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満洲民族

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満洲民族

ヌルハチホンタイジ康熙帝雍正帝
乾隆帝西太后光緒帝愛新覚羅溥儀
ドルゴンオボイ和珅愛新覚羅溥傑
川島芳子老舍ロザムンド・クワン郎朗
総人口
10,700,000
全人類の0.15%
(見積)
居住地域
中華人民共和国の旗 中国10,682,263[1]
香港の旗 香港N/A
マカオの旗 マカオN/A
中華民国の旗台湾12,000[2]
アメリカ合衆国の旗 アメリカN/A
カナダの旗 カナダN/A
日本の旗 日本N/A

満州民族満洲民族、マンジュみんぞく)、満州族満洲族、マンジュうぞく)は、満洲中国東北部沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配するを興した。同系のツングース民族にオロチョンウィルタナナイエヴェンキシボがある。中国の少数民族では、チワン族に次ぐ人口である。

「満州」の漢字は満洲語の民族名Manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」と表記されていたが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い。

満洲民族の起こった地域は、西欧では満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、漢語ではこれに対応して満洲と呼ばれる。このため、特に民族のことを指す場合は、満洲民族・満洲族・満洲人満人などと表記する。

現代は、中華人民共和国55少数民族の一つという位置付けをされている。中華人民共和国の現支配層を構成する漢民族は近代以前に満洲民族の王朝に支配されたという歴史的屈辱や、日本の支援で満洲国という形でその悪夢が再現したという歴史的経緯から、満洲民族の民族的覚醒を警戒し、その為に満洲という言葉には敏感である。また彼らは満洲族ではなく満族(まんぞく, măn zú, Manzu)と呼ぶ。2000年の人口調査では満族人口は10,682,263人であった。

かつて中国を支配した旗人の末裔であり、中国全土に散在する。満族の過半数は、遼寧省に居住しているが、河北省吉林省黒竜江省内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区甘粛省山東省にも分布し、北京天津成都西安広州銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。

満洲民族の起源

満洲民族の前身は、12世紀に中国の北半分を支配したを建てた女真族であり、女真以前にこの地方にいた粛慎挹婁勿吉靺鞨の後裔であると考えられている。

民族名となったマンジュは、サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来する満洲語で、元来は16世紀までに女真と呼ばれていた民族のうち、建州女真に分類される5部族(スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェン)の総称であった。文殊菩薩を信仰していた部族が部族名を自称するに当たり、信仰する文殊菩薩の「文殊」という文字を使うのは畏れ多いとして「満洲」という当て字を使用した。

これら諸部族がスクスフ部出身のヌルハチによって統一されると、ヌルハチの支配する国はマンジュ国(Manju gurun, 満洲国)と呼ばれるようになり、さらにマンジュ国が海西女真4部、野人女真4部を併合して後金に発展したため、満州の名が広く女直全体の総称として用いられるようになった。ヌルハチは、満洲語を表記するためにモンゴル文字を改良させて満洲文字を作り、満洲民族文化を確立することに努めた。

ヌルハチの死後、後継者のホンタイジは女真を民族名として用いることを禁じ、「満洲」(マンジュ)の民族名が定着した。「洲」という文字がついていることで、現在では満洲というと「中国東北部」や満洲里などの地域の名前のイメージが強く、現在でも欧米では“Manchuria”のように地域呼称として用いられるが、中国においては民族名であり、土地の名前ではない。

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[3]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[3]。また南出喜久治は、「高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であって、韓民族の民族国家ではない」と述べている[4]

清朝時代の満洲民族

清朝末期の満州族の武人たち

女真人であるホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸民族を満洲(人)と統合し、国号をと改めた。因みに、“満”も“洲”も“清”のいずれにも“さんずい”が付いているのは、火の属性を有する“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる[5]。多民族国家である清のもとで、満洲人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となる。

清は、1644年が滅びると万里の長城以南に進出して明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて中国大陸を満洲民族が支配する体制を築き上げた。清の歴代の皇帝は、漢民族が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めたが、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも中国語が話されるようになり、習俗も中国化していった。

逆に、中国を扱った映画などの作品で見られる辮髪両把頭チャイナドレスは元来は満洲族の習俗であったものが清の時代に中国に持ち込まれたものである。清朝の統治者は明との戦争中、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国統一のため、1644年、明朝滅亡後に満洲族の髪型と服装を強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した(「剃髪易服」 - 髪を剃り、服を替えるの意)。

一方、満洲民族の故地である満洲は皇帝の故郷として保護され、漢民族の移住は制限されていたが、清末には漢民族の農民が入植するようになり、漢民族人口が急増して満洲民族をはじめとするツングース系諸民族は人口の上でも生活範囲の上でもまったく追いやられてしまった。

1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられるが、満洲国はの五民族による五族協和を理念としており、満洲国の内部において自国が満洲民族の国家として意識されていたわけではない。しかしながら満洲民族においては建国後に帝政期成運動を起こすなど、満洲国に民族の復権を期待する向きも一部ではみられた[要出典]

現代の満洲民族

第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、民族識別工作を行って少数民族を中国の内部で一定の権利を有する民族として公認した。この過程で、かつての旗人(八旗に所属した者)の後裔にあたる人々が満族満人)とされる。

満族の人々の間では、現在はごく少数の老人を除いて満洲語を話す者は殆どおらず、伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。このような状況から、満洲民族は、言語的・文化的に中国社会に同化され、失われつつある先住民族であるとも見なされうる。1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加しているが、これは満族になる事で少数民族として優遇措置の恩恵を受けようとする人が多いためといわれており、満洲語を学習しようとする人が増加している訳ではない。しかし一方で、固有の文化を失いながらも満洲民族の民族意識はとても強いともいわれている。

満洲民族出身の著名人

その他

自治県

自治州はないが、自治県がいくつかある。

満洲民族の特徴

満洲民族の姓氏は、本来、愛新覚羅等に見るように満洲語に基づいたものだったが、現代満族の多くは、中国式の姓氏を用いている。これは、清末期の滅満興漢の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、文化大革命等による中国当局の弾圧を避けるための方便であったと考えられる。しかしながら、愛新覚羅は金または趙に、瓜爾佳は関に、葉赫那拉は那、伊爾根覚羅は趙または佟に、紐祜祿は郎、富察は富または傅に、赫舍里は赫、何または英に、佟佳は佟に、完顔は王のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族―哈喇漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

満洲民族は、清朝時代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高く、1番目の朝鮮族に続いて中国各民族中で2番目であった。1990年の人口調査資料によれば、満族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で文盲・半文盲が占める比率は、満族は1.41%で、全国22.21%、漢族21.53%よりも遥かに低く、中国各民族中で最低であった[6]。2007年10月現在のデータは不明。

満洲民族の呼称の変遷

期間は、中国の時代区分で示している。

脚注

関連項目

外部リンク