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2017年9月18日 (月) 11:01時点における版
プジョー・スポール (Peugeot Sport) は、フランスの自動車メーカー、プジョーのモータースポーツ担当部門。
歴史
ラリーへの参戦
プジョー・スポールは、かつて世界ラリー選手権(WRC)でギ・フレクランのコ・ドライバーを務めていたジャン・トッドがプジョーからPSA・プジョーシトロエングループのためのスポーツ部門を創設して欲しいと頼まれ、1981年にプジョー・タルボ・スポール (Peugeot Talbot Sport) の名称で創設された。ラリーチームはブローニュの森近くに設立され[1]、1984年にプジョー・205ターボ16でグループBにデビュー、フィンランドでアリ・バタネンが初優勝を遂げた。1985年、プジョーはバタネンとティモ・サロネンの手で12戦中7勝を挙げ、マニファクチャラーズタイトルおよびサロネンがドライバーズタイトルを獲得した。バタネンは1985年のアルゼンチンで重傷を負い、1986年は彼に代わってユハ・カンクネンが加入した。カンクネンはチームに2年連続のタイトルをもたらした。FIAはヘンリ・トイヴォネンの死亡事故を受けて1987年にグループBを廃止し、このためプジョーは参戦フィールドをラリーレイドに変更、205T16でダカール・ラリーに参戦、1987年から1989年まで3年連続でタイトルを獲得し、1990年には405で4年連続のタイトルを獲得した。
スポーツカーへの転向
耐久レースではヴェリジー=ヴィラクブレーにスポーツカーチームを設立した[2]。そして1988年に905プロジェクトを開始、1991年にスポーツカー世界選手権に参戦した。905は1990年に発表され、1991年シーズンはランキング2位となった。1992年シーズンにはル・マン24時間レースでデレック・ワーウィック、ヤニック・ダルマス、マーク・ブランデル組が優勝を遂げた。また、ワーウィック、ダルマス、フィリップ・アリオー、マウロ・バルディの活躍でシリーズタイトルも獲得した。選手権シリーズは1992年限りで廃止となったが、翌1993年はル・マン24時間レースで1-2-3フィニッシュを達成、エリック・エラリー、クリストフ・ブシュー、ジェフ・ブラバム組が優勝を遂げた。プジョー・タルボ・スポールはその後スポーツカーレースから撤退、ジャン・トッドはチームを去りスクーデリア・フェラーリに移籍した。
F1
プジョーは1994年にフォーミュラ・ワンに転向、905に使われた3.5リッターV10エンジンを投入した。このエンジンをマクラーレンに供給、これは容易にF1に適合できたものの、成績は目立った結果を上げることができず、マクラーレンとの協力体制は1994年限りで解消となった。翌1995年、同社のエンジンはジョーダン・グランプリに供給され、ジョーダンとの協力体制は1997年まで続いた。1998年からはプロスト・グランプリに供給、これは2000年まで続いた。2000年末、プジョーエンジンはアジアテックに売却、その後2年間使用された。
ラリーへの復帰
1999年、プジョー・スポールはプジョー・206 WRCと共に、コラード・プロベラの監督下世界ラリー選手権に復帰した。デビュー戦はツール・ド・コルス、フランソワ・デルクールが第一ドライバー、ジル・パニッツィとマーカス・グロンホルムがセカンドカーをシェアした。パニッツィはサンレモ・ラリーで2位に入賞、グロンホルムはフィンランド・ラリーで4位に入った。
2000年、グロンホルムはスウェーデン・ラリーで初勝利を遂げた。その後もニュージーランド、フィンランド、オーストラリアで勝利、ドライバーズタイトルを獲得した。パニッツィはコルシカとサンレモで勝利し、マニファクチャラーズタイトルに寄与した。
2001年、デルクールに代わってディディエ・オリオールがチームに加入、グロンホルムと共にメインドライバーとなった。また、パニッツィとハリ・ロバンペッラはセカンドカーを選択されたイベントでドライブした。グロンホルムは前半戦、多くのリタイヤに苦しむ一方、ロバンペッラは第2戦のスウェーデンで勝利した。オリオールはスペインで勝利し、グロンホルムはフィンランド、オーストラリア、イギリスで勝利、パニッツィはイタリアで勝利した。チームはマニファクチャラーズタイトルを獲得し、グロンホルムはランキング4位に入り、これがチーム内最上位であった。ロバンペッラは5位、オリオールは8位、パニッツィは9位であった。
2002年、チームは前年度チャンピオンのリチャード・バーンズをスバルから獲得、オリオールに代えて加入させた。グロンホルムは第2戦のスウェーデンで勝利、パニッツィはフランスとスペインで勝利した。グロンホルムはキプロスで勝利したが、続くアルゼンチンではバーンズと共に技術的な違反のため失格となった。グロンホルムは再びフィンランドで勝利したが、パニッツィはイタリアでシーズン3勝目を挙げた。その後グロンホルムはニュージーランドとオーストラリアで連勝し、2度目のドライバーズタイトルを獲得した。バーンズはシーズンを5位で終え、パニッツィは6位、ロバンペッラは7位であった。プジョーは3度目のマニファクチャラーズタイトルを獲得した。
マールボロがタイトルスポンサーとなり、ドライバーラインアップは2003年も維持された。グロンホルムは再びスウェーデンで勝利し、ニュージーランド、アルゼンチンでも勝利した。パニッツィはスペインで勝利した。バーンズは2004年にスバルへの復帰が決まっていたが、最終戦のイギリスに向かう途中に失神、ラリーを欠場した。彼に代わってベルギー人ドライバーのフレディ・ロイクスが参加した。バーンズはシーズンを4位で終え、グロンホルムは6位であった。プジョーはマニファクチャラーズタイトルを失い、代わって獲得したのがシトロエンであった。
プジョーは2004年シーズン、307 WRCを発表した。これは307のカブリオレを元に開発された物であった。グロンホルムは全戦出場したが、ロイクスは1、2戦と15戦、ロバンペッラは3戦以降の選択されたイベントに出場した。グロンホルムは新型車のトラブルに苦しみ、フィンランドでチーム唯一の勝利を挙げた。グロンホルムはランキング5位でシーズンを終え、プジョーはマニファクチャラーズ4位で終わった。
2005年、プジョーはグロンホルムのパートナーとしてフォードからマルコ・マルティンを獲得した。グロンホルムは8月のフィンランドで勝利したが、その後のイギリスでマルティンが事故を起こし、コ・ドライバーのマイケル・パークが死亡した。マルティンはWRCを引退することとなった。ダニエル・カールソンとニコラ・ベルナルディが彼に代わって残りのイベントをドライブした。グロンホルムはシーズン2勝目を日本で挙げ、ランキング3位となった。プジョーはマニファクチャラー2位でシーズンを終えた。2005年末、PSAプジョー・シトロエンはWRCからワークスの2チームを撤退することを発表した。シトロエンは新車開発のため1年間活動を休止し2007年に復帰したが、プジョーが復帰することは無かった。
プジョー・スポールは新たなスーパー2000のレギュレーションに合わせたプジョー・207 S2000を開発、クロノス・レーシングに託してIRCに参戦した。エンリケ・ガルシア=オヘダが2007年、ニコラス・ヴィヨズが2008年、クリス・ミークが2009年と、3年連続でドライバーズタイトルを獲得した。しかし2010年はライバルシュコダに敗れタイトル防衛はならなかった。翌年はニュースペックのプジョー・207 S2000を投入し開幕戦モンテカルロではブライアン・ブフィエがデビューウィンを果たしここから波に乗ると思われたが、またしてもシュコダに敗れタイトル獲得を阻止できなかった。その後IRCは2012年で終了したが2013年からはERCにワークス参戦。しかし未勝利に終わった。そして2014年は新規定R5に沿って開発されたプジョー・208ターボ16がデビューした。ドライバーは2012年のSWRCチャンピオンのクレイグ・ブリーンとWRCの登竜門JWRCに出場経験を持つケビン・アブリングの2台となった。
デビュー戦となったERC第3戦アクロポリスではブリーンが見事なデビューウィンを果たした。しかしその後はメカニカルトラブルが多発しどちらか1台が完走するのがやっとという状態だった。結局デビューイヤーでのタイトル獲得は果たせずブリーンはランキング3位、アブリングは6位でシーズンを終えた。 2015年はブリーンをエースドライバーとしアブリングに代わり前年ボラン・プジョーカップでチャンピオンに輝いたチャールズ・マーティンの2台体制で挑む。
スポーツカーへの復帰
新たな監督ミシェル・バージの下プジョー・スポールは2007年にスポーツカーレースに復帰、シリーズを支配するアウディに対してプジョー・908 HDi FAPで挑戦した。908は2007年の第1戦、モンツァ1000kmでデビューした。マルク・ジェネ、ニコラ・ミナシアン組がこのレースで優勝した。2007年のル・マン24時間レースではステファン・サラザンがポールポジションを獲得、レースではサラザン、ペドロ・ラミー、セバスチャン・ボーデ組の8番車がアウディ1番車に次いで2位でフィニッシュした。ル・マンの後サラザンとラミーはプジョーのためのル・マン・シリーズタイトルを獲得した。
2008年のル・マン24時間レースではサラザンが再びポールポジションを獲得し、グリッド1列目をプジョーが独占した。レースではそれぞれ2位、3位、5位に入賞、シリーズではアウディに次ぐランキング2位となり、ミナシアン、ジェネが共にドライバーズランキング2位となった。
2009年の始めにPSAプジョーシトロエンは、シトロエンのスポーツディレクター、オリビエ・クエスネルをプジョー・スポールのディレクター兼任とした。2009年のル・マン24時間レースではサラザンが再びポールポジションを獲得、レースではデヴィッド・ブラバム、ジェネ、アレクサンダー・ヴルツ組がチームに1993年以来の勝利をもたらした。2位にはフランク・モンタニー、ボーデ、サラザン組が入り、チームの3台目は6位に入賞した。その他のシリーズ戦では、ル・マンに備えたスパ戦にしか参戦しなかった。
2010年のセブリング12時間レースでチームは2度目の1-2フィニッシュを達成した。しかしながら、2010年のル・マン24時間レースでは信頼性の問題が生じ、アウディが1-2-3を達成した。
2011年のセブリング12時間レースでは、オレカ・レーシングの所有する古いプジョー・908 HDi FAPがファクトリー仕様の908およびアウディ・R15を抑えて驚きの勝利を挙げる。2011年のル・マン24時間レースでは2台のアウディ・R18がクラッシュしたが、残る1台に抑えられ2位に終わった。優勝したアウディは2位の908に対して僅か13秒のリードしか無かった。
2012年1月18日、プジョー・スポールは景気の失速と販売不振を理由としてスポーツカーレースからの撤退を発表した。復帰に関しては、資金が2015年以前に調達できるならばあり得るが、そうでなければできないとしている[3]。
主な成績
WRC
グループB時代 (1984-1986)
WRC時代 (1999-2005)
F1
(key)
年 | チーム | シャシー | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | マールボロ マクラーレン・プジョー | マクラーレン・MP4/9 | BRA | PAC | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | EUR | JPN | AUS | 42 | 4位 | ||
ミカ・ハッキネン | Ret | Ret | 3 | Ret | Ret | Ret | Ret | 3 | Ret | 2 | 3 | 3 | 3 | 7 | 12 | |||||||
フィリップ・アリオー | Ret | |||||||||||||||||||||
マーティン・ブランドル | Ret | Ret | 8 | 2 | 11 | Ret | Ret | Ret | Ret | 4 | Ret | 5 | 6 | Ret | Ret | 3 | ||||||
1995年 | トタル・ジョーダン・プジョー | ジョーダン・195 | BRA | ARG | SMR | ESP | MON | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | EUR | PAC | JPN | AUS | 21 | 6位 | |
ルーベンス・バリチェロ | Ret | Ret | Ret | 7 | Ret | 2 | 6 | 11 | Ret | 7 | 6 | Ret | 11 | 4 | Ret | Ret | Ret | |||||
エディ・アーバイン | Ret | Ret | 8 | 5 | Ret | 3 | 9 | Ret | 9 | 13 | Ret | Ret | 10 | 6 | 11 | 4 | Ret | |||||
1996年 | ベンソン&ヘッジス トタル・ジョーダン・プジョー |
ジョーダン・196 | AUS | BRA | ARG | EUR | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | JPN | 22 | 5位 | ||
ルーベンス・バリチェロ | Ret | Ret | 4 | 5 | 5 | Ret | Ret | Ret | 9 | 4 | 6 | 6 | Ret | 5 | Ret | 9 | ||||||
マーティン・ブランドル | Ret | 12 | Ret | 6 | Ret | Ret | Ret | 6 | 8 | 6 | 10 | Ret | Ret | 4 | 9 | 5 | ||||||
1997年 | ベンソン&ヘッジス ジョーダン・プジョー |
ジョーダン・197 | AUS | BRA | ARG | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | AUT | LUX | JPN | EUR | 33 | 5位 | |
ラルフ・シューマッハ | Ret | Ret | 3 | Ret | Ret | Ret | Ret | 6 | 5 | 5 | 5 | Ret | Ret | 5 | Ret | 9 | Ret | |||||
ジャンカルロ・フィジケラ | Ret | 8 | Ret | 4 | 6 | 9 | 3 | 9 | 7 | 11 | Ret | 2 | 4 | 4 | Ret | 7 | 11 | |||||
1998年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | プロスト・AP01 | AUS | BRA | ARG | SMR | ESP | MON | CAN | FRA | GBR | AUT | GER | HUN | BEL | ITA | LUX | JPN | 1 | 9位 | ||
オリビエ・パニス | 9 | Ret | 15 | 11 | 16 | Ret | Ret | 11 | Ret | Ret | 15 | 12 | DNS | Ret | 12 | 11 | ||||||
ヤルノ・トゥルーリ | Ret | Ret | 11 | Ret | 9 | Ret | Ret | Ret | Ret | 10 | 12 | Ret | 6 | 13 | Ret | 12 | ||||||
1999年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | プロスト・AP02 | AUS | BRA | SMR | MON | ESP | CAN | FRA | GBR | AUT | GER | HUN | BEL | ITA | EUR | MAL | JPN | 9 | 7位 | ||
オリビエ・パニス | Ret | 6 | Ret | Ret | Ret | 9 | 8 | 13 | 10 | 6 | 10 | 13 | 11 | 9 | Ret | Ret | ||||||
ヤルノ・トゥルーリ | Ret | Ret | Ret | 7 | 6 | Ret | 7 | 9 | 7 | Ret | 8 | 12 | Ret | 2 | Ret | Ret | ||||||
2000年 | ゴロワーズ・プロスト・プジョー | プロスト・AP03 | AUS | BRA | SMR | GBR | ESP | EUR | MON | CAN | FRA | AUT | GER | HUN | BEL | ITA | USA | JPN | MAL | 0 | NC | |
ジャン・アレジ | Ret | Ret | Ret | 10 | Ret | 9 | Ret | Ret | 14 | Ret | Ret | Ret | Ret | 12 | Ret | Ret | 11 | |||||
ニック・ハイドフェルド | 9 | Ret | Ret | Ret | 16 | DSQ | 8 | Ret | 12 | Ret | 12 | Ret | Ret | Ret | 9 | Ret | Ret |
参照
- ^ http://www.juwra.com/peugeot_season_1984.html
- ^ “Motor Racing: Warwick on top of world - Sport”. London: The Independent. (1992年8月31日) 2010年3月26日閲覧。
- ^ Dagys, John. “Peugeot 908 Bids Farewell”. Web. SPEED.com. 2012年2月5日閲覧。