フェラーラ

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フェラーラ
Ferrara
フェラーラの風景
フェラーラの紋章
紋章
行政
イタリアの旗 イタリア
エミリア=ロマーニャ州の旗 エミリア=ロマーニャ
県/大都市 フェラーラ
CAP(郵便番号) 44100
市外局番 0532
ISTATコード 038008
識別コード D548
分離集落 一覧を参照
隣接コムーネ アルジェンタバリチェッラ (BO)、 ボンデーノカナーロ (RO)、 コッパーロフィカローロ (RO)、 フォルミニャーナガイバ (RO)、 マージ・トレッロオッキオベッロ (RO)、 オステッラートポッジョ・レナーティコスティエンタ (RO)、 トレジガッロヴィガラーノ・マイナルダヴォギエーラ
公式サイト リンク
人口
人口 133,591 人 (2007年12月31日)
人口密度 329.65 人/km2
文化
住民の呼称 ferraresi, estensi
守護聖人 聖ジョルジョ (San Giorgio)
祝祭日 4月23日
地理
座標 北緯44度50分0秒 東経11度37分0秒 / 北緯44.83333度 東経11.61667度 / 44.83333; 11.61667座標: 北緯44度50分0秒 東経11度37分0秒 / 北緯44.83333度 東経11.61667度 / 44.83333; 11.61667
標高 9 m
面積 404.26 km2
フェラーラの位置(イタリア内)
フェラーラ
フェラーラの位置
イタリアの旗 ポータル イタリア
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フェラーラ (Ferrara) は、人口約13万人のイタリア共和国エミリア=ロマーニャ州の街で、フェラーラ県県都である。

ポー川の支流ヴォラーノ川流域にあるフェラーラ14世紀エステ家によって整備された。ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えたが、エステ家は1598年、フェラーラから追放され、フェラーラは教皇領に編入される。

現在エステ城が一般に公開されている。また1995年にはフェラーラのルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯世界文化遺産に登録されている。

歴史

フェラーラの発祥は定かでない。一部が支持する古代のフォルム・アリエニ(Forum Alieni)の場所を占めていないようだ。おそらくポー川河口の潟の住民らが移住してきたものだろう。そこには2つの初期定住地があった。一つには聖堂があった[1]。もう一つはカストルム・ビザンティノ(castrum bizantino)といい、対岸のサン・ピエトロ地区になった。フェラーラが最初に記録に現れるのは、7世紀にラヴェンナ総督府の一部となってからである。8世紀にはカール大帝に征服され教皇国家の一部となった。984年にはカノッサ・モデナ伯のテダルド・ディ・カノッサマティルデ・ディ・カノッサの祖父)に封された。のちには自治都市となり、1101年にはマティルデ・ディ・カノッサ軍に包囲されている。この時、主に数家ある豪族(アデラルディ家など)に支配されていた。

エステ家

1146年、アデラルディ家最後の主グリエルモ2世アデラルディが死ぬと、その財産は姪マルケセッラの夫オビッツォ1世デステへと継承された。その後、新たに入ってきたエステ家と地元貴族らの軋轢が表面化する。オビッツォ2世デステが1264年に民衆の支持を得て、フェラーラを正式に自身のシニョリーアとした。1289年にはモデナのシニョーリに選ばれ、翌1290年にはレッジョ領主にもなった。

1393年にフェラーラ侯となったニッコロ3世デステローマ教皇に重用された。特にエウゲニウス4世はフェラーラで公会議を開催した。ニッコロ3世の子ボルソ・デステは1452年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、帝国封土としてボルソをモデナとレッジョの公とした。1471年、ボルソは教皇パウルス2世によってフェラーラ公とされ、フェラーラ公国が成立した。エルコレ1世・デステヴェネツィア共和国との戦いに参加し、フェラーラをさらに繁栄させた。エルコレ1世は、メディチ家以後の15世紀後半から16世紀前半にかけての芸術後援者の一人であり、フェラーラは特に音楽で名声高い文化都市となった。フェラーラへヨーロッパ各国から音楽家が集まってきた。ジョスカン・デ・プレは宮廷で働き、ヤーコプ・オブレヒトは2度フェラーラを訪問した。アントワーヌ・ブリュメルは1505年以後、宮廷第一の音楽家であった。エルコレ1世の子アルフォンソ1世・デステも同様に音楽家を保護した。彼は器楽曲を好んだので、フェラーラではリュートが盛んになった。

アルフォンソ1世はボルジア家ルクレツィアを妻に迎え、ヴェネツィアとの戦いを続行しこれに勝利した。1509年に彼は教皇ユリウス2世から破門されるが、1512年にラヴェンナ包囲戦に勝利している。エルコレ2世・デステはフランス王女ルネと結婚、彼の時代もさらに繁栄が続いた。

1559年に公位についたアルフォンソ2世・デステは、トルクアート・タッソ、哲学者チェーザレ・クレモニーニの後援者として知られる。彼はフェラーラの地位を最高に高めた人物であったが、3度の結婚で嫡子を残すことができず、1597年に教皇クレメンス8世によってコマッキオと同様に後継者不在の封土を返還要求されることになる。庶系のフェラーラ公チェーザレ・デステを教皇と皇帝ルドルフ2世は認めず、1598年にフェラーラ公国は教皇領となった。

1796年フランスに占領され、チスパダーナ共和国の一部となり、翌年にはチザルピーナ共和国となった。フランス撤退後は教皇領に戻り、1859年サルデーニャ王国に併合された。

地震

イタリア北部地震で被害を受けた。

みどころ

世界遺産 フェラーラ:ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯
イタリア
英名 Ferrara, City of the Renaissance, and its Po Delta
仏名 Ferrare, ville de la Renaissance, et son delta du Pô
登録区分 文化遺産
登録基準 (2) (3) (4) (5) (6)
登録年 1995年
拡張年 1997年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

フェラーラは現在も、15世紀から16世紀にかけつくられた9km以上の市壁に囲まれている。歴史地区(特に、15世紀にエルコレ1世・デステが建設させた北地区)には、初期ルネサンス様式のテラコッタ装飾が施された宮殿・邸宅が多い。

コムーネの行政

  • 代表: Gaetano Sateriale(2004年6月14日選出)
  • 気候区分: zona E, 2326 GR/G

分離集落

Aguscello, Albarea, Baura, Boara, Borgo Scoline, Bova, Casaglia, Cassana, Castel Trivellino, Chiesuol del Fosso, Cocomaro di Cona, Cocomaro di Focomorto, Codrea, Cona, Contrapò, Corlo, Correggio, Denore, Focomorto, Francolino, Gaibana, Gaibanella Sant'Egidio, Malborghetto di Boara, Malborghetto di Correggio, Marrara, Mezzavia, Monestirolo, Montalbano, Parasacco, Pescara, Pontegradella, Pontelagoscuro, Ponte Travagli, Pontelagoscuro, Porotto, Porporana, Quartesana, Ravalle, Sabbioni, San Bartolomeo in Bosco, San Martino, Spinazzano, Torre della Fossa, Uccellino, Viconovo, Villanova

姉妹都市

交通

FSの鉄道駅としてフェラーラ駅が、パードヴァボローニャの途中にある。また、フェラーラ地下鉄が2006年に開通している。

高速道路はアウトストラーダ A13RA08が通っている。

出身またはゆかりのある有名人

世界遺産基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

関連項目

その他のコムーネ:

脚注

  1. ^ The See was moved here from Vicohabentia (Voghenza) in 624 (Chronology of Catholic dioceses: Italy).

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