近鉄18400系電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近鉄18400系電車
特急車時代の18400系未更新車(1989年、京都駅)
基本情報
製造所 近畿車輛
主要諸元
編成 2両編成
軌間 1,435 mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
最高運転速度 120 km/h
起動加速度 2.5 km/h/s
減速度(常用) 4.0 km/h/s
減速度(非常) 4.5 km/h/s
編成定員 124名(18401F - 18403F・18409F・18410F)
128名 (18404F - 18408F)
自重 Mc車:36.0t(製造時)
Tc車:34.0t(製造時)
編成重量 70.0t(製造時)
車体長 20,640 mm
車体幅 2,670 mm
全高 4,150 mm
車体高 4,015 mm
台車 KD-63D・E
主電動機 三菱電機 MB-3127-A
主電動機出力 180kW
駆動方式 WNドライブ
歯車比 3.81
編成出力 720kW
制御装置 抵抗制御
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ HSC-D
抑速ブレーキ
保安装置 近鉄型ATS
テンプレートを表示

18400系電車(18400けいでんしゃ)は、1969年昭和44年)に登場した、近畿日本鉄道の元特急用車両で、その後の団体専用車両である。団体専用車両当時はあおぞらIIの名称を名乗っていた[1]。また、大阪難波方先頭車の車両番号+Fを編成名として記述する(例:モ18401以下2両編成=18401F)。また、18400系解説用の画像は、あおぞらII用への改造後の画像を適時用いる。そのほかに、大阪上本町に向かって右側を「山側」・左側を「海側」と記述する[2]

概要[編集]

18400系は18200系の後継増備車で、モ18400 (Mc) - ク18500 (Tc) の2両固定編成・前面貫通型となっている。1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)を目前に控えた1969年(昭和44年)から車両限界拡大工事完了直前の1972年(昭和47年)にかけて10編成20両が製造された[3]。基本的なデザインや車内設備は、同時期製造の大阪名古屋線用特急車である12200系(新)スナックカーに準じていたことから、鉄道ファンからはミニスナックカーと呼称された[注 1]

車体[編集]

京都線の車両限界拡大工事は既に完了していたが、橿原線の工事が完了していなかったため、18200系同様に奈良・京都・橿原線系の縮小車両限界に準拠する狭幅車として設計された。それでも橿原線の曲線緩和工事の完了などにより、車体幅は2,670 mm、全長は20,640 mm[注 2]と当時の施設で許容しうる限界ぎりぎりまで拡大が図られている。

なお、初期車は不燃基準がA基準であったが、18403F以降は地下線走行を考慮しA-A基準に変更されている[3]

主要機器[編集]

主電動機は18200系と同じ三菱電機製MB-3127-Aである。主制御器も三菱電機製ABFMで18200系に準ずるが、第1・2編成のみ600/1,500 Vに対応する複電圧仕様の回路構成[注 3]となっていた。これに対し、昇圧後に投入された第3編成以降は8400系や12200系と同様に1,500 V専用として竣工している。このため屋根の配管が最初の2編成と第3編成以降とで一部異なっている[6]

台車は18200系のKD-63系を改良した近畿車輛製KD-63D(モ18400形)・E(ク18500形)、ブレーキ(制動)方式はHSC-Dで、大阪線で運用される特急車の原則通り、青山峠越えに備えて抑速制動を装備する。

パンタグラフは18200系同様にモ18400形の運転席側とク18500形の連結面側に1台ずつ設けてあり、またその部分の屋根は低くなっているが、屋根の最大高そのものは車両限界拡大工事が進展した恩恵で18200系に比べて60 mm高く変更されている。

18200系までの京都・橿原線系特急車では、奈良電気鉄道以来の慣習で、電動車のパンタグラフが橿原神宮前方に配置され、制御車は京都方に連結されていたが、大阪線では電動車のパンタグラフは大阪方に配置されることが原則であったため、京伊特急運用で阪伊乙特急との併結時に運転台側にパンタグラフのある電動車同士が連結する際にはパンタグラフが極端な隣接配置となり、押し上げ力過剰で架線に悪影響を及ぼす危険性があったことと、昇圧・限界拡大工事完了後は他線の特急車と共通運用されることを考慮して、本系列では編成の向きを反転して京都方に電動車、橿原神宮前方に制御車という大阪線の12200系と共通の仕様に変更されている[6]

冷房装置は分散式ユニットクーラーである。

編成[編集]

新造当初の諸元に基づく編成表[3]。後年のスナックコーナー撤去により定員の変更が生じた車両については、本文の解説を参照のこと。

18401F - 18408F編成表

項目\運転区間
← 近鉄難波・京都
賢島・橿原神宮前 →
形式 モ18400形 (Mc) ク18500形 (Tc)
搭載機器 ◇,CON ◇,MG,CP
自重 36.0 t 34.0 t
定員 60 60
車内設備 スナックコーナー 洗面室・トイレ

18409F・18410F編成表

項目\運転区間
← 近鉄難波・京都
賢島・橿原神宮前 →
形式 モ18400形 (Mc) ク18500形 (Tc)
搭載機器 ◇,CON ◇,MG,CP
自重 36.0 t 34.0 t
定員 64 60
車内設備 車内販売準備室 洗面室・トイレ

車内設備[編集]

車内設備は、車両限界が厳しい中、側構を18200系の60mmからさらに薄くして50mmにして[6][注 4]、新しく考案された偏心回転式のリクライニングシート[注 5]を採用した[5]。この新機構は、一旦座席を通路側にスライドさせて壁とのクリアランスを確保した上で回転し、その後座席を窓側へスライドさせて着座時のポジションに戻すもので、この方式のリクライニングシートは以後の特急車各系列にも採用されている。ただし本系列は特に車体幅が狭いことから、窓側座席のひじ掛けが側窓テーブルの下に位置することになり、ひじをのせることはできない[6][注 6]。さらに、ひじ掛け内蔵式テーブルも窓際の場合、側窓のテーブルに邪魔されてテーブルセットが不可能である[6]。なお、座席幅は12000系比-35 mmの1,015 mmである[注 7]。インテリアの色彩は当時のほかの特急車に準じている。

モ18400形にはスナックコーナーが設けられた。なお、1972年(昭和47年)製造の第9・10編成は同時期製造の大阪・名古屋線向け12200系の仕様変更に準じてスナックコーナーを廃止し、これに代えて連結部に車内販売基地を設置している[8]。このため、定員は64名で、スナックコーナー省略型のモ12200形と比較して4名少ない。

ク18500形の連結部に和式と洋式トイレ・洗面所が設置されている[8]

改造・車体更新[編集]

900系非冷房車と18400系車体更新車

1972年(昭和47年)に列車無線アンテナの設置を行った[3]

1977年(昭和52年)からスナックコーナーの撤去が行われた。先に改造した第4 - 第8編成はスナックコーナーを撤去した跡に8人分の座席を設置した。一方、第1 - 第3編成はスナックコーナー跡に車内販売基地を設け、余ったスペースに4人分の座席を設けた[3]。また、車体更新工事を1984年(昭和59年)から開始し、内装色の変更のほか、12000系譲りの3分割による特徴的な構造の前面特急標識と、標識灯一体型の種別・行先表示板を撤去し、これらに代えて貫通扉への12400系などに準じた電動方向幕の設置と、前面左右下部への独立型の標識灯設置を実施した[3]

しかし、第9・10編成はスナックコーナーが当初からなかったことから更新工事は行われず、登場時のスタイルを守りつづけた。このほか、全編成とも座席のモケットエンジ色からオレンジ色のものに取り替えている。

1980年(昭和55年)には、電気連結器を持たない10100系の全廃を受けてジャンパ栓撤去が行われた[3]

当系列は12200系と同様に、製造時から将来の120 km/h運転を見越したブレーキ制御圧切替装置を搭載していたが、21000系の登場に伴って1988年(昭和63年)3月から名阪甲特急に限って実施された120 km/hへのスピードアップ対応工事から外されていた。その後、山田線の改良による速度向上が可能となったことで、1991年(平成3年)から1992年(平成4年)にかけて当系列にも最高速度120km/h対応工事が行われた[9]

運用[編集]

京伊特急用増備車として万博開催直前の1969年(昭和44年)3月に第1編成が竣工し[3]、以後橿原線限界拡大工事完了までは京伊特急の主力車として重用され、その後も長らく京伊・京橿特急を中心に使用された。

京伊・京橿特急ではスナックコーナーの営業を行っていなかったため、実際に営業したのは散発的に名阪甲特急(名阪ノンストップ特急)に代走で使用された時ぐらいだった。

しかし、車体幅が狭いことによる接客面の問題から、特急利用客の減少によって車両運用に比較的余裕が生じてきた1998年(平成10年)頃からは予備車状態となり、第1・第3・第5編成については高安検車区に所属変更となった。また、スナックコーナー撤去跡にそのまま座席を設置した車両の側扉の移設改造(12200系では実施)も行われなかった。

1999年(平成11年)以降、車体更新を受けていない第10編成を皮切りに順次廃車が開始された[9]。その後、2000年(平成12年)8月20日には同時に引退する12000系12003Fと18408Fの併結で、近鉄名古屋駅 - 五位堂駅間でさよなら運転を実施[10]。同年内に第9編成を除く全車両が廃車となった。

廃車となった車両から発生した制御装置は30000系[注 8]に転用された。

あおぞらII[編集]

15200系を従えて名古屋方面に向かう18400系
18409F 復刻塗装
高安工場のカットボディ

第9編成は1997年(平成9年)に団体専用車に用途変更され、18200系「あおぞらII」と同様の塗装変更を施し、特急標識・方向板差し・側面方向幕を撤去した[11]。18200系と異なり「あおぞらII」のロゴは省略されているが、近鉄公式ホームページで「あおぞらII」であると明言されている[1]。車内は新造以来の偏心回転式リクライニングシートのままであり、転換クロスシートの18200系に対して座席設備では優位であったが、内装も特急車時代のままで維持されており[11]、更新工事は実施されていないオレンジ系の座席モケットで木目調の化粧板であり、デッキも設けられていない。2013年(平成25年)時点の近鉄車両の中でこの組み合わせの内装を備えるのは本編成のみであった。

電算記号は「K09」から「PK09」に変更され[12]、所属検車区も西大寺検車区から明星検車区へ変更された。団体列車として18200系と共用で運用され、繁忙期に6両編成2本での運転を可能とした[11]。2000年(平成12年)の基本編成の全廃以降も残存し、2006年(平成18年)3月の18200系引退以降は15200系の増結用として運用されていた[11]

2013年(平成25年)11月30日、15200系15204編成 (PN04) の追加投入により引退し[13][14]、同年12月24日付で廃車された[15]。引退に際し、特急車時代の塗装に復元された。

廃車後は先頭部のみ高安検車区内に保存され、2014年(平成26年)のきんてつ鉄道まつりより一般公開が行われている。なお、この先頭部は復刻塗装の状態のままとなっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「ミニスナックカー」の愛称はファン側から与えられた。誌上における近鉄関係者とファンとの座談会で、「ファンの皆さんからミニスナックカーの愛称を頂戴し、恐縮に存じます」と技術管理部課長が語っている[4]。 また、近鉄自身が18400系を指してミニスナックカーと記述している[5]
  2. ^ 大阪線系特急車と同等。
  3. ^ ただし、目前に迫った昇圧工事を睨んで、切り替え装置は非搭載で、車庫や工場で回路を切り替える仕様となっており、昇圧までの間は暫定的に600 V設定で京都・橿原線専用車として、680系と18000系と共通運用設定となっていた。
  4. ^ 10000系から11400系までの特急車の側構は70mmである。
  5. ^ 18400系と比べて車幅の広い12200系においても製造途中からこの機構が採用され、特にテーブルを出した状態でも回転できるようになった。また、この偏心回転機構は5800系以降のL/Cカーロング/クロスシート両用座席機構(デュアルシート)にも応用されている。
  6. ^ 偏心式の採用にあたっては、座席が通路方向にスライドすることから、どうしても一定の通路幅を確保する必要がある。このために座席を極力窓際に寄せたことで側窓のテーブルとひじ掛けの上下間隔に余裕が少なくなるが、近鉄としては側窓テーブルをひじ掛けと兼用してもらう意図をもって、あえて窓の下辺を思いきって低くして、側窓テーブルをひじ掛けの代替として使用することとした[7]
  7. ^ 12000系座席幅1,060 mmの出所は『NEW LIMITED EXPRESS 12000』(12000系解説書) 近畿日本鉄道、5頁の図で、18400系は『鉄道ピクトリアル』(第505号)1988年12月臨時増刊号、179頁を参照した。資料により12000、12200系の座席幅を1,090 mmと記述しているものがあるが、後年登場した21000系「アーバンライナー」の座席幅が21000系技術解説書では1,070 mmと記されている。
  8. ^ 第6編成以降第10編成までと第14編成については製造コスト削減を目的として、2代目ビスタカーである10100系の制御器を整備・改造の上で流用していたため、この時期には老朽化が顕著となりつつあった。

出典[編集]

  1. ^ a b https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/131004intai18400.pdf
  2. ^ 『近畿日本鉄道 参宮特急史』エリエイ出版部・プレスアイゼンバーン、105頁
  3. ^ a b c d e f g h 『鉄道ピクトリアル』(第505号)1988年12月臨時増刊号、178 - 181頁
  4. ^ 『鉄道ピクトリアル』(第219号)1969年1月号、24頁
  5. ^ a b 『信頼のネットワーク 楽しい仲間たち きんてつの電車』近畿日本鉄道技術室車両部、18頁
  6. ^ a b c d e 『決定版 近鉄特急』ジェー・アール・アール、46 - 47頁
  7. ^ 『鉄道ピクトリアル』(第505号)1988年12月臨時増刊号、91頁
  8. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』(第505号)1988年12月臨時増刊号、18頁
  9. ^ a b 『近鉄特急 下』JTBキャンブックス、94頁
  10. ^ 『鉄道ピクトリアル』(第727号)2003年1月臨時増刊号、96頁
  11. ^ a b c d 『近鉄時刻表 2006年3月21日ダイヤ変更号』「The Densha 27 団体列車」p.36・p.37
  12. ^ 『とれいん』(第409号)2009年1月号 エリエイ出版部・プレスアイゼンバーン、58頁、65頁
  13. ^ 『鉄道ファン』(第629号)2013年9月号、65頁
  14. ^ 11月30日(土)に引退する18400系車両の引退イベントを実施! - 近畿日本鉄道 2013年10月4日
  15. ^ 鉄道ファン』2014年8月号 交友社 「大手私鉄車両ファイル2014 車両データバンク」

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 藤井信夫『車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道 特急車』関西鉄道研究会、1992年。ISBN 4-906399-02-9 
  • 田淵仁『近鉄特急 上』JTB、2004年。ISBN 4-533-05171-5 
  • 田淵仁『近鉄特急 下』JTB、2004年。ISBN 4-533-05416-1 
  • 寺本光照、林基一『決定版 近鉄特急』ジェー・アール・アール、1985年。 
  • 『NEW LIMITED EXPRESS 12000』近畿日本鉄道、1967年。 
  • 『信頼のネットワーク 楽しい仲間たち きんてつの電車』近畿日本鉄道技術室車両部、1993年。 
  • 前里孝、平井憲太郎『近畿日本鉄道 参宮特急史 』エリエイ出版部・プレスアイゼンバーン、1978年。 

雑誌[編集]

  • 鉄道ファン
    • 南滋雄「新車インタビュー 近畿日本鉄道 モ18200形 ク18300形」『鉄道ファン』第68号、交友社、1967年2月、15 - 17頁。 
    • 「新しい団体用車両 近鉄18200系あおぞらII」『鉄道ファン』第344号、交友社、1989年12月、72 - 73頁。 
    • 「特集:近鉄名阪特急直通30周年」『鉄道ファン』第348号、交友社、1990年4月、36頁。 
  • とれいん
    • 白川英行「MODELERS FILE 近畿日本鉄道12200系」『とれいん』第409号、エリエイ出版部・プレスアイゼンバーン、2009年1月、58 - 65頁。 
  • 鉄道ピクトリアル
    • 「特集 近畿日本鉄道」『鉄道ピクトリアル』第219号、電気車研究会、1969年1月。 
    • 「特集 近鉄特急」『鉄道ピクトリアル』第505号、電気車研究会、1988年12月。 
    • 「特集 近畿日本鉄道」『鉄道ピクトリアル』第727号、電気車研究会、2003年1月。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]