国鉄C53形蒸気機関車

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梅小路蒸気機関車館のC5345

C53形蒸気機関車(C53がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省アメリカから輸入したC52形を解析の上、国産化した3シリンダー型のテンダー式蒸気機関車である。

目次

[編集] 製造

汽車製造川崎車輛の2社により、1928年から1929年の間に97両が量産された。その状況は次のとおりである。

  • 1928年 : C53 1 - 53(53両)
  • 1929年 : C53 54 - 97(44両)
  • 汽車製造(47両)
    • C53 1 - 16(製造番号996 - 1011)
    • C53 43 - 53(製造番号1038 - 1049)
    • C53 57 - 59(製造番号1076 - 1078)
    • C53 71 - 80(製造番号1093 - 1097, 1104 - 1108)
    • C53 91 - 97(製造番号1152 - 1158)
  • 川崎車輛(50両)
    • C53 17 - 42(製造番号1241 - 1247, 1254 - 1272)
    • C53 54 - 56(製造番号1303 - 1305)
    • C53 60 - 70(製造番号1322 - 1332)
    • C53 81 - 90(製造番号1375 - 1384)

[編集] 開発の背景

大正時代は客車が大型化し、ボギー車が主流となったが、重量やコストの事情で車体の材料としては相変わらず木材が用いられていた。その折1926年9月23日山陽本線において特急第1列車(後の特急「富士」)が豪雨による築堤崩壊により脱線転覆、車両は大破し、多数の犠牲者を出した。この列車は当時の国際連絡ルートの一翼を担う最高級列車であり、もし客車が鋼製車体であったならば死傷者数は激減していたのではないかと推定され、世論は紛糾した。

そこで翌年度以降鉄道省は従来のナハ22000スハ28400系大形木造客車の新造を中止し、新設計のオハ31系鋼製客車への切り替えを開始したが、この際一つの問題が発生した。従来量産されていた木造車であれば軽いもので「ナ」級(27.5~32.5t未満)、重い20m級3軸ボギー車でも大半が「ス」級(37.5~42.5t未満)以下であった各車の自重が、鋼製化に伴い増大して少なくとも1ランク(5t)重量区分が上がり、さらに1929年より製造が開始されたオハ31系の後継となるスハ32系では従来17m級であった一般型客車が優等車と同様の20m級に変更されたこともあって、各列車の牽引定数が50t以上、場合によっては100t近くも増大したのである。

それは列車重量の約20%増大を意味しており[1]、従前の主力大型機関車であるC51形でも力不足となることが見込まれた。当時の技術では2シリンダー機関車としてはC51形を上回る性能を持つ機関車を製造することは困難と判断され、鋼製客車けん引用としては当時諸外国で実用化されていた3シリンダー機関車を採用するのが適当と結論された。

3シリンダー機とは、台枠の左右両側だけではなく車両中央線上にもほぼ同型のシリンダーを持つ蒸気機関車である。シリンダーの数を増やすことにより、通常の蒸気機関車に比べ牽引力が増す[2][3]。もっとも当時は満鉄がミカニを導入し、内地のメーカーに製造させ成功していたものの、鉄道省自身には3シリンダー機の開発経験はなく、鉄道省初の3シリンダー機の開発を前にして1926年8200形米国アメリカン・ロコモティブ社(American Locomotive Company)より輸入[4]され、シリンダブロック周辺など三気筒機の特色となる部分は朝倉希一により「大学を出たばかりの頭の柔らかい新人に任せよう」という判断で当時新進の島秀雄が研究を担当し、連動テコを細くする等の改悪を行った以外はほぼコピーした。その他にも、各種補機を含む以後の新型蒸気機関車設計の研究が行われている。

[編集] グレズリー式弁装置

本形式に採用されたグレズリー式連動弁装置は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の技師長 (Chief Mechanic Engineer:CME) であったナイジェル・グレズリー卿が考案した、単式3シリンダー機関車のための弁装置である。

これは通常のワルシャート式弁装置を基本として、その左右のピストン弁の尻棒の先端に連動大テコ(2 to 1 Lever:右側弁の尻棒と連動小テコの中央部に設けられた支点とを結び、中央部で台枠とピン結合される)・連動小テコ(Equal Lever:中央弁の尻棒と左側弁の尻棒を結ぶ)の2つのテコの働きにより、左右のシリンダーのバルブタイミングから差動合成で台枠中央部に設けられたシリンダーのバルブタイミングを生成する、簡潔かつ巧妙な機構である。

もっとも、特に大きな力がかかり、なおかつタイミングを正しく維持するために狂いが許されない2本の連動テコについては、支点に用いられる可動ピンを含め剛性、耐摩耗性、工作精度のすべてにおいて高水準を維持することが求められたが、それに見合う高度な保守技術を堅持できた鉄道会社は限られていた。

本機においては、参考にした8200形に比べ連動テコを細くしたため高速で動作する際の変形を招き、なおかつリンクの動作中心をピストン弁中心に合わせるのではなくリンクの回転円の外端をピストン弁中心に合わせて設計してあるため、磨耗も変形も無い状態でもグレズリー式弁装置一般に比べ中央気筒の動作が理論値から大きく外れ、中央気筒のみ異常な過大出力が発生したり、ピストンの背圧がクランク回転角によっては正圧よりも大きくなって不動現象の原因になるなど、設計は不適当なことこの上なく、島秀雄自身と、彼に一任した朝倉希一の見識が共に疑われる。後に中央クランクの給油が問題になるのも給油ラインを設けなかったことも含めて弁装置の不具合が原因である。

[編集] 鉄道省唯一の日本製3シリンダー機

C53の第3シリンダー
(写真中央)

東海道本線山陽本線において特急・急行列車牽引用の主力として運用された。設計主任は伊東三枝(国鉄DC11形ディーゼル機関車設計製造監督)。

しかし、構造が複雑で部品点数が多いため整備検修側からは嫌われた。設計そのものもシリンダー周りを担当した島秀雄をはじめとして3シリンダー機構の理解が不十分であり、連動大テコに軽め穴を不用意に設けて曲げ剛性を低下させたり、不用意に台枠を細くしC52よりもボイラー受けを一つ減らすなどして台枠の剛性を低下させるなど、設計陣が枝葉末節にとらわれ、全体を見ずその本質を見失っていた形跡が散見され、これらは運用開始後、台枠の剛性不足による亀裂多発、連動テコの変形による第3シリンダーの動作不良頻発と起動不能などといった重大なトラブルの原因となった。

前述の改悪に加え、軌間の狭さに由来する弁装置周りの余裕の無さという致命的なマイナス要因があったため、特にメタル焼けが多発した第3シリンダー主連棒ビッグエンドへの注油には想像を絶する困難[5]が伴うなど、およそ成功作とは言い難かった[6]

このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が使用されている[7]。なお、燕の名古屋以西の牽引機は程なくC53形が担当することとなった(沼津電化後は沼津以西をC53形が担当)。また、本形式の一部には特急・急行列車のロングラン運用に備え炭水車を標準的な12-17形からD50形初期車が使用していた20立方米形に振り替えたものも存在する[8]

それでも戦前の時点では、鉄道省は本機を主として名古屋・下関両機関区を中心とする各機関区整備陣の自己犠牲を多分に含んだ努力によって辛うじて使いこなしていたが、以後鉄道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか設計すらなくなり、日本の蒸気機関車は単純堅実だが性能向上の限界が高くない2シリンダー機関車のみに限定されることになった[9]

もっとも、適切に調整・保守された本形式は、等間隔のタイミングで各シリンダが動作する3シリンダーゆえに振動が少なく、乗務員の評価も、広くて快適な運転台・蒸気上がりの良いボイラ・牽引力の強い事で人気が高かったという。後続のC59形C62形より乗り心地が良かったと伝えられている[10]

[編集] 流線型化改造

1934年11月には当時の世界的な流線型ブームに乗り、梅小路機関区所属の43号機が鷹取工場における20日の突貫工事で試験的に流線型に改造された。煙室前部を斜めに切り、運転室は密閉式のものに取替え、車体全体と炭水車上部を流線型の鉄板で覆い、機関車本体と炭水車の隙間は幌で覆った。これらの改造により他機とは全く異なる外観を呈した。塗色も完成直後はチョコレート色に塗装されていたが、試運転の前後に黒に塗り替えられたという[11]

流線型ブームでは空気抵抗の軽減効果が多く標榜されたが、当時の100km/hに満たない運転速度では空気抵抗が列車の走行に与える影響はごく小さなものであった。それよりも列車の周囲の空気の流れを改善し、煙が列車に絡みつくのを防ぐとともに、走行中に対向列車や駅ホーム上の乗客に及ぼす風圧の軽減を目標としたという[12]

完成後の11月24日には鷹取工場構内で公式試運転を実施し、同年12月1日から1937年7月1日のダイヤ改正で梅小路機関区のC53が特急運用から撤退するまでの間上り「燕」の神戸~名古屋間(明石~神戸間の回送列車も牽引)、下り「富士」の名古屋~大阪間を担当したほか機関車回送を兼ねて急行17列車の京都~神戸間や普通列車も牽引した[13]

運転室内は幌で覆われているため室内の騒音は軽減されたが、その反面、熱がこもり、室内温度が高温になりやすかった。また整備点検には他のC53形よりも約180%多くの時間を要したという[14]。後年、特急運用から外れた後には車体下部や炭水車上部のカバーが撤去された。

[編集] 廃車

1940年代に入り、2シリンダーで同クラスの性能を持つC59形の完成に伴って幹線の主力機関車の座を譲ったが、あまりに大型であるため、当時は東海道・山陽線以外に転用不可能であった。折から戦時体制に突入したために機関車需要がさらに逼迫、にもかかわらず旅客用機関車の製造は中断されたために本形式もフルに運用され、図らずもその寿命を延ばすことになる。元々複雑極まる構造であったうえ、戦時の酷使が祟り、整備不良から戦後すぐに運用を離れる車両が続出した。結局、国産の本線用大型蒸気機関車の中ではもっとも早く、1948年から1950年にかけてすべて廃車となった[15]

[編集] 主要諸元

  • 軸配置 2C1(パシフィック
  • 動輪直径 1750mm
  • 機関車運転重量 80.98t
  • ボイラー圧力 14.0kg/cm²

[編集] 保存機

1950年に廃車された45号機は国鉄吹田教習所の教習用車両を経て鷹取工場内に放置されていたが、1962年に鉄道90周年事業の一環として大阪市港区に開館した交通科学館(現在の交通科学博物館)に保存されることとなり、前年の1961年に運行可能な状態に復元整備され、吹田操車場〜鷹取間で2日間記念走行が行われている。後に京都市梅小路蒸気機関車館に移され、現存唯一のC53形として静態保存されている。

このほか、同じく1950年に廃車された57号機が教習用としてボイラー部分を切開した状態で浜松工場に保存されたが、新幹線開業に伴う工場の拡張により解体されている。

[編集] タキ1600形貨車への改造

1949年、廃車となった本形式の炭水車糖蜜輸送用40t積タンク車タキ1600形に改造する工事が実施された。これは2両分の炭水車の石炭取出口側(機関車運転室側)を向かい合わせにして永久連結し、炭水車上部の炭庫を取り払い、下部の水槽をタンクとして利用するというものであった。台枠や台車は元の炭水車のものを用いた。永久連結した2両分を1両とし、各々の車両には「タキ16**前」「タキ16**後」と表記された。16両が製造された。

1960年代までに全廃されている。

[編集] 脚注

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  1. ^ 例えば当時を代表する重量級寝台列車であった急行第17・18列車(東京~神戸間)では鋼製化完了後は「マ」級(42.5~47.5t未満)の寝台車8両と「ス」級(37.5~42.5t未満)の座席車と食堂車各1両、それに「カ」級(47.5t以上)の荷物車が連なり、客車の自重の合計だけで500tに達する有様であった
  2. ^ 3シリンダー化の効果は、
    • トルク変動が抑えられ、動輪の回転もスムーズになるため、低速域での粘着特性が改善され牽引力が増すとともに、軌道へのハンマーブローを軽減できる。
    • 国鉄技術陣が最も注目した点でもあるが、シリンダー数の増加によりシリンダーブロックが重くなり、ボイラーを大型化しても重心上昇を抑えられる。
    • シリンダーの排気が動輪一回転につき六回と、四回のより強い排気が行われる二気筒にくらべて通風がなだらかになり、未燃焼の石炭が排気されにくくなることによってボイラー燃焼効率が向上。
    など多岐に渡り、当時の技術では、強度狭軌で極限性能を実現したC51形を置き換える本形式のような強力機には不可欠の機構であると見なされていた。特に、スムーズな動力伝達がもたらす低速域での大きな牽引力は貨物機には非常に魅力的であり、グレズリー自身も1918年に最初の試作機として GNR No. 461(後に LNER O2 クラスに編入される 軸配置2-8-0(1D)の貨物機)でこの新方式をテストしたほか、日本においてもD50形設計時にはその採用が真剣に討議されたという。
  3. ^ 左右気筒と中央気筒を持つ三気筒機関車では一つの動輪に全ての気筒を連結すると第一動輪にかけた時以外は中央気筒は持ち上げなければならない。左右気筒をホリゾンタルに配置し、中央気筒のみ持ち上げる形式を取ると、本形式を例に取れば中央シリンダー位置を斜めに7.5°持ち上げ尚かつ気筒動作タイミングを等間隔にするため中央クランクピンを7.5°遅らせた位置に置くので、動作は120°の完全な等間隔ながら、クランクピンのみは等間隔となっていない。なお、起動不能現象はこれと全く関係が無い。
  4. ^ 発注自体は1925年になされており、この事故とは関係がない。ただし、当時既に客車の鋼製化が将来のロードマップ上に存在しており、その対策検討のために例外的に8200形の輸入が認められたのは確かである。
  5. ^ 走行中に台枠の中に入り、決死の覚悟で注油を行った例すらあったという。
  6. ^ もっとも満鉄ミカニのように、車軸中心を伝うように給油ラインを設けておけばわざわざ潜り込まなくともビッグエンドに注油することは可能で、設計側に保守への配慮が足りてなかったとも言える。
  7. ^ 燕の箱根越え用後補機として国府津に本形式が3両配置、使用された。この国府津のC53形は試験的に急行を牽引して東京駅に入線している。
  8. ^ 20立方米形炭水車に振り替えた車両の大半は石炭搭載量を増やすため炭庫の高さや長さを増す改造を施しており、一つの外見的特徴となっている。
  9. ^ 日本製という意味では3シリンダー機は満鉄向けミカニがあり、これは貨物牽引用として低速での粘着率向上を目的として投入され、保守の困難さはあってもC53ほどではなく、台枠の亀裂や起動不能といった事故も無く所期の目的を達して戦後新生共産中国となってもしばらく使われた。
  10. ^ 三気筒で給排気タイミングが等間隔になるように作られた機関では一次振動がゼロになるため。
  11. ^ 東京日日新聞 1934年11月24日記事『流線型機関車あす試運転 濃い海老茶の伊達姿』には「色は濃いめの海老茶で、下部は鼠色にぼかしてある」とある。さらに後日の朝日新聞記事には「鉄道法規により漆黒色に塗り替えられ」と書かれている。
  12. ^ C53 43号機とC55型の流線型化設計と改造の始末について、島秀雄「流線型蒸気機関車」 交友社鉄道ファン』2000年7月号 No.471 p126~p131(『島秀雄遺稿集』より)を参照。
  13. ^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.23 1988年6月 p66~69 『C5343の運用とその客車』を参照。
  14. ^ 今村潔 国鉄蒸気機関車素描VIII C53 交友社『鉄道ファン』1964年4月号 No.34
  15. ^ 最末期に中央西線・名古屋口や関西本線(名古屋~亀山間)でごく一部が使用されたと言われる。
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