日本とトルコの関係

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日土関係
JapanとTurkeyの位置を示した地図

日本

トルコ

本項目では、日本トルコの関係トルコ語: Japonya-Türkiye ilişkileri英語: Japan–Turkey relations)について概説する。漢字表記から日土関係とも稀に表記される。オスマン帝国時代(1299年 - 1922年)も含めて本稿で扱う。

歴史

前史

15世紀に入ってオスマン帝国の勢力が伸長すると、それまで陸路でアジアから香辛料を入手していたヨーロッパは通商ルートを帝国にさえぎられることとなり、新たな通商ルートの開拓の必要性に迫られた。この後ポルトガルスペイン喜望峰廻りの海洋通商ルートを開拓し、アジアにも勢力を拡大していくこととなった。すなわち1543年鉄砲伝来によってはじまる日本と欧米との接触は、オスマン帝国の勢力伸長の間接的な影響を受けて起こった出来事であると言える。

エルトゥールル号遭難事件

エルトゥールル号殉難将士慰霊碑
(和歌山県串本町)

1887年小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中でイスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1890年オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された。使節は明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没、特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した。しかし、紀伊大島の住民が救援に駆けつけ69名が救出、報せを聞いた明治天皇は直ちに医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられ、1891年、生存者は日本海軍装甲コルベット金剛比叡の2艦によりオスマン帝国に丁重に送還された。1892年には日本各地で講演を行い義捐金を集めた山田宗有がトルコに渡り、アブデュル・ハミト2世に謁見している。この事件はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。 現在、和歌山県串本町ではトルコと日本の関係についての記念館がある。

日露戦争

南下政策によって日土両国への脅威となるロシア帝国
1866年のロシア帝国
  領土
  勢力圏

1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。これはクリミア戦争1853年 - 1856年)・露土戦争1877年 - 1878年)などによってロシアからの圧力を受けていたことによるもので、両国にとって南下政策を推し進めるロシアは共通の敵であった。1905年日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では自国の勝利のように喜ばれた[1][2]。なおロシア黒海艦隊に対する封鎖を日本に協力するために行ったという解釈があるが、黒海艦隊が黒海から出ることを禁じた1841年のロンドン条約以降常に行っていたことである。

第一次世界大戦

ロシアとの歴史的な対立関係、戦艦の購入を巡りイギリスと急速に関係が悪化したこと、ドイツの強い働きかけと陰謀(黒海襲撃英語版)などにより、オスマン帝国は第一次世界大戦では同盟国側として参戦、連合国側として参戦した日本とは交戦国同士となる。敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。

戦間期

第一次世界大戦で敗戦国となったトルコは、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった(希土戦争チャナック危機)。しかし1922年からケマル・アタテュルクらの主導で祖国解放戦争が開始されトルコ共和国が成立(トルコ革命)、1923年ローザンヌ条約(日本を含む8か国が参加した)により国境が決定した。

1924年には日土の国交が樹立され、1926年には日土協会が発足。トルコでは近代化政策が進められたが、民族資本の育成や国立銀行の設立、法制面の整備などの諸改革は、日本の明治維新を手本にしたものである。1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固になった。

終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。1921年に捕虜を乗せた輸送船の平明丸がウラジオストクを出発したが、イスタンブールへの到着を目前にしてギリシャ軍に拿捕され、長期間抑留されることとなった(平明丸事件)。

第二次世界大戦

日本とトルコの関係は良好であったが、第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告した。しかし国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。

戦後

戦中に破棄された両国の国交は、サンフランシスコ平和条約によって回復した。この際トルコは日本に対して賠償金その他の請求を一切行わなかった。戦後は経済大国へと発展した日本によるトルコへの政府開発援助での支援が積極的に行われており、特にイスタンブール市内のインフラの整備などに日本の多額の資金と技術が投入されている。1985年イラン・イラク戦争では、イラン在留日本人の救出にトルコ航空機が出動、200名以上が救出されたほか、1999年のトルコ大地震の際には日本からトルコへ捜索隊・救助隊の派遣、緊急円借款供与、緊急物資・無償援助、仮設住宅供与などが行われた。ボスポラス海峡海底地下鉄のトンネルは日本の支援で行われた。地下鉄の車両は韓国に発注され、アンカラの地下鉄は中国の支援に負っている。また日本とトルコではお互い恩返しをするような関係になっている。

年表

エルトゥールル号遭難慰霊碑の紋章

貿易

二国間の貿易は、戦後は一貫して大幅なトルコの貿易赤字の状態である。

文化・経済交流

日本には多くのトルコ友好協会があり、トルコとの交流が積極的に行われている。

<トルコ政府系団体>

<トルコ政府連携友好協会>[6]

  • 日本・トルコ協会(東京)[7]
  • 大阪・トルコ協会(大阪)[8]
  • 九州・トルコ協会(福岡)[9]
  • 北海道日本トルコ友好協会(北海道)[10]
  • 日本・トルコ婦人クラブ(東京)
  • 日本トルコ文化経済交流支援協会(愛知)
  • 日本トルコ友好協会(東京)[11]
  • 砺波市トルコ友好交流協会(富山)
  • 柏崎トルコ友好協会(新潟)
  • 日本ガレノス協会(群馬)[12]
  • 日本トルコ文化協会(京都)[13]
  • 神戸・トルコ友好協会 トルコーべ(兵庫)
  • 和歌山トルコ文化協会(和歌山)
  • 串本トルコ文化協会(和歌山)[14]

外交使節

在トルコ日本大使・公使

在日トルコ大使

脚注

参考文献

  • 長場紘『近代トルコ見聞禄』 慶應義塾大学出版会(2000年)。

関連項目

外部リンク