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[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、すでに1930年代末には女性プロレスラーが存在し、男性プロレスラーによる興行の中で試合を行っていたと言われている。詳細な記録が残っていないのは部門はショー的な部分が大きかったことからとされる<ref name=":0">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)130‐131頁</ref>。記録が残っている最初の王者は1905年に16歳でデビューしたコーラ・リヴィングストン。20世紀初頭に活動したが、試合写真はほとんど残っておらず、対戦相手がどんな人物であったのかなどの確認はできない<ref name=":0">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)130‐131頁</ref>。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、すでに1930年代末には女性プロレスラーが存在し、男性プロレスラーによる興行の中で試合を行っていたと言われている。詳細な記録が残っていないのはと比べショー的な部分が大きかったことからとされる<ref name=":0">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)130‐131頁</ref>。記録が残っている最初の王者は1905年に16歳でデビューしたコーラ・リヴィングストン。20世紀初頭に活動したが、試合写真はほとんど残っておらず、対戦相手がどんな人物であったのかなどの確認はできない<ref name=":0">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)130‐131頁</ref>。


1930年に入るとクララ・モーテンソンが台頭し、彼女に勝って王者になるのが[[ミルドレッド・バーク|ミルドレッド・パーク]]である<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。アメリカの一般的な女子プロレスの歴史はパークと入れ替わるように出てきた[[ファビュラス・ムーラ|ファビュラス・ムーア]]、[[メイ・ヤング]]の時期から認識されている<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。この時代は絶対的な人数が少ないこともあり、1興行に1カード組まれればよく、ひとりのスターと対戦相手(防衛の相手)しか必要がない時代であったとライターの[[斎藤文彦]]は叙述している<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。アメリカでのこの体制は長らく続くが、1990年代に[[ブル中野]][[デブラ・ミセリー|アランドラ・ブレイズ]]が日本から"輸入"されることで崩れていく<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。
1930年に入るとクララ・モーテンソンが台頭し、彼女に勝って王者になるのが[[ミルドレッド・バーク|ミルドレッド・パーク]]である<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。アメリカの一般的な女子プロレスの歴史はパークと入れ替わるように出てきた[[ファビュラス・ムーラ|ファビュラス・ムーア]]、[[メイ・ヤング]]の時期から認識されている<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。この時代は絶対的な人数が少ないこともあり、1興行に1カード組まれればよく、ひとりのスターと対戦相手(防衛の相手)しか必要がない時代であったとライターの[[斎藤文彦]]は叙述している<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。アメリカでのこの体制は長らく続くが、1990年代に[[ブル中野]][[デブラ・ミセリー|アランドラ・ブレイズ]]が日本から"輸入"されることで崩れていく<ref name=":1">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁</ref>。


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[[日本]]では、戦後間も無い1948年2月、[[東京都]][[三鷹市]]の小さな道場にて[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]相手の興行としてスタートし、歴史的には[[力道山]]がプロレスを始めるよりも前に存在していた。
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北米では女子プロレスの俗称として「'''Chick Fight'''」と呼ばれているが近年では日本の女子プロレスが評価されて「'''Joshipuro'''」と呼ばれるようにもなった<ref>[http://nikkansports.co.jp/battle/news/f-bt-tp0-20111116-864365.html 女子11選手が米国で「joshi」見せる] [[日刊スポーツ]] 2011年11月16日 {{リンク切れ|date=2013年6月}}</ref>。アメリカのインディー団体の1つであるACWでは女子部を「American Joshi」としている。
北米では女子プロレスの俗称として「'''Chick Fight'''」と呼ばれているが近年では日本の女子プロレスが評価されて「'''Joshipuro'''」と呼ばれるようにもなった<ref>[http://nikkansports.co.jp/battle/news/f-bt-tp0-20111116-864365.html 女子11選手が米国で「joshi」見せる] [[日刊スポーツ]] 2011年11月16日 {{リンク切れ|date=2013年6月}}</ref>。アメリカのインディー団体の1つであるACWでは女子部を「American Joshi」としている。

[[WWE]]では2000年代まで[[ディーヴァ (プロレス)|ディーヴァ]]と呼ばれ、あくまで男子レスラーのサポートといった立ち位置の選手が多かったが、[[ジャンピング・ボム・エンジェルス|JBエンジェルス]]やブル中野を観た新世代の加入、日本育ちの選手の加入などにより2016年以降は王座名を変更するなどウェイメンズ・ディビジョンと呼ばれ男子と同じ扱いとなっている<ref name=":1" />。また2022年時点のパフォーマンスセンター練習生数、NXTブランドの所属選手も半数は女子選手となっている<ref name=":2">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)147‐152頁</ref>。2019年には[[レッスルマニア]]のメインイベントが[[ロンダ・ラウジー]]対[[アシュリー・フレアー|シャーロット・フレアー]]対[[レベッカ・クイン|ベッキー・リンチ]]戦となり、女子のみのトリプルスレッドマッチで行われた<ref name=":2">斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)147‐152頁</ref>。


== 服装 ==
== 服装 ==

2022年1月17日 (月) 14:50時点における版

20世紀中期にアメリカミルドレッド・バークを主役とした女子プロレスのポスター。

女子プロレス(じょしプロレス)は、女性が試合をするプロレス。闘う人を女子プロレスラー(じょしプロレスラー)と呼ばれている。英語ではWomen's professional wrestlingという。

歴史

アメリカでは、すでに1930年代末には女性プロレスラーが存在し、男性プロレスラーによる興行の中で試合を行っていたと言われている。詳細な記録が残っていないのは男子と比べショー的な部分が大きかったことからとされる[1]。記録が残っている最初の王者は1905年に16歳でデビューしたコーラ・リヴィングストン。20世紀初頭に活動したが、試合写真はほとんど残っておらず、対戦相手がどんな人物であったのかなどの確認はできない[1]

1930年に入るとクララ・モーテンソンが台頭し、彼女に勝って王者になるのがミルドレッド・パークである[2]。アメリカの一般的な女子プロレスの歴史はパークと入れ替わるように出てきたファビュラス・ムーアメイ・ヤングの時期から認識されている[2]。この時代は絶対的な人数が少ないこともあり、1興行に1カード組まれればよく、ひとりのスターと対戦相手(防衛戦の相手)しか必要がない時代であったとライターの斎藤文彦は叙述している[2]。アメリカでのこの体制は長らく続くが、1990年代にブル中野アランドラ・ブレイズが日本から"輸入"されることで崩れていく[2]

日本では、戦後間も無い1948年2月、東京都三鷹市の小さな道場にて進駐軍相手の興行としてスタートし、歴史的には力道山がプロレスを始めるよりも前に存在していた。

ただし、その当時の女子プロレスは、主な試合会場が芝居小屋、キャバレーストリップ劇場などで、試合も対戦相手のガーター(下着)を奪い合う(ガーターマッチ)と言ったお色気を強調したものであり、現在開催されている女子プロレスとはかなり違うため(現在に当てはめるとキャットファイトに近い)、これをプロレスと呼ぶべきかは意見の分かれる所である。

なお、上記を女子プロレスと定義した場合は、日本人最初の女子プロレスラーはパン猪狩ショパン猪狩の妹である猪狩定子だと言われている(猪狩定子は全日本女子プロレスの記念興行で「日本人最初の女子プロレスラー」とされることから女子プロレスの殿堂入りとして表彰されている)。

この様な形で始まった日本の女子プロレスだが、力道山の「プロレスは女にできるものではない」という意向で圧力がかかり[3]、1950年に警視庁から禁止令を出されて一時姿を消した後の1954年11月19日、在日米軍慰問のために訪れた世界チャンピオンのミルドレッド・バークメイ・ヤングら当時の全米トップ選手を招き蔵前国技館を始めとした大会場にて興行を行い、満員の観衆を集め大反響を得たため、それまでのお色気を強調したものから現在のプロレスに近い形が出来上がっていくことになる[4]。1955年9月10日と11日、両国メモリアルホールで「全日本女子プロレスリング王座決定トーナメント」が開催されて、猪狩貞子&田山勝美組が女子タッグ初代王者となった。また記録映画として「赤い激斗」が制作された。

これを機にいくつもの女子プロレス団体が乱立したものの、これらは日本女子プロレスにまとめられ、最終的には現在の興行形態を作った全日本女子プロレスが女子プロレス団体として勝ち残り、1970年代後半にビューティ・ペアの登場により女性ファンの人気を集めブームとなり、それ以降もクラッシュ・ギャルズなどスター選手は女性人気を得ることとなった。

1990年代に入りユニバーサル・プロレスリングW★INGプロモーションと業務提携を結んだ全日本女子が提供試合をしたことで男性ファンから注目を集め、FMW女子部と全日本女子の対抗戦が契機となり、全日本女子を中心に団体対抗戦が東京ドームなどの大会場で行われるほどの人気を得た。団体対抗戦は総じて負傷必至の消耗戦であり「勝っても負けても良い試合をして次の試合につなげる」というプロレスの鉄則を破るものであった[5]。クラッシュ・ギャルズ以来の女子プロレスブームが起こり女子プロレス単体でゲームソフトが発売されるほどだった。

90年代以降の女子プロレス

女子プロレス団体の場合は後楽園ホールでの興行がビッグマッチとなる程度の規模にまで縮小している。主な理由として以下の様なものが挙げられる。

対抗戦による大物選手同士のカードが消尽された
全日本女子プロレスFMW女子部の試合を契機に当時の全ての女子プロレス団体(全日本女子、FMW、JWP女子プロレスLLPW)が対抗戦に参加して人気を博すものの、各団体の思惑から対抗戦が乱発されて大物選手同士の対抗戦ですら日常的になってしまい、試合カードの希少性が失われた。また団体を超えたチームも多く組まれ、対抗戦から交流戦に質が変化したものの、対抗戦ほどの熱狂は得られなかった。
選手主導の素人による女子プロレス団体の運営と契約問題
全日本女子では絶対的な経営者が居たが、ジャパン女子プロレスが崩壊する頃から選手が団体の運営に大きな影響を与える行動が見られるようになった。ギャラ未払いでの団体からの離脱というケースなど法的に問題の無いケースもあるが、新人から育て上げてきた選手が一方的に引退、団体離脱宣言をした直後に他団体で試合をするなど、もはや契約で成り立っているプロスポーツとは言えないような状況も発生するようになった。また経営の素人である選手が女子プロレス団体を運営する事により、興行が小規模化し売り上げも落ちた為に、傘下の選手達も十分な練習と指導が受けられない環境となり、試合のレベルも落ち、プロの団体とはかけ離れた会社運営となっていった。
女子プロレス団体の分裂と小規模の女子プロレス団体の乱立
日本の女子プロレスの中心となっていた全日本女子プロレスから人気選手が相次いで退団し、新たに女子プロレス団体を設立したりフリーになる者が増えた。また団体のみならず選手が単独あるいは複数のユニットによる興行(プロモーション)も開催されるが、選手の貸し借りが恒常的に行われているため、どの興行でも参加している選手に差が見られず興行の差が乏しい。法人登記するよりも個人ないしはユニットで興行を開催する方が金銭的などのリスクが少ないことも興行数の増加を招いた。
認知度不足
細分化により発生した小規模の女子プロレス団体は資金力が乏しいため移動と宿泊などの経費がかかる地方巡業と興行が開催できない。当然、興行は首都圏での開催に集中してブームが去り減少したファンと観客(後述)を奪い合うことになる。また地上波テレビ放送は全日本女子の放送が打ち切られて以降は、フジテレビが深夜にダリアンガールズ、2009年にTVSが期間限定でアイスリボンを放送したのみである(2020年からスターダム東京MXテレビで放送開始)。スポーツ新聞などマスコミでの取り扱いもごくわずかであり、東京スポーツが制定する「プロレス大賞」における「女子プロレス大賞」が2004年から5年連続該当者なしであったのがその象徴とも言える。
新人スター女子選手が生まれなかった - 高年齢選手中心の運営
ほとんどの女子プロレス団体に共通して発生した問題であり、ベテラン選手は対抗戦ブームの際に得た知名度のため各女子プロレス団体の中核となり、メインイベントに出場して一線から引かなかった。彼女らがキャリアを積み重ねる一方で多くの新人がデビュー後から数年で引退。ベテラン選手の知名度、集客力、スポンサーへの訴求力は経営上必要であったが結果として若手選手が注目を浴びる機会が減少していった。全日本女子はかつて「25歳定年制」を定めていたため女子選手層の入れ替えが強制的に行われていた。しかし対抗戦ブームの際当時の人気選手のブル中野に定年免除を認めて以降、同制度は事実上消滅。この結果、現在の女子プロレスではトップクラスの選手の年齢は40歳前後となっており、2008年に引退したデビル雅美は46歳まで30年に渡って現役であった。世代交代が進まないうちにベテラン女子選手も相次いで引退したため選手層が非常に薄くなり解散に追い込まれた女子プロレス団体も少なくない。女子プロレスの持つ華やかさが薄れて強さや激しさを求めることとなる一方で、若い選手が多く出場する女子総合格闘技の興行が増えて一部のファンが流れたことも衰退の原因の1つである。また他の女子スポーツの人気が高くなり、女子プロレスラー志望の女性は少なく珍しいものとなっている。
プロスポーツの細分化
上記の話に関係するが、かつては女子プロスポーツと言えばプロレス以外にはゴルフ、テニス、ボウリング等限られたものしか無く、それらはプロとして生活するには相当の投資が必要となるため何も無い状況からプロとして生活出来るのはプロレスしか無い状況だった。しかし現在はプロとアマチュアの垣根が無くなり、どんなスポーツでもスポンサーがつけばプロとしてやっていけるためにプロレス以外の自分の好きなスポーツを職業として選ぶ女性が増えてきたことも挙げられる。特に柔道、レスリング、テコンドー等がオリンピック正式種目になったことで格闘系スポーツを志向する女性の大部分は五輪金メダルという大いなる栄誉が得られる、それらのスポーツに流れてしまい女子プロレス界の人材確保をより一層難しくする結果となっている。
ファン層の変化
ビューティ・ペアやクラッシュ・ギャルズがスターとして活躍していた際は宝塚歌劇団の様に女性ファンが大半を占めていた。1990年代の対抗戦ブームでは男性ファンの割合が高まる代わりに従来の女性ファンは減ってしまった。ブームが去り女子プロレス団体の分裂と縮小期に入ると対抗戦ブーム時の男性ファンも去ってしまったためにファンの絶対数が激減。辛うじて元クラッシュ・ギャルズの長与千種を中心としたGAEA JAPANが1990年代以降も女性ファンを多く獲得していたが参戦選手の半分近くをフリーに依存していたことなどが原因となり現在は解散している。

以上のことから、女子プロレス団体は初心者への参入障壁が高く、しかも新規ファン層を取り込む機会が乏しいジャンルとなり、固定ファン向けの方向性を進み続けている。だが最近はその固定ファンさえも、カードのマンネリ化と選手の高年齢化から女子プロレスを見限りつつある。

2010年以降は細分化の末に赤井沙希、アイスリボンの一部所属選手、Actwres girl'Zなどが芸能界からの参入が増えた。また紫雷イオによるとファイトマネーに関して新人選手に限れば男子選手よりも高額なことが多く、収入も比較的安定しているという[6]上向きな傾向もみられる。

2016年12月29日、長与がホストとなり、さいたまスーパーアリーナで「レジェンド女子プロレス〜ファイティングガールズ〜」を開催[7]。全女子プロレス団体を集めるとしたが参加したのはJWP、LLPW-X、アイスリボン、センダイガールズプロレスリングプロレスリングWAVE、Actwres girl'Z。試合は2017年2月3日にフジテレビで放送された[8]

2020年8月には元女子プロレスラーでタレントの北斗晶の呼び掛けによりAssembleを組織。任意による団体団結を呼びかけた[9]

諸外国の女子プロレス

韓国では女子だけで興行を開催することは無いが、アメリカでは以前にはGLOW、POWW、LPWAの女子プロレス団体も存在し、現在もPGWAWEWSWAWSUのような女子のみの団体が存在している。

メキシコにもLLFやWWS、イギリスにもプロレスリングEVEのような女子プロレス団体が存在しているが、どちらもスタジオマッチや常打ち会場等での興行が主であり日本のような全国を回るような興行形態では無い。それを考えると日本の女子プロレスは非常に稀有な存在であると言える。しかし、日本においても女子プロレス団体の衰退が著しいことから、大都市や所属選手の地元等、集客が期待される場所での興行が主流となり、かつてのような地方興行は減少している。また日本でも多くの女子プロレス団体で男子の試合やミックスファイトを興行に組み入れるようになっている。

北米では女子プロレスの俗称として「Chick Fight」と呼ばれているが近年では日本の女子プロレスが評価されて「Joshipuro」と呼ばれるようにもなった[10]。アメリカのインディー団体の1つであるACWでは女子部を「American Joshi」としている。

WWEでは2000年代までディーヴァと呼ばれ、あくまで男子レスラーのサポートといった立ち位置の選手が多かったが、JBエンジェルスやブル中野を観た新世代の加入、日本育ちの選手の加入などにより2016年以降は王座名を変更するなどウェイメンズ・ディビジョンと呼ばれ男子と同じ扱いとなっている[2]。また2022年時点のパフォーマンスセンター練習生数、NXTブランドの所属選手も半数は女子選手となっている[11]。2019年にはレッスルマニアのメインイベントがロンダ・ラウジーシャーロット・フレアーベッキー・リンチ戦となり、女子のみのトリプルスレッドマッチで行われた[11]

服装

ボリビアで行われたアイマラ民族衣装による試合。

特に女子プロレスでは試合用の服装のことをリングコスチューム、それを略してリンコスと呼んでいる。

日本女子プロレスの黎明期からは長い間はシンプルなワンピース水着やレオタードが定番となっていた。それまでのお色気を払拭してスポーツ色をより高めることの表れであった。ヒールレスラーの場合は下にロングタイツを着用する場合が多い。1990年代までのアメリカも同様にレオタードが定着していた。

かつては全日本女子プロレスが全盛を極めていた当時はデビュー直後から1年間、新人女子選手のコスチュームといえば、スクール水着タイプのコスチュームとアマチュアレスリング用のシューズというのが定番のスタイルであった(同じようなパターンは男子レスラーでも同じであり、新人のコスチュームは黒いショートタイツに黒もしくは白いリングシューズという俗に言うストロングスタイルと呼ばれるものが定番として挙げられているが、団体によってはカラーのショートタイツも採用されている)。

一方でアイドルから転身したミミ萩原は全盛期にハイレグなどセクシー面が強調されたコスチュームを使用するようになった。クラッシュ・ギャルズの全盛期になると競泳水着がポピュラーとなる。

しかし、ジャパン女子プロレスが旗揚げされると、フリルやレース付きコスチュームが登場。その後もセパレート型やユニタード型など多様化が進んだ。アイスリボンなどでは私服に近いコスチュームでリングに上がる場合もある。広田さくらなどいわゆるコスプレで試合を行う選手も少なくない。ただ女子プロレスでは長年水着が定着していたため水着を改修したものを主に使用しており、最近まで水着とは似つかぬものも含めてコスチュームのことを水着と呼んでいた。

一方でキャリアを積んだ選手は試合あるいはシリーズごとにコスチュームを変える場合もある。ダーク・エンジェルは初来日の時にコスチュームを6着持参した。また、先輩が使用していたコスチュームを後輩が譲り受けることも多い。

デビュー直後の新人選手などは競泳水着が元となったものやユニタードなどシンプルなコスチュームで試合をする事がかつてより減少したものの今もある。一部の身体の細い新人選手が昔のリング入場時のガウンを思い起こすようなフリフリのリングコスチュームで試合をした事があったがファンからは関節技を掛けていても技が分かり辛いなど大不評だった。センダイガールズプロレスリングの設立時は身体の線が見えるシンプルなコスチュームは女子プロレス団体の路線や女子選手のテクニックが見えやすいなど評価が高かった。未だにワンピース水着タイプを好む昔からの女子プロレスファンは多く、競泳水着を着用してアイドルや女優が女子プロレス(プロスタイル、キャットファイト)の試合をするDVDソフトも人気がある。また夏すみれのように、元々ファンだった選手がワンピース水着タイプを愛用するケースも存在する。

WWEディーヴァの場合、セクシーさを前面に押し出したコスチュームを使用することが多い。一方、北米インディ団体やメキシコルチャリブレでは現在もレオタードは少なくない。

特色

デビュー

女子プロレスの場合は多くの団体で「オーディション」と「プロテスト」の2段階を踏まなければデビューできない仕組みとなっている。このシステムはビューティ・ペアの全盛期の全日本女子プロレスにて導入されたもので、希望者の殺到により1度にプロテストを行うことが困難になったため、前段階としてオーディションを行い、そこで選ばれた者数名を候補者として一定期間後にプロテストを受けさせた。後に練習生制度を取り入れたがプロテスト受験を必須としたのは変わらない。その後もこれを継続して他団体も追随する形で導入している(男子団体でも元全女の北斗晶が代表を務めるダイヤモンド・リングで同様のシステムを取り入れている)。

かつての全日本女子では義務教育修了(または見込)者で18歳以下をオーディション受験資格と定めていたが、25歳定年制の事実上廃止や女性の高学歴化・晩婚化もあり、上限は22歳まで引き上げられた。

近年は女子プロレスラー志願者が減少していることもあり、アイスリボンのように2段階選抜を撤廃して門戸を広げる団体も現れている。また一部女子プロレス団体では年齢制限を撤廃したり拡げるなどしているため、現在では小中学生レスラーや25歳以上でデビューした遅咲きの選手もおり、デビュー年齢の差も上下で大きくなっている。

階級

男子プロレスの場合は100kg前後を境にヘビー級とジュニアヘビー級に分かれるが女子は基本的に無差別級である。ただし一部女子プロレス団体では体重別階級の線引きをしており、この場合は60kg前後で分けることが多い。体重制限のあるタイトルとしてはかつての全日本女子のWWWA世界スーパーライト級王座GAEA JAPANWCW世界女子クルーザー級王座が存在していた。アイスリボンの至宝も体重制限のあるICE×60王座だったが現在は撤廃されてICE×∞王座に改称された。

ジュニア

男子における「ジュニア」は上述の「ジュニアヘビー級」を意味するが、女子ではデビューからのキャリアが浅い若手を意味する。ジュニアにカテゴライズされるキャリアは団体によって異なるが各女子プロレス団体のジュニア女子選手を集めた「ジュニア・オールスター戦」では「5年以内」と規定していた。またジュニアを対象としたタイトルも存在して全日本女子の全日本ジュニア王座、現存するものではJWP女子プロレスJWPジュニア王座&POP王座がそれに当たる。なおプロレスリングWAVEでは「ヤング」と表現している。アイスリボンのインターネットシングル王座は、4代目王者決定トーナメント以降にデビュー3年以内もしくは19歳以下に規定を変更して実質的なジュニア王座となっている(現在は規定廃止)。REINA女子プロレスCMLLと合同で創設したCMLL-REINAインターナショナルジュニア王座はデビュー10年以内と対象が大きくなっている。

芸能との関わり

女子プロレスと芸能の関係は非常に深い。1970年代に活躍したマッハ文朱はレスラーと並行して歌手としても活動して女子プロレスの地位向上に貢献し、引退後はタレントに本格転向。マッハはいわゆるタレントレスラーの嚆矢となり、この流れは後にビューティー・ペアに受け継がれ、彼女らのレコードが大ヒットするなど社会現象を起こした。一方、全日本女子では所属選手の映画やドラマ出演も積極的に行われ、女子プロレス団体自体が全面協力することも多かった。以降も女子プロレスラーは歌手、女優のみならずダンプ松本アジャ・コング神取忍のようにキャラクターを生かしてバラエティ番組に進出したりキューティー鈴木井上貴子のように写真集を出版するなどリング外にも活動範囲を広げていった。

また、女性タレントが女子プロレスラーになるケースもある。その先駆けはアイドル歌手出身のミミ萩原でビューティー・ペアの引退後の全日本女子を支えた。近年では映画や音楽などとリンクして女子プロレスラー発掘を行うこともありアイスリボンとNEO女子プロレスが全面協力した「スリーカウント」では出演者に女子プロレスラー活動を義務付けて志田光松本都藤本つかさがレスラーとして活動している。2010年にはグラビアアイドルの愛川ゆず季がレスラーデビューして話題になった。

芸能事務所が女子プロレスに関わることもある。吉本興業による吉本女子プロレスJd'ホリプロが企画したダリアンガールズがそれに当たる。Jd'では「アストレス」と呼ばれるプロジェクトを打ちアクションスターへの道としてプロレス活動を展開した。またホリプロもダリアンガールズが活動停止後にLLPWと業務提携を結びオーディションを展開したり「ホリプロ女子プロレス軍団」を結成してNEOに参戦させていた。最近ではオスカープロモーション赤井沙希を所属のままDDTプロレスリング(男子プロレス団体)に参戦させている。

経営

男子プロレス団体の場合は所属選手が社長を兼任する場合が多いが、女子プロレスではほとんどの団体でいわゆる「背広組」の男性(女性ではGAEA JAPANの杉山由果の例あり)が代表に就任している(例として、JWPの篠崎清、アイスリボンの佐藤肇、スターダムのロッシー小川など)。

しかしLLPWでは団体設立の背景から初代の風間ルミから現在の神取忍まで代々所属選手が代表を務めている。

またOZアカデミー女子プロレス尾崎魔弓が代表を務める会社が運営しており、2011年に設立されたワールド女子プロレス・ディアナ井上京子が代表に就任し(新法人移行とともに退任)、さらにプロレスリングWAVEでは新法人設立にあたりGAMI(現在は選手引退)が、センダイガールズプロレスリングも2011年7月の新崎人生みちのくプロレス)の代表退任に伴い後任として里村明衣子がそれぞれ就任しており兼任代表は増えつつある。

過去の女子プロレス団体では、メジャー女子プロレスAtoZの初代代表に堀田祐美子が就任し、後に一時引退していた下田美馬が代表代行を務めた。さらにNEO女子プロレスで一時的ではあるが元JDスター女子プロレス賀川照子(NEOではリングアナウンサーとして活動していた)が代表を務めたことがある。

女子プロレス団体一覧

現存している日本の女子プロレス団体

消滅または休止している日本の女子プロレス団体

日本の女子プロレスプロモーション

海外の女子プロレス団体

アメリカ
  • GLOW(1986年 - 1991年、2001年 - )
  • POWW(1987年 - 1990年)
  • LPWA(1989年 - 1992年)
  • PGWA(1992年2月 - )
  • WEW(2002年2月 - )
  • SWA(2005年11月6日 - )
  • Marvelous USA(2015年7月15日 - )
メキシコ
  • WWS (2013年 - )
オーストラリア
  • PWWA(2007年 - )
イギリス
タイ

女子プロレスを題材にした作品

題材の都合上、女子プロレスラーが主人公として活躍するといった筋書きの作品が多いが「超バージン!」のように主人公が女装して女子プロレスラーとして活躍したり「ここが噂のエル・パラシオ」のように主人公が男性で女子プロレスのレフェリーを務めるといった作品もある。

脚注

  1. ^ a b 斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)130‐131頁
  2. ^ a b c d e 斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)132‐133頁
  3. ^ 双葉社スーパームック『俺たちのプロレスVOL.6』(2016年)21ページ
  4. ^ 『女子プロレス事件File2』P45
  5. ^ 双葉社スーパームック『俺たちのプロレスVOL.6』(2016年)44ページ
  6. ^ ベースボールマガジン社「週刊プロレス」No.1890 2017年2月22日号、38頁
  7. ^ RIZIN榊原代表が女子プロレス界に「情熱持ってやってみろ!(たまアリ)埋めれんの」と苦言”. バトル・ニュース (2016年12月31日). 2016年12月31日閲覧。
  8. ^ レジェンド女子プロレス~ファイティングガールズ~”. フジテレビ (2017年2月3日). 2017年2月4日閲覧。
  9. ^ 北斗晶が女子プロレス大同団結呼び掛け 長与千種、ダンプ松本、尾崎魔弓ら集結…Assemble結成”. スポーツ報知 (2020年8月27日). 2020年8月27日閲覧。
  10. ^ 女子11選手が米国で「joshi」見せる 日刊スポーツ 2011年11月16日 [リンク切れ]
  11. ^ a b 斎藤文彦、プチ鹿島『プロレス社会学のススメ』(2021年、発行:ホーム社、発売:集英社)147‐152頁

関連項目

外部リンク