塙直之

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塙直之 / 塙団右衛門
Ban Naoyuki.jpg
太平記三十六番相撲:第三十二之番「塙直行」(落合芳幾作)
時代 戦国時代-江戸時代初期
生誕 一説には永禄10年(1567年[1]
死没 元和元年4月29日1615年5月26日
改名 不明→塙長八→塙団右衛門直之
別名 変名:時雨左之助、通称:長八、団右衛門、別名:須田次郎左衛門、塙直次、塙尚之、道号:鉄牛
墓所 泉佐野市南中樫井
主君 不明→加藤嘉明小早川秀秋松平忠吉福島正則豊臣秀頼
桜井氏[2]
桜井平兵衛直胤[2]

塙 直之(ばん なおゆき、一説には永禄10年(1567年[1] - 元和元年4月29日1615年5月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。直之の(本名)は直次あるいは尚之とも言う。通称は長八から、団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。

後世、『難波戦記』などの軍記物岩見重太郎講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でよく知られる。

概略[編集]

出自は不詳である。尾張の人で、同姓であるため、織田氏の家臣であった塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、「地黄八幡」の旗印で知られる北条左衛門大夫(綱成)に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫の徒士となったという話[6]もあり、出身地や素性も定まらない。

前歴についても不詳である。猟夫より身を起して坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てれたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、木村常陸介の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって次の雇先加藤氏に口添えしたという話[7]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。

小田原合戦の後から朝鮮出兵の前のようであるから、天正18年から天正20年の間と推測されるが、豊臣秀吉の家臣で松山の大名となった加藤左馬助嘉明に召し抱えられたことは、それぞれの話で一致する。朝鮮の役では、嘉明は青い絹四尺半の真ん中に日の丸を描いた旗印をこしらえさせたが、この旗手を近習の推薦で歩小姓であった直之に任せることとし、直之はこの目立つ旗を背中に背負って活躍し、度々武功をあげて、350石の知行を得た[7]漆川梁海戦で、敵の番船三艘を8名で乗っ取るという手柄も上げている[6]

戦役後、1000石の知行をもらう鉄砲大将に出世し、その際に地位に相応しく、塙団右衛門直之と改名したと言う。

しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時に、鉄砲大将を任されながら、命令を無視して勝手に足軽を出撃させたため嘉明の勘気を被り、「将帥の職を勤め得べからず(=お前には将の役目を勤める能力がない)」と叱責された。これに憤慨した直之は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」との漢詩を、書院の大床に張りつけると、禄を捨てて出奔した。一方、漢詩を読んだ嘉明も激怒し、奉公構を出して、諸侯が直之を雇うのを妨害した。

なお、異説では、嘉明が罪人の捕殺を塙団右衛門と藪与左衛門の二人に命じたが、与左衛門が任務を忠実に果たしたのに対して、団右衛門は寒い日であったので斬り合いの最中に悠然と火にあたって暖を取っていた。検分した嘉明は首級を挙げた与左衛門に白銀10枚を与え、団右衛門は豪胆を賞して感状を与えただけだった。後に行賞された際に、与左衛門の知行は1300石となったが、団右衛門の知行は1000石に留まり、これに不満を持った団右衛門は出奔したのであるという話もある。

小早川金吾中納言秀秋は嘉明よりも格上のために遠慮せずに彼を召し抱えて、直之は1000石の知行で鉄砲大将となったが、慶長7年(1602年)10月の秀秋の死去により主家が断絶して、浪人となった。次いで小笠原監物の知遇を得て、徳川家康の子息である松平薩摩守忠吉に仕えたが、こちらも慶長12年(1607年)3月に死去して断絶し、再度浪人することになった。次いで福島正則馬廻として召し抱えて1000石の知行を与えていたが、名古屋城築城の際(慶長14年)に、嘉明が正則に直に抗議して奉公構を守るように迫ったために、罷免された。

この様な経緯から任官を諦めて、妙心寺の大龍和尚のもとに寄宿し、一時期は剃髪して仏門に入って「鉄牛」を称したが、刀脇差しを帯びた姿で托鉢をして檀家の不興を買った。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まると、直之は還俗。山縣三郎右衛門なるものを家来としてまずは近江路へと進んだが、関東方(徳川方)は多勢で功をあげても禄は期待できないが豊臣方ならば大功上げれば大名にもなれると相談し、決心して引き返して豊臣方に参加することになった。浪人衆の1人として大将大野治房の組に預けられ、和議が迫った頃、志願して夜襲の許可を得て、11月17日、直之は米田監物と共に蜂須賀至鎮の陣に夜襲をし、その家臣中村右近を討ち取るなど戦果をあげた。その際、直之は本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせた。これは嘉明に対して自分には将帥の才もあることを示すためだったと言われる。(本町橋の夜戦

塙直之(塙団右衛門) 墓所

翌年の大坂夏の陣では部将の1人に任じられ、緒戦における紀州攻めにおいて大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦。4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、仲が悪かった先陣の岡部大学(則綱)と競い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥った。直之は浅野家臣の田子(多胡)助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田重安の家人)らと交戦。一説には、直之は田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち取られた。異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも言う。直之の僚友の淡輪重政は、その戦死を見て、敵中に斬り込み、討死した。この時、大将の大野治房は願泉寺で食事をとっており、敗報を聞いて、慌てて退却した。大坂方では生還した岡部大学が勇士・塙直之を見殺しにしたとの批判が上がり、岡部は戦闘時は奮戦したものの退いたことを恥、一時切腹を覚悟し、落城の後には名を変えて隠棲した。

直之の墓所は、大阪府泉南郡南中通村大字樫井(現在の泉佐野市南中樫井)にあり、大阪府道64号和歌山貝塚線熊野街道)沿いに、淡輪重政の墓と隣接して存在する[8]

人物・逸話[編集]

  • 文禄の役においては、加藤家の4反(およそ1.3m×10m)の大きな旗指物を背負って戦場を疾走し賞賛されたといい、樫井の戦いでは、旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を知らしめたという。これらの派手な活躍を物語る講談により、江戸時代において団右衛門の人気は高かった。
  • 『宮城県史』には、大坂の陣の際に伊達勢に捕えられた直之の娘が侍女として召抱えられ、のちに伊達政宗の側室となったという説話が紹介されている[9]。この娘が政宗四男・宗泰の生母・祥光院であるとされるが、宗泰は慶長7年(1602年)生まれなので辻褄が合わず、また伊達氏の家譜では宗泰生母の名前・出自共に不詳であるとしている。

登場作品[編集]

小説
テレビドラマ
映画
  • 塙団右衛門化物退治の巻(1935年)

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b 国史大辞典』11巻805頁
  2. ^ a b 奥出雲町の桜井家の伝承による。
  3. ^ 遠州横須賀は大須賀とも言う。現在の掛川市
  4. ^ 神沢 1905, p.123
  5. ^ 土屋知貞私記』
  6. ^ a b 国史研究会 1915, p.202
  7. ^ a b 『武功雑記』より。近藤 1930, p.12
  8. ^ 淡輪重政の墓は誤伝により、徳川方と間違って信じられ打ち捨てられていたが、350回忌で建て直された。
  9. ^ 中山栄子「伊達政宗をめぐる女性」『宮城県史』29 人物史(1986)281頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]