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金剛 (戦艦)

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公試運転中の「金剛」
改装後の「金剛」
艦歴
起工 1911年1月17日
進水 1912年5月18日
就役 1913年8月16日
沈没 1944年11月21日
位置 北緯26度09分 東経121度23分 / 北緯26.150度 東経121.383度 / 26.150; 121.383
性能諸元
基準排水量 26,330 トン
29,330トン(第一次改装)
31,720トン(第二次改装)
全長 214.6m
219.4m(第二次改装)
全幅 28.0m
31.0m(第一次改装)
主機 蒸気タービン2基、4軸 64,000馬力
蒸気タービン4基、4軸 136,000馬力(第二次改装)
最大速 27.5 ノット
26ノット(第一次改装)
30.3ノット(第二次改装)
航続距離 8,000(14ノット時)
10,000浬(14ノット時、第一次改装)
9,800浬(18ノット時、第二次改装)
乗員 士官、兵員2,367名
兵装
(竣工時)
45口径35.6cm連装砲4基
50口径15.2cm単装砲16門
53cm魚雷発射管8門
兵装
(最終時)
35.6cm45口径連装砲4基
15.2cm50口径単装砲8門
12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装18基
同連装8基
同単装30挺
(機銃は推定)
装甲 水線203mm、甲板70mm
弾火薬庫甲板70mm+102mm(第一次改装)

金剛こんごう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。イギリスに発注された最後の軍艦である[1]。2度の改装を経て高速戦艦に変身し、太平洋戦争でも活躍した。本艦は、太平洋戦争で日本海軍が使用した唯一の外国製の戦艦であり、唯一潜水艦の攻撃によって喪失した戦艦でもある(工作艦として使用された朝日を除く)。

艦名は、奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。なお、名称は海上自衛隊イージス艦1番艦である「こんごう」に受け継がれている。

建造までの経緯

日露戦争終結2年後の1907年(明治40年)に建造が決定された。最初は装甲巡洋艦として計画されたが、英国1906年に画期的戦艦「ドレッドノート」を完成させ、1909年には超弩級戦艦(ドレッドノートを超える戦艦という意味)オライオン級を起工する事態に鑑み、1911年に「金剛」を超弩級巡洋戦艦として建造すべく計画を変更した。

この当時、日本海軍は1907年計画の国産弩級戦艦河内型を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められたため、「金剛」は技術導入を兼ねて英国に設計・建造を依頼した。設計したのはヴィッカース社(Vickers Limited)の主任設計師ジョージ・サーストン卿(George Thurston)であった。サーストンはオスマン帝国海軍に輸出予定の戦艦「エリン」 (発注時はレシャド5世)を元に巡洋戦艦を設計する。この艦は英海軍当局の課す設計上のさまざまな制限から自由に設計できたため、14インチ砲8門を搭載した、極めてバランスの取れた素晴らしい軍艦と認められた。その際立った特徴は、射界の狭い船体中央の砲塔を廃して、主砲塔を前後二基ずつ配置したことである。

このデザインは大きな影響を及ぼし、英海軍は本来ライオン級の4番艦となるはずだった「タイガー」の設計を大幅に変更したため、「金剛」に酷似したデザインの艦となった。「金剛」の同型艦3隻は本艦の図面を元に国内で建造された。

「金剛」の装甲鋼鈑には、ヴィッカース社の特殊鋼板VC鋼板が使用されていた。後に日本で建造された同型3艦にもこの技術は導入され、国産化された。しかし、改装の際、ドリルで穴を開けようとすると、国産3艦はやすやすと通ったにもかかわらず、金剛だけはドリルが折れてしまうということがあったという。

シーメンス事件

アームストロング・ホイットワースとヴィッカース社は軍艦の建造受注を巡って競争していた[2]。ヴィッカース社の日本代理店三井物産には天下りした松尾鶴太郎(元予備海軍造船総監)がおり、松本和艦政本部長と交流があった[3]。協議の結果、三井取締役岩原謙三はヴッカース社に対し「金剛」のコミッションを2.5%から5%に引き上げさせた[3]1910年(明治43年)3月、藤井光五郎海軍機関大佐は渡英してアームストロング社とヴィッカース社から提出された新型巡洋戦艦の調査を行い、8月にヴィッカース社有利の報告を出した[4]。11月17日、三井物産は230万7100ポンドで日本政府と「金剛」の建造契約を調印する(巡洋戦艦プリンセス・ロイヤルは209万2214ポンド)[5]。藤井は交友のあったヴィッカース社バーロウ造船所長から20万円の謝礼を受け取った[6]。松本は約40万円を受け取った。また姉妹艦「比叡」の蒸気タービン製造を三菱造船所が断ったため、ヴィッカース社は1911年(明治44年)3月25日に13万2000ポンドで契約調印、藤井は1万円の謝礼を受け取る[6]

1914年(大正3年)3月、ドイツ企業シーメンス社を巡る裁判で収賄事件が発覚、松本らは軍法会議にかけられ処分された。山本権兵衛総理大臣率いる第1次山本内閣内閣総辞職に追い込まれた。

第二次世界大戦での活躍

近代化改装後の「金剛」
マリアナ沖海戦二日目の午後、追撃をする第58任務部隊の艦載機に空襲を受ける榛名、左上で回避運動をしているのは第三航戦の空母千代田

元々、軽防御の巡洋戦艦として設計されたため、第一次改装で防御力を強化したといっても十分ではなかった。ユトランド沖海戦以後の、大口径砲弾が大角度で落下してくる場合の防御は明らかに貧弱であった。他の日本戦艦の場合は主要部分を重点的に防御しているのに対し、金剛型の場合、甲板全体を防御したため、装甲が全体的に薄くならざるを得なかった(というよりも、先に水平防御を強化した金剛型を教訓として、他の日本戦艦は後にさらに有効的な水平防御を施したという経過であった)。

しかし、改装後の本型は、第二次世界大戦に参加した日本戦艦では唯一30ノットを超える高速性能を持ち、空母機動部隊の随伴艦として最適であったため、同型艦4隻は参戦した戦艦中の最古参にもかかわらず、最も活躍した。

「金剛」は、太平洋戦争開戦時は同型艦榛名と共に南方攻略部隊の支援任務に就き、シンガポールに進出していた英海軍新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と対峙したが、交戦の機会はなかった。ガダルカナルの攻防戦では、「榛名」と共に日本戦艦で初めてヘンダーソン飛行場砲撃、同飛行場を一時機能停止に追い込んだ。

マリアナ沖海戦では、機動部隊の護衛として出撃。レイテ沖海戦ではサマール島沖で遭遇した米海軍艦隊を攻撃し、護衛空母ガンビア・ベイ」撃沈に最も貢献した。この海戦で損傷し、日本への帰途につく。

沈没

11月21日午前3時ごろ、「金剛」は台湾沖で米海軍潜水艦シーライオン」(USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315)の魚雷攻撃を受けた。「シーライオン」は6本の魚雷を発射、午前3時6分、12ノットで航行していた「金剛」の左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中した[7]。この時、戦艦長門」を狙って外れた魚雷1本が護衛の第十七駆逐隊司令艦「浦風」に命中し、「浦風」は轟沈、司令部、艦長以下全員が戦死している[8]。魚雷命中後、「金剛」は16ノットで現場から退避した。当時すでに艦齢30数年と老朽化が進んでおり、また攻撃を回避するため破損したまま航行したため、リベットの継ぎ目などから浸水、徐々に破損箇所が広がって傾斜が増大する[9]。午前5時の時点でも11ノットで航行しており、乗組員の誰もが魚雷2本で沈むとは考えず楽観視していたため、駆逐艦を接舷させての乗員退避は実施されなかった[9]。応急決死隊が潜水具をつけて作業にあたるも手遅れであり、5時20分には機関が停止、10分後の午前5時30分に転覆した[10]。沈没直前、弾薬庫の大爆発が起きて艦中央付近にいた多くの乗員が吹き飛ばされ犠牲となった[10]。被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、島崎艦長、鈴木司令以下1300名と共に沈むこととなった。生存者は第十七駆逐隊(浜風磯風雪風)に救助された。第十七駆逐隊は日本帰還後、横須賀へ回航される長門の護衛任務につき、折り返して、大和型戦艦を改造した空母信濃」の呉回航を護衛している。

「金剛」は、日本戦艦で唯一潜水艦の雷撃により撃沈された艦である。一部連合国側戦史では、日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている[要出典]。慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。また1930年の第一次改装で取り外されたボイラーは現在、呉市海事歴史科学館に展示されており、2008年重要科学技術史資料(未来技術遺産)に認定された。

なお、沈没時に艦首に掲揚されていた軍艦旗は乗員によって回収され、この乗員が捕虜になった関係から一時、戦勝国である中華民国に接収されていたが、1969年に同国政府より返還され、海軍のOB会「黒潮会」によって管理されていた。その後、2009年に会員の高齢化によって同会が解散した際、旗を回収した乗員の地元である福岡県飯塚市に寄贈され、飯塚市歴史資料館に保存されている。

艦歴

主要目一覧

要目 新造時計画
(1913年)
1次改装後
(1930年)
2次改装後
(1938年)
最終時
(1944年)
排水量 常備:27,500t 基準:29,330t 基準:32,200t
公試:36,314t
全長 214.6m 222m
全幅 28.04m 31.02m
吃水 8.38m 8.65m 9.6m
主缶 ヤーロー式混焼缶36基 ロ号艦本式専焼缶4基
同混焼缶6基
ロ号艦本式缶8基
主機 パーソンズ式直結タービン2基4軸 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 64,000shp 136,000shp
速力 27.5ノット 26ノット 30.3ノット
航続距離 8,000海里/14ノット 9,500海里/14ノット 10,000海里/18ノット
燃料 石炭:4,000t
重油:1,000t
石炭:2,661t
重油:3,292t
重油:6,000t
乗員 1,201名
主砲 毘式35.6cm連装砲4基
副砲 毘式15.2cm単装砲16門 同14門 同8門
高角砲 なし 短8cm砲7門 12.7cm連装砲4基 同6基
機銃 なし 25mm連装10基 25mm3連装18基
同連装8基
同単装30挺
魚雷 53cm水中発射管8本 同4本 なし?
その他兵装 短8cm砲12門 21号電探1基
22号2基
13号2基
装甲 水線203mm
甲板19mm
主砲天蓋75mm
同前盾250mm
副砲廓152mm
水線203mm
甲板19mm※※
主砲天蓋152mm
同前盾250mm?
副砲廓152mm?
搭載機 なし 3機 3機
カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年は推定を含む。
※※ 水平防御に缶室64mm、機械室83-89mm、弾薬庫102-114mm、舵取室76mmなど追加。

公試成績

状態 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 27,580t 78,275shp 27.54kt 1913年(大正2年)5月8日 英国クライド湾
1次改装後 25.374kt 1931年(昭和6年)8月4日 館山沖標柱間
2次改装後 30.27kt 1936年(昭和11年)11月14日

歴代艦長

艤装員長

  1. 中野直枝 大佐:1912年12月1日 -

艦長

  1. 中野直枝 大佐:1913年8月16日 -
  2. 山中柴吉 大佐:1913年12月1日 -
  3. 松岡修蔵 大佐:1914年12月1日 -
  4. 荒川仲吾 大佐:1915年12月13日 -
  5. 吉岡範策 大佐:1916年12月1日 -
  6. 金丸清緝 大佐:1917年12月1日 -
  7. 島内桓太 大佐:1918年4月9日 -
  8. 野崎小十郎 大佐(1919年4月1日 -
  9. 田尻唯二 大佐:1919年11月20日 -
  10. 牟田亀太郎 大佐:1920年11月12日 -
  11. 武光一 大佐:1921年11月20日 -
  12. 関干城 大佐:1922年12月1日 -
  13. 岸井孝一 大佐:1923年11月20日 -
  14. 八角三郎 大佐:1924年11月1日 -
  15. 松下元 大佐:1925年12月1日 -
  16. 吉田善吾 大佐:1927年12月1日 -
  17. 池中健一 大佐:1928年12月10日 -
  18. 池田敬之助 大佐:1930年12月1日 -
  19. 日暮豊年 大佐:1931年12月1日 -
  20. 近藤信竹 大佐:1932年12月1日 -
  21. 三木太市 大佐:1933年11月15日 -
  22. 岸本鹿子治 大佐:1934年11月15日 -
  23. 鋤柄玉造 大佐:1935年11月15日 -
  24. 松浦永次郎 大佐:1936年12月1日 -
  25. 栗田健男 大佐:1937年12月1日 -
  26. 鈴木義尾 大佐:1938年11月15日 -
  27. 田中頼三 大佐:1939年11月15日 -
  28. 大杉守一 大佐:1941年4月15日 -
  29. 小柳富次 大佐:1941年8月15日 -
  30. 伊集院松治 大佐:1942年12月26日 -
  31. 島崎利雄 大佐:1943年7月17日 -

同型艦

脚注

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第2巻 戦艦Ⅱ』(光人社、1989年) ISBN 4769804520
  • 横井勝彦『大英帝国の<死の商人>』講談社、1997年8月。ISBN 4-06-258110-8 
  • 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社NF文庫新装版、2004年。ISBN 978-4-7698-2027-7 

関連項目

外部リンク

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