赤羽末吉

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赤羽 末吉(あかば すえきち 、1910年5月3日 - 1990年6月8日 )は、日本の舞台美術作家、絵本画家、絵本作家

来歴[編集]

東京生まれ。旧制順天中学校(現・順天中学校・高等学校)を卒業し、1932年、22歳で満州国大連市(現在の中国遼寧省)に移住。当初は通信関係や運輸関係の仕事に従事したとされる。ほとんど独学で絵画を学んだ赤羽だが満州国美術展に出品した油絵が数回にわたり入選。後に満洲電電で美術関係の仕事に就く。満州時代は旅を好み、蒙橿(現在のモンゴルと国境を接する地区)にも足を運んでいる。

太平洋戦争終結後に家族と共に36歳で日本へ引き揚げた赤羽は民間情報教育局を経て、アメリカ大使館文化交換局に職を得て、以降の18年をここで過ごす。並行して舞踊劇などの舞台美術の仕事を通じ木下順二松山善三と交際、周囲の評価からは理知的で端正な人間像が浮かびあがる。1961年、50歳になった赤羽は福音館書店松居直編集長を訪ねて絵本を描きたいと語り、瀬田貞二再話による『かさじぞう』(『こどものとも』58号)で挿絵を描き絵本画家としてデビューした。本人の説明によると茂田井武の作画による『セロひきのゴーシュ』(福音館書店)を見たのが画家転進の動機の一つとされる。以降発表した多くの作品は、国内のみならず海外からも高い評価を得て国内外の受賞多数。代表作に『ももたろう』『スーホの白い馬』、『おへそがえる・ごん』。1980年には斯界において最も権威のある賞とされる「国際アンデルセン賞・画家賞」を受賞。授賞式に臨んだ赤羽はスピーチの中で感謝とそれ以降の仕事への強い意欲を表明している。1990年、食道静脈瘤破裂により死去。

没後、遺志に基づきその下書きのデッサンから原画を含む六千数百点全てが遺族の手よりいわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)へ寄贈されている。これほどの点数の作品を自分とは直接その運営に関係を持たない個人美術館に寄贈したのは、当時でも奇異の目をもって見られている。一説によると、背景には激動の昭和を生きた赤羽は木下と共に日本共産党シンパでありながら、アメリカ大使館へ奉職せざるを得ない自分への葛藤があり、これこそが巨匠に決断をもたらした最大のものであるとされるが、あくまで推測の域をでない[1]

なお、『スーホの白い馬』で使用された挿絵の原画は、1997年2月から3月にかけてみんなのうたで放送された楽曲『わたしのふるさと』の映像として使用されたが、本の中での登場順とは若干異なっていた。

息子にフランス文学者・上智大学名誉教授の赤羽研三がいる。

著作[編集]

  • 『おおきなおおきなおいも 鶴巻幼稚園・市村久子の教育実践による』作絵 福音館書店 1972
  • 『源平絵巻画集』岩崎書店 1975
  • 『鬼のうで』文と絵 偕成社 1976
  • 『絵本わらべうた』偕成社 1977
  • 『そら、にげろ』偕成社 1978
  • 『へそとりごろべえ』詩と画 童心社 1978
  • 『絵本よもやま話』偕成社 1979年
  • 『私の絵本ろん』偕成社 1983 『私の絵本ろん 中・高校生のための絵本入門』平凡社ライブラリー、2005
  • 『おへそがえる・ごん』全3巻 作絵 福音館書店 1986

挿画[編集]

日本の民話

中国・モンゴルの民話

  • 大塚勇三スーホの白い馬』福音館書店、1967
    初出は『こどものとも』1961年10月号。再版の際には原画と版が失われていたこともあって、構成も新たに場面も増やして描き直され、横長の大型本として出版された。
  • 君島久子訳『王さまと九人のきょうだい 中国の民話』岩波書店、1969 

参考文献[編集]

  • 鳥越信『絵本の歴史をつくった20人』創元社 1993年

脚注[編集]

  1. ^ いわさきちひろは生前日本共産党員でもあった。

外部リンク[編集]