魔裟斗

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魔裟斗
基本情報
本名 小林 雅人
通称 反逆のカリスマ
階級 ミドル級K-1
身長 174cm[1]
体重 70kg[2]
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1979-03-10) 1979年3月10日(45歳)
出身地 千葉県柏市
スタイル キックボクシング
プロキックボクシング戦績
総試合数 63
勝ち 55
KO勝ち 25
敗け 6
引き分け 2
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魔裟斗(まさと、1979年3月10日 - )は、日本の元キックボクサータレント俳優スポーツ解説者千葉県柏市出身。K-1 WORLD MAX 2003・2008世界王者。

本名・旧リングネーム小林 雅人(こばやし まさと)。妻は女優タレント矢沢心。株式会社MASA・CHAEL所属。

所属ジムはシルバーウルフ。日本人初のK-1 WORLD MAX世界王者。2009年12月31日を以って現役を引退した。

人物

  • リングネーム『魔裟斗』の名付け親は、プロデビュー時の所属先だった藤ジムの加藤重夫会長。最初に藤 山海山(ふじ さんかいざん)なる名前を提案されるも断り、2番目に提案された魔裟斗に落ち着いた。魔裟斗は後年になってから、「暴走族みたいで嫌だった」「漢字表記の説明が面倒」など、当時の心境を明かしている。
  • K-1 WORLD MAX開始当初は、ライバルと目されていた小比類巻貴之ストイックぶりと比較された。魔裟斗は「これだけ練習したのだから負けることはない」と豪語するほど練習熱心であり、真の「ミスターストイック」は魔裟斗であると評価する関係者も多い[3]
  • 現役時代は不遜と評される言動が多く、特に会見の場での過激なリップサービスで知られた。対戦相手の質疑応答に割って入る形で「俺に勝てるの?1発もパンチは当てさせないし、勝負にならないと思うよ」と挑発し、場を騒然とさせたこともある。K-1のヘビー級に挑戦するという噂が流れた際は、「現在のヘビー級はレベルが落ちており、体格が小さい俺でも勝てる選手がいる」と発言した。
  • 握手するときは右手と決めている[4]
  • 「殴られすぎてパンチドランカーになった人を何人も見てきた」ことから、自身の体調管理にはかなり気を使っている。「パンチドランカーになった姿を子供に見せたくない」旨を引退理由の一つに挙げている。
  • K-1が1日で3試合も戦う1DAYトーナメント制を採用していることについてK-1参戦前から批判しており、「トーナメントは運の要素が強すぎて最強は決まらないのは明らかだし、選手の命を危険に晒してるから選手もファンも皆が迷惑してる」とコメントしており、K-1の世界トーナメントで優勝した以降の現在もその考えに変わっていない。また、2007年の世界トーナメント終了後に、一度はトーナメントから撤退してワンマッチに専念することを示唆していた。
  • ラスベガスでビッグマッチを戦うことを夢として挙げており、2003年にK-1 WORLD MAX初優勝を果たした後には「K-1 WORLD MAXで3連覇したら、ラスベガスでボクシング史上初の4団体統一世界ミドル級王者バーナード・ホプキンスと戦って引退したい」と発言したり、2008年6月のSRS格闘技通信での武蔵との対談では「今年のK-1 WORLD MAXで優勝して来年はラスベガスでボクシング史上唯一の6階級制覇王者オスカー・デ・ラ・ホーヤと戦いたい」と発言していた。
  • 格闘技以外の活動としては、後述の通り数々のテレビドラマ・映画・CMなどに出演、フレグランスやシルバーアクセサリーのプロデュースも手掛けていた。2009年にはスイスの時計ブランドであるオーデマ・ピゲと、日本人で初めて契約し、オリジナルデザインの「ロイヤル オーク オフショア MASATOモデル」を発表した。

ファイトスタイル

10代の頃にヨネクラボクシングジムに通って松本好二のスパーリングパートナーでもあった魔裟斗は、元々はパンチを武器とする典型的なインファイターであった。しかし、キャリアを積むにつれて、左右両方のパンチのコンビネーション・キック・膝蹴りなどの打撃を放つスタイルへと変わった。ディフェンステクニックで相手が放つ大振りなパンチをかわし、カウンターを合わせる。最も得意とするブローは相手の右を左でブロックし、即左フックを返すというものである。また、ローキックをブロックした直後に左のインローを返す得意技も公開している。K-1王者になって以降はリードブローに磨きがかかり、飛び込みざまに放つ左ジャブが相手の顔面を捉える場面をよく見かけるようになった。相手のガードの隙間を縫うような右アッパーも得意技の一つ。

2003年にK-1 WORLD MAXチャンピオンになった翌年の2004年は、ディフェンスを最重要視し、ポイントアウトを狙う戦い方を貫いた。本人は後にこれを反省し、観客に魅せるファイトスタイルに改めた。ポイントで圧倒的にリードしている場面でも、積極的に打ち合いにいく姿勢が評価を集めた一方、実際に相手からパンチをもらう場面も多く見られた。

来歴

千葉県柏市にて出生。小学校2年生の時に両親の都合で千葉県柏市から沖縄県へ引っ越す。小学校6年生の時に再び両親の都合により埼玉県新座市に転居。小学6年次・中学校・高校時代を新座市で過ごす。埼玉栄高校に進学するも中退。高校中退後は10種類余りの職を転々とした。

1994年、15歳でボクシングの名門ヨネクラボクシングジムに入門。しかしプロテストをドタキャンし、そのままジムを去る。その後、キックボクシングに転向、17歳で藤ジムに入門した。

1997年3月23日、全日本キックボクシング連盟でのプロデビュー戦で竹原太と対戦し、1RKO勝ち。

1997年5月30日、小比類巻貴之と対戦し、膝蹴りの連打により3RKO負け。初黒星を喫した。共にデビュー2戦目同士で3回戦の前座扱いであったが、メイン、セミの試合のキャンセルが相次ぎ、繰上げでその日の興行のメインイベントになった。この試合を、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)は急遽見開き2ページ、オールカラーで掲載した。魔裟斗は敗北したが、魔裟斗の入場シーンを1ページ丸々の一枚写真を使用するという異例の扱いであった。

2000年1月21日、全日本キックボクシング連盟主催『LEGEND-I』のダブルメインイベント(セミファイナル)でモハメッド・オワリベルギー)と対戦予定であったが、魔裟斗が試合出場を拒否し「試合放棄」とされた。3月14日付けで藤ジムと全日本キックボクシング連盟に退会届を提出し、同連盟ウェルター級王座も返上、「シルバーウルフ」所属となった。その後しばらくは、総合格闘技団体・パンクラスの東京道場や新日本キックボクシング協会の伊原道場を間借りして練習を行う。魔裟斗は「自分のジムもなくて、いつ試合ができるかも分からないこの時期が一番つらかった」と語っている。

2000年7月26日、初の自主興行『Wolf Revolution』を開催し、メインイベントでクレイトン・コリヤーに1RKO勝ち。

2000年11月1日、K-1 WORLD MAXの前身に当たる興行『K-1 J・MAX』で、ムラッド・サリフランス)とISKAオリエンタル世界ウェルター級タイトルマッチを行い、2Rに左フックでKO勝ち。王座奪取成功。試合後、リング上でマイクを握った魔裟斗は「これからは僕の時代です」と宣言した。この試合は大きなターニングポイントになったと後に語っている。

2000年12月5日、タイで行われた『タイ国王生誕記念大会』でスリヤー・ソー・プルンチットと対戦し、判定負け。小比類巻貴之戦以来、3年6か月ぶりの敗戦となった。

2001年1月12日、Wolf Revolution 〜Second Wave〜にて1年前に対戦予定だったモハメッド・オワリを一方的に打ちのめして3RTKO勝ち。試合後、「俺が逃げたわけじゃないってことが証明できた」とコメントした。

2001年3月30日、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟主催『ODYSSEY-1』で伊藤隆の引退試合(エキシビションマッチ)の相手を務めた。

2002年2月11日、K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメントに出場。1回戦、準決勝共にKO勝ちで決勝に進出し、小比類巻貴之と対戦。的確にパンチをヒットさせ判定勝ち。

2002年5月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定戦の準決勝でアルバート・クラウスオランダ)と対戦。2Rにクラウスの右ストレートでダウンを奪われ判定負け。試合後の控室に向かう途中、号泣した。

2002年10月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界王者対抗戦でアルバート・クラウスと対戦。雪辱を誓ったものの、互いに決め手を欠き引き分け。

2003年3月1日、K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメントに出場。3試合とも判定勝ちながら危なげない試合運びでトーナメント2連覇。

2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメントの1回戦でマイク・ザンビディスギリシャ)と対戦。1R、わずかな隙を見せたザンビディスに跳び膝蹴りを見舞いダウンを奪うも、その後ザンビディスの反撃によりポイントを奪い返され、2-1の判定で辛勝。決勝戦で前年度王者アルバート・クラウスを2R、左フックでKOし、優勝を果たした。

2003年12月15日、『WOLF REVOLUTION meets LUZ』で宇野薫とエキシビションマッチを行った。1Rはキックボクシングルールであったが、2Rは総合格闘技ルールとなり、オープンフィンガーグローブでの戦いを披露した[5]

2004年7月7日、K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメントでジャダンバ・ナラントンガラグモンゴル)、アルバート・クラウスをそれぞれ判定で下し、決勝戦でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)と対戦。連戦によるダメージが蓄積し、なおかつ片目が塞がった状態での戦いを強いられた。ブアカーオの攻撃に成す術もなく3Rにはフラフラの状態で戦っていたのにもかかわらず、3R終了時点判定1-0で延長R突入となり、延長Rで判定負け、準優勝となった。この判定は問題となり、大会終了後の7月9日に「3R終了時点の判定はミスジャッジングであり、不適格かつ不可解」であったとして、角田信朗を始めとした審判員の処分を発表した。また、3R終了時点でブアカーオが3-0の判定勝ちであったことを正式に認証することになったが、公式記録上の変更は行わなかった[6]

2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!山本"KID"徳郁とK-1ルールで対戦。1R、山本にダウンを奪われた直後、ローキックが山本の金的を直撃し試合が中断する。山本自身「手足が震えた」というほどの致命的なダメージであった。そして5分の休憩の後、精彩を欠いた山本から2Rにダウンを奪い返し、判定勝ちを収めた。

2005年7月20日、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝でマイク・ザンビディスと対戦。ダウンを奪い判定勝ちしたが、自身の蹴りで左足腓骨を骨折し準決勝を棄権。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で復帰。元プロボクサー大東旭と対戦し、2RTKO勝ち。

2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝で小比類巻貴之と通算3度目の対戦。3Rにボディブローを効かせ、直後の左ストレートでダウンを奪い判定勝ち。準決勝でアンディ・サワー(オランダ)に3R終了間際にダウンを喫し判定で敗れ3位に終わる。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!において対戦予定だった元WBA世界スーパーフェザー級王者・チェ・ヨンス韓国)が練習中に負傷したことにより、試合10日前に対戦相手がボクシング元日本ミドル級王者・鈴木悟に変更。結果は2RKO勝ち。

2007年2月11日、女優・タレントの矢沢心と6年間の交際、5年間の同棲を経て入籍[7]。翌2008年4月20日、都内のホテルで結婚披露宴を行った[8]

2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦では、自ら指名した前年度王者ブアカーオ・ポー.プラムックと準々決勝で対戦。1Rに右ストレートでダウンを奪い、判定勝ち。準決勝ではアルトゥール・キシェンコウクライナ)に2Rにカウンターの左フックでKO勝ち。決勝ではアンディ・サワーと対戦したが、2試合を戦ったダメージの蓄積に加え、サワーの猛攻で足が限界に達し、2R終了時に立ち上がることが出来ず、セコンドがタオルを投入しTKO負け。準優勝に終わった。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で前年に対戦予定であったチェ・ヨンスと改めて対戦。3年続けて元プロボクサーとの対戦となった。1Rにダッキングに合わせたハイキックでダウンを奪うと、その後もパンチやローキックで攻め立てて3Rタオル投入によるTKO勝ち。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、かねてから魔裟斗との対戦を熱望していた佐藤嘉洋と対戦。3Rに左フックでダウンを奪われるが、その後手数で上回り延長Rにもつれ込む。その際、当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールであったが、レフェリー角田信朗がジャッジの点数を不正に改竄(ジャッジペーパーでは10-9となっていたが、わかりやすさを優先するという名目で9-8になった)[9][10]したため、不信と混乱を招いた。その後延長Rで形勢逆転し、判定勝ち。続くアルトゥール・キシェンコとの決勝戦でも同様の判定が起こり、2Rに右フックでダウンを喫するも3R巻き返し、3R終了時の判定はドローとなり、延長Rに判定勝ち。2度目のK-1 WORLD MAX世界王者となった。優勝直後にはリング上で「15年間やってきて、1つのことを頑張るといいことがあるって思ったね。皆も色々とあるだろうけど、途中で投げずに続ければ、結果はどうであれ、充実できると思う。はっきり言って俺は99%の努力と1%の才能でここまで来たけど、“継続は力なり”じゃないけど、ずっと続けたことが、このチャンピオンベルトにつながったと思います」とコメントした。

2009年3月22日、東京マラソン2009に出場し、3時間51分41秒で完走した[11]

2009年4月1日、記者会見を開き、2009年末を以って引退する旨を表明。「大晦日のDynamite!!で今年のトーナメント優勝者と戦いたい」「アンディ・サワーとは2度戦ってまだ勝っていないから、是非ともサワーに優勝してもらって挑戦したい。最後に俺がサワーに勝って終わるのは俺の運命」と発言した[12]

2009年4月21日、引退発表後の「初戦」として出場したK-1 WORLD MAX 2009 FINAL16で、かねてから魔裟斗が目を掛けていたHIROYAとエキシビションマッチを行った[13]

2009年7月13日、K-1 WORLD MAXでのラストマッチとなったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8にて、ファン投票で推薦された総合格闘家・川尻達也と対戦。試合決定直後から、川尻の打撃トレーナーも加わり激しい舌戦を繰り広げた。1Rに右ストレートでダウンを奪い、2Rにパンチのラッシュで追い込んだところで川尻陣営からタオルが投入されTKO勝ちを収めた。

2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALにてジョルジオ・ペトロシアンが圧倒的な強さで優勝。その直後に魔裟斗はリング上でペトロシアンに対して「大晦日空いてるかな?」「大晦日、日本で待ってるよ。」と挑戦を表明した[14]。しかし、その翌日、ペトロシアンが準決勝山本優弥戦の時点で既に右手の指を骨折していたことが発覚したため、対戦の正式決定には至らなかった[15]

2009年11月7日、「SILVERWOLF presents FINAL REVOLUTION 〜大宮司進 FINAL〜」で、所属ジムの同僚である大宮司進とエキシビションマッチ(K-1ルール・3分2R)で対戦した[16]

2009年11月12日、世界王者ジョルジオ・ペトロシアンの右手の指の骨折が完治しないため、準優勝者であり過去2戦2敗のアンディ・サワーとの大晦日での引退試合が決定した。これについて、魔裟斗は「サワーとの試合はやり残し。過去2度の対戦は、既にダメージが溜まっているトーナメントの準決勝と決勝だったけど、お互いが無傷で公平なワンマッチなら俺の方が強い」と語っていた[17]

2009年12月31日、さいたまスーパーアリーナにて行われたDynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜アンディ・サワーとK-1特別ルール(3分5R延長1R、サワーが希望するシュートボクシングのロングスパッツ着用可)で自身の引退試合を行った。4Rにカウンターの右フックでダウンを奪うもサワーも盛り返し、最終5Rまでもつれ込んだが3-0の判定勝ちを収め、現役を引退した。

引退後

2012年5月16日、K-1のエグゼクティブプロデューサーに就任したが、[18]同年12月31日、「主催者側と運営方針などについて考え方の違い」を理由に辞任した。[19]

2015年12月31日、TBSの大型スポーツ特番『KYOKUGEN 2015』にて一夜限りの現役復帰試合を行った。相手は2004年の大晦日にK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦した山本"KID"徳郁で、結果は判定勝ち。

戦績

キックボクシング 戦績
63 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
55 25 30 0 2 0
6 2 4 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
アンディ・サワー 5R終了 判定3-0 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜 2009年12月31日
川尻達也 2R 1:43 TKO(タオル投入) K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINAL8 2009年7月13日
アルトゥール・キシェンコ 延長R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL
【決勝】
2008年10月1日
佐藤嘉洋 延長R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL
【準決勝】
2008年10月1日
ドラゴ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL8
【準々決勝】
2008年7月7日
ヴァージル・カラコダ 3R 0:22 KO(右フック) K-1 WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL16
【1回戦】
2008年4月9日
チェ・ヨンス 3R 0:51 TKO(タオル投入) K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!! 2007年12月31日
× アンディ・サワー 2R終了時 TKO(タオル投入) K-1 WORLD MAX 2007 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜
【決勝】
2007年10月3日
アルトゥール・キシェンコ 2R 0:41 KO(左フック) K-1 WORLD MAX 2007 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜
【準決勝】
2007年10月3日
ブアカーオ・ポー.プラムック 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2007 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜
【準々決勝】
2007年10月3日
J.Z.カルバン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2007 〜世界一決定トーナメント開幕戦〜
【1回戦】
2007年6月28日
オーレ・ローセン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2007 〜世界最終選抜〜 2007年4月4日
鈴木悟 2R 2:22 KO(右ローキック) K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!! 2006年12月31日
× アンディ・サワー 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD MAX 2006 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜
【準決勝】
2006年6月30日
小比類巻貴之 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2006 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜
【準々決勝】
2006年6月30日
レミギウス・モリカビュチス 2R 1:56 TKO(タオル投入) K-1 WORLD MAX 2006 〜世界一決定トーナメント開幕戦〜
【1回戦】
2006年4月5日
イアン・シャファー 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2006 〜日本代表決定トーナメント〜
【スーパーファイト】
2006年2月4日
大東旭 2R 1:58 TKO(3ノックダウン:右ローキック) K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!! 2005年12月31日
マイク・ザンビディス 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2005 〜世界一決定トーナメント決勝戦〜
【準々決勝】
2005年7月20日
イム・チビン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2005 〜世界一決定トーナメント開幕戦〜
【1回戦】
2005年5月4日
山本"KID"徳郁 3R終了 判定2-0 K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!! 2004年12月31日
× ブアカーオ・ポー.プラムック 延長R終了 判定0-3 K-1 WORLD MAX 2004 〜世界一決定トーナメント〜
【決勝】
2004年7月7日
アルバート・クラウス 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2004 〜世界一決定トーナメント〜
【準決勝】
2004年7月7日
ジャダンバ・ナラントンガラグ 3R終了 判定2-0 K-1 WORLD MAX 2004 〜世界一決定トーナメント〜
【準々決勝】
2004年7月7日
セルカン・イルマッツ 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2004 〜世界一決定トーナメント開幕戦〜
【1回戦】
2004年4月7日
ヴィンス・フィリップス 2R 0:15 KO(右ローキック) K-1 WORLD MAX 2003 〜世界王者対抗戦〜 2003年11月18日
アルバート・クラウス 2R 2:26 KO(左フック) K-1 WORLD MAX 2003 〜世界一決定トーナメント〜
【決勝】
2003年7月5日
サゲッダーオ・ギャットプートン 2R 2:55 KO(2ノックダウン:右アッパー) K-1 WORLD MAX 2003 〜世界一決定トーナメント〜
【準決勝】
2003年7月5日
マイク・ザンビディス 3R終了 判定2-1 K-1 WORLD MAX 2003 〜世界一決定トーナメント〜
【1回戦】
2003年7月5日
武田幸三 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2003 〜日本代表決定トーナメント〜
【決勝】
2003年3月1日
村浜武洋 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2003 〜日本代表決定トーナメント〜
【準決勝】
2003年3月1日
須藤元気 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2003 〜日本代表決定トーナメント〜
【1回戦】
2003年3月1日
アルバート・クラウス 5R終了 判定1-1 K-1 WORLD MAX 2002 〜世界王者対抗戦〜 2002年10月11日
メルヴィン・マーリー 2R 2:59 TKO(レフェリーストップ:右ローキック) Wolf Revolution 〜resurrection〜 2002年8月6日
× アルバート・クラウス 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD MAX 2002 〜世界一決定戦〜
【準決勝】
2002年5月11日
ドゥエイン・ラドウィック 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 2002 〜世界一決定戦〜
【1回戦】
2002年5月11日
小比類巻貴之 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD MAX 〜日本代表決定トーナメント〜
【決勝】
2002年2月11日
後藤龍治 3R 2:52 KO(2ノックダウン:左フック) K-1 WORLD MAX 〜日本代表決定トーナメント〜
【準決勝】
2002年2月11日
村浜武洋 3R 0:30 KO(2ノックダウン:右ストレート) K-1 WORLD MAX 〜日本代表決定トーナメント〜
【1回戦】
2002年2月11日
ノエル・ソアレス 3R 1:30 TKO(レフェリーストップ:フック連打) K-1 WORLD GP 2001 決勝戦
【K-1 WORLD MAX スーパーファイト】
2001年12月8日
ベン・バートン 4R 1:10 KO Black List 010 meets Wolf Revolution 2001年8月23日
ゴラン・ダニロヴィック 2R 2:06 KO(ローキック) Wolf Revolution 〜Third Wave〜 2001年6月22日
パトリック・エリクソン 5R終了 判定3-0 K-1 BURNING 2001 〜火の国熊本初上陸〜 2001年4月15日
モハメッド・オワリ 3R 1:26 TKO(タオル投入) Wolf Revolution 〜Second Wave〜 2001年1月12日
× スリヤー・ソー・プルンチット 5R終了 判定 タイ国王生誕記念大会
【スーパーウェルター級選手権】
2000年12月5日
ムラッド・サリ 2R 0:48 KO(左フック) K-1 J・MAX
【ISKAオリエンタル世界ウェルター級タイトルマッチ】
2000年11月1日
クレイトン・コリヤー 1R 1:15 KO(左フック) Wolf Revolution 〜First Wave〜 2000年7月26日
メルチョー・メノー 4R 2:59 KO(3ノックダウン:ローキック) コロシアム2000 2000年5月26日
ゴーンナパー・ソー・チャルァームサッグ 2R 0:59 TKO(レフェリーストップ:左アッパー) サムローンスタジアム 2000年4月16日
"イーヴィル"エヴァル・デントン 5R終了 判定3-0 全日本キックボクシング連盟「WAVE-XIII」 1999年11月22日
ニック・ミッチ 5R終了 判定2-0 全日本キックボクシング連盟「WAVE-XII」 1999年10月8日
スティーブ・ミッチ 2R 2:15 TKO(ドクターストップ) 全日本キックボクシング連盟「WAVE-V」 1999年8月17日
マテオ・トレビジョン 5R終了 判定3-0 全日本キックボクシング連盟「WAVE-IV」 1999年7月13日
ジェームス・シャサー 5R終了 判定3-0 全日本キックボクシング連盟「WAVE-III」 1999年5月11日
千葉友治 3R 0:34 KO 全日本キックボクシング連盟「WAVE-II」 1999年3月17日
土井広之 5R終了 判定1-1 全日本キックボクシング連盟「WAVE-I」 1999年1月25日
嶋村哲昌 1R 2:32 KO(左フック) シュートボクシング「GROUND ZERO TOKYO」 1998年11月14日
坪井淳治 5R終了 判定3-0 全日本キックボクシング連盟 1998年10月16日
K・タカハシ 4R終了 判定3-0 全日本キック&MA日本キック合同興行「KICK CHAMPION'S NIGHT」 1998年9月19日
河野貴巳 3R終了 判定3-0 全日本キックボクシング連盟 1998年7月8日
千葉友治 3R終了 判定3-0 全日本キックボクシング連盟 1998年3月22日
× 小比類巻貴之 3R 2:52 KO(膝蹴り) 全日本キックボクシング連盟「KICK OVER-VI」 1997年5月30日
竹原太 1R KO 全日本キックボクシング連盟「KICK OVER-IV」 1997年3月23日

獲得タイトル

  • 第19代全日本キックボクシング連盟ウェルター級王座(0度防衛)
  • ISKAオリエンタル世界ウェルター級王座(0度防衛)
  • K-1 WORLD MAX 2002 日本代表決定トーナメント 優勝
  • K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメント 優勝
  • K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメント 優勝
  • K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメント 準優勝
  • K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント 準優勝
  • K-1 WORLD MAX 2008 世界一決定トーナメント 優勝

格闘技以外での受賞歴

  • アクアピースゴールデンハート賞(2003年) ※アクアピースネットワーク主催[20]

出演

テレビ番組

  • K-1 WORLD GPシリーズ(2007年 - 2010年、フジテレビ系) - 解説
  • S☆1(2010年4月3日 - 2012年3月25日、TBS系) - メインキャスター兼S☆1ファミリー(コメンテーター)会員No.1
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書籍

脚注

  1. ^ シルバーウルフプロフィール
  2. ^ シルバーウルフプロフィール
  3. ^ 2009年3月8日放送『ソロモン流
  4. ^ ただし元々握手は右手で行うのがマナーとされており、特別変わった習慣ではない。
  5. ^ [ウルレボ] 12.15 六本木:大宮司、豪快KO勝ち。魔裟斗は宇野とエキシ BoutReview 2003年12月15日
  6. ^ [K-1 MAX] 魔裟斗×ブアカーオのミスジャッジに角田Pが処分 BoutReview 2004年7月10日
  7. ^ 魔裟斗さん:5年間同居の女優、矢沢心さんと結婚 毎日jp(毎日新聞) 2007年2月13日
  8. ^ 魔裟斗&矢沢心が結婚披露宴「まだ他人事見たい」 スポーツナビ 2008年4月20日
  9. ^ 【Sports Watch】魔裟斗戦の不可解判定、今になって突然の釈明 Sports Watch 2009年10月10日
  10. ^ 魔裟斗vs佐藤嘉洋のジャッジについて角田信朗氏が説明 kamipro.com 2008年10月2日
  11. ^ 魔裟斗がマラソン完走「今年はやりたいことがある」 K-1公式サイト 2009年3月22日
  12. ^ 【K-1MAX】魔裟斗、引退発表の記者会見全文(1)ラストマッチは大晦日に3分5Rで! 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年4月1日
  13. ^ 【K-1MAX】佐藤、長島が敗退!魔裟斗なき世界トーナメントは日本人が大苦戦 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年4月21日
  14. ^ 【K-1MAX】魔裟斗、最後の相手が遂に決定!初出場のペトロシアンが世界王者に 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年10月26日
  15. ^ 【K-1MAX】魔裟斗の引退試合に暗雲、ペトロシアンに骨折の疑い 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年10月27日
  16. ^ 大宮司、引退エキシビションの相手は盟友・魔裟斗 BoutReview 2009年11月9日
  17. ^ 【Dynamite!!】12・31魔裟斗、対戦カード決定会見(1)「サワーをKOして『僕の時代が終わった』と宣言する」 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年11月12日
  18. ^ スポーツナビ 格闘技|ニュース|魔裟斗EP就任、K-1復活へ「オレしかいない」と発言した
  19. ^ 「考え方の違い」K-1魔裟斗EPが辞任
  20. ^ アクアピースゴールデンハート賞NPO法人/アクアピースネットワーク 2016年元日閲覧

関連項目

外部リンク

空位
前タイトル保持者
鈴木達也
第19代全日本キックボクシング連盟ウェルター級王者

1999年3月17日 - 2000年3月14日

空位
次タイトル獲得者
内田康弘