いれずみ判官 (鶴田浩二)

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いれずみ判官
監督 沢島忠
脚本 沢島忠
中島貞夫
出演者 鶴田浩二
大木実
河原崎長一郎
藤山寛美
藤純子
南田洋子
音楽 佐藤勝
撮影 古谷伸
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1965年2月25日
上映時間 94分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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いれずみ判官』(いれずみはんがん)は、1965年東映製作の時代劇映画。主演・鶴田浩二、監督・沢島忠

東映の大スター・片岡千恵蔵の代表作シリーズ『いれずみ判官』のリメイク[1]

遠山の金さんを主人公とした映画での製作は本作が最後と見られる。

ストーリー[編集]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

  • 監督:沢島忠
  • 脚本:沢島忠・中島貞夫
  • 企画:俊藤浩滋・松平乗道
  • 撮影:古谷伸
  • 美術:大門恒夫
  • 音楽:佐藤勝
  • 録音:東城絹児郎
  • 照明:中村清
  • 編集:宮本信太郎

製作[編集]

企画[編集]

企画は当時の東映京都撮影所(以下、東映京都)の実権を握る[2]同撮影所所長・岡田茂[2]。東映京都撮影所長代理・渡邊達人は、1964年後半から東映京都の映画は、全部岡田の企画に切り換えられたと述べている[3]。当時の東映京都の企画会議は岡田の独演会で、他の出席者は「結構でございます」で会議が終了したといわれる[4]。本作は鶴田のために考えられた企画ではなく、大川橋蔵再生のために岡田が思いついた企画であった[2]

岡田は1964年1月の東映京都撮影所長復帰早々、映画での時代劇製作打ち切りを宣言して[3][5][6]、東映京都は任侠映画を中心とした製作[7][8][9][10]、時代劇はテレビへ移行させていくが[8][11][12]、1963年に東映京都は全て時代劇を54本も製作しており[13]、任侠映画への転換や、時代劇をテレビに売ったりを一朝一夕には出来ないため、まだまだ時代劇のヒット作を作らなければならなかった[3]。東映京都の立て直しとして岡田発案による任侠路線の二大目玉企画が、鶴田浩二主演の「博徒シリーズ」と中村錦之介主演の「日本侠客伝シリーズ」で[14][15][16]、岡田は鶴田浩二と中村錦之介を柱に東映京都の改革を構想していたが[17]、錦之介が『日本侠客伝』の主演を拒否し[15][18][19]、代わりに主演に抜擢された高倉健の人気が爆発した[15][18][19]。「博徒シリーズ」と「日本侠客伝シリーズ」が始まったのは1964年夏で、以降シリーズを追うごとに人気が拡大し[20][21][22][23]、任侠映画転換の大きな原動力になった[20][22][24]。しかし片岡千恵蔵市川右太衛門が体力的に後退し、東千代之介をはじめ松方弘樹里見浩太朗といった大川橋蔵に繋がるスターがいずれも、演技面や私生活で伸び悩み[25]、脱落を余儀なくされているときだけに[25]、興行不振の続く時代劇の看板スター・大川橋蔵の再生は岡田にとっても重大な任務であった[25][26]

岡田が京都撮影所長就任前からやっていた「集団抗争時代劇」は継続させ[27][28][29]、自身も多くの時代劇を企画した[3][26][30][31][32]。しかし興行的に成功したのは"くノ一"ぐらいで[33]、ネタも尽き、岡田が思いついたのが、かつての東映時代劇の人気シリーズを役者を交代させてのリメイクであった[2][34]片岡千恵蔵の代表作シリーズ『いれずみ判官』と市川右太衛門の代表作シリーズ「旗本退屈男」を、『いれずみ判官』を鶴田浩二に、『旗本退屈男』を大川橋蔵で演じさせ、これをシリーズ化すれば宣伝も浸透しているし、製作コストが安く済むと計算した[2]。つまり本作は鶴田のためではなく、橋蔵のために発案された企画であった。岡田は後年、『多羅尾伴内』も小林旭でリメイクしている[35]

許可取り[編集]

両御大にリメイクの許可を取りに行ったら、全く正反対の結果になった。まず片岡千恵蔵は年齢的のもひけ時とみてか「鶴田クンならいいでしょう」と潔くバトンタッチを了承した[2]。しかし市川右太衛門は「退屈男は舞台、テレビでも大いにやっていきたいし映画もまだ諦めたわけではない」と難色を見せた[2]。右太衛門が執着するのは、次男の北大路欣也に退屈男を譲りたいという希望を持っていたからと見られた[2]。結局、右太衛門に許可は取れず、旗本退屈男の本名である早乙女主水之介の下の名前だけを拝借し、"夢殿主水之介"という「旗本退屈男」とはキャラクターが離れた人物を造形し、大川橋蔵主演で『主水之介三番勝負』が製作された[36]。当初はどちらもシリーズ化を予定し[2]、本作も封切り時に"鶴田浩二の新シリーズ第一弾"などと報道された[37]。時代劇王国の夢再びと"時代劇ルネッサンス"と吹聴した[34]

監督・脚本[編集]

沢島は岡田に呼ばれて東映東京撮影所で撮った「人生劇場 飛車角」三部作を演出する間、東映京都の企画が流れたりし[38]、岡田が東映京都所長に復帰して岡田から声がかかった[38]。沢島の起用は片岡千恵蔵の「いれずみ判官シリーズ」第15作『江戸っ子判官とふり袖小僧』を監督しているためだった[38]。千恵蔵が鶴田に長裃印籠、参考資料など全部渡し「二代目をやってくれ」と頼む儀式が行われたという[38]。脚本修行中の中島貞夫が沢島からシナリオの手伝いを頼まれ、共同で脚本を執筆[39]。沢島は「入れ墨をするのは御法度で、特に旗本が入れ墨をするのは許されないため、なぜ遠山金四郎だけが入れ墨を許されたのかをやりたかった。それでラストの城中で悪の一群に金さんの入れ墨をバラされる賭けに出るという痛快篇を構想したが上手くいかなかった」と話している[38]。沢島のホンを中島が直す形でホン作りをやったが上手くいかず、沢島は「中島君に苦労をかけた、私の作品では『冒険大活劇 黄金の盗賊』の一つ上の最低作」と話していたが[38]、『冒険大活劇 黄金の盗賊』は再評価する向きもある[40]。鶴田も『いれずみ判官』のホンに乗らず、「人生劇場 飛車角」三部作を一緒にやった仲だったが、気まずくなったという[38]。また大川博東映社長にも「君、あのシャシンはわけがわからんじゃないか」と初めて怒られたという[38]。また金さんがお白州で入れ墨を出さなかったため、中島は岡田に呼び出されて「お前がシナリオを手伝い始めてから沢島の映画がつまらくなった!」と怒られたと話している[39]

作品の評価[編集]

興行成績[編集]

振るわず[38]。本作はシリーズ化を予定していたが[2]、一本のみで終わった。

作品評[編集]

深沢哲也は「鶴田浩二は運動神経が発達しているから、動きがキビキビしており、それだけで画面展開もスピーディになっており、なかなか颯爽としている。だがドラマの組み立て方は旧態依然として古めかしい。これまでの金さん映画のパターンを壊すまいとしてこんなぐあいにドラマを構成したのだろうが、この際、主演者の変更を機に、思い切って今までのパターンを打ち破って作品の体質改造をした方がよかったのではないかと思う。ただ入れ墨の扱い方は興味深かった。白洲で片肌脱ぎになって"御存知遠山桜"と大見得を切る従来の金さんとは、多少異なった印象を与える。沢島正監督(脚本)の良識を感じた」などと評している[41]

同時上映[編集]

影響[編集]

岡田茂は1965年夏頃までは、まだ東映の時代劇が復活できるのではという望みを持っていた[42]。完全に時代劇製作の中止を決断したのは1965年後半のことで[42]、1966年以降は東映で時代劇はほとんど作られなくなった。岡田は1995年のインタビューで「東映京都合理化の荒治療が一応の目途がついたのは1965年暮れだった」と話した[43]

脚注[編集]

  1. ^ いれずみ判官”. 日本映画製作者連盟. 2019年9月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 「お楽しみ案内 映画・舞台 『その'退屈男'罷りならぬ 映画・歌舞伎先輩スターからヒジ鉄を食った大川橋蔵の立ち場』」『週刊サンケイ』1965年2月22日号、産業経済新聞社、 54–55。
  3. ^ a b c d 私の東映30年 1991, pp. 139-147.
  4. ^ 池上金男笠原和夫・下菊坂菊馬・佐治乾野上竜雄宮川一郎国弘威雄「《座談会》若い世代の発言その1・東映へ直言する」『シナリオ』1966年5月号、日本シナリオ作家協会、 30頁。
  5. ^ 「家」の履歴書 岡田茂(東映株式会社代表取締役会長)」『週刊文春』2002年1月17日号、文藝春秋、 75頁。
  6. ^ 「戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、 27 - 28頁。
  7. ^ FB編集同人編「小特集 追悼/笠原和夫・深作欣二 『東映のゴールデン・トライアングル』 文・重政隆文」『FB 映画研究誌』2003年 第18号、行路社、 153-154頁。東映ポスター集製作委員会「東映任侠路線興亡史」『ポスターでつづる東映映画史』青心社、1980年、189頁。ISBN 4-948735-08-6中原早苗『女優魂 中原早苗』ワイズ出版、2009年、176頁。ISBN 9784898302354『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第5回 / 全5回)
  8. ^ a b 日本の映画人 2007, p. 122.
  9. ^ 日本映画は生きている 2010, p. 269.
  10. ^ あかんやつら 2013, pp. 205-209.
  11. ^ 東映の軌跡 2016, p. 564.
  12. ^ 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也 (PDF)”. メッセージ.jp. BSフジ (2005年5月15日). 2019年9月2日閲覧。(archive)『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)織井優佳 (1999年9月25日). “スター(航海新世紀へ朝日新聞創刊120周年)【大阪】”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 15 “【読書】波瀾万丈の映画人生』岡田茂著”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 読書2頁. (2004年7月19日) “【産経抄】”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 1. (2011年5月14日) 
  13. ^ 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 399-412.
  14. ^ あかんやつら 2013, pp. 223-229.
  15. ^ a b c 風雲映画城 1992, pp. 118-125.
  16. ^ 「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 これが映画だ、カツドウだ! 岡田茂が放った七本のシャシン 『日本侠客伝』 京都撮影所のポスト時代劇路線として 文・野村正昭」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、キネマ旬報社、 43-43頁。
  17. ^ あかんやつら & 20131, pp. 223-229.
  18. ^ a b クロニクル東映2 1991, pp. 212-213.
  19. ^ a b 萬屋錦之介『わが人生(みち) 悔いなくおごりなく』東京新聞出版局、1995年、162-163頁。ISBN 4808305429
  20. ^ a b テレビ成長期の日本映画 2018, pp. 142-146.
  21. ^ 「映画界不況の中の英雄 人物クローズアップ 『鶴田浩二という男』」『週刊平凡』1965年8月12日号、平凡出版、 58頁。
  22. ^ a b 楊紅雲 (2004年). “任侠映画路線における東映の成功 ―テレビに対抗した映画製作(1963-1972年)を中心に― (PDF)”. 多元文化 第4号. 名古屋大学. pp. 193-197. 2019年9月1日閲覧。
  23. ^ 東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、 52頁。
  24. ^ 私の東映30年 1991, pp. 143-147.
  25. ^ a b c 「がいど・映画 『裏街道に脱出した大川橋蔵黒の二枚目、スリ、盗賊で再出発』」『週刊サンケイ』、産業経済新聞社、1964年9月7日号、 51頁。
  26. ^ a b 加藤泰・鈴村たけし『加藤泰映画華 ―抒情と情動―ワイズ出版〈ワイズ出版映画文庫4〉、2013年、402-403頁。ISBN 978-489830-271-2
  27. ^ 私の東映30年 1991, pp. 139-143.
  28. ^ あかんやつら 2013, pp. 186-204.
  29. ^ 嶋地孝麿「中村錦之助その静かな闘志『鮫』の撮影を京都にたずねる…」『キネマ旬報』1965年9月上旬号、キネマ旬報社、 21頁。
  30. ^ 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、134–137、315頁。ISBN 4-948735-08-6「邦画五社の七~八月 お盆映画出揃う各社、得意の企画で荒稼ぎ狙う」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、 26頁。「各社、秘策を練るお盆興行娯楽性を強調した独自の企画」『映画時報』1964年6月号、映画時報社、 25頁。「大川指導路線の全貌 東映独立体制の整備成る 東映事業団の成長促進の歩み 東急傘下を離れ独立独歩の姿勢」『映画時報』1964年11月号、映画時報社、 28-34頁。「日本映画製作者名鑑」『キネマ旬報』1966年3月上旬号、キネマ旬報社、 34頁。
  31. ^ 沢島忠全仕事 2001, pp. 259-260.
  32. ^ 戦後映画の産業空間 2016, pp. 306-307.
  33. ^ 「まじめにやるくノ一 味しめた東映'65年の忍法商法」『週刊サンケイ』1965年1月18日号、産業経済新聞社、 55頁。
  34. ^ a b 「東映自慢の"時代劇ルネッサンス"」『週刊現代』1965年2月11日号、講談社、 27頁。
  35. ^ 「記者会見 『多羅尾伴内』」『キネマ旬報』1978年3月上旬号、キネマ旬報社、 182-183頁。“東映が継ぐ大作の製作発表 小林旭主演『多羅尾伴内』”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1978年1月28日) 
  36. ^ 「"来年こそはお二人で…" 4/9 大川橋蔵の船上パースデーパーティ」『週刊明星』1965年4月25日号、集英社、 86-87頁。「東映の多角経営の計画成る大川社長の陣頭指揮・各職域への浸透、更に人造りの気合い充つ」『映画時報』1965年4月号、映画時報社、 32-33頁。
  37. ^ 「今月の日本映画ご案内 『いれずみ判官』」『月刊明星』1965年4月号、集英社、 235頁。「3月の映画 話題映画ご案内 『いれずみ判官』」『月刊平凡』1965年4月号、平凡出版、 200頁。
  38. ^ a b c d e f g h i 沢島忠全仕事 2001, pp. 251-252.
  39. ^ a b 岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第3回 / 全3回)
  40. ^ 山田宏一『映画的な、あまりに映画的な 日本映画について私が学んだ二、三の事柄』ワイズ出版〈ワイズ出版映画文庫(12)〉、2015年、148-156頁。ISBN 9784898302958
  41. ^ 深沢哲也「日本映画批評 『いれずみ判官』」『キネマ旬報』1965年4月下旬号、キネマ旬報社、 79頁。
  42. ^ a b 岡田茂(東映京都撮影所長)・今田智憲(東映東京撮影所長)、聞く人・北浦馨「東映路線の今后の課題 『企画は流行性、スターは不良性感度 岡田・今田東西両所長がさぐる要素』」『映画時報』1965年11月号、映画時報社、 29-33頁。
  43. ^ 「戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、 27 - 28頁。

参考文献・ウェブサイト[編集]

外部リンク[編集]