失われた20年
失われた20年(うしなわれた20ねん)とは、ある国または地域における約20年間の経済低迷を指す語である。ここでは日本の経済の「失われた20年」について扱う。主にバブル崩壊後の1990年代初頭から2010年代初頭までの20年間を指すことが多い。
初出は、朝日新聞「変転経済」取材班による『失われた〈20年〉』(2009年、岩波書店)[1][2]である。その3年後の2012年3月に、一橋大学経済研究所の深尾京司による『「失われた20年」と日本経済』が日本経済新聞社から刊行されている。
歴史[編集]

1990年代 - 2000年代[編集]
かつては、バブル経済(株式・土地)が崩壊した後の1990年代初頭から2000年代初頭までの経済低迷期間を「失われた10年」と呼ばれていた。平成不況(第1次-第3次平成不況)とも呼ばれる。
この間には、周期上では景気回復とされる時期として、カンフル景気またはさざ波景気(1993年-1997年)、ITバブル景気(1999年-2000年)は存在したが、これらは一時的な景気回復にすぎず、景気が完全に改善されたわけではなかった。
2000年代のいざなみ景気(2002年2月-2008年2月)の期間は、長期的に緩やかな景気回復が続いてはいたが、実質経済成長率の低さにより実感が伴わず、完全に景気は改善されなかった。そのため、いざなみ景気の期間も1980年代後半と比較すると好景気ではないとして扱う人もいた。[誰によって?]
2000年代後半からは、サブプライムローン問題をきっかけにリーマン・ショックが起きて世界金融危機 (2007年-)へ発展し、世界同時不況へと陥った。このようにバブル崩壊から10年以上が経っても、経済の低迷が完全に改善されることはなかった。
なお、世界同時不況へ陥る前後の2006年から2010年ごろには「失われた15年」という表現も登場した[3][4][5]。
2009年当時、第一生命経済研究所の熊野英生は「バブル崩壊後の90年代を『失われた10年』と呼ぶが、2000年以降の約10年がもうひとつの『失われた10年』になってしまっている」と、日本経済の先行きに警鐘を鳴らしていた[6]。
2010年代[編集]
2010年代に入ると、「失われた10年」と2000年代以降の景気を合わせて「失われた20年」と呼ぶようになった[7]。
2011年には、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し日本経済も大きな打撃を受けた。同年以降も経済低迷の状態は変化しておらず、一部では[どこ?]人口減少社会などを背景に悪化傾向にあった。
経済指標としては、景気以外にも国内総生産(GDP)、物価、金利などが挙げられるが、一人当たり名目GDPは、1969年から2002年までは日本が世界のベスト5から落ちることはなかったものの、2009年はに世界19位、2015年では27位にまで転落した。また貿易収支では貿易赤字が慢性化し、かつての輸出大国の影はないのが実情である[8]。
加えて、世界における日本の通貨すなわち円 (通貨)の立ち位置も変わり、2015年8月の通貨別決済シェアでは人民元が2.79%と、日本円の2.76%を逆転し、ドル、ユーロ、ポンド (通貨)に次ぐ「第4の国際通貨」の座を奪われた[9]。これにより2015年、中国の人民元は第3の主要通貨として国際通貨基金(IMF)に承認され、日本円はこれを下回る第4位となった。
財務省 (日本)は2015年8月、国債や借入金、国庫短期証券を合わせた「国の借金」の残高が、同年3月末時点で1053兆3572億円に達したと発表した。同2015年にはS&P、フィッチ・レーティングスなどの国際的な格付け会社が「日本国債の信用力の低下傾向を今後2~3年で好転させる可能性は低い」として国債の格下げを行った。当時の同ランクとしては中国やイスラエル、マレーシアなどの国があった。
日本経済新聞のフェロー芹川洋一は、2018年の自著で「『失われた10年』は結局、20年になってしまった。小泉政権のころはまだ10年だった。その原因はなにか。バブル経済の不良債権の処理が遅れていたためだ。」と述べ[10]、官製不況であるとして批判している。
経緯[編集]
デフレーションと失われた20年[編集]
バブル景気の後期から、日本では実体経済と資産価格のずれから経済に軋みが生じ始めていた。1989年4月1日から消費税が導入され、さらに日本銀行による急速な金融引き締め方針や総量規制の失敗を端緒とした信用収縮などから、経済活動は次第に収縮に転じ、日経平均株価は1989年の大納会に付けた最高値38,915円87銭をピークに下落、翌1990年には23,848円71銭にまで急落し、1990-1991年ごろにバブルの崩壊を招いた。
1990年代[編集]
日本経済は1990年代初頭にバブル崩壊を経験して以来、低いながらも名目経済成長は続いていた。村山内閣で内定していた消費税の税率3%から5%への増税を第2次橋本内閣が1997年4月に断行。消費税にはビルト・イン・スタビライザーの機能は備わっておらず、増税による景気悪化が懸念されていた[注釈 1]。1997年当時アメリカ合衆国財務副長官であったローレンス・サマーズは、第2次橋本内閣が予定どおり3%から5%への消費増税を断行すれば日本経済は再び不況にみまわれるだろうと日本国政府に対して繰り返し警告していた[11]。
翌年の1998年度には名目GDPは前年度比約マイナス2%の502兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込み[12]、完全失業率は4.1%に達し、これ以降日本は本格的なデフレーションへ突入し、「失われた10年」を経験することになる。1999年度には、1997年度と比べ所得税と法人税の合計額が6兆5000億円もの減収となり[13]、失業者数は300万人を超えた。さらに1997年には日本銀行法が改正され、内閣が日本銀行総裁の解任権を失うことになった。
年度 | 名目GDP (兆円) |
名目経済成長率 (%) |
失業者数 (万人) |
労働力人口 (万人) |
失業率 (%) |
---|---|---|---|---|---|
1994 | 486.5263 | 1.19 | 192 | 6645 | 2.88 |
1995 | 493.2717 | 1.38 | 210 | 6666 | 3.15 |
1996 | 502.6089 | 1.89 | 225 | 6711 | 3.35 |
1997 | 512.2489 | 1.91 | 230 | 6787 | 3.38 |
1998 | 502.9728 | -1.81 | 279 | 6793 | 4.10 |
1999 | 495.2269 | -1.54 | 317 | 6779 | 4.67 |
参考:名目GDPは2006年の価格で評価
2000年までの「失われた10年」においては、歴代内閣において以下のようないわゆるケインズ政策が取られた。
- 1992年8月 - 総合経済対策(事業規模10.7兆円)
- 1993年4月 - 新総合経済対策(13.2兆円)
- 1993年9月 - 緊急経済対策(6.2兆円)
- 1994年2月 - 総合経済対策(15.3兆円)
- 1995年4月 - 緊急・円高経済対策(7兆円)
- 1995年9月 - 経済対策(14.23兆円)
- 1998年4月 - 総合経済対策(16兆円)
- 1998年11月 - 緊急経済対策(24兆円)
- 1999年11月 - 経済新生対策(18兆円)
経済原理としては日本政府が足元の景気対策に全力を挙げるべき時期であったが、当時は55年体制の崩壊、自由民主党 (日本)分裂と非自民・非共産連立政権の誕生、その後の自社さ連立政権と政権の枠組みが次々と代わり、有効な景気対策が打てないまま時が過ぎて行った。それでも、カンフル剤注入政策効果で1993年ごろを底として景気が緩やかに回復し(カンフル景気)、好転の兆しも見せていた。
この時代の経済思想は、宮澤喜一に代表される。宮沢は、1991年11月から1993年8月まで内閣総理大臣として総合経済対策、新総合経済対策を推進したほか、1998年小渕内閣の財務大臣 (日本)に返り咲いた。宮沢ほかの経済思想は、財政政策を中心とする典型的なケインズ的な経済政策であったが、「失われた10年」と呼ばれたように、結果として長期不況から脱出できなかった。
この原因については、さまざまな説が上げられている。財政再建を急ぐ政府は、税収を確保する手段として消費税に活路を見出し、阪神・淡路大震災の復興のための財源を確保するため、国民の反発を押しきって踏み切った橋本政権の消費税増税は消費の急激な落ち込みを招き、同時期に発生したアジア通貨危機、不良債権問題を処理するためのバランスシート調整に伴う金融機関の相次ぐ破綻などが重なり、結果として経済情勢が悪化した。1995年には、兵庫銀行が破綻、これは戦後初の銀行倒産だった。その後、1998年12月までに北海道拓殖銀行や日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、証券会社では三洋証券、山一證券が経営破たんした。
小泉構造改革[編集]
その後のインターネット・バブルとその崩壊による景気の変動ののち、2001年4月、小泉旋風に乗って小泉純一郎が内閣総理大臣に就任すると、民間から経済学者の竹中平蔵を内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)に指名し、以後2006年9月まで、いわゆる小泉=竹中改革(聖域なき構造改革)を推進した。この間、日本銀行は2001年3月19日から2006年3月9日まで量的金融緩和政策を推進した。また大規模な為替介入も行っている。
この影響もあり、円ドル為替レートは弱含みに推移し(1ドル110円 - 120円)、輸出が増大し、リーマン・ショック直前まで緩やかな景気回復が続いた。これは「第14循環」と呼ばれる。
小泉政権下で銀行の不良債権処理を進めて完了し、大企業は業績が改善した。処理成長率は2%前後で維持し続け、日経平均株価も上昇した。しかし、日経平均株価は20,000円を超えることはなく、2007年7月9日の18,261円98銭が最高であった。これは、1990年代の平均よりも低い値である。GDPデフレーターに関しても、1990年に100%を切りデフレへと陥って以降、そこから回復できなかった[15]。
景気回復期間は、2002年2月からリーマン・ショック直前の2008年2月まで73か月に及び、「戦後最長の景気回復」とも呼ばれたが、実質経済成長率は、年1%を超えることができず、また労働者の賃金が上昇しなかったため、「実感なき景気回復」とも呼ばれた。
リーマン・ショックと東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)[編集]
2008年には、北アメリカのサブプライムローン問題をきっかけとする世界金融危機 (2007年-2010年)により、景気が急激に悪化した。2008年9月のリーマン・ショック以降は世界経済が冷え込み、皮肉にも小泉改革の負の側面が一気に噴出して国内総生産(GDP)がマイナス成長となった。
2009年以降3年間の民主党 (日本 1998-2016)政権の時期は、事業仕分け (行政刷新会議)による1兆円弱の財政の精査や、介護ビジネスの規制緩和、米国の量的金融緩和政策に伴うドル安などで、ドルベースの国内総生産で成長率5%を回復する期間もあった。
リーマン・ショックや2010年欧州ソブリン危機により、ドルやユーロの価値が急落したため、円の価値が相対的に上がり、円ドルレートは1ドル100円を切る円高に推移した。しかし政府や日銀の対応の遅れから円高傾向を食い止めることができず80円台半ばにまで上昇し、加えて原油価格の高騰などにより輸出の減少や企業の海外流出が進んだ。日本やアメリカ合衆国の経済はマイナス成長に陥り、中間層の没落と貧困層への転落が急速に進んだ。
1990年代の10年間に続く、2000年代の10年は「失われた20年」と呼ばれる。
2010年には世帯所得が1987年(昭和62年)並に低下した[16]。帝国データバンクによると、2010年の日本全体の企業の売上高は2000年に比べて3.9%減少しており、減少額は13兆8482億円となっている[17]。
2011年には、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)とそれによる福島第一原子力発電所事故、米国債ショックなどが起こり、経済に少なからず影響を与え、一時的に急激な株安・円高となった。
統計[編集]

1992年から2009年までの18年間の実質経済成長率は平均0.7%、名目経済成長率は平均0.1%、GDPデフレーターは平均マイナス0.7%となっている[18]。1990年以降、OECD加盟国のほとんどは2%以上の実質経済成長率、4%程度の名目経済成長率を達成している(2010年時点)[19]。
池田信夫は「2009年の日本の実質経済成長率は、1991年の水準を100とすると120程度である。アメリカの160、ヨーロッパの140と比べても低く、日本のGDPは20年で実現可能な水準と比べて20%以上低下した」と指摘している[20]。
いっぽうで政治学者のジェラルド・カーティスのように「こういった国内総生産の数字は誤解を招きやすく、国民1人当たりで見ると失われた20年の成長もさほど悪くもなく、西ヨーロッパ諸国の平均と同じくらいだ」とする見解もある[21]。事実、米国や英国のような高成長を続けている先進国は移民の流入によって永続的に生産年齢人口が増加しており、1990年代以降のおよそ30年間で2割弱生産年齢人口が減少した日本とは人口の面で大きな違いがある。生産人口一人当たりのGDPで比較した場合、日本は英国、フランス、カナダなどとほぼ同じであり、プラザ合意以前(1980年代前半)と2020年代を比較した場合これらの国と成長率に差はない。各国の一人当たり名目GDPリスト、日本の人口統計も参照。
1998年末時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約六割を占めていた[22]。バブル崩壊後の「失われた20年」で株と不動産の損失は1500兆円とされる[23]。内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2456兆円をピークに、2006年末には約1228兆円となりおよそ16年間で約1228兆円の資産価値が失われたと推定されている[24]。
就職状況[編集]
求人倍率[注釈 2] も1991年ごろをピークに急落に転じ、求人数よりも求職者数が上回るようになり、大卒生の就職率も7割前後にまで下落。就職氷河期と呼ばれるようになった。
1990年後半から2000年代前半にかけて状況はさらに悪化し、1999年には有効求人倍率が0.48(パートを含まなければ0.39)になり、大卒生の就職率も6割前後にまで下がった。この時期は団塊ジュニアで卒業生が多く、就職難に拍車をかけ氷河期世代と呼ばれるようになり、今でも非正規雇用・ブラック企業で働く割合やニート・引きこもりが多い。また、2.5%前後だった失業率も5%前後にまで上昇し、自殺者数も1998年から3万人を超えるようになった[26]。
2000年代中ごろ(いざなみ景気時)から、就職状況が好転し、有効求人倍率も1.06(パートを含まなければ0.94)にまで回復、大卒生の就職率も7割前後にまで回復、失業率も4%前後にまで回復したが、回復したのは都市が中心であり、地方では就職難が続いた。アルバイトや労働者派遣事業といった非正規雇用率も増え続け、2005年では女性は全世代平均が51.7%と5割を超えた状態を維持、男性は15から24歳で44.2%と高い状態のまま、25から34歳も13.2%と2000年の5.6%と比べて2.5倍近く増えた。
2000年代終盤(世界金融危機 (2007年-)後)には、再び就職状況が悪化、失業率は5%前後に上昇、2009年には有効求人倍率も0.47になり、大卒生の就職率も6割前後にまで落ち、再び就職氷河期となった。
リベラル派による景気回復策[編集]
通貨発行権の行使[編集]
こうした日本の深刻なデフレ不況への対応策は、リベラルで実績があり世界的に影響力のあるアメリカのニュー・ケインジアンの経済学者を中心として既に1990年代後半から議論が始まっており、ノーベル経済学賞受賞者であるポール・クルーグマン(当時MIT教授)は日本が流動性の罠に陥っている可能性[27] を指摘しつつも、日本経済を回復軌道にのせるための手段として、極めて初歩的ではあるが、お金を大量に刷ること(Print lots of money)で資金需要[28] 増加に努めるべきと論じた。一般的には流動性の罠に陥った状況では通常の金融政策は効力がないとされるが、実際には短期国債と長期国債は完全に代替的とは言えず、中央銀行が新規に通貨を発行し、長期国債の購入を長期間継続することを宣言して市場に流動性を供給し続けることで間接的に総需要の下支えができる[29]。日本銀行が多額の日本国債を買い取ることに起因するインフレーションについては「人々の消費がその経済の生産能力(供給力)を超える状態のときに限り、紙幣増刷由来のインフレが発生する」と述べる。というのも流動性の罠に陥っている状況では、IS-LM分析でLM曲線がY-r平面でフラットになっているためにマネタリーベースの増加が実質金利上昇を喚起しないからである[30]。しかしながらそのような中央銀行のインフレ期待政策は長期にわたって継続させねばならない。
よりラディカルな政策はノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツ(コロンビア大学教授)によって提唱された。通貨発行権は中央銀行だけでなく政府それ自身も有しており、ゆえに日本経済を好転させるために日本政府が財政赤字を紙幣増刷によってファイナンスするように提言していた[31]。新規に発行されたコイン・紙幣を人々が持てば、それらの人々のいくらかが財やサービスの消費にお金を使おうとし、また銀行など金融機関が民間企業向けの貸し出しを増やし景気を刺激するからである。これはいわば政府が発行する紙幣、すなわち政府紙幣[32] のことである。これは無利子国債を中央銀行が買い取ることと実質等しい。流動性の罠のもとで金利がゼロバウンドで張り付いている状況では、紙幣と国債とは実質同じものであるために、この状況下で新規に国債を発行することは新規に紙幣を発行するのと同じである。またインフレは一度火がつくと暴走してその抑制に多大なコストがかかるという説は経済学的には理論面・実証面で根拠が乏しく、またそれに関連して中央銀行の独立性が必要だというの主張も神話であるとしている[33]。
経済学者の井上智洋は「貨幣成長率の低下による恒常的な需要不足こそが『失われた20年』の主因である」と指摘している[34]。
雇用の流動化に対しての批判[編集]
スティグリッツは著書の中で、雇用の流動化に対して以下のように批判している。他にも同書で法人税の引き下げにも懸念を示している。
柔軟な労働市場が経済を強化すると言う説は、過去三十年間、経済学の通念の一つだった。此処で私は、労働者保護こそ経済の不均衡を是正すると主張したい。労働者を保護すれば、質の高い労働力が供給され、会社への忠誠度が向上し、自分自身と自分の仕事により大きな投資をする様になる。更に社会の絆も深まり、職場環境も良化する筈だ。世界大恐慌の間にアメリカの労働市場が上手く機能しなかったと言う事実と、過去三十年に渡りアメリカの労働者が困窮してきた事実を考えると、柔軟な労働市場の効能などももはや神話ではないだろうか。 — ジョセフ・E・スティグリッツ、『世界の99%を貧困にする経済』[35]
その後の展望と議論[編集]
20世紀以降の先進国で20年もの長いあいだ、名目値で年率1%以下の低成長が続いたことは、世界的に見ても珍しいといわれる。英国病と呼ばれる長期低迷を経験したイギリスの場合でも、GDP成長率は1960年代に3.2%、1970年代に2.4%であった。
高度経済成長(実質経済成長率が約10%以上)や安定成長期(経済成長率が約5%以上)の頃のような経済成長率・景気拡大が起こらない場合、「失われた30年」になってしまう可能性もあるという声もあり[7][36][37]、2016年の時点で既にそうなってしまったと述べている人たちもいる[38][39]。特に、日本経済団体連合会のシンクタンク「21世紀政策研究所」は2012年4月、「『失われた20年』の状況がこのまま続いた場合、日本は2050年ごろに、先進国でなくなる」とする予測結果をまとめた[40]。
ただし、先進国における経済低迷は日本特有のものではなくなりつつある。2000年代末にはリーマンショックの影響からアメリカ合衆国や西欧諸国など他の先進国も日本の後を追うように少子化が進行し、先が見えない景気後退に突入している(日本化)。欧州においても、2010年欧州ソブリン危機により株価が暴落してしまった。2016年には、ウクライナの債務不履行が発生した[41][42][43]。先進各国の不況は単なる景気循環では説明できず、投入可能なリソースを増やすことが難しくなり、成長の限界による構造的な経済停滞に突入したためであるという議論もある。ピーター・ティールは、20世紀における成長の原動力であったイノベーションが終わりを迎えたため、今後はアメリカ合衆国の大きな成長は望めないと論じた[44]。
福岡ソフトバンクホークス[編集]
福岡ソフトバンクホークスでは南海時代だった1978年からダイエー時代の1997年までの20年連続Bクラスを「失われた20年」と呼ぶ事がファンを中心にある。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 『物価と成長 「失われた20年」だったのか』 朝日新聞2017年12月12日「波聞風問」、原真人編集委員
- ^ 朝日新聞「変転経済」取材班 『失われた〈20年〉』岩波書店、2009年。ISBN 9784000222082。
- ^ (第28回)「失われた15年」で拡大した所得格差 | 野口悠紀雄の「震災復興とグローバル経済〜〜日本の選択」(野口悠紀雄の「経済危機後の大転換〜〜ニッポンの選択」) 東洋経済オンライン
- ^ 政権交代の失われた15年 | 池田信夫 | コラム&ブログ ニューズウィーク日本版
- ^ 失われた15年からの覚醒、日米の持ち味は違う 日経BPニュース
- ^ [1] 第一生命経済研究所、2009年
- ^ a b 「失われた30年」に向かう日本 池田信夫エコノMIX異論正論、ニューズウィーク日本版、2010年12月23日
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- ^ [3] 日本経済新聞社
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- ^ 田村秀男 (2010年6月15日). “【経済が告げる】編集委員・田村秀男 カンノミクスの勘違い (1/3ページ)” (日本語). 産経新聞 (産経新聞社). オリジナルの2010年6月16日時点におけるアーカイブ。 2012年4月9日閲覧。
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- ^ 日本のGDPデフレーターの推移
- ^ 平成23年国民生活基礎調査。“22年世帯所得は昭和62年並みに低下、平均538万円”. 産経. (2012年7月5日)
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- ^ 岩田規久男 『「不安」を「希望」に変える経済学』 PHP研究所、2010年、12頁。
- ^ 飯田泰之 『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』 エンターブレイン、2010年、182-183頁。
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- ^ いまこそ「失われた30年」をもたらした「中曽根政治」の総括が必要だ 広島瀬戸内新聞社主・佐藤周一、JANJANブログ
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- ^ 「1ドル75円」と「失われた30年」
- ^ ピーター・ティールの「未来の終わり」論
関連項目[編集]
- 失われた10年 - 失われた30年
- 大不況 (1873年-1896年)
- 平成(1989年-2019年)