三洋証券

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

三洋証券株式会社(さんようしょうけん、英訳社名Sanyo securities Company Limited.)は、かつて営業していた日本証券会社である。1997年11月3日経営破綻。

東京都中央区に本社を設け、国際証券勧角証券新日本証券岡三証券などとともに、いわゆる「準大手証券会社」の一角を担っていた。経営破綻するまでは、現在の東京証券取引所名古屋証券取引所上場していた。

三洋電機及び三洋信販とは一切無関係であった。

バブル崩壊後の状況[編集]

オーナーだった土屋家の意向などから中小証券を相次いで合併し、1980年代後半に「ニュースステーション」や「CNNデイウォッチ」を番組提供するなど、証券業界が活況に沸いたバブル期に積極経営を行い急速に業容を拡大した。事業拡大の象徴として、江東区塩浜に建てた東京証券取引所の1.8倍で世界最大規模のトレーディングルームは大型ディスプレイが多数配備されるなど当時としては極めて斬新な施設であったが、積極的な設備投資はバブル崩壊後すぐに過剰投資の象徴となった。

本体の過剰な設備投資が経営難の主因として注目されたが、致命傷は債務保証先でもあるノンバンクの子会社「三洋ファイナンス」がバブル期に行った不動産関連融資だった。融資の多くが不良債権化していたが、三洋証券自身がバブル期に行った積極投資のツケに喘ぐ状況で子会社を処分する予力はなく、市場の好転を期待して雪だるま式に債務が膨張するまま、いたずらに決断を先送りした。

再建計画[編集]

1994年3月17日、旧大蔵省証券局主導の下で護送船団方式による再建九ヵ年計画が策定された。

メインバンクによる金利減免、大株主の野村證券などによる200億円の第三者割当増資引受けに加えて、奉加帳方式生命保険会社から200億円の劣後ローンを受け、9年間かけて不良債権を償却する内容だった。本来ならこの時点で倒産していてもおかしくない切迫した財務状態であったため、全て大蔵省の意向で行われ、既に三洋側に経営上の主導権はなくなっていた。

しかし、三洋本体は1992年3月期に赤字に転落して以降、1997年3月期の倒産にいたるまで6期連続の赤字を計上するなど経営状態が一向に好転せず、膨大な保証債務を返済していく目途が全く立たず、この計画はすぐに頓挫した。

急降下した自己資本規制比率を、会計上は自己資本に参入される劣後ローンの期限延長を繰り返すことで凌いでいる状況は次第に明らかになった。免許制事業の証券業は、自己資本規制比率120を割り込むと大蔵省の業務改善命令が発令される。生保から借りた劣後ローンを自己資本に繰り入れて劣後ローンを含み表面上200%程度の自己資本規制比率を維持している三洋証券の経営を、経済各誌は誌上で不安視した。

1997年春頃に主力銀行が保有株式の持ち合い解消へと動き始め、生保が劣後ローンの期限延長を断り「延命の中止すなわち倒産」となる時期に衆目が注意し始めた。三洋証券とは関係のない生保各社は大蔵省主導の奉加帳方式に嫌々参加させられており、焦げ付く可能性の高い劣後ローン継続に当初より否定的だった。1997年7月の交渉時に生保側は3ヶ月の延長しか認めず、「早急の新再建案の提示」の条件付という、事実上の「最後通告」を突きつけた。

自力再建が困難と考えた大蔵省は次策として国際証券による救済合併を画策し、国際証券側もこれに条件付で応ずる予定であったが、1997年9月26日付け産経新聞に計画が報じられ、不可能になった。

10月31日に劣後ローンの延長期限が終了し、ギリギリまで延長交渉を続けたものの生保側は株主代表訴訟リスクに耐えられないとして延長を認めず、この時点で倒産は不可避となった。

倒産とその後[編集]

1997年11月3日に会社更生法の適用を申請する。戦後で初めて証券会社の倒産で、その後の金融市場に大きく影響した。

1997年11月4日に三洋へ裁判所が資産保全を命令し、インターバンクのコール市場と債券貸借市場で戦後初の債務不履行が発生し、コール市場が疑心暗鬼・大混乱に陥った。

この信用収縮の余波を受け、綱渡りで運転資金をやりくりしていた都市銀行北海道拓殖銀行が11月15日に経営破綻、11月24日に四大証券の一角で「飛ばし」による多額の簿外債務を抱えていた山一證券が自主廃業し、翌年の日本長期信用銀行日本債券信用銀行などと共に金融恐慌となる。

10月31日(金曜日)に借り入れた無担保コール翌日物の返済期限である11月4日(火曜日)を待たずして、11月3日(月曜日・祝日)に三洋証券が会社更生法の適用を申請したことが、コール市場が混乱した直接の原因である。会社更生法の申請に至った経緯に、大蔵省の密室的な行政指導や、大蔵省と日銀の連携不手際がかかわっていたといわれる[1]

1998年に、再建スポンサーとして名乗り出ていた三井海上火災保険が業務継承を打診したがまとまらず、6月に自力の経営再建を断念し、8月に従業員全員を解雇し、1999年12月に会社更生法を取り下げて破産宣告を受けた。2009年3月25日に破産手続が終結[2]して法人は消滅した。

トレーディングルームは現在TISインターネットデータセンターとなって現存し[3]、子会社の三洋投信委託は一時期古倉義彦に経営権が移るものの、プラザアセットマネジメントとして現在にいたる。一部業務継承の計画があった三井住友海上と親密な明光証券に、元社員の一部が採用されている。

山梨県山中湖畔にあった保養所「洗心寮」は、現在も取り壊されず廃墟のまま放置されている。

沿革[編集]

脚注・出典[編集]

  1. ^ 島村 高嘉、2014、『戦後歴代日銀総裁とその時代』、東洋経済新報社 ISBN 9784492654606
  2. ^ 官報 2009年4月6日 第5045号 19ページ
  3. ^ インターネットデータセンターに東洋情報システムが参入 株式会社東洋情報システム(現・TIS株式会社)プレスリリース 2000年8月23日 2013年8月25日閲覧
  4. ^ 一般社団法人日本建設業連合会 BCS賞受賞作品 第30回受賞作品

外部リンク[編集]