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*徳川家康の来孫。綱貴以降の薩摩藩主は家康の血を引いている。 |
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*:徳川家康―[[督姫]]―茶々姫([[京極高広]]室)―養仙院(松平定頼室)―真修院(島津綱久室)―'''島津綱貴''' |
*:徳川家康―[[督姫]]―茶々姫([[京極高広]]室)―養仙院(松平定頼室)―真修院(島津綱久室)―'''島津綱貴''' |
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2019年10月18日 (金) 23:11時点における版
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安3年10月24日(1650年11月17日) |
死没 | 宝永元年9月16日(1704年10月14日) |
改名 | 虎寿丸(幼名)→延久(初名)→綱貴 |
別名 | 通称・又三郎 |
神号 | 厳速活光彦命 |
戒名 | 大玄院殿昌道元新大居士 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市池之上町の島津家墓地 |
官位 | 従四位上、左近衛中将、薩摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 薩摩鹿児島藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父:島津綱久、母:松平定頼の娘・眞修院殿 |
兄弟 | 綱貴、酒井忠隆正室、六七、久季、鳥居忠英正室 |
妻 |
正室:松平信平の娘・米姫 継室:上杉綱憲の養女・鶴姫(吉良義央娘)[注釈 1] 側室:お豊の方(家臣江田国重娘)[注釈 2]他 |
子 | 吉貴、菊次郎、久儔(三男)、忠直、久方[注釈 3](五男)、禰寝清純、久東(七男)、鍋保丸、久福(九男)、亀姫(近衛家久室)、栄(松平定英正室)、島津久智室、町田久儔室、桂久音室 |
島津 綱貴(しまづ つなたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。島津氏20代当主。薩摩藩3代藩主。
生涯
慶安3年(1650年)10月、2代藩主・島津光久の嫡男である島津綱久の子として誕生。初名は延久(のぶひさ)。寛文7年(1667年)12月25日、父同様、4代将軍・徳川家綱より、「松平」の名字と偏諱を与えられ、綱貴(「松平修理大夫綱貴」)に改名[2]。延宝元年(1673年)、父・綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。貞享4年(1687年)7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。
家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による寛永寺本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した[注釈 5]。
このように藩政は緊張をはらんだ物であったが、諸大名に辛辣な評価をしたことで知られる史料『土芥寇讎記』では数少ない「今の泰平の世における善将」[3]「領民や藩士から慕われる殿様」として紹介されている。
宝永元年(1704年)9月、芝の江戸藩邸にて死去。享年55。
その他
現在の鹿児島銘菓「かるかん」の文献上の初出は、島津綱貴が50歳になった際の祝いの席に献上されたものである。
血筋
脚注
注釈
- ^ 延宝8年(1680年)離縁。
- ^ 亀姫の生母で、鶴姫離縁後は対外的に「継室」と称された[1]。
- ^ 後の島津重豪(改名前)と同名の別人。
- ^ 父と同名を避けるため2文字目も「久」ではなく島津貴久の偏諱である「貴」に変えたものと思われる。
- ^ ちなみに、この時の普請の奉行は禰寝清雄、副奉行はその婿で綱貴の叔父・島津久明が勤める。