贖命重宝

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贖命重宝とは、命を贖(あがな)う重宝の意で、天台大師・智顗が定めた『涅槃経』の教えを指す。日蓮もこの説を引き継いだ。

日蓮は『寺泊御書』で、次のように述べた。

涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり。天台大師の料簡(りょうけん=考え)に云(いわ)く、命とは法華経なり。重宝とは涅槃経に説く所の前三教(ぜんさんきょう)なり。ただし涅槃経に説く所の円教は如何(いかん)。この法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ、涅槃経の円常を以て法華経に摂す。涅槃経の得分はただ前三教なり。(法華)玄義の三に云く『涅槃は贖命の重宝なり、重ねて掌(て)を抵(う)つのみ

— 『寺泊御書

これは智顗が、釈迦の一代の教説を、蔵・通・別・円の八教に分け、その中で円が最も優れた教えであると定め、次に法華経を命、涅槃経を重宝にたとえている。また涅槃経は釈迦一代の教説をもう一度、再び(重ねて)説いている。したがって涅槃経の仏性常住(円教)は、法華経の命である円教を重ねて説いただけであるから、涅槃経は前三経(法華経以前に説かれた蔵・通・別の教え、つまり華厳・阿含・報道・般若の各経説)と同じで、それだけが得る部分であり、涅槃経は法華経の命をあがなう重宝でしかないとする。

『涅槃経』巻18 梵行品には以下のように書かれている。

如来は常楽我浄なり。諸仏世尊は永く畢竟して『涅槃に入らず』とは説かず。この故にこの経を名づけて如来の秘密の蔵(ぞう)となす。十一部経に説かざる所なるが故に、ゆえに名づけて蔵となす。人の七宝の外に出し用いざる、これを名づけて蔵となすが如し。善男子、この人のこの物を蔵積する所以(ゆえん)は、未来のためである。未来の事が何かというと、いわゆる穀貴(こくき)なり。賊が来たりて国を侵し、悪王に値遇(ちぐ)せん。用いて命を贖うがために、道路渋難にして、財の得難き時にすなわち当に出して用いるべし。善男子、諸仏如来秘密の蔵も、またまた是の如く未来世のためなり。諸の悪比丘、不浄物を蓄え、四衆のために如来は畢竟して涅槃に入ると説き、世典を読誦して仏経を敬せず。是の如き等の悪の世に現るる時に、如来はこの諸悪を滅し、邪命利養を遠離することを得しめんと欲するがために、如来則(すなわ)ち為にこの経を演説す。もしこの経典秘密の蔵の滅して現せざる時、当に知るべし、その時に仏法則ち滅せん。善男子、大涅槃経は常にして変易(へんやく)せず…

— 『涅槃経』巻18梵行品第8の4

涅槃経の経文を要約すると、「涅槃経は如来が蔵している秘密であり、涅槃経以前の教説には説いていないものである。これを蔵するのは、もし今後、賊や悪王が来て命を奪おうとしたら、蔵している宝を差し出してその命を贖うのと同じで、未来に悪い比丘(坊主・僧侶)が現れて『釈迦如来は入滅して涅槃に入ってもうこの世にはいない』と説いた場合に、この秘密の蔵である涅槃経を演説すべきであり、もしこの涅槃経が現れなかった時は、仏法は滅する」というのが、経文上の本来の意図である。したがって厳密にいえば、この経文には涅槃経が宝であり、法華経が命であるなどとは書かれていない。したがってあくまでも智顗が、法華経を涅槃経より優位と判断して、この涅槃経の経文を解釈したものとされる。

智顗が活躍し天台宗が興隆した当時は、涅槃経を所依とする涅槃宗は単なる学派となり実践力が薄れていたこともあり、智顗が教学と実践を兼ね備えており、これらの解釈を盛んに主張したことに対抗できず、涅槃宗は吸収合併されるに至った。しかし近年の仏教学においては、これらは智顗による強引な解釈(ドグマ)であったという指摘もある。

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