人生劇場 飛車角

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人生劇場 飛車角(じんせいげきじょう ひしゃかく)は1963年東映製作した沢島忠監督、尾崎士郎原作、鶴田浩二主演のヤクザ映画。1963年3月16日封切。95分。当時東映東京撮影所(以下、東撮)所長だった岡田茂(のち、同社社長)が尾崎の原作を大きく翻案し[1][2]、「仁侠映画」「ヤクザ映画」の魁となった作品である[3][4][5][6][7]。配給収入は2億8800万円[8]

概要[編集]

  • 尾崎士郎の自伝小説『人生劇場』は、尾崎本人をモデルにした青成瓢吉を主人公とした長編小説である。長編の各所を活かし、この作品以前に7度、現在までに14度、映画会社や監督を変えて制作され続けている。これらの作品は同一シリーズを除いて直接的な繋がりはないが、この作品以前は全て、瓢吉を主役に据えた物語となっている。

人生劇場映画化作品[編集]

  1. 人生劇場(1936年日活 内田吐夢監督 瓢吉:小杉勇
  2. 人生劇場 残侠篇(1938年日活 千葉泰樹監督 瓢吉:小杉勇、飛車角:片岡千恵蔵
  3. 人生劇場 第一部 青春愛欲篇(1952年東映 佐分利信監督 瓢吉:佐分利信、飛車角:片岡千恵蔵)
  4. 人生劇場 第二部 残侠風雲篇(1953年東映 萩原遼監督 瓢吉:佐分利信、飛車角:片岡千恵蔵)
  5. 人生劇場 望郷篇 三州吉良港(1954年東映 萩原遼監督 瓢吉:佐野周二
  6. 人生劇場 青春篇(1958年東宝 杉江敏男監督 瓢吉:池部良、飛車角:三船敏郎
  7. 新人生劇場(1961年大映 弓削太郎監督 瓢吉:石井竜一
  8. 人生劇場 飛車角(1963年東映 沢島忠監督 瓢吉:梅宮辰夫、飛車角:鶴田浩二
  9. 人生劇場 続飛車角(1963年東映 沢島忠監督 瓢吉:梅宮辰夫、飛車角:鶴田浩二)
  10. 人生劇場(1964年日活 舛田利雄監督 瓢吉:高橋英樹
  11. 人生劇場 新・飛車角(1964年東映 沢島忠監督 瓢吉:宇佐美淳也、飛車角:鶴田浩二)
  12. 人生劇場 飛車角と吉良常(1968年東映 内田吐夢監督 瓢吉:松方弘樹、飛車角:鶴田浩二)
  13. 人生劇場 青春篇 愛欲篇 残侠篇(1972年松竹 加藤泰監督 瓢吉:竹脇無我、飛車角:高橋英樹)
  14. 人生劇場(1983年東映 深作欣二佐藤純彌中島貞夫共同監督 瓢吉:永島敏行、飛車角:松方弘樹
  • 当時東撮所長だった岡田茂が、「いままでと同じでは当たるまい」と『残侠篇』の脇役の1人に過ぎない飛車角こと小山角太郎に着目し、全く違った『人生劇場』を作るよう指示を出す[4][2][7][9][10]。こうして生まれたのが、この『人生劇場 飛車角』である。本作は今でいうスピンオフ映画の先駆けとも評される[11]。当時の東映は、一連の時代劇やひばり映画の客足が遠のき、業績が傾いていた[12]。東映では京都撮影所(以下、京撮)より格下にあたる東撮に左遷させられた岡田は、この作品での再起を賭けていた[7]大川博社長からの表向きの理由は東撮の立て直しであったが、当時京撮の労働組合が騒いでいて、岡田を京都に置いていると一戦交えるのではないかと危惧して岡田を東京に飛ばしたものだった[7]。東京に就いた岡田は、古手の監督を一掃して若手監督を一気に抜擢し東撮は活気が出てきたが[3][13][14]、この作品で東撮を軌道に乗せた[4][7][15]
  • 本作は時代劇が撮れる監督を使わないと無理だと、岡田は沢島忠監督を京撮から呼び寄せた[1][2][7][16]。飛車角に鶴田浩二、吉良常に月形龍之介、飛車角の情婦おとよに佐久間良子、おとよを知ったために死地に赴く男、宮川に高倉健。これらの配役は岡田の強い意向によるもの[17][18][19][20][21]片岡千恵蔵を軸にした従来の東映的キャスティングを捨てたところが岡田の新しい発想だった[19]。沢島は時代劇映画、特にひばり映画の巨匠として名を馳せており、自身もまた低迷期を迎えていた。主演の鶴田浩二も岡田と俊藤浩滋の招聘により東映に移籍してからは、かつてのような大ヒットに恵まれず、やはり低迷していた[1][2][22]。一方、相方の佐久間良子も東映看板女優としての美貌を誇りながら、清純派から演技派への脱皮を果たせずに思い悩んでいた[1][7]
  • そうした、沢島曰く「三すくみの背水の陣」で臨んだこの作品は、沢島も東撮に単身乗り込み撮影を敢行、村田英雄の曲を主題歌に据えて大ヒット作品となった。これにより沢島、鶴田、佐久間はそれぞれ息を吹き返し、岡田もまた経営者としてやがては頂点までその階を昇って行くこととなる[2][4][7][15][23]
  • さらに宮川役で強烈な印象を残した高倉健は、本作で東映の看板スターとなる切っ掛けを掴んだ[3][7][24]。高倉も主役を続けてはいたが、本格的な大作の準主役は初の抜擢だった[19]。高倉を起用した岡田は「あんたはそんないい顔してなあ、スタイルもよくて、大スターにならんわけがないじゃないか。今度の役は面白いぞ。一人の女に惚れこんで、その女を兄貴分と二人で奪いあうという男の役だから。この役は何でもないようだけど、絵の中で非常に光ると思うがな」とハッパをかけた[20]。岡田は、そろそろ高倉が大きく飛躍する時期にさしかかっていると見ていた[20]
  • 鶴田浩二は本作が起死回生のヒット作となり[1]、"着流しヤクザ"という生涯のはまり役にめぐりあった[20]
  • この作品に描かれた義理と人情と男の悲哀は大衆心理を掴み取り、その中で生きるヤクザ者の姿は熱狂的な支持を集めた[1]。ここから、そのヤクザを主体に据えた新しいジャンル「ヤクザ映画」が生まれ[11]、以後仁侠映画、実録路線、女ヤクザ、東映セントラルVシネマなどを通して現在にまでその息吹を伝えている[2][3][9][10][15][25]

あらすじ[編集]

大正時代、遊女のおとよと駆け落ちしてきた飛車角は、小金親分の配慮で深川に隠れ住んでいた。小金一家は丈徳組と喧嘩になり、一宿一飯の義理がある飛車角は宮川と熊吉を連れて丈徳を刺し殺す。逃走中に逃げ込んだ庭先で出てきた初老のバクチ打ちの吉良常は「おめえさん、無職(ぶしょく)だね」と事情を聞かずに匿う。義理のためとはいえ人を殺し女房を残していく飛車角の心を慮った吉良常はしょせんヤクザの行く道は赤い着物(囹圄の人となるか)か白い着物(仏になるか)かと渡世の定めを語り、吉良常は親分の忘れ形見である青成瓢吉のことを語る。飛車角は警察に自首して懲役5年を食らい、おとよは小金の弟分の奈良平が預かる。深川不動の夏祭りへ出かけた奈良平とおとよだが、そこで小金が何者かに暗殺される。奈良平の表情で真相を察したおとよは逃げ出し、宮川に匿われる。似通った境遇の2人はやがて結ばれるが、宮川はおとよが飛車角の情婦だと知り青褪める。そこへ飛車角が恩赦で出所するが、迎えに出た吉良常はおとよの事情を話す。おとよを諦めた飛車角は吉良常に誘われ、吉良へ向かう。酒屋の女お千代にも慕われてこの街で平和に暮らす飛車角だが、そこへ宮川とおとよが現れる。飛車角は黙って2人を許した。それからしばらくして、吉良の地の仁吉祭りを巡って吉良常と浜勝が諍いを起こす。飛車角は浜勝に祭りには指一本触れないよう念書を取り、浜勝も飛車角の男意気に感服する。そこへ熊吉がやってきて、小金暗殺の真相を知った宮川が単身で奈良平に殴りこんで殺されたことを告げる。飛車角は引き止めるお千代を振り切って東京へ戻る。奈良平は飛車角を迎え撃つために総力を結集する。おとよは泣きながら飛車角を止めるが、振り払って飛車角は言った。「あの世で逢おうぜ

奈良平と手下が待ち構える屋敷へ向かい、飛車角は坂道を登って行った……

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

任侠路線への転換[編集]

「任侠の世界を分かりやすく見せれば、観客の興味を引くことができる」本作の成功でそう確信した岡田は、京撮でも任侠映画を時代劇にかわるメイン路線に据えようと考えた[12][26]。「侠客を主人公にした作品は、清水次郎長国定忠治など、時代劇にも存在している。それらはいずれも、義理人情を大事にする"義侠心の侠客"と"外道の侠客"との対決を描いた勧善懲悪のストーリーになっている。それをそのまま明治~昭和初期を舞台に焼き直せばいい。それなら分かりやすい娯楽を求める旧来の東映ファンからも、新しさと激しさを求める若い観客からも受け入れられるだろう。その上、ヤクザには出入り(乱闘)がある。その立ち回りをクライマックスに持っていけば、時代劇で培ったノウハウのまま製作することができる。舞台を明治~昭和初期に限定すれば、役者は時代劇の所作芝居から大きく変える必要もないし、時代劇の日本家屋セットもそこへ回せる。またこの路線にはもう一つ利点があった。京撮には岡田の師匠・マキノ光雄直伝の「泣く、笑う、(手に汗)握る」という三要素を必ず物語に取り入れよ、という教えがあったが[27]、岡田は当時の観客にはそれだけでは通じないと考えていた。当時、家族向けの旧来の健全な映画は洋画邦画問わず、観客に見放される一方で、イタリアグァルティエロ・ヤコペッティ監督の残酷ドキュメントや、マカロニウエスタンピンク映画といった成人男性向けの毒々しい映画がブームを起こしていた。こうした新時代の嗜好に応えるべく、先の三要素にもう一つ加える。それが「覗く」だった。これが後に〔不良性感度〕の提唱に至る[10][28][29][30][31]。ヤクザは一般人には閉ざされた未知の世界。その禁断の世界を覗き見的な好奇心を刺激することができる。岡田はそう考えた[12]。「映画には不良性がなければダメだ」という岡田のポリシーが東映ヤクザ映画の基本路線となる[10]。本作の大ヒットにより、岡田は東撮で仁侠路線を敷き[7][32]、「人生劇場 飛車角」の続編二本の他、1963年7月、村田英雄主演で『浅草の侠客』(佐伯清監督)[6]、10月、鶴田浩二主演で『昭和侠客伝』(石井輝男監督)をプロデュースし成績を伸ばし[6][33]、1964年2月、京撮所長に再び戻った岡田は不振の時代劇を横目に、仁侠映画を興行の重要週間に配していく[34]。7月鶴田浩二主演『博徒』、8月高倉健主演『日本侠客伝』、10月鶴田浩二主演『監獄博徒』、これらは全てが大ヒットした[5][35]。これを受け1965年、会社の看板でもある正月映画から時代劇を創業以来初めて外し、鶴田浩二主演で任侠大作『博徒対テキ屋』をラインナップした[34]。仁侠路線を成功させるべく、岡田は俊藤浩滋を外部から招きいれた。俊藤は先に挙げたように鶴田浩二の移籍や水原茂監督の東映フライヤーズ移籍など裏で動いていたが、俊藤が岡田に「プロデューサーにして欲しい」と頼んできたため、正式に任侠路線を統括するプロデューサーとして任じた[15][36][37][38][39]1965年、最大の稼ぎ頭だった中村錦之助主演の『徳川家康』、『冷飯とおさんとちゃん』が相次いで不入りに終わると岡田は遂に東映伝統の時代劇からの撤退を宣言する[35]。この年予定されていた時代劇は大半を製作中止させた[12]大川博社長からの重要なミッションであった京撮のリストラと合わせ[40]1965年を境に岡田は映画は任侠映画のみ製作、時代劇は全てテレビで製作するという大改革を行う[13][40][41][42]

やくざ映画という呼称[編集]

「やくざ映画」という呼称が一般化したのも本作からである[43]。翌1964年に、いずれも岡田が企画した『博徒』と、高倉健主演の『日本侠客伝』が大ヒットし、これらをシリーズ化し、ヤクザ映画を量産し始め、その数が急増するにつれて、東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた[43]。この「やくざ路線」的な企画が他社にも波及しはじめたとき、ジャーナリズムがそれらを一括して「やくざ映画」と呼びはじめたのである[43]

エピソード[編集]

  • 岡田が翻案の承諾に尾崎の元へ部下を向かわせた際、尾崎は「ヤクザ映画になっては困る」と表題はあくまで『人生劇場』とし、岡田の『飛車角』を頑なに認めなかった[15][18]。尾崎は岡田の出身地東広島市西条に本社のある賀茂鶴酒造の会長・石井武と早稲田大学時代からの親友で、広島の酒「賀茂鶴」が大好きと知っていた岡田は、賀茂鶴の社長にすぐに電話をかけて酒を取り寄せ、賀茂鶴の吟醸酒を三本持って尾崎宅へ足を運んだ[7][15][44]。尾崎は当時、既に癌に侵されており病床に臥せってもう危ないと言われていた時期であったが「いや、岡田さんが来たんだから飲まないわけにいかない」と酒を酌み交わし、岡田の懇願に折れ『人生劇場 飛車角』の表題を認めた[15]。ただしそれには唯一つの条件があり、その内容とは自身をモデルとした青成瓢吉を必ず映画に登場させることであった[7][15][18]
  • 岡田の付けるタイトルは、インパクトとユニークさがあった[4]。この作品や『緋牡丹博徒』、『不良番長』、『新幹線大爆破』、『柳生一族の陰謀』なども岡田の考案であるが、意外なところでは『大奥物語』で使用した「○秘(マルヒ)マーク」の考案者も岡田である[4][7][15][45][46]
  • この作品を機に、鶴田と佐久間は数年間、不倫関係にあり、二人が演じた濡れ場は凄艶と言えるほどの哀愁に充ちたものであった[47]
  • この時期の二人の実生活でのアツアツぶりは有名であったが、続編『人生劇場 続飛車角』では、後年佐久間と結婚する平幹二朗と共演している[48]
  • 佐久間はそれまでほとんど良家の子女かOLという典型的なお嬢様女優で、女郎役という初の汚れ役に徹しきれるか不安視された[49]。岡田に難役に抜擢された佐久間は体当たりでこの役に挑んだ[17][50]。ラストシーンの撮影を見学した岡田は「よし、いける! これなら『五番町夕霧楼』も彼女でやれる」とゴーサインを出し続く田坂具隆監督の文芸大作『五番町夕霧楼』の主演に抜擢し、佐久間はこれを代表作した[49]。任侠映画に於ける女性のイメージは、本作の佐久間がある程度形作ったとも評される[51]。『人生劇場 飛車角』のおとよ役が佐久間に女優としての転機をもたらした[49][52]。2011年5月11日の岡田の告別式で佐久間は弔辞を読み、岡田に感謝の気持ちを伝えた[50]
  • 監督・沢島忠は、任侠路線の端緒を開く大きな功績を残したが、「僕はメロドラマとして撮ったんです」と話しているように、任侠映画があまり好きではなかった[53]。岡田は時代劇から仁侠路線に転換しても、沢島と中村錦之助を大黒柱に据えるつもりでいた[53][54][55]。ところがこの二人は仁侠映画があまり好きでなく、この後の仁侠映画にはあまり関わろうとしなかった。岡田が京撮に戻って手掛け仁侠路線を決定的なものにした『日本侠客伝』は、錦之助主演で準備していたものだった[55]。しかし錦之助がやる気がないと判断して『人生劇場 飛車角』で宮川役を好演した高倉健を主役に抜擢した[55]。『日本侠客伝』の一作目のみ、錦之助は脇で出演したが、錦之助の代わりに主役を張った高倉健の人気は爆発して一気に東映の大看板になった[53]。錦之助はこの年5月、俳優労組の旗頭に担ぎ上げられ会社に反撥する立場になり、社会問題への関心も見せ始めていて任侠映画を好まず[55]。また岡田が東撮に行って京撮を留守にしていた間に、岡田が引き入れた俊藤浩滋が京撮で力を持ち、沢島は俊藤と反りが合わず、岡田が仁侠路線を強化し京撮のリストラを進めると東映を退社してしまった[53]。沢島と仲のいい錦之助も続いて東映を退社した。
  • この後、岡田とタッグを組んで任侠路線を拡大させる俊藤浩滋は、1960年に岡田に頼んで東映の外部プロデューサーになっていたが本作には関わっていない[56]。しかし「『人生劇場 飛車角』が大ヒットしたとき、私は血の騒ぐのを感じた。というのは、尾崎士郎の原作は何度も読んでいたから、飛車角にしろ吉良常にしろ、正真正銘のやくざであり、とくに『残侠篇』は純然たるやくざの世界を描いたものだということを知っていた。そうか、こういう映画をお客さんは面白がってくれるのか、と感動した(中略)これがやくざなんだという映画を自分なりに撮りたいと強烈に思った」などと話しており、俊藤が本格的に任侠映画をプロデュースするのが、岡田が京撮所長に戻り、京撮での仁侠映画路線第一弾として企画した鶴田浩二主演の『博徒』(1964年7月)であった[13][34][56]
  • 大ヒットを受け、当然ながらシリーズ化がなされた。「人生劇場 飛車角シリーズ」として[57]、沢島忠、鶴田浩二、佐久間良子のトリオで撮られた『人生劇場 続飛車角』(1963年)、『人生劇場 新飛車角』(1964年)3作品を同シリーズとするケースと[57]、監督が内田吐夢で鶴田主演だが、佐久間は出ない、しかしタイトルは『人生劇場 飛車角と吉良常』(1968年)というこれを含めて4作品で「人生劇場 飛車角シリーズ」とするケースがあるようである。鶴田浩二の任侠スターぶりは本シリーズによるところが大きい[57]
  • シリーズ3作目『人生劇場 新飛車角』(1964年)の脚本を岡田に書かされたのが笠原和夫[58][59]。笠原は『人生劇場 新飛車角』の脚本を皮切りにヤクザ映画の脚本家となり[58]後年、名声を高めるが、当時はまだヤクザの“ヤ”の字も分からないとき[47]。これを岡田は「(尾崎の)原作は使わなくていい(!?)」というとんでもな注文を出したため、笠原は好き勝手なプロットを作って尾崎にお伺いを立てに行った[47]。前年からの結腸ガンが進行して、声を出すのも辛そうな尾崎は、笠原と沢島の説明が終わると、嗄れた声で「いいよ」と一言だけ、あとは二人の顔を眺めているだけだった。「オレの小説をメチャクチャにしやがって!」と腹中は煮えくり返る思いがあったに違いない。『飛車角』路線は成功し、東映は余勢を駆って〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた[47]。もしもあの時、尾崎が元気で「こんなものは人生劇場ではないッ」と突っぱねていたら〈東映任侠路線〉の隆盛は無かったのでないか、つまり〈東映任侠路線〉は、尾崎の病気に便乗して芽吹いたもの」と笠原は話している[47]
  • 本作の成功を切っ掛けに他社も任侠映画の製作に乗り出した[43][60][61]日活は当時まだ石原裕次郎小林旭を中心とする"日活アクション"が勢いを持続していたが、『人生劇場 飛車角』の四ヶ月後の1963年7月、日活の任侠映画第一弾として高橋英樹の『男の紋章』が封切られた。『男の紋章』はシリーズ化され、1963年8月の『関東遊侠伝』、11月の『関東無宿』では、小林旭が着流し侠客を演じた[43]。以後任侠映画の本数が増え、石原裕次郎も1964年7月の『鉄火場破り』で任侠ものに主演した[61]。1968年には渡哲也の現代やくざ映画『無頼』シリーズが始まった。アクション映画は東映より日活が先であったが、日活は東映のヤクザ映画に対抗し日活ニューアクションという若い客層を狙った路線を始めた[60][62][63]。大映では1961年から勝新太郎の『悪名』が始まっていたが、任侠路線というほどの流れはなく、主流はあくまでも時代劇であった。ところが1965年、市川雷蔵の本格的な任侠もの『若親分』が登場してシリーズ化される[43]。勝新太郎の『兵隊やくざ』シリーズも同じ年である。1966年には『女の賭場』を切っ掛けに江波杏子の『女賭博師』シリーズが生まれる[61]。1967年東映は新作公開58本の内、37本がやくざ映画であったが、1969年の日活は新作53本中、35本のやくざ映画を製作した[43]。そのほとんどが東映の正系やくざ映画に類似したものであった[43]。つぶれかけていた大映は東映のノウハウを借りて生き延びようと1969年、東映を干されていた高田宏治を呼び寄せ、市川雷蔵の遺作『博徒一代 血祭り不動』、安田道代の『関東おんな悪名』と『関東おんなド根性』を製作した[64]

評価[編集]

  • 笠原は本作の成功要因について「鶴田・佐久間の情炎もさることながら、なんといっても敵味方匕首を振りかざしての、ギラギラ、ヌルヌルの殺陣の迫真力が、観客に刺激を与えたからだろう。新しいチャンバラの開発に賭けた岡田所長の目論見通りにいったのである。世は池田首相所得倍増計画に煽られ、東京オリンピック も開かれるとあって、国を挙げて高度経済成長へ狂奔しはじめたころだった。だれもかれもナリフリなど構ってはいられない。伝統も修練も知ったことか、儲け口があれば右に左に駆け出していって、単刀直入、即席で商売をしてしまう。そのバイタリティに応えるには、形式張った剣法にのっとって長い刀を悠長にこねくり回していたのでは間に合わない。匕首でいきなり相手の心臓を掻き切ってしまう、手っ取り早くて闘争本能剥き出しの喧嘩殺法こそ快感を充たす。〈ヤクザ映画〉は、一億日本人の〈匕首的〉物欲衝動とピッタリ息を合わせて、開花したのである」などと解説している[47]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f #クロニクル、170-171頁
  2. ^ a b c d e f 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)
  3. ^ a b c d 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕人生劇場 飛車角/東映チャンネル
  4. ^ a b c d e f 東映キネマ旬報 2007年春号 Vol.2 | 電子ブックポータルサイト 1、8-9頁東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁 Archived 2015年7月3日, at the Wayback Machine.
  5. ^ a b 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。それより若い「反社」の今後、どうなる?
  6. ^ a b c #クロニクルⅡ、37頁
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m #悔いなき132-139頁
  8. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)190頁
  9. ^ a b 故 岡田茂名誉会長追悼『人生劇場 飛車角』上映 | 東映(映画)
  10. ^ a b c d #サイゾー2013354-59頁
  11. ^ a b 昭和キネマ横丁で知る日本映画の底力 - TSUTAYA online
  12. ^ a b c d #あかん205-209頁
  13. ^ a b c NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】
  14. ^ 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)
  15. ^ a b c d e f g h i #読物215-218頁
  16. ^ 梅宮辰夫さん インタビュー | 昭和キネマ横丁
  17. ^ a b ( ... 私の履歴書)佐久間良子(11) ヤクザの情婦 体当たりでの真剣勝負 「人生劇場」“汚れ役”に開眼.日本経済新聞2012年2月11日日経スペシャル 私の履歴書 ~女優・佐久間良子(前編)2015年5月17日” (日本語). 私の履歴書. BSジャパン. 2015年6月8日閲覧。6月6日~6月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」
  18. ^ a b c #波瀾-156
  19. ^ a b c #風雲106頁
  20. ^ a b c d #任侠青春15-19頁
  21. ^ 石田伸也 『高倉健と菅原文太 ここに漢ありけり』 徳間書店2015年、19頁。ISBN 978-4-19-863914-3
  22. ^ #やくざなり11-12頁
  23. ^ 岡田茂 通夜( 岡田茂) - 女性自身快楽亭ブラックの黒色映画図鑑「人生劇場 飛車角」|日本映画専門チャンネル
  24. ^ 日本が生んだ稀代の映画俳優・高倉健の素顔に迫るドキュメタンリー『健さん』8月20日公開決定俳優の高倉健さんが死去 83歳 悪性リンパ腫 - 産経ニュース健さん人気を不動にした任侠映画 ファン熱狂「死んでもらいます」東京新聞:高倉健さん死去 孤高、不器用男の美学:社会(TOKYOWeb)
  25. ^ 谷岡雅樹 『アニキの時代 ~Vシネマから見たアニキ考~角川マガジンズ2008年、22-23頁。ISBN 978-4-8275-5023-8
  26. ^ #風雲119頁
  27. ^ 山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂
  28. ^ #困った70頁
  29. ^ 「斜陽化」に生きる東映 ―テレビに対抗した実録 映画路線(1973-1975)を中心に 楊紅雲
  30. ^ #困った70頁
  31. ^ #映画魂118頁
  32. ^ 岡田茂・東映名誉会長が死去 :日本経済新聞
  33. ^ #映画魂124頁
  34. ^ a b c #あかん191-192、205-209頁
  35. ^ a b #仁義沈没104-107頁
  36. ^ #波瀾149頁
  37. ^ #任侠92-94頁
  38. ^ 日下部五朗『デイリースポーツ連載「日下部五朗 私の名画座招待席」』、デイリースポーツ、2013年8月18日
  39. ^ 高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る 東映『やくざ映画』名プロデューサー俊藤浩滋の功績 page=2
  40. ^ a b #あかん216-223頁
  41. ^ 『私と東映』× 神先 頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)
  42. ^ #仁義沈没1024-104頁
  43. ^ a b c d e f g h #キネ旬1971810、116-126頁
  44. ^ 岡田 茂 東映 相談役
  45. ^ 岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ
  46. ^ 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第3回 / 全5回) - Facebook
  47. ^ a b c d e f #鎧10-13頁
  48. ^ #大高43頁
  49. ^ a b c #任侠青春18-19頁
  50. ^ a b 岡田茂 告別式( 岡田茂) - 女性自身
  51. ^ #大高43頁
  52. ^ 日本映画界のドン、岡田茂さんの葬儀 雨の中、仲村トオル、北大路欣也、佐久間良子らが見送る
  53. ^ a b c d #あかん223-229頁
  54. ^ 東映キネマ旬報 2010年夏号 Vol.15 | 電子ブックポータルサイト 2-5頁
  55. ^ a b c d #風雲121-125頁
  56. ^ a b #任侠66-70頁
  57. ^ a b c #ぴあシネマ337頁
  58. ^ a b #争議349頁
  59. ^ #昭和の劇140-141頁
  60. ^ a b トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」【4】 - 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan
  61. ^ a b c #任侠74-75頁
  62. ^ 縄張はもらった - 日本映画専門チャンネル
  63. ^ #ロマンポルノ全史12頁
  64. ^ #高田66-67頁

関連書籍[編集]

  • 尾崎士郎『人生劇場 残侠篇』

参考文献・ウェブサイト[編集]

関連項目[編集]