近鉄6800系電車

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近鉄6800系電車
養老鉄道による復刻ラビットカー塗装 606F(旧モ6857号車-旧モ6858号車 美濃津屋にて)
養老鉄道による復刻ラビットカー塗装 606F(旧モ6857号車-旧モ6858号車 美濃津屋にて)
基本情報
製造所 近畿車輛
主要諸元
編成 2両
軌間 1067mm
電気方式 直流 1,500V
起動加速度 4.0km/h/s
減速度(常用) 4.5km/h/s(1969年より4.0km/h/s)
編成定員 340
全長 20,720mm
全幅 2,736mm
全高 4,146mm
駆動方式 WNドライブ
出力 75kW×4
制御装置 三菱電機製電動カム軸式 ABF-108-15MDH
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近鉄6800系電車(きんてつ6800けいでんしゃ)は、近畿日本鉄道電車の一系列。

1957年9月に登場した、近鉄南大阪線区では1949年12月落成の6411系以来8年ぶりとなる新形式車両、同線区で初の高性能通勤車、また、日本で初めての高加減速車両でもある[1][2][3]

近鉄では初めて、1両片側あたり両開き4扉車体を採用し、その後の近鉄通勤車の基本レイアウトやデザインに影響を与えた。

同年9月12日に公式試運転を実施し、同年10月18日より運用を開始した。

概要[編集]

1954年に改造試作車のモ1450形で導入され、1955年の奈良線800系で量産化されていた高性能通勤車の南大阪線版で、同線の各駅停車用に開発された。

ラビットカー」(Rabbit Car)というニックネームが付けられている。各駅停車用ながら、旧型車で運行される急行準急のダイヤの間を高加速で縫って走る姿がうさぎを連想させるために付いた名であるという。

モ6800形は2両1編成。大阪阿部野橋寄りからモ6800偶数車(Mc)-モ6800奇数車 (Mc) と編成を組む。MMユニット・オール電動車方式により起動加速度4.0km/h/s・減速度4.5km/h/s という高加速・高減速を可能とした(このため当時は6800系同士あるいは6900系としか連結できなかったが、減速度は1969年に4.0km/h/sに下げられ、これにより6900系以外の他のカルダン駆動車とも連結可能となった)。

同時に製造されたモ6850形は増結用の単車のため、1M方式が採用されており、パンタグラフが6851 - 6854は連結面寄りに、6855 - 6858は運転台寄りに取り付けられている。また、当初、6851・53は吉野向き、52・54・55 - 58は大阪阿部野橋向きであったが、52・54はのちに吉野向きになった。

この車両で採用された20m級両開き4扉(1300mm幅、両引戸)・2個1組の大きなサッシュレス下降窓の車体は、それ以前の片開き3扉車や、同年に大阪線向けに20m級両開き3扉仕様の車体で投入された1460系電車と比較した場合、収容力や客扱い能力において優位であった。そのため、後に大阪線、名古屋線奈良線などの他線区の車両にも適用され、レイアウト・スタイリングとも近鉄通勤電車に長く用いられる基本デザインとなっている。

1次車では前照灯の間隔が980mmで、以降の電車の1300mmより狭くなっており、印象が異なる。これは計画途中までは前照灯1灯(1460系同様の前面)とする予定を変更した結果である。化粧板の色は関西私鉄標準の薄茶色であり、無塗製材(メラミン化粧板)を使用し、保守の省力化を図った。吊革は4列として、中央の2列はバネによるハネ上げ式を採用した。

妻面の貫通路はモ6800形は奇数車・偶数車とも広幅であり、増結用のモ6850形は運転台付車両と連結する関係で通常幅であった。

落成当初はオレンジバーミリオンに白帯という軽快な塗色に、1 - 3次車は白色エナメルの塗装で、4次車以降ではステンレス製のラビットマーク[4]が側面に取り付けられていた。1968年より、後述の改造工事と相前後して順次マルーンレッド1色となった。

機器類[編集]

主電動機は狭軌用の三菱電機製 MB-3032S (定格出力75kW、端子電圧375V換算定格1600rpm、最高回転数4500rpm、最弱界磁率40%)で、既に近鉄で先行例のあるWN駆動方式を採用した。MB-3032系主電動機は狭軌用のWN駆動モーターとしては日本で初めて75kW級の出力を達成したモデルで、小田急2220形長野電鉄2000系などにも採用された最新機種であったが、本系列の運用ではこのモーターに意図的に過負荷を与える手法を採った。

当初の本系列は南大阪線起点の近郊区間である大阪阿部野橋 - 矢田[5]の輸送力増強用に製造され、急行と各駅停車とが同一時分で運転できる性能を備えていたとされる[6]。これは、用途を区間専用車として思い切った設定と運用を実行した結果であった。朝ラッシュ時の混雑が激しい上り大阪阿部野橋方面行きでは、高い起動加速度を確保するため、定格75kWのモーターを実質90kW相当の過負荷で使用するが、同じ時間帯の下りの運用は当時は空車に近い乗車率で、この軽負荷運用を利用し、折り返して過負荷の掛かる上り運用に就くまでにモーターを冷却させるという手法で運用上の計算を働かせたのである[7]

モーターに負荷を掛けて4.0km/h/sという起動加速度を得ている関係で、ラビットカーのスペックを企図したとおりに発揮させるには、往復のうち片道の運転は輸送量が少ないのが条件の一つである。実際の運用は混雑の激しい大阪阿部野橋 - 矢田間の専用運転のほか、矢田以東に直通する普通や、準急・急行運用もこなしていたが、当時の運用では大阪阿部野橋 - 藤井寺間は高加速弱め界磁運転、藤井寺 - 橿原神宮駅間と御所線の尺土 - 近畿日本御所間では低加速運転、長野線の古市 - 河内長野間は高加速運転と運用の使い分けを行っており、電動機の耐性には問題は生じなかった。

制御装置は三菱電機製電動カム軸式 ABF-108-15MDH である。当時、同じ近鉄の主要路線でも同じ三菱電機製電装を標準としていた大阪線ではウエスチングハウス(WH)の流れを汲む単位スイッチ式制御器が使用されており、三菱製の電動カム軸式制御器は近鉄初採用であった。

南大阪線の場合、前身の旧大阪鉄道から継承された旧型車の制御装置はすべてWH社製単位スイッチ式であった。従って、保守・運用上の機構統一の見地からすれば、南大阪線新造車にはWH社の機構を継承した三菱製単位スイッチ制御器採用もあり得たが、近鉄成立後に投入された1949年製造の6801系(後の6411系)では日立製作所製MMC電動カム軸制御装置が採用されている。

本系列の制御器は三菱製であるが、続く1963年の6900系 (後の6000系。6800系をベースに主電動機の出力を135kWに増強してTc車を増結可能にした)では再び日立製制御器搭載となったため、結果的に南大阪線所属車両で三菱製制御器を使用した高性能車は本系列のみとなった。

集電装置は三菱電機製 S-524-A で奇数車連結面寄りに設置され、補助電源装置は三菱電機製 MG-57B-S である。制動装置は三菱製 HSC電磁直通ブレーキとしたが、抑速制動は設けられていない。空気圧縮機は三菱製 D-3-FR、台車近畿車輛製シュリーレン台車 KD-23である。

この車両の空気笛にはダブルホーンが採用されたが、他線新造一般車の空気笛がシングルホーンであったのと対照的であった。なお、電気笛は当初搭載されていなかった。

運用の推移[編集]

本来は各駅停車用として40両が製造された系列であるが、運用開始当初より南大阪線、長野線御所線の急行や準急でも使用されていた。運用開始当時は全車が天美検車区に配置された[8]。その後天美検車区から古市検車区に全車転属している(現在は天美検車区への車両の配置自体がなくなっている)。

南大阪線から旧型車が撤退し、また本系列も減速度が下げられ、同時に抵抗器の容量を増やして吉野線への入線が可能となって他のカルダン駆動車との連結が可能となった1969年頃からは、1 - 2両の短編成ユニットの特性を活かし、また大阪阿部野橋 - 古市間の沿線人口の急激な増加に対応すべく、主に3 - 4両編成が基本の6000系列(6000系・6020系・6200系)の増結用車両としての運用に就くこととなり、その役割を大きく変えることとなる。

このため、各駅停車に限らず、大阪阿部野橋 - 古市・河内長野間を中心に急行や準急の増結車としての運用に入ることも多くなった。

前述の通り、1969年に減速度を下げ、抵抗器の容量を増大する工事を行うまでは吉野線に入線することはなかった。

改造・廃車[編集]

1968年から塗装工程簡略化のため、マルーンレッド一色となり、それと同時にラビットマークも取り外された。

モ6851は1987年、デビュー30周年を記念して元のオレンジに白帯に戻され、同年10月18日の1日のみであったが、団体専用列車で運用された(この運転を最後に廃車[9][10][11][12]。なお、養老鉄道に転籍した6857(現モ606)・6858(現ク506)は2009年9月にオレンジに白帯への塗装変更を受け、ラビットマークも復活させている。

2次車である6813 - 6821の奇数車は列車無線設置が省略され半室運転台で残り、構内の入換や列車の増解結の際のみに使用され、営業では先頭に立つことはなかった。

1978年 - 1979年頃に行われた通勤形車両の冷房化については、登場後年数が経っている車両には施されず、同形式の中で製造年月が比較的新しかった6855 - 6858の4両のみ1989年に実施され、長野線などでの5両編成の運用のための増結用として利用された。6855 - 6858は冷房改造時にパンタグラフをPT-48形に変更の上、連結面寄に移設している。冷房電源用のMGを設置できる床下スペースがないため、併結可能な編成を限定し、冷房電源のみ併結した編成から供給する方法を採用した。増結可能な編成は6020系6128F・6129F及び6200系6301F・6302F・6307F・6308F・6309Fであった。冷房以外のサービス用電源は自車のMG(HG-583形)から供給する方法をとった。

廃車は1983年の6803Fから始まり、1993年に6855 - 6858が養老線に転出し、改番されたのを最後に系列消滅した。モ6851は廃車後古市検車区内の入換車として数年間機械扱いで使用されていたが、解体されて現存していない。

2009年9月に養老線にて、ラビットカー塗装が復活し、同年11月まで特製のヘッドマークが掲出されたが、一周年を迎えた2010年9月にも同年11月まで特製ヘッドマークが掲出された。

脚注[編集]

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  1. ^ 加速度3.3km/h/s超、減速度4.0km/h.s超を基準とした場合。
  2. ^ JTBパブリッシング JTBキャンブックス「近鉄電車」三好好三著 P.195掲載の近鉄6800系の記事
  3. ^ 生田誠「近鉄大阪線。近鉄南大阪線 街と駅の1世紀」彩流社(現・アルファベータブックス)刊 p.57
  4. ^ 岡本太郎がデザイン。岡本は1959年には近鉄バファロー(のちバファローズ)の球団マークもデザインした。
  5. ^ 当時の矢田駅は列車の折り返しが可能な配線であった。
  6. ^ 1957年11月1日実施の列車ダイヤでは、大阪阿部野橋 - 矢田間を優等列車の7分30秒(当時)に対し、途中4駅停車ながらもプラス僅か1分の8分30秒で走破することができた(それまでの在来車による各駅停車では10分10秒かかっていた)。停車時分を15秒とすれば走行時分は同じ7分30秒となる。
  7. ^ このため、運用開始当初は朝ラッシュ時の下り列車での運用は大阪阿部野橋 - 矢田間の急行(後に河内天美に延長し、準急に変更。当時は矢田・河内天美には、急行列車が矢田折り返しのみ同駅に、準急列車が河内天美折り返し列車のみ矢田と河内天美の両駅に停車していた)を中心に運用していた。なおこの手法は、下り列車の乗客が増えた現在では、空車回送でもない限り困難になっている。
  8. ^ JTBパブリッシング JTBキャンブックス「近鉄電車」の記事中の写真において6800系に取り付けられていた、所属配置検車区を表す「天」の文字が入った写真が掲載されていることで、6800系の新製配置が天美検車区であることが検証できる。なお、車両への所属配置検車区表記は1960年代中頃に中止されている(このため1967年開設の東花園検車区や富吉検車区の所属配置検車区記号は制定されていない)。
  9. ^ 近鉄でリバイバル塗装がなされた実績は、本系列以外では生駒ケーブルのコ1形と奈良線900系、この6800系のラビット塗装をリバイバルさせた6020系、20100系「あおぞら」の塗装をリバイバルさせた15200系、団体専用車の増結用で残っていた元特急車の18400系の復刻特急塗装、特急車2250系の塗装を復刻させた5200系の6例がある。なお、過去に近鉄に在籍していた車両で復刻塗装化された事例として、養老鉄道に貸与(2014年以降は養老鉄道所有)の600系の中で6800系の塗装を再現した606F、900系や1600系など初期の高性能車の塗装を再現した604F、伊賀鉄道に貸与していた860系の中で820系登場時の塗装を再現した863F、1950年代までの吊り掛け駆動車が採用していたダークグリーン塗装を再現した862Fが存在する。
  10. ^ 消えた車輌写真館 近鉄6800系ネコ・パブリッシング「鉄道ホビダス」公式サイト)
  11. ^ 電気車研究会「鉄道ピクトリアル」1988年1月号
  12. ^ ただし、モ6851のラビットマークは原型が白のペイントであったが、このリバイバル塗装ではステンレス製のものを取り付けていたので、厳密には落成当時の意匠ではなかった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 赤尾公之 「近鉄“ラビットカー”6800形」、『電気車の科学』 第10巻第10号 (通巻114号)、pp.32-37、1957年。
  • 鹿島雅美 「カラーブックス 日本の私鉄31 近鉄II」、保育社、pp.104-107、1983年。
  • 中村卓之 「近鉄南大阪線ラビットカーの30年」、『関西の鉄道』 19、pp.11-14、1988年。
  • 中山嘉彦 「戦後飛躍期の近畿日本鉄道新製車両について」、『鉄道ピクトリアル』 2003年12月臨時増刊号、pp.114-115、2003年。

外部リンク[編集]