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ティモ・サロネン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ティモ・サロネン
基本情報
国籍  フィンランド
生年月日 (1951-10-08) 1951年10月8日(73歳)
WRCでの経歴
活動時期 1974年 - 1992年, 2002年
所属チーム フィアットダットサン日産プジョーマツダ三菱
出走回数 95
チャンピオン回数 1 (1985)
優勝回数 11
表彰台回数 24
ステージ勝利数 256
通算獲得ポイント 524
初戦 1974 1000湖ラリー
初勝利 1977 ケベック・ラリー
最終勝利 1987 スウェディッシュ・ラリー
最終戦 2002 ラリー・フィンランド
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ティモ・サロネンTimo Salonen1951年10月8日 - )はフィンランドの元ラリードライバー。1985年世界ラリー選手権 (WRC) ドライバーズチャンピオン。

人物

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巨体で、分厚い眼鏡をかけ、さらにヘビースモーカーだった(ジャーナリストに、喫煙しているところを見せないように努力していた)彼は他のドライバーより目立っていた。しかし、ラリーにおいて最速を誇るドライバーの一人であったことは今でも知られている。またその柔和な気質と、片手でステアリングを操作するスタイルから、本国ではLöysä(フィンランド語で「怠け者」)という愛称がつけられた[1]

主にサロネンのコ・ドライバーを務めたのは、セッポ・ハルヤンネだった。ハルヤンネは後にトミ・マキネンと共に更なる成功を収めた。ラリーからリタイアした後のサロネンは自らの会社、「Autotalo Timo Salonen」のCEOを務めている。

経歴

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プジョー・205T16 E2をドライブするサロネン(1985ラリー・サンレモ

サロネンが最初に世界ラリー選手権で表彰台に立ったのは、フィアット・131アバルトで参戦した1977年1000湖ラリーで2位を獲得した時である。そして次のケベック・ラリーでは優勝した。これは彼にとってわずか5戦目のWRCイベントであり、初めての母国外ラリーだった[2]

その後日産からワークスデビューし、主に長距離イベントを戦った。1984年の一連の好成績がジャン・トッドの目に留まり、1985年プジョーに移籍。この年はアリ・バタネンのサポート役を務めたが、バタネンがアルゼンチンで瀕死の重傷を負った後には、ファーストドライバーとしての能力を発揮した。サロネンは4イベントに連続で勝利し、当時の記録を打ち立てた(2005年にセバスチャン・ローブが6連勝を達成するまで破られることはなかった[3])。そして、2位のスティグ・ブロンクビストに52ポイントの差をつけて世界チャンピオンになった。1986年もプジョーに残留したが、新しくチームに加入したユハ・カンクネンと、ランチアマルク・アレンに次ぐ3位に終わった。

グループB廃止後の混乱の中、サロネンはマツダに移籍し、1987年にはスウェディッシュ・ラリーで優勝した。その後は三菱・ギャランVR-4で出場した1992年ラリー・ポルトガルをもって引退したが、2002年のラリー・フィンランドでは1戦限りの復帰を果たし、プジョー・206WRCで総合14位と健闘した。

脚注

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  1. ^ Timo Salonen, ensimmäisen luokan ajaja” (Finnish). Suomen Moottoriurheilumuseo. 2008年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月26日閲覧。
  2. ^ Timo Salonen”. RallyBase. 2008年8月26日閲覧。
  3. ^ Loeb ties win record with victory in Turkey”. Motorsport.com. 2008年8月26日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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