ルドルフ・ウーレンハウト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルドルフ・ウーレンハウト
Rudolf Uhlenhaut
ウーレンハウト(1966年)
生誕 (1906-07-15) 1906年7月15日
イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没 (1989-05-04) 1989年5月4日(82歳没)
ドイツの旗 ドイツ バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト
国籍 ドイツの旗 ドイツ帝国ドイツの旗 ドイツ国ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 連合国軍占領下のドイツ西ドイツの旗 西ドイツ
職業 自動車技術者
代表作#代表作」を参照
テンプレートを表示

ルドルフ・ウーレンハウト(Rudolf Uhlenhaut, 1906年7月15日 - 1989年5月8日)は、ドイツの自動車技術者である。ダイムラー・ベンツの技術者として著名で、1930年代から1950年代にかけてのメルセデス・ベンツの自動車レース活動における車両設計で知られるほか、それらレースカーの公道仕様車である、ガルウィングドアで有名な300SLクーペや、自身の名が冠され通称される300SLR “ウーレンハウトクーペ”もそれぞれ彼の手に成るものである。

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

1906年7月、イギリスロンドンで、ウーレンハウトは当時ドイツ銀行ロンドン支店の支店長だったドイツ人の父と、ロンドンの文法学校であるトリントンスクール英語版で働いていたイギリス人の母の間に生まれた。一家は後にベルギーブリュッセル、次いでドイツのブレーメンへと移り住んだ[W 1]

ウーレンハウトは大変なスキー好きであったこともあり、近郊に良質なスキー場を多く抱えたミュンヘンは彼の心を捕らえ、ミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン)へと進み、機械工学を修めた[W 1]

ダイムラー・ベンツ[編集]

1931年、ダイムラー・ベンツに雇われたウーレンハウトは、同社本社のあるシュトゥットガルトに移り、同社のテスト部門(研究開発部門)でフリッツ・ナリンガーの下で働き、メルセデス・ベンツ170V(W136)の開発に携わった[W 1]

W125の開発[編集]

ウーレンハウトが最初に開発に携わったレーシングカー、メルセデス・ベンツ・W125

1936年のグランプリ・シーズンにメルセデスチームはメルセデス・ベンツ・W25ホイールベースを短縮するなどの変更を施したW25ショートカーを投入したが、この車両は開発に失敗し、ライバルのアウトウニオン勢に対して劣勢が明らかだった。

そのため組織再編が行われ、同年半ばにナリンガーのテスト部門の下にレーシングカーの開発を専門に扱う「レース部門」(Rennabteilung)が新設されることになり[1][2]、ウーレンハウトはその責任者に抜擢された[1]

レース部門の最初の仕事はW25ショートカーの問題箇所の分析となり、同年8月にニュルブルクリンク(北コース)でテストを行った[3]。チームのレギュラードライバーであるルドルフ・カラツィオラマンフレート・フォン・ブラウヒッチュがテスト日程を終えて去った後もウーレンハウトはサーキットに留まり、自らW25のステアリングを握って周回を重ねた[4]。ウーレンハウトはそれまでレースカーの設計経験こそなかったものの、ニュルブルクリンクは市販車のテスト走行で走りなれており、高速走行についても経験は豊富だったためレーシングカーの操縦も可能であり、自ら走り込みを行ってカラツィオラとブラウヒッチュが報告していた問題点の洗い出しを行った[4]

このテストにより、ウーレンハウトは同車の欠点がシャシー剛性の低さとサスペンションにあることを見抜き[4]、「新型車を開発したほうが良い」という結論をナリンガーに報告し、翌年に向けた新車を設計するにあたり、シャシー剛性とサスペンションの路面追従性の向上を焦点とした開発が行われることになった。

こうして完成した新たな“シルバーアローメルセデス・ベンツ・W125は、1937年のグランプリ・シーズンを席巻し、前年の雪辱を果たすことに成功した[W 1]。その翌年は、エンジン規則改正があったこともあり、新車W154を用意し、同車も1938年と翌1939年の選手権を圧倒した[W 1]

なお、W125に搭載されていたスーパーチャージャー付き直列8気筒5.6リッターエンジン(M125)はレース仕様でも600馬力近い出力を発揮していたとされており、そのため、W125はその高出力について特筆されることが多く、サーキットレースカーとしては1960年代中盤にグループ7カー(Can-AM[注釈 1]が登場するまで、グランプリカーとしては1980年代のターボ時代になるまでの期間、レース史上[注釈 2]でも最もパワフルな車だったと特記される。

第二次世界大戦[編集]

1939年のグランプリ・シーズンでは、9月に第二次世界大戦が勃発(ポーランド侵攻)したため、メルセデスチームはこの年の終盤に開催された非選手権への参戦を取りやめた。母親がイギリス人であるウーレンハウトは戦中はゲシュタポの監視対象となるが、引き続きダイムラーで働き、DB 603を初めとする、航空機エンジンのシリンダーヘッド部などの開発に携わった。

戦後、一時ダイムラー・ベンツを離れ、ドイツ国防軍が使用していたトラックを使った小さな運送会社を営んだり、イギリスで王立電気機械工兵英語版(REME)に2年ほど携わるなどの活動をした[5]

300SLの誕生[編集]

Front
300SLクーペ
レーシングカーのW194(300SL)と、公道仕様のW198(300SLクーペ)

1948年、ウーレンハウトはダイムラー・ベンツに復帰した。

1951年、当時ダイムラー・ベンツの技術担当重役となっていたナリンガーの提案により、メルセデス・ベンツのレース復帰が決定する。その決定により、再びレース部門の責任者となったウーレンハウトは、翌1952年に向けてメルセデス・ベンツ・W194英語版(300SL)を設計した。これは1951年に発売されたW186英語版のエンジン(M186エンジン英語版)を流用したレースカー[注釈 3]で、シャシーはウーレンハウトが戦前から温めていたスペースフレームのアイデアを用いて設計された。本車は、そのスペースフレームの鋼管によってサイドシルが高くなり、通常のドアを置くことは困難だったため、ウーレンハウトは上開きのガルウィングドアを採用することでその問題を解決した。

戦前に作っていたグランプリカーに比べれば小排気量の車ではあるが[注釈 4]、軽量なアルミ製ボディを採用したことで重量はおよそ860kgと軽く、1952年のル・マン24時間レースカレラ・パナメリカーナ・メヒコをともにを1-2フィニッシュで制するなど、レース復帰早々から、この車はメルセデスチームに目覚ましい成績をもたらすこととなる。

ル・マン24時間レースでの300SLの優勝について、これはドイツ車としてもドイツ国籍のチームとしてもルマン初勝利であり、ドイツ人が優勝するのもこの時のヘルマン・ラングフリッツ・リース英語版が初めてで、タイヤもコンチネンタル、そして設計者のウーレンハウトもドイツ人という、全てがドイツ製による優勝だった。その次にドイツ車がルマンで優勝するのは20年近く後の1970年ポルシェ917K[注釈 5]まで待つこととなり、ドイツの他社に対しても大きく先駆ける勝利だった。

このW194は純粋なレースカーで市販の予定はなかったが、アメリカ人の輸入車ディーラーであるマックス・ホフマン英語版がダイムラー・ベンツを説得したことにより、市販バージョンが誕生することになった[W 1]。それがメルセデス・ベンツ・W198、通称300SL(300SLクーペ)である[W 1]。ウーレンハウトは公道仕様への再設計を自ら手掛け、300SLはガルウィングドアで知られるクーペが1954年に発表され、クーペは1955年から1957年にかけて、次いで発表されたロードスター[注釈 6]は1957年から1963年にかけて販売された。

本車はメルセデス・ベンツを代表する車種のひとつとしてよく知られることとなり、登場から半世紀以上経った2009年には本車をモチーフにしたメルセデス・ベンツ・SLS AMGが発売された。

W196の圧勝[編集]

W196R streamliner
W196R
W196S
W196 (W196R)は、当初は前後のタイヤを覆ったストリームライナー仕様でデビューし、タイヤを剥き出しにしたオープンホイール仕様は参戦3戦目となる1954年ドイツグランプリから登場した。300SLR(W196S)はW196Rを2座席のレース用スポーツカー仕様に再設計したものである。

グランプリレース[注釈 7]への復帰を計画したメルセデスチームは、2.5リッターエンジン規定が導入される1954年を見据え、戦前のW154以来となる新車開発を進め、ウーレンハウトの下で完成したのがメルセデス・ベンツ・W196(W196R)である。開発の遅れにより、チームの参戦と車両の投入は同年第4戦となったが、参戦初戦のフランスグランプリでは、予選で1位と2位を占め、決勝でも1-2フィニッシュを飾り、それを皮切りに、参戦した6戦を4勝し、ファン・マヌエル・ファンジオに彼にとって2つ目のドライバーズタイトルをもたらすこととなった。

開幕戦から参戦した翌1955年もW196はライバルのランチアD50)、フェラーリマセラティ250F)らを寄せ付けず、シーズン全7戦中5勝を挙げ[注釈 8]、その5勝の内、第4戦から最終戦(第7戦)は4戦連続の1-2フィニッシュを遂げ、さらにその内の第6戦イギリスグランプリではW196に乗った4人全員で1-2-3-4フィニッシュを達成するという圧勝ぶりであった[注釈 9]

W196は2年連続でファンジオにチャンピオンシップタイトルをもたらしたが、当時のF1にはコンストラクターズタイトル(製造者部門のチャンピオンタイトル)が存在しなかったため、2年に渡ってシーズンを圧倒したにもかかわらず、メルセデスがチャンピオンタイトルを得ることはなかった。チームとしてのメルセデスがF1で世界タイトルを初めて獲得するのは半世紀以上後の2014年のこととなる。

ウーレンハウトが設計したW196は参戦した全12戦中9勝(非選手権も含めると14戦中11勝)しており、メルセデスが大きなアドバンテージを築いたままこの2年のみで活動停止したことで印象が強いこともあり、F1史上においても名車の1台に挙げられることが多い車となっている。

300SLRとウーレンハウトクーペ[編集]

1954年のW196(W196R)をベースに、2座席のレース用スポーツカー仕様に再設計して、1955年に完成させたのがメルセデス・ベンツ・300SLR(W196S)である。

300SLRは元々はクーペ仕様(屋根付き)となることが予定されていて、実際に制作されたが[注釈 10]、ドライバーからの反対意見があり、実戦で使用された車両は全てオープン仕様(屋根なし)となった。

1955年のスポーツカー世界選手権(全6戦)に第3戦から参戦し、ル・マン24時間レースを除く3戦を全て優勝(かつ1-2フィニッシュ)し、シリーズチャンピオン争いでも全戦に参戦したフェラーリを僅差で振り切り、メルセデスにチャンピオンシップタイトルをもたらした。

1955年に、ウーレンハウトが設計した車両はF1でもスポーツカー世界選手権でも結果を残したが、この年のル・マン24時間レースで起きた、観客83名とメルセデスドライバーのピエール・ルヴェーが死亡したモータースポーツ史上最悪の大事故により、ダイムラー・ベンツは1955年限りでレース活動を休止することを決めた。

1955年のこの決定以降、ウーレンハウトにレースカーを設計する機会が訪れることはなかった。

Front
Rear
300SLR ウーレンハウトクーペ。写真の車両ではマフラー(消音器)は撤去されている。同じウーレンハウトの設計になるW198(300SL)とは、ガルウィングドアを備える、名前が似ているなどの共通点があるが、設計上は全く関連がない。

レース活動の休止後、ウーレンハウトは300SLRクーペ仕様の内の1台(7号車)を公道仕様に改造した。この車はあくまでダイムラー・ベンツ所有の車両だが、ウーレンハウト自身がパーソナルカーとして使用したことから、ウーレンハウトクーペとして知られることとなる。レース用プロトタイプ車両から転用しているため、当然のことながら、当時としては最速の公道車両で、静粛性のため巨大なマフラー[注釈 11]が付けられてなお最高速は時速290kmは出たとされ[W 2]、ウーレンハウトがミュンヘンからシュトゥットガルトまでを走った際も、その距離(今日の道路で240㎞弱)をおよそ1時間で走ったとされる[6]

この“ウーレンハウトクーペ”はその後はシュトゥットガルトのメルセデス・ベンツ博物館英語版の所蔵品となっている[W 3]

その後[編集]

その後は、ダイムラー・ベンツの技術担当重役として数々の市販車の開発に携わり、1972年にダイムラー・ベンツを退職するとともに自動車設計の仕事からも引退した[7]。人材育成には関心がなかったため、後継者と呼べる人物はいなかったとされる[7]

1989年にシュトゥットガルトで死去。

人物[編集]

ドライビングエンジニア[編集]

W154
テスト用のW154を走らせるウーレンハウト(1938年)
300SLR
300SLRをテスト中のウーレンハウト(1955年)

エンジニアでありながら、レーシングドライバー並に速くレーシングカーを運転する能力を持っていたことで知られ[W 4]、自身が設計したレーシングカーのテスト走行を自らもステアリングを握って行っていた。そのため、早くから「ドライビングエンジニア」と呼ばれるようになった[W 1]

これに関連して、「レースに出て死亡したり負傷したりされると会社が大損害を被るため、レース出場を禁じられていた[注釈 12]」といった、真偽不明の逸話が伝説となって残されている[8]

よく知られているエピソードとして、「ニュルブルクリンク(北コース)におけるW196Rの走行テストでファンジオが車の性能に不平を漏らしたところ、ウーレンハウトが背広とネクタイ姿のまま運転を代わって1周3秒速いタイムを出して、"君はもう少し練習したほうが良い"と言って、ファンジオを黙らせた」という話が知られる[8][7][W 1][W 5]。この逸話も真偽は不明だが、当時のニュルブルクリンクのラップタイムはおよそ10分であり、走行するタイミングによって路面の状態も異なるため、あり得なくはない話という見解もある。

記録のある事実として、1955年ベルギーグランプリでは練習走行でW196のスペアカーの走行距離を稼ぐ必要が生じたため、ウーレンハウトもステアリングを握って参加し、その際にスターティンググリッドで上位に並べるだけのタイムを記録している[9]

「なぜ超一流のドライバーよりも速くニュルブルクリンクを走れたのか」と質問されたウーレンハウトは、自分はニュルブルクリンクのことは知り尽くしており、なおかつ単独走行だったためであると答え、レースで速く走れることとテストで速く走れることは本質的に違うことであって自分は決して優れたドライバーではない、そこは間違えないで欲しい、と語ったという[10][11]

私生活[編集]

上述のように、自動車の運転に非常に長けた人物だったが、自身で自動車を所有したことは生涯なかった[12]

晩年は補聴器を必要とするようになった。これは車の騒音により耳を痛めたためだと言われている[12]

代表作[編集]

ウーレンハウトが主導して開発した車両を以下に例示する。

レーシングカー[編集]

市販車[編集]

その他[編集]

栄典[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ エンジン排気量に上限が設定されていなかった。
  2. ^ 速度記録車は除く。
  3. ^ エンジンはM186をドライサンプ化したM194を搭載。
  4. ^ M194エンジンの排気量は流用元のM186エンジンと同じで3リッターのままだった。戦前のグランプリカーのW125は5.6リッター、3リッター規定のW154もスーパーチャージャーを搭載している。
  5. ^ この年に優勝した車両はポルシェ・ザルツブルクからエントリーしたものであり、チームの国籍はオーストリアとなる。
  6. ^ サイドシルの高さは乗降時に不都合を招いたため、ロードスターではスペースフレーム構造を見直して、サイドシルの高さを下げ、ドアもより一般的な横開きのものを採用した。
  7. ^ 戦後、1950年からフォーミュラ1世界選手権が始まった。
  8. ^ 「全7戦」には形式的に世界選手権に組み込まれていたインディ500を含む。
  9. ^ このレースはスターリング・モスがF1で初優勝したレースとなった。
  10. ^ 最終的に9台作られた300SLRの内、7号車と8号車の2台がクーペ仕様として制作された。
  11. ^ エンジン音はレーシングカーそのままだったため、公道を走るためには必要だった。
  12. ^ フリッツ・ナリンガーやマックス・ザイラーといったダイムラー・ベンツの他の技術者たちはラリーなどのレースに出場していたが、ウーレンハウトはレースには出場しておらず、その理由の一説として言われている。
  13. ^ ウーレンハウトは300SL(W198)以降、SL系は1971年発売の107系までの全てを手がけた[W 1]
  14. ^ 1954年2月に発表され、1955年に発売された[W 1]
  15. ^ 一連の車種を手がけ、この系列の車種はウーレンハウトが退職した1972年にSクラスと命名される[W 1]。いずれも共同で開発にあたった[W 1]

出典[編集]

出版物
  1. ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.160
  2. ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.50
  3. ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.161
  4. ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.162
  5. ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.271
  6. ^ www.motortrend.com”. www.motortrend.com (2007年2月26日). 2017年8月10日閲覧。
  7. ^ a b c d F1 Racing 2010年3月号、「異能の人、ルドルフ・ウーレンハウト」(Karl Ludvigsen) pp.86–89
  8. ^ a b c MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.28
  9. ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.176
  10. ^ a b グランプリ 2(中村1970)、p.178
  11. ^ a b グランプリレース(中村1979)、p.70
  12. ^ a b c MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.95
ウェブサイト
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Rudolf Uhlenhaut, the developer” (英語). Mercedes-Benz AG. 2018年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
  2. ^ Nick D (2016年4月18日). “1955 Mercedes-Benz 300 SLR Uhlenhaut Coupe”. Supercars.net. 2017年8月10日閲覧。
  3. ^ Mercedes-Benz 300 SLR” (英語). M@RS - The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
  4. ^ Sampling the 300SL Mercedez-Benz” (英語). Motor Sport Magazine. p. 23 (1954年11月). 2017年11月22日閲覧。
  5. ^ Leif Snellman (2001-Autumn). “Rudolf Uhlenhaut, the Mercedes-Benz tech brain” (英語). Autosport.com (8W). 2021年6月28日閲覧。

参考資料[編集]

書籍
  • 中村良夫『グランプリ 2 わが仲間たち』二玄社、1970年10月。ASIN 4544040051ISBN 4544040051 
  • 中村良夫『グランプリレース ──ホンダF-1と共に──』山海堂、1979年12月25日。ASIN B000J8BT9ONCID BA34300064 
    • 中村良夫『F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968──』三樹書房、1988年8月。ASIN 4895221296 
    • 中村良夫『F-1グランプリ ──ホンダF-1と共に 1963~1968── 愛蔵版』三樹書房、1998年10月。ASIN 4895222330NCID BA45272539 
  • Karl Ludvigsen (1995-06) (英語). Mercedes-Benz Quicksilver Century. Transport Bookman Publications. ASIN 0851840515. ISBN 0-85184-051-5 
  • 菅原留意(著・作図)『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ 1934-1955』二玄社、1997年1月20日。ASIN 4544040531ISBN 4-544-04053-1NCID BA31839860 
  • 宮野滋(著)『メルセデス・ベンツ 歴史に残るレーシング活動の軌跡 1894-1955』三樹書房、2012年4月25日。ASIN 4895225895ISBN 978-4-89522-589-2NCID BB09549308 
    • 宮野滋(著)『メルセデス・ベンツ 歴史に残るレーシング活動の軌跡 1894-1955 [新装版]』三樹書房、2017年。ASIN 4895226719ISBN 4-89522-671-9 
雑誌 / ムック
  • 『F1 Racing』
    • 『F1 Racing 2010年3月号』三栄書房、2010年3月。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]