以上に大きな損失だったのである。さらに生涯最後となった1971年9月場所では通算(幕内)連続勝ち越しが27場所におよび、当時玉錦の26場所を超える新記録を達成していた(現在は歴代6位[2])。横綱昇進後与えた金星はわずかに3個(福の花2、藤ノ川)、中日(8日目)までの7日間に黒星を喫することは滅多に無かった。さらに1970年9月場所から1971年7月場所にかけて、「6場所連続幕内中日勝ち越し」という記録も達成した[3]。
また、先代の玉乃海である片男波は彼に対しては特に厳しく指導したとされるが、これを指摘されても「将来は横綱になる逸材だからこそ、緩めることはできない」と答えたという。この指導方法は玉の海の強力な壁となった大鵬の育てられ方(大関になっても容赦なく師匠から殴られたという)と同質のものであった。初代玉ノ海の玉の海梅吉はNHKの大相撲中継で玉の海を褒めることがしばしば(放言とされかねない発言さえも笑っていた)であった。その素材が早くから認められていた証拠と言える。
真の意味での大成を見ることなく亡くなった玉の海ではあるが、そのことは全く評価を損ねていない。玉ノ洋は13代片男波(=後輩の玉ノ富士)の命によって若名乗りの玉乃島の名を継承し、玉乃島新と名乗って関脇まで昇進した。偉大さが知れるエピソードである。
エピソード
龍虎と並んでジャージを着用した力士のはしりとも言われる。ただ玉の海は独自の調整法であるランニングの為に着ていた。1971年1月場所千秋楽の深夜、怪我で途中休場していた若き日の貴ノ花は打ち上げで呑んだくれて帰宅途中、ジャージ姿で走っている玉の海を目撃して我に返ったという。この日、玉の海は大鵬との本割り、決定戦に連敗して全勝優勝どころか優勝まで逃したばかりだった[4]。
玉の海は現役当時、ボウリングが大好きで、死去の直前には当時の人気女子プロボウラーとの婚約話も進んでいたと言われている。
主な成績
通算成績
- 通算成績:619勝305敗
- 幕内成績:469勝221敗 勝率.680
- 横綱成績:130勝20敗 勝率.867
- 幕内在位:46場所
- 横綱在位:10場所
- 大関在位:20場所
- 三役在位:6場所(関脇4場所、小結2場所)
- 年間最多勝:1968年(69勝21敗)、1970年(75勝15敗・北の富士と同数)
- 連勝記録:19(1970年7月場所初日~1970年9月場所4日目)
- 連続6場所勝利:84勝(1970年9月場所~1971年7月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:27場所(当時1位・現在歴代6位、1967年5月場所~1971年9月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:9場所(1967年11月場所~1969年3月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:7場所(当時2位タイ・現在歴代6位、1970年9月場所~1971年9月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:6回(全勝1回)
- 同点 2回
- 次点 9回
- 序二段優勝:1回(1959年7月場所)
三賞・金星
- 三賞:6回
- 殊勲賞4回(1965年3月場所・5月場所、1966年7月場所・9月場所)
- 敢闘賞2回(1966年1月場所・5月場所)
- 金星:4個(栃ノ海2個、佐田の山2個)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1959年 (昭和34年) |
x | (前相撲) | 西序ノ口27枚目 6–2 |
西序二段105枚目 優勝 8–0 |
東三段目104枚目 5–3 |
西三段目72枚目 4–4 |
1960年 (昭和35年) |
西三段目71枚目 4–4 |
東三段目61枚目 5–3 |
西三段目40枚目 6–2 |
西三段目9枚目 3–4 |
西三段目19枚目 6–1 |
西幕下77枚目 4–3 |
1961年 (昭和36年) |
東幕下70枚目 5–2 |
東幕下48枚目 6–1 |
東幕下22枚目 4–3 |
東幕下20枚目 5–2 |
東幕下14枚目 3–4 |
西幕下18枚目 4–3 |
1962年 (昭和37年) |
東幕下17枚目 4–3 |
東幕下15枚目 4–3 |
西幕下11枚目 4–3 |
西幕下8枚目 1–6 |
東幕下27枚目 4–3 |
西幕下22枚目 3–4 |
1963年 (昭和38年) |
西幕下25枚目 6–1 |
西幕下14枚目 4–3 |
東幕下12枚目 6–1 |
東幕下4枚目 5–1 |
東十両18枚目 9–6 |
西十両15枚目 10–5 |
1964年 (昭和39年) |
西十両4枚目 11–4 |
東前頭15枚目 9–6 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭6枚目 8–7 |
西前頭4枚目 8–7 |
西前頭筆頭 9–6 |
1965年 (昭和40年) |
東小結 5–10 |
東前頭3枚目 9–6 殊★★ |
西小結 8–7 殊 |
西関脇 6–9 |
西前頭筆頭 7–8 ★ |
西前頭2枚目 4–11 |
1966年 (昭和41年) |
西前頭8枚目 13–2 敢 |
東前頭筆頭 9–6 ★ |
西関脇 10–5 敢 |
西関脇 9–6 殊 |
東関脇 11–4 殊 |
西大関 9–6 |
1967年 (昭和42年) |
西大関 9–6 |
西大関 7–8 |
西大関 8–7 |
東大関 9–6 |
西大関 9–6 |
西大関 11–4 |
1968年 (昭和43年) |
東大関 12–3 |
東大関 12–3 |
東大関 13–2 |
東大関 10–5 |
西大関 10–5 |
東大関 12–3 |
1969年 (昭和44年) |
東大関 12–3 |
東大関 10–5 |
西大関 8–7 |
西大関 9–6 |
西大関 13–2 |
東大関 10–5 |
1970年 (昭和45年) |
西大関 13–2[5] |
西横綱 13–2 |
東横綱 12–3 |
東横綱 9–6 |
西横綱 14–1 |
東横綱 14–1[6] |
1971年 (昭和46年) |
東横綱 14–1[6] |
東横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
西横綱 15–0 |
東横綱 12–3 | 引退 ––[7] |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
関連項目
脚注
外部リンク
- 関取名鑑 玉の海正洋(大相撲 記録の玉手箱より)