水野勝成

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水野 勝成
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水野勝成像(福山城内)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄7年8月15日1564年9月30日
死没 慶安4年3月15日1651年5月4日
改名 国松、藤十郎、忠則、勝成、一分斎、宗休
別名 六左衛門、鬼日向
神号 聡敏大明神
戒名 徳勝院殿参康宗休大居士
大機院前下大夫日州太守一分斎宗休大居士
墓所 賢忠寺
官位 従五位下日向守従四位下、贈従三位
主君 織田信長織田信雄徳川家康仙石秀久豊臣秀吉佐々成政小西行長加藤清正立花宗茂黒田孝高三村親成→徳川家康→徳川秀忠徳川家光
三河刈谷藩
大和郡山藩
備後福山藩
氏族 水野氏
父母 父:水野忠重、母:妙舜尼(本願寺光佐妹)
兄弟 勝成忠胤、弥十郎、忠清
清浄院加藤清正室)、忠直
女子(安部信勝室)
正室:良樹院(お珊)
側室:香源院(お登久)[1]、青木氏[2]、桜庭氏[3]、藤島氏[4]、瀬川氏[5]、出来島隼人[6]、安東国貞の娘[7]
勝俊成忠成貞勝則勝忠
養子:女子徳川頼宣室)、勝信
女子丹羽氏信室)
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水野 勝成(みずの かつなり、永禄7年8月15日1564年9月30日) - 慶安4年3月15日1651年5月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名備後福山藩初代藩主。

経歴

少年期

勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『寛政重修諸家譜』では母は都築吉豊の娘としているが、水野家の文献では本願寺光佐の妹となっている[8]。永禄7年(1564年)に三河国刈谷の生まれたとされるが、父水野忠重は勝成誕生の永禄7年には三河国岡崎に住んでおり、記録と矛盾している。忠重が鷲塚城主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。

高天神城の戦い

初陣は天正7年(1579年)の遠江国高天神城攻めで織田氏の加勢として家康の軍に加わる忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が、織田信長に引き抜かれ、刈谷3万石の大名になる。勝成は奥田城細目城を任される。

同年の第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年(天正9年)まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感謝状を与えられる。

甲州攻め

天正10年(1582年)、勝成は父の許を離れ徳川家康の甲州攻め(天正壬午の乱)に参加する。甲斐国古府(現在の甲府市)において家康と北条氏直が対峙すると、勝成は鳥居元忠三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。これを見た北条氏勝は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。この戦いで勝成は自ら内藤某[9]の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和を成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某[10]等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる。[11]

小牧・長久手の戦い

天正11年(1583年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄与力である父忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、岡田善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次榊原康政大須賀康高本多康重らと木幡城に移り三好秀次を攻撃した(長久手の戦い)。この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用していなかったのを忠重が見つけ強く叱責する。これに勝成は反発し「兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると、そのまま敵中に突入し一番首を取って徳川家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣水野太郎作清久の足軽杉山孫六が射殺した。[12]

出奔と放浪

天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が秀吉と伊勢国桑名で睨み合う陣中において、父忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)とした。勝成はその後しばらく家康に匿われていたが、忠重の追求により京都へと逃れた。

勝成は21歳となり京都で従者も連れず闊歩し、町では乱暴狼藉を働くなどしていたが、天正13年(1585年)に四国征伐(第二次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。この戦の直後、勝成は豊臣秀吉から摂津国豊島郡700石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から相当の怒りを買ったと思われるが、勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細な成行は不明である。中国地方の各地には放浪中の伝説が残されている。[13]

転戦

天正15年(1587年)には肥後領主佐々成政に千石で召し抱えられており、成政配下の隈部親永の反乱(肥後国人一揆)鎮圧に参加し菊池城を攻めた。ここでも勝成は一番槍をあげ、隈本城救援でも功名をあげた。また、この戦いの最中で同じ成政家中で武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。首謀者の隈部親子を勝成が討ったという説もある[14]。しかし、佐々成政は一揆発生の責めを受け切腹し肥後は小西行長が治めることになる。このため天正16年(1588年)に勝成は行長に千石で仕官することになった。

天正17年(1589年)、宇土城普請に際して天草五人衆の反乱(天正天草合戦)が発生すると、勝成は小西行長の弟小西主殿介の副将としてこれに参加し、ここでも阿波鳴門之介(勝成と同様に小西氏に仕官していた)と戦功を競った。勝成は志岐鎮経の本拠である志岐城加藤清正の援軍と共に攻略し、続いて天草種元本渡城を攻め落とした。この反乱の鎮圧後、勝成は小西行長の元を去り清正に仕官するが、間もなく立花宗茂の相伴衆[15]、さらに黒田孝高の家中となり豊前国一揆鎮圧に参加する。この戦いでは野中鎮兼が籠もる長岩城を攻略した。しかし、長岩城の守りは堅く黒田軍は一時退却することになるが、このとき後藤基次殿の栄誉を争った。なお、長岩城は黒田軍に攻め落とされ、戦は和議により終結する。

天正17年、黒田孝高の長男・長政豊臣秀吉に拝謁するため肥前から船で大坂に向かうことになり、これに勝成も随伴していたが、その途中の備後国鞆の浦において船から降り逃亡した。これは勝成が船上で長政に操船の手伝いを命じられたことに憤慨したためだといわれるが、過去に秀吉の怒りを買っていたことにより、大坂行きを嫌ったためともいわれる。

貴種流離譚

ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としている。備中・備後においては流浪の勝成伝説が多く出来あがっており、その中には明らかな作り話もある。鞆の安国寺に隠れた。芦田郡土生城主豊田美濃守の所に泊した。行き倒れて老婆に飯を恵んでもらった。またこの老婆の紹介で姫谷焼で人夫して働き、「日ならずして無類の上手になり」立ち去った。さらには徳川家康の密偵として全国を旅していた[16]。以上のような伝説の類のあと、最終的に備中国成羽の国人三村親成の食客となった。文禄3年(1594年)9月、三村親成の月見会の席上で、作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔する。翌4年(1595年)正月再び三村氏の成羽に帰り食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる「お(於)登久(おとく)(藤井皓玄の末)」であり、この子供が後に備後福山藩2代藩主となる水野勝俊である。

家督相続

慶長4年(1599年)、前年の秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解する。勝成36歳のときであった。ところが、慶長5年(1600年)に家康に従って会津征伐のため下野国小山に宿陣している7月18日、三河池鯉鮒にて、水野忠重は、加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害された[17]。殺害された加賀井重望の懐から、石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきた[18]。7月25日、家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の家督相続を命じられた。

関ヶ原の戦い

水野勝成が大垣城攻めで奪った日向正宗(三井記念美術館蔵)

水野家当主となった勝成は会津征伐中止により刈谷城に戻り、関ヶ原の戦いへと出陣する。9月13日、島津義弘の足軽が曽根城に鉄砲を撃ちかけてきた。井伊直政、本多忠勝から「六左衛門殿でなくては、この戦は手に合わないので、直ちに島津勢に軍勢を差し向けてもらいたい」と懇願される。勝成は弟水野忠胤と共に曽根城の防衛に向かう。勝成が楽田の陣の櫓に鉄砲を撃ちかけると、島津はさっさと楽田より引き上げてしまった。翌日、勝成は関ヶ原への従軍を家康に願いでるが許されず、大垣城への抑えとされた。そこで14日深夜松平康長西尾光教津軽為信松下重綱らと共に、石田三成が出撃した直後の大垣城を攻めた。三の丸を占拠。二の丸に攻め入るもその場で火を放って撤退[19]。関ヶ原本戦の勝利の情報が届くと、囲みを解いて曽根に撤退。そのため、本戦の敗残兵が入り、大敗を吹聴したため城内の士気は瓦解する。勝成はたまたま秋月種長と知り合いだったので、城将を暗殺して内応の実を示すならば旧領安堵の労をとろうと伝えた[20]。16日の夜、相良頼房・秋月種長・高橋元種が内通を申し出る。18日垣見一直熊谷直盛木村由信木村豊統の首級をもって来た。23日守将の福原長堯は降伏して城を明け渡した。この際に勝成は石田三成から長堯に与えられていた名刀を奪っており、この刀は後に水野勝成の官名「日向守」から「名物日向正宗」と名称付けられ、現在は国宝に指定され三井記念美術館に収蔵されている。 攻城軍が城兵に逃散を呼び掛けていたこともあり、城内には三十人程度しか残っていなかったが、その中に、加賀井重望の息子加賀井弥八郎が残っていたので、これを殺して、父の仇打ちとした。勝成は福原長堯の助命を願いでるも、許されず切腹となった。

三河刈谷藩主

刈谷城は勝成の手によって近世城郭へと改修され、家康の故郷である三河国の重要拠点となる。勝成が築いた江戸時代の刈谷城は、多数の河川が合流し海まで繋がる入江となっていた場所に突き出す小山を利用した平山城で、その姿から別名で亀城と呼ばれた。慶長6年(1601年)に勝成は従五位下に叙任され「日向守」を名乗った。日向守は明智光秀が名乗っていたため、それ以来名乗るものがなかったが、勝成は気にすることなく笑い飛ばし、逆に日向守を欲したという。以後はその勇猛さから「鬼日向」と渾名されることもあった。「勝成」を名乗るのも関ヶ原の戦い以降である。慶長7年(1602年)8月28日、勝成の伯母にして、家康の母於大の方が亡くなる。慶長13年(1608年)、勝成は備中国成羽から妻子(お登久と勝俊)を呼び寄せ、同年勝俊は徳川秀忠に仕えることになった。

大坂の陣

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では勝俊を連れ参加。博労淵砦の視察を永井直勝と行う。その後、攻略のため博労淵に仕寄(攻城設備)を築くが、勝成に手柄を独占されることを嫌った蜂須賀至鎮が翌朝に砦を攻め落とした。12月1日、森忠政が天満橋を挟んで銃撃戦をしていると、家康の指示で戦闘の収拾に出向く。

夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の先鋒大将に指名されるが、勝成の性格を知る家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じている。京都を発った勝成は山城国長池から奈良に進み大野治房の奈良焼討ちを阻止した(郡山城の戦い)。なお、このときには大坂方から鬼日向の異名で知られていたようで、大野軍は勝成の馬印を見るや退却していったという。

奈良に着いた勝成は法隆寺から河内国府に軍を進め、本多忠政松平忠明伊達政宗松平忠輝らと合流すると大坂城大和口へと兵を進めた。この途中、河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と交戦する(道明寺の戦い)。前夜のうちに小松山を登り、地形を確認。ここに敵を誘いこんで撃破する作戦を行い、図に当たる。ここで勝成は家康の命を無視し軍の大将にも関わらず一番槍[21]をあげ、基次の部隊を壊滅させた。そのまま追撃戦になり薄田兼相は勝成の家臣に討ち取られる[22]。さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせた[23]。そこに真田信繁毛利勝永明石全登大野治長らの軍が駆けつけたのでこれと対峙。ここで勝成は、敵を討ち取りたいと隣に陣を構える伊達政宗に両三度申し入れる。三度目には政宗が直接、勝成の許に訪れ、弾薬不足や死傷者の多さを理由に拒絶。そのため睨み合いの状態となり豊臣方の撤退により戦いは終結した。翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かう。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前勢松平隊とともに戦って茶臼山[24]を落とし、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多思政[25]、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から六百人許り、踊を揚げて攻寄せた[26]。三方から敵を受けた信繁はついに壊滅した。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある[27]。その後松平忠直の軍は明石全登の突撃を受けて総崩れとなった。忠直の兵は勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめ、全登の部隊を撃退した。このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣汀三右衛門が討ち取った[28]。大坂城桜門に一番旗を立てる。

大和郡山藩主

夏の陣での勝成の軍功は勝成の戦歴の中でも破格のものであったが、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまった。そのため、元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では、勝成自身は2、30万石の知行を期待していた[29]が、実際には城を焼き払われた大和郡山に3万石加増の6万石で転封されるに留まった。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという[29][30]。郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の釈尼妙瞬が亡くなる。

初代福山藩主

福山城再建天守

元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城(詳しくは「福山城 (備後国)」を参照)であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。

福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行[31][32]した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の五代藩主の勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国内各地の寺社を復興し旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。

家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の岡山藩藩主池田光政は「良将の中の良将」と評したという。逆に勝成の領国経営は池田光政の政策に影響を受けたといわれる。

寛永元年(1624年)浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には三代将軍徳川家光の上洛に従い従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1000石を加増される。寛永10年(1633年)、徳川家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。

島原の乱

寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子勝俊、孫の勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わった。これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。田尻村、高浜において同村産の巨樟を船材として軍船「大転輪丸」を造る[33]

勝成は2月24日に島原に到着し、同日松平信綱の陣で諸将が集い、軍議が行われた。ここで勝成の提案により総攻撃が決定され、2月28日に開始されることになったが、鍋島勝茂の抜け駆けにより27日に攻撃が始まった。勝成の陣は原城包囲の最後列であったが、鍋島軍が三の丸から攻めるのに対し、水野軍は本丸を直接攻略し、勝成の嫡子・勝俊と有馬直純の嫡子康純が本丸の一番乗りを争った。しかし、勝成が前線指揮をとっていなかったからか、水野勢は同時に100人を超える戦死者を出すことにもなり、勝成の戦歴で最大の損害となった。

戦後、勝成は、板倉重昌を討ち取った勇士駒木根友房の首級の前で一曲舞う。駒木根友房は、小西家の旧臣であり、生前に勝成と面識があったのかもしれない。板倉重昌の息子板倉重矩が、父の仇を討たんと奮戦したことを賞して、勝成は自らの千多国房[34]の刀を与えた。

隠居

水野勝成公墓所 (福山市若松町・広島県指定史跡)

島原の乱の翌年、寛永16年(1639年)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎[33]と号する。しかし、隠居料の1万石を領内の投資に注ぎ込むなど、藩政への関与は続けた。寛永20(1643年)80歳の勝成は、京都大徳寺で1年間、禅の修行をする。正保元年(1644年)法躰となり宋休と号す[33]。慶安4年(1651年)に福山城内において88歳で死去し、福山城下の菩提寺、賢忠寺に葬られる。戦国武将としてはかなりの長寿であった。

神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県結城城址脇にも聡敏社がある。また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。

大正8年(1919年)、従三位を追贈された。

その他

  • 初代信濃国松本藩(現在の長野県松本市)主の水野忠清は勝成の実弟、「旗本奴」として知られた旗本水野成之(十郎左衛門)は勝成の孫である。
  • 加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、実は勝成の父忠重の女、即ち勝成の妹である。加藤家断絶の時に勝成・勝俊は熊本城受け取りの役目を勤め、この時に清浄院を福山に引き取った。
  • 剣豪・宮本武蔵との深い交友もあり、武蔵は大坂夏の陣では勝成の軍勢の客将として嫡男勝重(勝俊)を守護した。武蔵の最初の養子宮本三木之助は水野軍武者奉行中川志摩之助の3男で、大坂陣後に四男・九郎太郎と共に武蔵が養子に貰い受けたものである。後に武蔵が福山を訪れた際に、家老中山将監の屋敷に立ち寄り腰掛けたという庭石が、水野家の後の阿部家家老屋敷となっても伝えられ、今は備後護国神社境内に移されて現存している。
  • 刈谷城主であった慶長12年(1607年)に歌舞伎女「出来島隼人」を身請けし、慶長13年(1608年)に京都で勧進法楽(公演)の歌舞伎を行わせている。この公演を京都の町人は褒め称え、若者で見ないものはいなかったという[35]
  • 利休丸壷。漢作の大名物。銘は千利休所持に由来。金森家から水野勝成へ伝わった。
  • 京都日向の町名は、勝成の屋敷があったことに由来する。
  • 五霊鬼。後年、水野家で不幸があると、勝成が理不尽に斬り殺した人々の祟りだと信じられた。
  • 菱川師宣と交流があり、勝成が注文した美人画がある。
  • 喜多七太夫の息子・寿見が勝成の機嫌を損ねさせたので、親の七太夫がわざわざ福山までやってきて、「道成寺」を舞って勝成のご機嫌を直した。
  • 福山かなりや幼稚園。菩提寺の賢忠寺が運営する幼稚園で勝成公の教えを子供達に伝えている。
  • 肖像画は、正保2年(1645)水野勝成晩年の姿を描いた画である絹本著色水野勝成画像(広島県重文)のほか、長久手合戦図屏風、大坂夏の陣図屏風に描かれている。
  • 水野勝成記念という地方競馬の大会がある。
  • 毎年、福山市の姉妹都市である岡崎市で行われる家康行列では、徳川家臣として四天王以外でただひとり選ばれている武将である。
  • 細目城には勝成の埋蔵金伝説がある。
  • 備後府中の白味噌に惚れ込んだ勝成は、参勤交代の道中、諸大名にこれを贈呈してまわった。これが諸大名に絶賛され、注文が殺到。いつの間にか「府中に味噌あり」と全国に名を馳せ、日本三大味噌どころになった。
  • 安田国継とは、京都で知り合った、と語っている。
  • 熊本城受け取りの折、立花宗茂の家臣に十時連貞の消息を訊ねている。勝成と連貞は、肥後一揆の兵糧入れの戦いでともに合言葉を言い合いながら作戦を成功させた仲であるが、この二人にはそれ以外にも不思議な縁がある。連貞が江戸の町で暴漢に襲われ格闘した事件を土井利勝に審議されたことが、立花宗茂の大名復活のきっかけである。その後、宗茂は徳川秀忠に寵用されていく。利勝と勝成は従兄弟。秀忠と勝成は乳兄弟である。また、宗茂の妻誾千代が、滞在していたのは、勝成の妹の嫁いでいる加藤家である。もしかしたら、立花宗茂の大名復活の裏には、なんらかの形で勝成がかかわったのかもしれない。
  • 慶安3年(1650年)5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせる。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている。[36]
  • 仕舞では「屋島」を好んで舞ったという。
  • 『続日本随筆大成』には「水野勝成ハ、藩翰譜ニハ、腹悪シキ人ノ様ニカキタレドモ、楢埼景忠ナル者、備後府中ノ人ニテ、大坂城中ニ籠リ、善ク戦ヘリ。勝成福山ニ入部ノ時、首ニ景忠ガ事ヲ問フ。土人大城ノ事、吟味ニナランカト恐レテ、既ニ死セリト云フ。千石ヲ取ラセント思ヒシニ、死シタルカト云テ、惜マレケルヨシ。人材ニ汲々タルハ、サスガ名将ナリトゾ 」とある。
  • 現在刈谷市内には、勝成奉納の総髪の兜、獅子頭、棟札などが残っている。
  • 街道を行く旅人のための「休み堂」として、領内に辻堂を一斉に建築[37]。勝成が備後を治める以前に建てられた堂宇もあるらしいが、本格的に普及させたのは勝成である。この習俗は、浅野領内にまで伝播している。
  • 勝成は文学が好きで、特に俳諧を好んだ。
  • 能楽も好み、秀忠から伏見城内にあった秀吉遺愛の組立式能舞台を拝領し、自ら演能した。
  • 愛用の笛、銅簫「不絶」が伝わっている。
  • 備後縞。水野勝成が綿花の栽培を奨励し、綿織物の生産が行われたのが始まりといわれている。
  • 江月宗玩(津田宗及の息子)に帰依した。

主な家臣

上田直重
?~? 通称は玄蕃、清兵衛。徳川家康が、勝成を水野家当主にするように指示を出した書状の宛名の三家老の一人。
鈴木治兵衛
?~? 勝成を水野家当主になるように徳川家康が書状を出した水野家の三家老の一人。
鈴木久兵衛
?~? 勝成を水野家当主にするように徳川家康が書状を出した水野家の三家老の一人。
中山重盛
?~? 通称は将監。水野家第二家老。勝成が水野家当主になるとき、家康が連れていくように命じた。祖父の中山勝時は、忠重の姉婿。父親の中山光勝は、本能寺の変のおり明智軍の襲撃を受けて討死。ちなみに桶狭間の戦いのあった桶狭間の地は、中山氏の領地であった。一族に快翁龍喜がいる。
三村親良
?~? 放浪時代の恩人三村親成の次男。家老として迎えられる。
中川志摩之助
?~? 勝成と宮本武蔵を結ぶ人物として著名。若い時より仙石秀久に奉公し、数度戦に参戦、鉄砲頭千石。その使用紋を許され、「永」の字を使った。四国長宋我部攻めのとき、勝成と知り合って仲良くなった。勝成が刈谷城主のときに呼ばれて武者奉行六百石。道明寺の戦いに従軍。
水野清久
天文13年 (1544)~? 水野忠政の兄弟・水野清重の子。名は正重としても知られている。通称は太郎作、左近。水野忠重の相婿。娘は渡辺重綱の正室。桶狭間の戦いでは一番首の手柄を取る[38]。鷲塚城を築く。三方ヶ原の戦い、長篠の戦いに従軍。高天神城攻めでは勝成の陣代。長久手の合戦では、清久の足軽杉山孫六が、森長可を射殺。渡辺守綱と連署で豊臣秀吉を挑発した逸話もある。関ヶ原の直前、江戸に向かう家康が、長束正家の水口城を挑発しながら通ったときの家臣として名前をみることができる[39]。関ヶ原の戦いでは、家康本陣の鉄砲頭の一人(おそらく勝成と家康の連絡係)。慶長7年(1602年)に1000石を与えられて徳川の旗本になる。のちに徳川頼宣に付けられて紀伊で6千石。水野太郎作家は、紀州藩の五家の一つ。「水野正重画像」は楞厳寺に保存されており、刈谷市指定文化財。寛永18年に提出された水野勝成覚書とともに、従弟水野左近大軸清久の伝記写が提出された。水野正重の遺談「水野左近働覚」[40]。無銘大磨上(名物太郎作正宗)は、正重から徳川秀忠に献上。徳川家光の代に家光の養女大姫(徳川頼房息女、前田光高室)が前田家に輿入れするに持参し、以後前田家に伝来する。
都築忠兵衛
?~? 妙舜尼の兄。長久手の戦いでは、勝成に従い三番首を家康に献じている。元和3年(1617年)入海大明神に短刀正宗を寄進(愛知県東浦町町指定文化財)。
杉山孫六
?~? 水野清久の足軽。長久手の合戦において、森長可を射殺した。井伊家の記録では、井伊隊の足軽・柏原与兵衛が森長可を射殺したとあるが、柏原与兵衛はれっきとした士分であり、このころまだ井伊家に仕官してない。小説『血槍三代』では準主役。勝成の郎党として一緒を旅したことになっている。
鈴木重親
?~? 通称は与八郎、輿八郎[41]。忠重の小姓。星崎城の戦いで、須藤太左衛門と一騎打ちをし、橋から突き落したことで勇名を馳せた。のちに加藤嘉明に召し抱えられた須藤太左衛門は、与八郎は口の臭い男で、高禄を取るような人物ではないと称した。鈴木は筋目正しき者なれど、日頃だらしないと評判だった。水野忠重暗殺事件に立ち会い、堀尾吉晴を犯人と勘違いする水野家臣たちを押しとどめ、堀尾吉晴の無実を証言した。大垣城の戦いに従軍。
河村重長
?~? 通称は新八郎。大垣城の戦い、道明寺の戦いに従軍。薄田兼相を討ち取った。狸皮の具足羽織を使用していたため「狸皮新八」と綽名された。
神谷長直
1536~1593 通称は金七郎。小牧・長久手の戦いでは織田信雄に属した忠重にしたがい、豊臣秀吉と対陣。忠重が秀吉から三河遠江二カ国の条件で誘われたとき諌めた。秀吉の書状を家康に献上。家康から「小鳥しろごま」という名馬を与えられる。[42]
神谷金七
?~1600 大垣城の戦いで討死。
神谷長次
?~? 通称は治部。名は長直とも。「木工の名人」と呼ばれ、さまざまな土木事情で偉業を残した。服部大池造成時の「お糸伝説」では悪代官の汚名を着せられている。
南条宜政
1587~1660 通称は作十郎。勝成の姪婿。小鴨元清の子。豊臣家臣。大坂の陣にも豊臣方として参戦し、主家滅亡後は水野勝成・加藤忠広(6,075石余)・細川家・森長継らに仕え、最後は旗本600石。南条元忠の従兄であることも併せて考えると、勝成が豊臣家に送り込んでいた間諜なのかもしれない。
荻野重富
1578~1652 姓は荻濃ともかく。通称は新右衛門。大坂冬・夏の陣で戦功をあげる。鞆奉行や福山総奉行を歴任。著作に「鞆記」「鞆浦さすらひの記」など。荻濃(荻野)一族が祀られている荻野大明神がある。
本庄重政
1606~1676 福山藩主水野氏に仕えた本庄重昭の嫡子として生まれたが、家督を弟重幸にゆずり、江戸に出て兵法を修業し、島原の乱の際には戦功をたてた。半生の放浪を終え、岡山藩主池田光政に仕えた後、福山藩に帰り、新田開発、干拓や塩業の発展に努力した。
杉野数馬
?~? 相撲奉行。四国出兵のころより、勝成が連れ歩くようになったという三人の家臣の一人。道明寺の戦いでは一番槍一番首。
近藤弥之介
?~? 四国出兵のころより、勝成が連れ歩くようになったという三人の家臣の一人。大垣城の戦いで活躍。『水野家中由諸書』によると、孫に勝成の記録を語った。
林茂之助
?~? 四国出兵のころより、勝成が連れ歩くようになったという三人の家臣の一人。
鈴木小右衛門
?~? 渡り浪人。勝成とは佐々成政の下で同僚。勝成が水野当主になるときに同道した。大垣城の戦いで活躍。のちに上田氏を継ぐ。
汀三右衛門
?~? 勝成家人。明石全登を打ち取る。
庵原朝昌
1556~1640 通称は助右衛門。井伊家臣。勝成が九州にいた折、門番をしていた。正体を見抜いた勝成は、自らの禄高千石のうち二百石を与えた。のちに勝成の計らいで井伊家に帰る。大坂の役では木村重成を殺す。
黒川三郎右衛門
?~? 水野家家臣。大坂の陣。塙直之との逸話で知られる。
林半右衛門
?~? 渡り浪人。小早川秀秋の旧臣。塙団右衛門の友人。一時期、水野家に仕官していた。団右衛門は大坂冬の陣のあと、水野家臣黒川三郎右衛門に半右衛門の所在を尋ねている。このころの林半右衛門は池田家に仕官していた。
岡田弥源太
?~? 勝成の小姓。大垣城の戦いのおり、勝成が槍を持って突き倒した敵の首を取った。
権田兵八郎
?~? 家康より付けられた軍監であり、勝成を若いころより指導した。高天神城攻めで、勝成とともに真っ先に攻め込むも、負傷。
竹本吉久
?~1615 通称は左門。水野忠重暗殺事件に立ち会い、鈴木与八郎とともに、犯人の加賀井秀望を討って、髷を報ず[43]。片山合戦(道明寺の戦い)の直前に、勝成から名馬檜木を下賜される。戦闘中、伊達勢の同士討ちを受けた。戦が終わって帰るとき、檜木が伊達勢にあることを知った勝成は、淀の橋に家中の者をおき、政宗の軍勢が通るのを待ち受けさせ、檜木を率いて通りかかった馬取り、付添いの徒士まで切り捨てて、この馬を奪い返した。しかし、これに対して政宗方より一言の異議も出なかった[44]
山地与助
?~? 長宗我部盛親の旧臣。
佐橋甚五郎
?~1582 徳川家臣。強弓の精鋭。三河一向一揆では水野忠重と活躍[45]。悪事を働いて逃亡していたが、黒駒の戦いでは勝成の下で陣借りして活躍した。勝成のとりなしで徳川家に帰ったが、結局、家康の命令を受けた阿部正勝に暗殺された。森鴎外の小説『意地』の主役として知られる。
三箇重則
?~1637 頼武の3男。角兵衛。曾祖父三箇頼連は、明智光秀の反乱に加担している。頼連は光秀亡きあと、小西行長に仕えている。重則は備後福山藩主水野勝成に仕えた。重則以後、三箇氏当主は代々角兵衛を通称とした。
甲斐荘正房
?~1630 正儀の子。家康に仕え、父とともに小田原征伐に従軍し、関東で采地三百石を賜う。のち、父の遺領と合せて六百石となる。関ヶ原合戦や大坂冬の陣・夏の陣に従軍、夏の陣に際し水野勝成に所属し、戦功があり、その功により関東の采地六百石に代わり、河内国錦部郡で二千石を賜う。四天王寺の造営奉行を勤め、河内錦部郡に一万三千石の幕府領を預かるが、のち、これを返却し、寛永七年(1630)七月に死没。
城昌茂
1552~1626 城景茂の子。和泉守。初名は伊織介。鉄砲衆。武田勝頼の侍大将。武田滅亡後は徳川家康に仕えた。長久手の戦いに従軍。関東入府後忍・熊谷に7千石を給される。大阪の陣では軍監7人のひとり。森忠政の軍監を務めていたが、勝成に監督不行き届きを咎められ改易された。真田昌幸の友人だったらしく、その死を悼んだ手紙が真田家に残っている。愛刀の城和泉正宗(津軽正宗)は、のちに弘前藩主の津軽家に伝えられた。
小坂利直
?~? 藤井皓玄の四男。藤井の反乱のとき十歳にも満たない少年だったことから、成羽の三村親成に預けられていた。のちに、美作国久米郡神月村の小坂氏に預けられた。三村親成の庇護の下に成長し、元服して、小坂信濃守利直と名乗った。娘の於登久が、備中放浪中の水野勝成と懇ろになり、のちの福山藩二代藩主勝俊を生んでいる。晩年は一族の根源地である吉井村田中の地に閑居して藤井道斉と名乗り、医業を営んだ。井原市芳井町吉井にある重玄寺は、藤井一族の菩提寺である。

関連作品

書籍
  • 福田正秀著『宮本武蔵研究論文集』歴研 2003年 ISBN 494776922X
  • やまと太郎著『福山物語開祖水野勝成一代記』東京図書出版会 2006年 ISBN 4862230075
  • 平井隆夫著『福山開祖・水野勝成』
  • 森本繁著『戦国武将水野勝成』
  • 中山善照著 『水と焔 水野勝成(福山のル-ツをさぐる)』
  • 立石定夫著『元和の栄光-水野勝成の政治』
  • 早乙女貢著『こんな男が乱世に勝つ』
  • 森本繁著 別冊歴史読本『戦国妖星伝』
  • 川口素生著『スーパー忍者列伝』
  • 加賀康之著『大坂の陣・なるほど人物事典』
  • 歴史雑学BOOK 図解戦国大名全39武将格付け 織田・豊臣・徳川軍団編 ローレンスムック
  • 水野勝之福田正秀著『加藤清正「妻子」の研究』ブイツーソリューション 2007年 ISBN 9784434110863
  • 古文書調査記録〈第1集〉水野勝成覚書 (1978年) 福山城博物館友の会 (編集)
  • 水野勝成公支干祭記念誌〈第7回〉 (1984年) [古書]
  • 刈谷市史
  • 福山市史
  • 週刊戦国武将データファイル №36
  • 水野勝成公報恩会発足五十周年記念 妙蓮寺文書 会報 沢瀉 水野勝成報恩会
小説
漫画
  • 中山善照村上正名監修『まんが物語 福山の歴史 放浪の大名・水野勝成』(上下巻)
  • 木村栄志著 『水野勝成〜大坂夏の陣 鬼日向の決断』(『戦国武将列伝』2010年4月号に掲載)
映画
アニメ
  • 刈谷偉人伝その2 初代刈谷藩主 水野勝成物語~鬼日向と呼ばれたお殿さま~

脚注

  1. ^ 勝俊の母。勝成が三村親成のもとにいたときに懇ろになる。江戸屋敷に住み、正室のように扱われるが正式なものではなかったらしい。お珊が正室に迎えられると、江戸より京に帰り、都築右京に再嫁。天正四年(1647)10月21日に死去すると、勝俊が遺骸を引き取り、大名の正室としてふさわしい立派な墓を建てる。そのためお登久が先妻、お珊は後妻だったのではないか、と推測もある。『福山開祖・水野勝成』
  2. ^ 成言の母
  3. ^ 成貞の母
  4. ^ 勝則の母
  5. ^ 勝忠の母
  6. ^ 勝成が身請けした歌舞伎女。あるいは、前記の側室のいずれかの可能性あり
  7. ^ 放浪の一時期、結婚していた
  8. ^ 母(妙舜)の菩提寺である妙蓮寺(福山市)に収蔵される肖像画には顕如の署名があるほか、顕如の書状も残されている。
  9. ^ 状況からみて、相模津久井城主内藤大和守康行と思われる
  10. ^ 『関東古戦録』によると、大道寺新四郎。後に前田家、尾張徳川と仕え、代々家老職を輩出した尾張大道寺家の祖、大道寺直重と思われる。
  11. ^ 新訂寛政重修諸家譜 6 著者: 高柳光寿
  12. ^ 『柏崎物語』
  13. ^ この時期、美作の豪族安東国貞の娘婿になっていたようで、のちに安東助之進が、水野家に縁故仕官している。
  14. ^ 『寛政重修諸家譜』
  15. ^ 『血槍三代 青春編』磯貝勝太郎の解説
  16. ^ 勝成忍者説は出所不明ながら根強い。勝成の紹介文にはたいてい憶測付きで書かれている。『スーパー忍者列伝』や『江戸の隠密・御庭番』のような本にまで項目が立てられているし、小説『人斬り水野』などもこの説を下地にして書かれている。
  17. ^ 『水野家家譜』
  18. ^ 『徳川実記』によると、加賀井重望の黒幕は大谷吉継。
  19. ^ この炎は関ヶ原の戦いにも少なからぬ影響を与えたようである。南宮山の西軍は、山が邪魔になり主戦場をみることはできないが、大垣城はみることができる。また、戦場を中央突破で脱出してきた島津勢は当初、大垣城に籠城するつもりでいたが、大垣城から火の手が上がっているのを見て、城に籠るのは諦め、伊勢路に向かった(『大重平六覚書』)
  20. ^ この使者を務めたのが服部康成と思われる
  21. ^ 『日向守覚書』によれば、片山村(小松山)の攻防戦で後藤隊を追い崩した時、一番乗りが勝成、二番目に中山勘解由、三番目に勝俊、四番目に村瀬左馬という順だという。
  22. ^ 『黄耈雜録』によると、この道明寺河原の戦いで、宮本武蔵は橋の上で数人なぎ倒したという。
  23. ^ 菊池寛 西永達夫 株式会社文襲春秋『日木合戦言軍』
  24. ^ 『日向守覚書』
  25. ^ 菊池寛 西永達夫 株式会社文襲春秋『日木合戦言軍』より、本多忠政の誤字と思われる
  26. ^ 菊池寛「日本合戦譚」では「勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た」となっている。
  27. ^ 『九桂草堂随筆』
  28. ^ 『徳川実記』
  29. ^ a b 歴史図書社「福山領分語伝記」『続備後叢書(中)』1971年。
  30. ^ 勝成が加増の少なさを嘆いた逸話は『福山開祖・水野勝成』では伝説として紹介されている。大坂の役の戦功があまりにも大きくて過小に感じられるが、石高倍増で枢要の地の復興を任されたわけである。十分に報われている。
  31. ^ 文献に残る藩札としては最古である
  32. ^ 福山史編纂委員会編「福山市史 中巻」 1968年(1978年再版)
  33. ^ a b c 2002年度秋季特別展「水野氏五代展」-築城380周記念-
  34. ^ 菊池寛 西永達夫 株式会社文襲春秋『日木合戦言軍』より、宇多国房の誤字と思われる
  35. ^ 戸田茂睡 塚本学著 東洋文庫643『御当代記』平凡社 1998年
  36. ^ 『福山城築城三百七十年記念誌』『福山城築城三百七十年記念特別展 水野勝成とその時代 天下統一の流れと水野氏の動向』
  37. ^ 『沼隈郡誌』
  38. ^ 『常山紀談』
  39. ^ 『慶長年中卜斎記』
  40. ^ 織田信長がやった黄金の髑髏の逸話は、これに書かれている。
  41. ^ 新訂寛政重修諸家譜 6 著者: 高柳光寿
  42. ^ 水野信元の家臣神谷金七が、榊原康政が家康の旗本に抜擢を祝い、中古の具足を譲った。この具足が榊原家の家宝になったという逸話があるが、状況からみてこの長直ではないか、と思われる。
  43. ^ 新訂寛政重修諸家譜 6 著者: 高柳光寿
  44. ^ 『水野記』
  45. ^ 『三河物語』

関連項目

外部リンク