柏戸剛
柏戸 剛(かしわど つよし、本名:富樫 剛(とがし つよし)、1938年(昭和13年)11月29日 - 1996年(平成8年)12月8日)は、大相撲の力士で、第47代横綱。山形県東田川郡山添村(のちの櫛引町、現鶴岡市)出身。鶴岡市名誉市民。現役時代の体格は188cm、144kg。妻は小結櫻錦の娘。
来歴
入門~「ハイティーン・トリオ」
果樹園などを営む豪農の家に生まれ、山形県内有数の進学校である山形県立鶴岡南高等学校に進学するが、1年生のときにスカウトされ、1954年9月、蔵前国技館落成の場所に初土俵を踏む。それまでの暫定的な国技館とは異なる本格的な国技館開館の場所に初土俵を踏んだことで後に「こんなすばらしい所で相撲が取れると思うと感動した」と語った。若い頃から期待され幕下時代には既に「伊勢ノ海部屋の富樫を知っているか、未来の横綱だぞ」と言われていたという。1957年11月場所に十両昇進、1958年9月場所本名の富樫のままで入幕、当時19歳で同時期に入幕した若秩父・豊ノ海と「ハイティーン・トリオ」と呼ばれた。1959年3月場所から伊勢ノ海部屋の伝統の四股名柏戸(11代)を襲名。
東小結で迎えた1960年1月場所、この場所新入幕で初日から11連勝の大鵬の止め役として12日目に割が組まれた。記者達に囲まれ「明日は全勝の新入幕大鵬ですが自信の程はいかがですか」とマイクを出されると「番付を見ろ、儂は小結だぞ」と一蹴したが本当は負けはしないかと思っていたという。それでも左下手出し投げで倒して面目を保ちこの場所9勝6敗で翌場所関脇に昇進。同年9月場所新大関、翌1961年1月場所に13勝2敗で初優勝。場所後にエールフランスからヨーロッパ旅行に招待されたが、テヘラン空港で髷を見た人から、同行した春日野親方(元横綱栃錦)の妻と勘違いされたというエピソードがある。
横綱同時昇進、「柏鵬時代」
同年9月場所に12勝3敗、優勝決定戦では平幕の明武谷は倒すが大鵬に敗れ優勝はできず、星数も直前3場所で33勝と全くの不足ではあるが大鵬とともに横綱昇進を果たした。史上4例目の横綱同時昇進である。歴代の柏戸には大関はいるが横綱は初めて[1]である。時に22歳9ヶ月、大鵬とともに照國の最年少昇進記録を上回った(現在は歴代5位)。ともあれこれで太古の白鳳時代を捩った「柏鵬時代」も本格的に展開するとみられていた。
ところが昇進後は怪我や病気で休場続きで、4場所連続の休場から再起をかけた1963年9月場所には解説玉の海の「柏戸に勝たせたいねえ」の声が聞こえたか大鵬との千秋楽全勝決戦を制して全勝で昇進後初となる2度目の優勝。これ以上はない見事な復活に日本中が感動し、柏戸は支度部屋で号泣した。だが、この取組をみた石原慎太郎が、新聞に八百長の疑惑を寄稿した。大鵬自身はビデオを見て自分の驕りだったとは感じたが勿論激怒し、時津風理事長の問いに対し「絶対に八百長はやっていない」と断言した。これを受け、協会は石原を告訴する準備をした。この件は石原側が謝罪する事で和解した。ただし高鐵山は後に自著『八百長』の中で石原発言を支持し「初めて大掛りな注射相撲をしたのが柏戸さん。」と記している。皮肉にもこの件で大鵬と柏戸の仲は良くなった。
翌1964年3月場所で再び大鵬と千秋楽全勝決戦となったが今度は大鵬が勝った。その後も病魔に付きまとわれて好不調の波が激しく休場も多かったため優勝回数が伸びず連覇はなかった。しかも後から横綱に昇進した同い年の栃ノ海や佐田の山が先に引退してしまい、自分が引退すれば横綱は大鵬だけになるなどの事情からすぐには引退できず現役を続けていたが晩年は肝臓や腎臓を病み成績不振も多かった。故障も多く時津風理事長が「柏戸の体は瀬戸物でできているみたいだ」と嘆いたこともある。
優勝回数こそ5回で大鵬の32回と比べると少ないように見えるが、横綱を務めること約8年で在位47場所(歴代6位)、優勝に準ずる成績を残すこと15回で勝率も低いとはいえない為、大鵬との相性のよさを差し引いても当時を知る人の中では柏戸を「弱い横綱」と評する人は少ない。大関時代までの大鵬にとっては最強の壁であり大関時代までは柏戸7勝、大鵬3勝だった。その後大鵬が勝ち込み10勝10敗で並んでから16勝16敗までは全く雁行し、真に両雄伯仲の柏鵬時代を顕した。「優勝大鵬、対戦柏戸」と言われたが最後は5連敗し、通算対戦成績は柏戸16勝、大鵬21勝。(一方大鵬の弟弟子、麒麟児を苦手とし、通算成績でも8勝9敗で負け越している。)
下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。
場所 | 柏戸成績 | 大鵬成績 | 優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1962年(昭和37年)11月場所 | 12勝3敗 | 13勝2敗 | 大鵬 | 千秋楽柏戸3敗、大鵬1敗で対戦 柏戸勝利。 |
1963年(昭和38年)9月場所 | 15勝0敗 | 14勝1敗 | 柏戸 | 千秋楽全勝同士相星決戦で、柏戸勝利。 |
1964年(昭和39年)3月場所 | 14勝1敗 | 15勝0敗 | 大鵬 | 千秋楽全勝同士相星決戦で、大鵬勝利。 |
1966年(昭和41年)5月場所 | 12勝3敗 | 14勝1敗 | 大鵬 | 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 大鵬勝利。 |
1966年(昭和41年)7月場所 | 12勝3敗 | 14勝1敗 | 大鵬 | 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 大鵬勝利。 |
1966年(昭和41年)9月場所 | 13勝2敗 | 13勝2敗 | 大鵬 | 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 柏戸勝利。優勝決定戦では、大鵬勝利。 |
1967年(昭和42年)5月場所 | 13勝2敗 | 14勝1敗 | 大鵬 | 千秋楽柏戸2敗、大鵬全勝で対戦 柏戸勝利。 |
- 柏鵬両雄の千秋楽優勝圏内の対戦は、5度実現した。(そのうち、相星決戦は2度で全勝対決である。)
- 上記の場所において、柏戸は、1963年9月場所を除いて、全て優勝同点もしくは準優勝である。
また、当時は系統別で割が組まれたが柏戸だけは孤立無援、土俵入りでは露払いも太刀持ちも他の一門(例えば時津風一門、現在では同門だが当時は別だった)から借りていた。弟弟子の藤ノ川が入幕するまで同門が幕内に1人もおらず横綱以下役力士全員と戦わねばならないなどの不利もあったがこれを考えてもやはり立派な成績だといえる。しかし引退の記者会見では『柏鵬時代などと言われたが、むこうは成績も立派で自分は怪我も多く優勝回数も少なく恥ずかしかった。』と語った。
2人の全盛期、後に大鵬が自伝のタイトルにも使った「巨人、大鵬、卵焼き」に対して「大洋(阪神という説もある)、柏戸、水割り」という言葉があった(因みに、柏戸は海老の天麩羅が大好物で一度に130匹食べたことがあるという)。子供ウケの大鵬に対して大人ウケの柏戸という意味があったらしい。その大人ウケしたという取口は立合いから左前褌右おっつけで一気に突進するというもので土俵際でも慎重に腰を落とすという定石をも無視し、一気に長身を利用し覆い被さるように相手を押し倒すという豪快なもので、相手が横に動くとあっさり負けることもあったがその破壊力は誰からも恐れられていた。若乃花でさえも横に動いて突進をかわしての投げで決めたことがあったというからその凄さがわかるだろう。その若乃花も柏戸に初めて敗れたことで引退を本格的に考え始めたとされている。また四つ相撲が全く駄目というわけではなく、得意は速攻だったが組んで動きが止まってもそれなりの力は発揮した。若き日は「角界のサラブレッド」とも呼ばれていたが、体が硬く性格も無器用なことから師匠伊勢ノ海は徹底して速攻を仕込んだといわれ、本人も「マゲを切るまで突っ走る」思いで速攻にこだわった。ただしその取り口ゆえかポカが多く強い時には誰にも止められなかったが弱い時には思わぬ相手に負けることもあり好不調の波が激しかった。
柏鵬 全対戦一覧
柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所~1969年5月場所の57場所間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 柏戸勝敗 (通算成績) |
大鵬勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1960年1月場所 | 12日目 | ○(1) | ●(0) | 栃錦 | 初対戦 |
1960年3月場所 | - | - | - | 若乃花 | 対戦なし。 |
1960年5月場所 | 12日目 | ●(1) | ○(1) | 若三杉 | |
1960年7月場所 | 8日目 | ○(2) | ●(1) | 若乃花 | |
1960年9月場所 | 9日目 | ○(3) | ●(1) | 若乃花 | 柏戸新大関 |
1960年11月場所 | 14日目 | ●(3) | ○(2) | 大鵬(1) | |
1961年1月場所 | 11日目 | ○(4) | ●(2) | 柏戸(1) | 大鵬新大関 |
1961年3月場所 | 11日目 | ○(5) | ●(2) | 朝潮 | |
1961年5月場所 | 14日目 | ○(6) | ●(2) | 佐田の山 | |
1961年7月場所 | 14日目 | ●(6) | ○(3) | 大鵬(2) | |
1961年9月場所 | 14日目 | ○(7) | ●(3) | 大鵬(3) | |
1961年11月場所 | 14日目 | ●(7) | ○(4) | 大鵬(4) | 柏鵬両者新横綱 |
1962年1月場所 | 千秋楽 | ●(7) | ○(5) | 大鵬(5) | |
1962年3月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(5) | 栃ノ海 | |
1962年5月場所 | 千秋楽 | ●(8) | ○(6) | 佐田の山 | |
1962年7月場所 | 千秋楽 | ●(8) | ○(7) | 大鵬(6) | |
1962年9月場所 | 千秋楽 | ●(8) | ○(8) | 大鵬(7) | |
1962年11月場所 | 千秋楽 | ○(9) | ●(8) | 大鵬(8) | |
1963年1月場所 | - | - | - | 大鵬(9) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1963年3月場所 | - | - | - | 大鵬(10) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1963年5月場所 | - | - | - | 大鵬(11) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1963年7月場所 | - | - | - | 富士錦 | 柏戸休場により対戦なし。 |
1963年9月場所 | 千秋楽 | ○(10) | ●(8) | 柏戸(2) | 千秋楽全勝同士相星決戦 |
1963年11月場所 | 千秋楽 | ●(10) | ○(9) | 栃ノ海 | |
1964年1月場所 | 千秋楽 | ●(10) | ○(10) | 大鵬(12) | |
1964年3月場所 | 千秋楽 | ●(10) | ○(11) | 大鵬(13) | 千秋楽全勝同士相星決戦 |
1964年5月場所 | - | - | - | 栃ノ海 | 柏戸休場により対戦なし。 |
1964年7月場所 | - | - | - | 富士錦 | 柏戸休場により対戦なし。 |
1964年9月場所 | - | - | - | 大鵬(14) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1964年11月場所 | - | - | - | 大鵬(15) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1965年1月場所 | - | - | - | 佐田の山 | 柏戸休場により対戦なし。 |
1965年3月場所 | - | - | - | 大鵬(16) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1965年5月場所 | 13日目 | ○(11) | ●(11) | 佐田の山 | |
1965年7月場所 | 11日目 | ○(12) | ●(11) | 大鵬(17) | |
1965年9月場所 | 12日目 | ○(13) | ●(11) | 柏戸(3) | |
1965年11月場所 | - | - | - | 大鵬(18) | 柏戸休場により対戦なし。 |
1966年1月場所 | - | - | - | 柏戸(4) | 大鵬休場により対戦なし。 |
1966年3月場所 | 千秋楽 | ●(13) | ○(12) | 大鵬(19) | |
1966年5月場所 | 千秋楽 | ●(13) | ○(13) | 大鵬(20) | 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 |
1966年7月場所 | 千秋楽 | ●(13) | ○(14) | 大鵬(21) | 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 |
1966年9月場所 | 千秋楽 | ○(14) | ●(14) | 大鵬(22) | 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 優勝決定戦は、大鵬勝利。 |
1966年11月場所 | 千秋楽 | ●(14) | ○(15) | 大鵬(23) | |
1967年1月場所 | 千秋楽 | ●(14) | ○(16) | 大鵬(24) | |
1967年3月場所 | 14日目 | ○(15) | ●(16) | 北の富士 | |
1967年5月場所 | 千秋楽 | ○(16) | ●(16) | 大鵬(25) | |
1967年7月場所 | - | - | - | 柏戸(5) | 大鵬休場により対戦なし。 |
1967年9月場所 | 14日目 | ●(16) | ○(17) | 大鵬(26) | |
1967年11月場所 | - | - | - | 佐田の山 | 大鵬休場により対戦なし。 |
1968年1月場所 | - | - | - | 佐田の山 | 大鵬休場により対戦なし。 |
1968年3月場所 | - | - | - | 若浪 | 大鵬休場により対戦なし。 |
1968年5月場所 | - | - | - | 玉の海(当時玉乃島) | 両者休場により対戦なし。 |
1968年7月場所 | - | - | - | 琴桜 | 大鵬休場により対戦なし。 |
1968年9月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(18) | 大鵬(27) | |
1968年11月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(19) | 大鵬(28) | |
1969年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(20) | 大鵬(29) | |
1969年3月場所 | - | - | - | 琴桜 | 大鵬休場により対戦なし。 |
1969年5月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(21) | 大鵬(30) |
- 両者横綱昇進以前の対戦成績(1961年9月場所まで)は、柏戸の7勝3敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1961年11月場所以降)は、大鵬の18勝9敗であった(優勝回数も、1961年11月場所以降、柏戸4回、大鵬29回)。
引退後
1969年7月場所、初日高見山に押し込まれ土俵際危ういところ叩き込みで辛勝。2日目麒麟児に吊り出しで敗れ、翌3日目には朝登に左ノド輪から一気の押し出しで連敗、引退を声明した。
引退後は後援者らの薦めで独立、鏡山部屋を興し、自身の現役時代の戦場だった蔵前国技館最後の本場所となる1984年9月場所で優勝した多賀竜などを育てた。多賀竜は師匠没後、鏡山部屋を継承した。
1996年12月8日、58歳で亡くなる。腎臓病の悪化は深刻で、亡くなる数年前には人工透析を受け続けた副作用で骨が弱くなり、大鵬に「おい、見てくれよ、脚こんなになっちゃったよ」と言っていたという。これを見たかつての好敵手は少しでもよくなるようにと考えてカルシウム剤を渡したという。
記者クラブ担当を経て審判部長を12年間も勤めたが、物言いの際に経過を説明しない、旭富士の横綱昇進を中々答申しなかったり、1993年5月場所千秋楽の若花田-小錦戦での微妙な勝負に物言いをつけなかったりと、素人筋からの評判は散々だった。ただし副部長在任時の若三杉-荒勢の一番で、双方が待ったを連発した際には再三土俵下から大声で怒鳴りつけ、終いには審判団全員が土俵に上がり両者に注意するなど、待ったや立合いの焦らし、時間前の睨み合いなどには厳しい姿勢を見せた。
強面でぶっきらぼうだが、前述の復活優勝の際のように涙もろくやさしい一面もあった。テレビ番組で娘の作文に涙したり、長期休場期間中にリハビリで立ち寄った塩原温泉郷では、地元の中学校を訪問し子供たちと遊びバレーボールやテニスを地元の学生と楽しむなど大変好かれたというエピソードもある。そして休場明けに優勝すると、塩原に凱旋し中学校に優勝賜杯を模したカップを贈った。そのカップは40年以上を経た現在でも運動会の応援合戦の優勝チームの表彰に使われている。
主な成績
通算成績
- 通算成績:715勝295敗140休
- 幕内成績:599勝240敗140休 勝率.714
- 横綱成績:407勝147敗140休 勝率.735
- 幕内在位:66場所
- 横綱在位:47場所
- 大関在位:7場所
- 三役在位:5場所(関脇3場所、小結2場所)
- 年間最多勝:1966年(71勝19敗)、1967年(70勝20敗・大鵬と勝ち星が同数)
- 連続6場所勝利:73勝(1966年9月場所~1967年7月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:21場所(1959年7月場所~1962年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:16場所(歴代7位、1960年5月場所~1962年11月場所)
- 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1966年5月場所~1966年9月場所)
各段優勝
- 幕内最高優勝:5回 (全勝1回、同点1回)
- 十両優勝:1回(1958年3月場所)
- 幕下優勝:1回(1956年5月場所)
三賞・金星
- 三賞:8回
- 殊勲賞2回
- 敢闘賞2回
- 技能賞4回
幕内での場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1954年 (昭和29年) |
x | x | x | x | (前相撲) | x |
1955年 (昭和30年) |
東序ノ口12枚目 6–2 |
東序二段37枚目 6–2 |
西三段目84枚目 5–3 |
x | 東三段目62枚目 3–5 |
x |
1956年 (昭和31年) |
東三段目66枚目 7–1 |
西三段目20枚目 6–2 |
西幕下69枚目 8–0 |
x | 西幕下17枚目 4–4 |
x |
1957年 (昭和32年) |
西幕下16枚目 5–3 |
西幕下8枚目 4–4 |
東幕下8枚目 7–1 |
x | 西幕下筆頭 5–3 |
西十両22枚目 8–7 |
1958年 (昭和33年) |
東十両21枚目 7–8 |
東十両22枚目 12–3 |
西十両10枚目 11–4 |
東十両4枚目 12–3 |
東前頭20枚目 9–6 |
西前頭17枚目 8–7 |
1959年 (昭和34年) |
東前頭16枚目 8–7 |
西前頭13枚目 13–2 敢技 |
東前頭4枚目 5–10 |
東前頭8枚目 9–6 |
東前頭3枚目 12–3 敢 |
東小結 8–7 |
1960年 (昭和35年) |
東小結 9–6 技 |
西張出関脇 9–6 殊 |
西関脇 10–5 技 |
東関脇 11–4 技殊 |
西大関 12–3 |
東大関 11–4 |
1961年 (昭和36年) |
西大関 13–2 |
東大関 12–3 |
東大関 10–5 |
西大関 11–4 |
西大関 12–3[2] |
東張出横綱 12–3 |
1962年 (昭和37年) |
西横綱 10–5 |
東張出横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
西横綱 12–3 |
1963年 (昭和38年) |
西横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 5–1–9[3] |
西横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 休場 0–0–15 |
西横綱 15–0 |
東横綱 10–5 |
1964年 (昭和39年) |
西横綱 12–3 |
西横綱 14–1 |
西横綱 11–1–3[3] |
西横綱 休場 0–0–15 |
東張出横綱 4–2–9[3] |
東張出横綱 2–4–9[3] |
1965年 (昭和40年) |
西横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 9–6 |
東張出横綱 12–3 |
東張出横綱 12–3[4] |
西横綱 1–1–13[3] |
1966年 (昭和41年) |
西張出横綱 14–1 |
東横綱 10–5 |
西横綱 12–3 |
西横綱大関 12–3 |
西横綱 13–2[5] |
西横綱 10–5 |
1967年 (昭和42年) |
西横綱 12–3 |
東張出横綱 11–4 |
西横綱 13–2 |
西横綱 14–1 |
東横綱 9–6 |
東張出横綱 11–4 |
1968年 (昭和43年) |
東張出横綱 9–6 |
西横綱 9–6 |
東横綱 4–4–7[3] |
東横綱 10–5 |
東横綱 9–6 |
西横綱 11–4 |
1969年 (昭和44年) |
西横綱 10–5 |
西横綱 9–6 |
東横綱 9–6 |
西横綱 引退 1–3–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
四股名変遷
- 富樫 剛(とがし つよし)1954年9月場所-1959年1月場所
- 柏戸 剛(かしわど-)1959年3月場所-1962年3月場所、1964年11月場所-1969年7月場所
- 柏戸 健志(かしわど-)1962年5月場所-1964年9月場所