羽仁進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

羽仁 進(はに すすむ、1928年10月10日 - )は、日本の映画監督。父は歴史家参議院議員を務めた羽仁五郎、母は婦人運動家羽仁説子。母方の祖父母は自由学園創立者の羽仁吉一羽仁もと子、父方の祖父は第四十銀行創立者の森宗作。妹に音楽教育家の羽仁協子

来歴・人物[編集]

祖母の羽仁もと子が創立した自由学園1947年に卒業後、1年間の共同通信社記者生活を経て、1949年岩波映画製作所の設立に加わる。最初は岩波写真文庫の編集などに携わり、1952年厚生省(現・厚生労働省)がスポンサーとなった『生活と水』で監督デビューする。

1955年に公開された記録映画『教室の子供たち』は、授業中の子どもたちの姿をいきいきと活写し、教育映画祭最高賞など絶賛された[1]。引き続き制作した記録映画『絵を描く子どもたち』は、当時の記録映画としては珍しく1956年に劇場にて娯楽映画と併映された[1]1958年には法隆寺の姿を収めた『法隆寺』を制作した。

1960年にはドキュメンタリーの手法を多用した長編劇映画の『不良少年』を撮り、新境地を開拓した。プロの俳優は使わず、非行経験のある少年を集めてその経験を即興的に取り入れていきながら撮ったもので、その後のスタイルを決定付けた。この作品はキネマ旬報ベストテンの首位に選ばれた。

その後に独立し、また劇映画に転じ、1965年の『ブワナ・トシの歌』では、渥美清演ずる主人公がアフリカ奥地にプレハブ住宅を造りに行く姿を描いた。また、1968年寺山修司脚本を得た『初恋・地獄編』(主演:石井くに子高橋章夫)も類似の手法でATGから配給された。1970年代半ば以降は、再びドキュメンタリーに戻った。

その後、アフリカオーストラリアなどに海外ロケを30年近く続け、野生動物を撮りつづけた。その集大成として『動物に学ぶ-生きる』制作した他、反核ドキュメンタリーも制作した。

独自の教育論で、各地での講演活動や執筆活動を行っている。

元妻は女優の左幸子1959年に結婚、1977年に離婚した。離婚の原因は、羽仁が左幸子の実妹の額村喜美子と浮気したことである。喜美子は女優として多忙な幸子に代わり、娘の未央が生まれた頃からベビーシッターとして羽仁家に出入りし家事もこなしながら、羽仁のマネージャーを務めていた。羽仁のアフリカ長期撮影旅行に同行する中での出来事であった。羽仁は離婚4か月後に喜美子と再婚した。同じく左幸子の実妹で女優の左時枝と混同されることがあるが、喜美子は四女、時枝は五女であり、別人である。女優、タレント、エッセイストの羽仁未央1964年 - 2014年)は、左幸子との間の一人娘。

代表作[編集]

  • 生活と水(1952年、岩波映画)
  • 教室の子供たち(1955年、岩波映画)
  • 絵を描く子どもたち(1956年、岩波映画)
  • 不良少年(1961年、岩波映画)
  • 彼女と彼(1963年、左幸子主演、ATG、岩波映画)
  • 手をつなぐ子ら(1964年、昭和映画)
  • ブワナ・トシの歌(1965年、東京映画=昭和映画)
  • アンデスの花嫁(1966年)
  • 初恋・地獄篇(1968年、羽仁プロ=ATG
  • 恋の大冒険(1970年、オールスタッフ・プロ=テアトル・プロ)
  • 妖精の詩(1971年、羽仁プロ)
  • 午前中の時間割り(1972年、羽仁プロ=ATG
  • 動物家族(1974-75)※テレビ番組 
  • アフリカ物語(1980年、サンリオ・フィルム)
  • 予言(1982年、子供たちに世界に被曝の記録を送る会映画製作委員会)
  • 歴史=核狂乱の時代  (1983年、被爆の記録を送る会)

テレビ出演[編集]

主な受賞歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 【News】6/13-7/3開催 『教室の子供たち』公開から60年 “映画の天才”羽仁進映画祭 @大阪シネ・ヌーヴォ”. 日本で唯一のドキュメンタリーカルチャーマガジン neoneo (2015年6月10日). 2018年1月30日閲覧。

外部リンク[編集]