吉野鉄道電機51形電気機関車

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吉野鉄道電機51形電気機関車
基本情報
運用者 吉野鉄道近畿日本鉄道
製造所 川崎車輛
製造年 1929年
製造数 2両
引退 1984年
主要諸元
軸配置 Bo + Bo
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
全長 10,354 mm
全幅 2,626 mm
全高 4,090 mm
機関車重量 48.8t
台車 棒台枠
主電動機 直流直巻電動機
川崎造船所K-7-2003-A×4基
駆動方式 1段歯車減速吊り掛け駆動方式
歯車比 80:17 (4.706)
制御方式 抵抗制御直並列制御・弱め界磁制御(総括制御機能付)
制御装置 電空単位スイッチ式
制動装置 EL14A自動空気ブレーキ発電ブレーキ手ブレーキ
定格速度 30.9 km/h(弱め界磁
28 km/h(全界磁)
定格出力 596 kW
定格引張力 7,258 kgf(弱め界磁)
8,030 kgf(全界磁)
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吉野鉄道電機51形電気機関車(よしのてつどうでんき51がたでんききかんしゃ)[1]は、吉野鉄道(現在の近鉄吉野線の前身)が保有した電気機関車の1形式である。吉野鉄道の大阪電気軌道による吸収合併、大阪電気軌道を中心とした私鉄統合によって関西急行鉄道を経て近畿日本鉄道へ承継され、関西急行鉄道時代以降はデ51形としてそのまま吉野線となったかつての吉野鉄道線を中心に運用された。

製造経緯[編集]

1929年3月29日の大阪鉄道による古市久米寺間21.2kmの開業と、これに伴う大阪阿部野橋 - 吉野間の直通運転開始に備え[1]1929年3月に川崎車輌兵庫工場で「製修 外9-12」、製番29・30[2]として以下の2両が製造された[3]

  • 電機51形[1]
    • 51・52

なお、川崎車輌での売り上げ月は1929年4月、自重は50tとして扱われている[3]

新製当時、吉野鉄道においては既に電機1形1 - 3[4]として電化開業の際にスイスから輸入された、比較的コンパクトな設計かつ低出力のブラウン・ボベリ(BBC)社製凸型電気機関車[注 1]が使用されていた[注 2]が、本形式は大阪鉄道との直通運転実施に伴う変電所の増強や軌道の強化を背景として[注 3]、この時代の私鉄向けとしては大型の箱形車体を備え、しかも大出力の電動機を搭載した48t級機として完成している[注 4]

車体[編集]

四隅を面取りした平面形が八角形となる、強い後退角のついた三面折妻構造の妻面を備える全鋼製リベット組み立て構造の箱形車体である[10]

台枠もこれに合わせて八角形の平面形状となっており、乗務員室の出入り口はこの面取りを施した部分の一方、各妻面向かって左側の助士席側に一カ所ずつ設けてある[注 5]

なお、屋根板も平面形状が八角形となっているが、妻面の部分に突き出してひさしの役割を果たすようなデザインとされており、前照灯は屋根上中央部のこのひさし状に突き出した部分に1灯、筒型の灯具に収められて取り付けられている[10]

また、側窓は前後の乗務員室部分の各1枚は開閉可能な通常の四角形のものであるが、その間の機械室部分に設けられた明かり取り窓は、船舶と同じ真円形の小型のものが等間隔に7枚配置される、個性的なデザインとなっている[10]

この特徴的な側窓は、戦前戦後を通じて国鉄・JR向け量産車種以外では箱形機関車の製作実績の極端に少ない川崎車輌[注 6]が手がけた4種の自社独自設計による箱型機、すなわち本形式2両と1930年に4両(Nos.3000 - 3003)、1938年に1両(No.3004)で合計5両製造の南満洲鉄道3000形3000 - 3004(製番33 - 36・74[2])、1930年製造の小田原急行鉄道101形101(製番42[2])、それに戦後1956年に国鉄向け試作機として製造された電気式ディーゼル機関車(DEL)である国鉄DF40形DF40 1(製番14[注 7])の合計9両にのみ採用された、日本では非常に珍しい構造[注 8]のものである。

本形式は川崎の箱形電気機関車としては先行作となる富士身延鉄道200形1926年製。製番18 - 22[2])の設計を踏襲し、台枠が車体の下部にそのまま露出するなど、総じて無骨かつ古風な設計の車体構造であるが、この側面の丸窓や大きく後退角のついた三面折妻形状となった妻面などの特徴的かつ印象的なデザイン処理によって、欧州風の優美さを備えた造形となっている。

主要機器[編集]

主電動機[編集]

川崎造船所の電機部門[注 9]が制作した、川崎K-7-2003-Aと称する端子電圧750V時1時間定格出力149kW、定格回転数769rpmの直流直巻整流子式電動機を各台車に2基ずつ計4基、吊り掛け式で搭載する[5]。 駆動装置の歯数比は80:17 (4.706)である[5]

制御器[編集]

1920年代後半に設計された日本製の電気機関車としては一般的な、電空単位スイッチ式制御器を搭載する。

ただし、旅客列車牽引を想定して弱め界磁制御による高速運転に対応[16]し、さらにその際の牽引力低下に備えて重連運転が可能なよう、総括制御機能を付与してある[16]。このため、端梁には通常の貨車牽引に必要なブレーキ管に加え、総括制御に必要なジャンパ栓などの配線・配管が連結器の左右に振り分けて引き通されている[注 10]

また、山岳線での運用が主体となる本形式の運用形態では、焼き嵌め式タイヤを使用していた設計当時の一般的な車輪では、踏面ブレーキを常用した場合、連続下り勾配区間などでブレーキシューとタイヤの間で発生する摩擦熱が過大になり、熱膨張によるタイヤ弛緩と、それに伴うタイヤ部分の輪軸からの脱落による脱線事故が発生する危険があった。そのため本形式では勾配線での運用に備え、主電動機を主回路の切替により直巻発電機として扱い、車載抵抗器を用いて発生電力を熱エネルギーに変換・放出することで減速する、発電ブレーキ機能が搭載されている[18]

台車[編集]

肉厚の圧延鋼板を切り抜いた部材を組み立てた、棒台枠構造の2軸ボギー台車を2基備える[5]

この構造も富士身延鉄道200形以来、川崎造船所→川崎車輛で電気機関車用台車に標準的に採用されてきたものであるが、各台車に2基ずつブレーキシリンダーを備えた台車シリンダー方式を採用した[10]のが特徴となる[注 11]

なお、新造時にメーカーで撮影されたgroup="注"写真では、台車に機械式速度計用の連動装置が備わっていたことが確認できる[10]

ブレーキ[編集]

機械的なブレーキ装置としては機関車用として標準的に用いられていた、K-14弁によるEL14A自動空気ブレーキ装置[19]手ブレーキを搭載する。

前述のとおり、自動空気ブレーキのブレーキシリンダーは各台車の左右側梁中央部に各1基ずつ計4基据え付ける台車装架方式となっており、基礎ブレーキ装置はこれらによって駆動され、各車輪の前後からブレーキシューで締め付けて制動する、1台車あたり8ブロック構成の両抱き式踏面ブレーキとなっている。

集電装置[編集]

横型碍子によって支持される、特徴的な形状の大型菱枠パンタグラフを2基搭載する[10]

連結器[編集]

新造時より並形自動連結器を装着する。

運用[編集]

新造以来、終始元の吉野鉄道線を主体とする区間で地元特産の吉野杉を主体とする木材輸送用貨物列車を中心に使用された[20]

もっとも、新造直後の時期には、観桜シーズンに新造間もないサハ301形などを連ねた旅客列車の牽引にも起用されており、実際にもこれらの電車を牽引する写真が残されている[17]

第二次世界大戦中の企業統合による関西急行鉄道の成立と、これに伴う保有車両群の形式称号・記号番号の重複を解消するため、大規模な改番・改形式が実施された際には、本形式は車両番号こそ変更が無かったものの、以下の通り形式称号の変更と記号の付与が実施されている[4]

  • 電機51形51・52デ51形デ51・デ52

関西急行鉄道と南海鉄道の合併によって成立した近畿日本鉄道においても、長らく吉野線において貨物列車牽引に用いられた。

後期には2基搭載されていたパンタグラフが1基搭載に削減され、重連総括制御用配管類は全て撤去、灯具はそのままに前照灯が白熱電球1灯からシールドビーム2灯に交換、ATS機器や列車無線といった保安機器の追加搭載、さらに妻面向かって右側の機関士席窓がHゴム支持化されるなどの改造が実施されている。

駅構内などにおける車両入れ替え作業の際の係員の便を図り、端梁を延長する形で小型のデッキ取り付け改造工事を施工されていたデ52は1975年に一足先に廃車解体され、残るデ51も1981年南大阪線系統における貨物列車運用の廃止で定期運用を喪い、その後は南大阪線系統で保線工事列車牽引に充てられたが、老朽化により新造から55年が経過した1984年に除籍、解体処分に付された。

このため2両とも現存しない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 電機1形は端子電圧750V時1時間定格出力52.2kWのBBC製GDTM-6を4基搭載していた[5]
  2. ^ 電化直後に撮影されたと見られる、電機1がパンタグラフを下ろした状態のテハ1形を牽引する写真が残されている[6]が、この機関車が旅客列車牽引に用いられたかどうかは定かではない。なお、テハ1形のグループは電動車(6両)に対する制御車(14両)の両数の比率が異様に高かったモハ201形のグループとは異なり、テハ1形8両、テハニ100形2両、ホハ11形6両、ホハニ111形2両よりなり、電動車と制御車の両数比(MT比)が1:1であった[7]
  3. ^ 大阪鉄道からの直通乗り入れ車は日本初の20m級鋼製電車であるデニ500形を筆頭とする、ウェスティングハウス・エレクトリックWH-586-JP-5(端子電圧750V時1時間定格出力127kW、定格回転数815rpm)を搭載する自重40t超の大型電車群[8]であり、従来自重31tクラスで1時間定格出力41.03kWと非力な電動機を搭載したテハ1形(後の近鉄モ5151形)[9]を主力としていた吉野鉄道線でこれらの大型車を運用するには、従来の3倍以上にもなる大きな電力消費と3割以上も増える軌道負担に耐えられるよう、変電所と軌道の大がかりな増強・強化工事を要した[1]
  4. ^ 大型機となった背景として、奥野利夫は同時製作の付随車サハ301形)などを4両から5両程度連結した編成を牽引して旅客列車に充当することや、畝傍線(※畝傍線は現在の近鉄橿原線の旧称であるが、これは前後の文脈や状況から、鉄道省畝傍 - 橿原神宮前間3.4kmを結んでいた吉野鉄道線の延長線部分、後の小房線のことを指すと思われる)経由での鉄道省線からの団体列車誘致を企図していたのではないか、と推測している[1]
  5. ^ このため本形式の出入り口は前後各1カ所、合計2カ所しか用意されていない[10]
  6. ^ 川崎造船所→川崎車輌→川崎重工業は1996年までに合計821両の電気機関車を製作・納入したが、同社は伝統的に受注数が多く量産効果の出やすい国鉄向け機関車の受注を最重視しており、私鉄向けは戦前に22両、戦後に至ってはわずか1両、凸型の十和田観光電鉄ED400形ED402(製番241[11])を製作したのみで、戦前製作分の22両も国鉄向けを含めた1,067mm軌間向け本線用電気機関車の処女作となった庄川水力電気庄水3号形4両(製番4 - 7[2])を筆頭とする、箱形車体の前後に抵抗器を収めるためのごく小さなボンネットを設けた独特の凸型機や、伊勢電気鉄道501形(製番26・27[2])のような小型の凸型機が過半数を占めた。また、産業用も戦前戦後を通じて蓄電池機関車を含めても合計30両とごく少数にとどまっており、しかもその多くが日本製鐵日本鋼管、昭和製鋼のような製鉄所日本化成工業や三菱化成工業のような化学工場、あるいは満洲炭礦向けの凸型・L型機である。このため、国鉄向け以外の川崎車輌による国内向け箱形電気機関車は、富士身延鉄道200形5両、本形式2両、小田原急行鉄道101形1両のわずか8両にとどまる。さらに、輸出機も箱形は南満洲鉄道3000形5両以外では1982年より85両を量産・納入したF形交流機の中国国鉄6k型(製番705 - 789)のみとなっている[12]
  7. ^ 川崎造船所→川崎車輌→川崎重工業の場合、製番は各車種ごとに個別に付与されているため、このDF40 1の製番14は1930年製作の同社最初の内燃機関車より始まる、電気機関車とは別系統の番号となる[13]
  8. ^ この種の丸い側窓は、日本国内の機関車では他に西武鉄道E851形4両に採用されたのみである。もっとも、日本国外ではフランス国鉄(SNCF)のCC7100形をはじめとする、1940年代末から1950年代中盤にかけてのフランス・アルストム社製電気機関車(輸出向けを含む)[14]で多用された他、ベルギー国鉄126形・140形[15]などヨーロッパを中心にいくつかの量産形式で採用例があり、また日本国内でも電車については、1920年代前後の日本車輛製造製車両に戸袋窓を丸窓としたものが幾つか存在する。
  9. ^ 社名変更で川崎重工業となり、分社化されて川崎電機製造となった後、1968年富士電機に吸収合併。
  10. ^ なお、新造直後に撮影された現車写真においては、総括制御用ジャンパケーブルの他、台車端梁部分にブレーキ管と元空気溜管とおぼしき2組の空気配管用コック付きゴムホースが装着されているのが確認できる。[17]
  11. ^ メーカー作成の製造実績一覧では本形式をはじめとする私鉄・輸出向け箱形電気機関車の軸配置を特に「B+B」として通常の「B-B」と区分して記載[2]しており、先台車こそないものの、台車と台車の間を中間連結器で連結する、本形式の直前に製作された鉄道省向けEF52 7(製番28:川崎造船所→川崎車輌としての国鉄向け電気機関車第1号機[2])のような鉄道省向け制式電気機関車と同様の構造(実際にもこの構造を採る鉄道省向け電気機関車の軸配置を製造実績一覧では「2C+C2」などと表記している)を採っていたことを明示している[2]。この構造の場合、台車間にブレーキシリンダーを装架してそこから連動ロッド経由で各台車の基礎ブレーキ装置を駆動する、という設計当時の日本の鉄道車両で一般的であったブレーキ機構は構成するのが困難であったため、必然的に台車シリンダー式として各台車で個別に基礎ブレーキ装置を駆動する必要が生じた。

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍

  • 鉄道史資料保存会『近鉄旧型電車形式図集』鉄道史資料保存会、1979年。 
  • 廣田尚敬・鹿島雅美『日本の私鉄 1 近鉄』保育社、1980年。 
  • 鹿島雅美『日本の私鉄 31 近鉄 II』保育社、1983年。 
  • 近鉄電車80年編集委員会 編『近鉄電車80年』鉄道史資料保存会、1990年。 
  • 川崎重工業株式会社 車両事業本部 編『蒸気機関車から超高速車両まで 写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史』交友社(翻刻)、1996年。 

雑誌

  • 「私鉄専用鉄道の電気機関車」『世界の鉄道'69』、朝日新聞社、1968年10月、59 - 105頁。 
  • 「外国の電気機関車」『世界の鉄道'69』、朝日新聞社、1968年10月、107 - 146頁。 
  • 「日本の私鉄及び会社専用線電気機関車諸元表」『世界の鉄道'69』、朝日新聞社、1968年10月、178 - 185頁。 
  • 奥野利夫「50年前の電車(VII)」『鉄道史料』第7巻、鉄道史資料保存会、1977年7月、23 - 46頁。 
  • 資料提供 金田茂裕「川崎車輛製造実績両数表」『鉄道史料』第62巻、鉄道史資料保存会、1991年7月、55 - 77頁。 
  • 高山禮蔵「近鉄南大阪線 ―古いネガから―」『関西の鉄道』第36巻、関西鉄道研究会、1998年5月、24 - 27頁。 
  • 白土貞夫「絵葉書にみる 前史時代の近鉄」『鉄道ピクトリアル2003年1月臨時増刊号』第727巻、電気車研究会、2003年1月、73 - 77頁。