稲作

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タイの田植え。東南アジアの稲作では1ヘクタールに満たない水田でも、田植え、除草、収穫に農業労働者が雇用されることが多い
ミャンマーの稲の収穫。

稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。主にを得るため、北緯50°から南緯35°の範囲にある世界各地域で稲作が行われている。現在では、米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカブラジルコロンビアアフリカエジプトセネガルでも稲作が行われている。

稲の栽培には水田が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。

収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、(わら)がとれる。

概要

稲作が広く行われた理由として、

  • 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である[1]
  • イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)[1]
  • 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない[1]
  • 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)[2]

などの理由が考えられている[3]

歴史

起源

インドの田植え。
イラン北部、マーザンダラーン州の田植え。
ブラジル南東部サンパウロ州パライーバ渓谷の水田。
インドネシアジャワ島の牛耕田。
ネパールの田植え。

稲作の起源は2012年現在、考古学的な調査と野生イネの約350系統のDNA解析の結果[4]、約1万年前の中国長江流域の湖南省あたりが稲作の起源と考えられている。かつては、雲南省遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺が発祥地といわれていた[4][5][6]

長江流域にある草鞋山遺跡プラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという[7]。 現在に繋がる栽培種の起源は、ひとつの野生イネ集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に異なる野生系統が複数回交配し、インディカ米の系統が生じたと考えられている[4]

紀元前6000年から3000年前までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域までに限られている。以降、紀元前3000年以降山東半島先端部や遼東半島に分布し、 紀元前2000年代には朝鮮半島まで拡大した[8]

日本への伝来

伝来ルートの解明は、

  1. 出土する土器や農具の形状、地層中から見いだされた植物遺体(花粉、籾殻、炭化米、プラント・オパールなど)の年代を直接放射性炭素年代測定法や出土層の層序から決定する。
  2. 現在の栽培種や地層中から見いだされたサンプルの形状、遺伝情報を解析[9]。しかし、現在の栽培種を対象とした遺伝子解析では分布を知ることが出来たとしても、正確な年代までを知ることは出来ない[10]

などの手法を単独で、或いは組み合わせて行われる[11]

日本における稲作開始年代探求の研究は、森本六爾などによって着想され[12]研究の結果、1930年代に弥生時代で有るとされた[13]。しかし、現在では、さらに古い時代ともされるプラント・オパールが発見されたことなどから縄文時代晩期、あるいはそれ以前に伝来し日本国内各地に広まった[14]とされている。農学者の佐藤洋一郎は、縄文前期に熱帯ジャポニカが南西諸島から伝播し、水陸未分化の粗放稲作が行われた。縄文晩期に温帯ジャポニカが揚子江下流域(RM1-b)と朝鮮半島南部(RM1-a)から伝播し、熱帯ジャポニカと混合した水田稲作が始まったのではないかと推測としている[15][16]

温帯ジャポニカの遺伝子のSSR領域にはRM1-aからhの8種類のDNA多型が存在する。

  • 中国にはRM1-aからhの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く。
  • 朝鮮半島にはRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。朝鮮半島ではRM1-bを持つ品種は存在しない。
  • 日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多い。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本を中心に発見されている。
  • 登呂遺跡出土物の研究により、弥生時代後期には温帯ジャポニカ型と熱帯ジャポニカ型が栽培され、両者のイネが自然交雑していたことを示唆する結果が得られている[17]

RM1を含めた三つのSSR領域において、日本の温帯ジャポニカは他の二地域に比べて多様性が失われている。これは渡来時の稲が極少数だったことによるボトルネック効果と推測されている[18]

国立歴史民俗博物館による放射性炭素年代測定結果からは、九州北部で最も古い水田は3000年前頃、栽培が広く行われ始めた時期の水田稲作遺跡群は2800 - 2900年前とされ、従来の説より大きく遡るとした。そのため、2300年ほど前とされていた弥生時代の開始時期の定義も揺らいでいる[19]。この際に朝鮮半島南部の併行する時代の土器も測定が行われ、こちらも通説より古い年代のものと確認された[20][21][22]

水稲の伝来

日本への水稲伝来ルートに関しては様々な学説があり、伝来時期に関しては放射性炭素年代測定などの調査により、紀元前9世紀ごろに水稲稲作が開始されたと推測されている[23][24][25]

禰宜田佳男によれば、水田稲作の受容の過程で、縄文時代後期後半は朝鮮半島由来の土器や石器が出土するにしてもこの時点では稲作は狩猟や採集の生活を補足するものであり、気候が寒冷化した弥生時代早期に至ってはじめて灌漑施設による水田稲作が始まったという[26]。 藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている[27]

伝来ルートについて池橋宏は、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」と述べている[28]。これについて広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている[29]。また山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている[30]佐藤洋一郎によると風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は「熱帯ジャポニカ(陸稲)」であり、「温帯ジャポニカ(水稲)は、弥生時代頃に水田耕作技術を持った人々が朝鮮半島から日本列島に持ってきた」と言う[31]。ただし、佐藤洋一郎埴原和郎が『日本人2重構造説』で唱えた稲作が大きな人類集団の渡来を伴ったという説には否定的であり、稲の小さな集団が渡来したと考えている[32]

趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている。[33]

伝来ルート

イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関して、「出発点を重要視した説」、「経路を重要視している説」それぞれが複数有り、様々な論争を呼んでいる[14][34]。特に、経路について大別すると「黒潮と共に島伝いに直接伝わった」とする南方ルートと「朝鮮半島を経由した」とする大陸ルートがあるが[35]極東アジアへの伝播経路は十分に解明はされておらず以下の説が主なものとして存在する。なお、各ルート名は正式な呼び名ではなく、本稿における便宜的な呼び名である[要出典]

  1. 揚子江下流域から直接九州北部に伝来(対馬暖流ルート)。
  2. 江南から南西諸島を経て九州南部に伝来(黒潮ルート、南方伝来ルート)。
  3. 揚子江下流域から遼東半島を経由して朝鮮半島を南下して九州北部に伝来(朝鮮半島南下ルート)。
  4. 揚子江下流域から山東半島(斉の田)を経て、朝鮮半島南部を経由して九州北部に伝来[36]山東半島 - 朝鮮半島南東部ルート[要出典]
対馬暖流ルート説

安藤広太郎によって提唱された長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説[37][38][39]である。考古学者の八幡一郎は「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を陳べている[40]。佐藤洋一郎は、中国・朝鮮・日本の温帯ジャポニカのSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a~hの8種類があり、bが多く、aがそれに続く、朝鮮半島はbを除いた7種類が存在し、aがもっとも多い。 日本にはa、b、cの3種類が存在し、bが最も多い。aは東北も含めた全域で、bは西日本が中心であることを発見し、佐藤は「これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になるとしている[41][42][43][44][45]

黒潮ルート、南方伝来ルート説

柳田國男の最後の著書「海上の道[46]」で提唱された中国南部揚子江河口域(江南)からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎可児弘明安田喜憲梅原猛などの民俗学者に支持されている[47]。北部琉球での稲作を示す考古学的資料が出ていないため関心が薄かったが、2008年、農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子のひとつ「qSW5」を用いて、ジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報を解析し、ジャポニカ米が東南アジアから中国を経由して日本に伝播したとする論文をネイチャー ジェネティクスに発表している[48][49][45][50]

遼東半島 - 朝鮮半島南下ルート説
山東半島 - 朝鮮半島南東部ルート説

山東半島の楊家圏遺跡で紀元前2000年ごろの龍山文化の水田跡が発見されており、考古学者の藤尾慎一郎らは2001年10月から2004年12月までに朝鮮半島南部の先松菊里段と北九州の遺跡の土器に付着していた炭化物を炭素14年代の測定で測定した結果、ほぼ同時期の紀元前10世紀であること[51][要ページ番号]から、山東半島から朝鮮南部経路で日本に伝播したとする説である[要出典]。しかし、自身の論文の中で発見された炭化物がイネであるとの証明は出来ておらず、アワ、ヒエなどのC4植物が混入している可能性も指摘している[51][要ページ番号]。更に、同時期に朝鮮半島南部から出土している土器の特徴と併せ、総合的に判断をする必要があるとも指摘している[51][要ページ番号]。農学者の宇田津徹朗は、経由地域の気候的な位置づけから、畑作系轄の農業技術を背景にもっている点、さらに、山東半島地域での稲作が山東龍山文化期まで遡る点など、技術系譜や時代の前後関係において一定の整合性が認められており、現段階では、最も可能性高いルートと主張している[52]が、イネプラントオパールの密度が低い事から、天水田の様な稲作であった可能性が高く明確な水田稲作の存在を決定づける証拠が不足しているともしている[52][要ページ番号]

日本国内での歴史

縄文稲作の可能性

日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年山内清男の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが[53]、後に本人も縄文時代の稲作には否定的になった[54]。土器に付いた籾の跡は他にも数例ある。1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった[55]

縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡土器胎土内から出たプラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の地層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる[56]

しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性がある[57]。土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性がある[58]。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている[59][60]。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である[61]。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない[62]

プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である[63]。特に焼畑農業が注目されている[64]。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌から得られたプラント・オパールの分析からは、現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている[65]

水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネオオムギアズキアワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。


江戸時代から現代

日本では、寒冷な東北地方でも古くから栽培が行われていたが、東北地方の太平洋側はやませに悩まされ、冷害による甚大な被害を受けた。江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。明治時代以後は北海道石狩平野でも栽培されるようになり、寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発が行われた。

戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。

農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。

西アジアへの伝来

トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である[66]

アフリカへの伝来

栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である[67]。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国ニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガルガンビアギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている[68]

アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった[67]。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された[69][70]

ヨーロッパへの伝来

ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる[71][72]

アメリカ大陸への伝来

16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった[73]

日本国内での歴史

古代の稲作

青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている[74][75] 。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用ため池が築造された。 大和朝廷は日本を「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。朝廷は水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。 以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも田楽などが行われるようになった。大分県田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。

中世の稲作

鎌倉時代になると西日本を中心に牛馬耕が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、東日本を中心に水田に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦二毛作が行われるようになった。室町時代には、厳しい気候条件に強く、排水不良の土地でも良く育つ占城稲が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、大名たちは新田開発のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。武田信玄によって築かれた山梨県釜無川の信玄堤は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため検地も行われた。天下を掌握した豊臣秀吉が全国に対して行った太閤検地によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す石高制が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視された。

近世の稲作

江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは新田の開墾を推進し、傾斜地にも棚田を設けて米の増産を図った。幕府も見沼代用水深良用水などの農業用用水路も盛んに設けたり、諸国山川掟を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した[76]。農業知識の普及も進み、宮崎安貞による日本最古の体系的農書である農業全書大蔵永常農具便利論などが出版されている。農具も発達し、備中鍬や穀物の選別を行う千石通し、脱穀の千歯扱などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、慶安の御触書でも雪隠を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、飢饉も多発しており、二宮尊徳などの農政学者が活躍した。

近代の稲作

明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物から魚肥や油粕など金肥と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。ドイツから派遣されたオスカル・ケルネルらによって西洋の科学技術も導入され農業試験場などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み亀の尾などの品種が作られた。 日本では、寒冷な東北地方でも古くから栽培が行われていたが、東北地方の太平洋側はやませに悩まされ、冷害による甚大な被害を受けた。江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。明治時代以後は北海道の石狩平野でも栽培されるようになり、中山久蔵などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行った。 戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。1970年代になると田植機による田植えの機械化などにより、米の生産量が消費量を大きく越え、政府によって減反政策などの生産調整が行われるようになった。

1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクトスーパーライス計画が行われ、ミルキークイーンなどの低アミロース米が開発された[77]

日本に於ける栽培技術と品種改良

品種改良は当初耐寒性の向上や収量が多くなるように行われ、代表的品種は日本晴であった。飽食の時代になってからは、コシヒカリやその系統の、良食味米と耐病性向上が主流になった。米余りになると減反政策を行い、米を作らない農家には補助金を支給し、転作を進めた。豊作で青田刈りを行った年もあった。

現在では、規制緩和により、スーパーマーケット等にも販売が解禁された。国際的な貿易自由化の流れにより、高率の関税を課す関税方式で輸入を解禁した。正規の流通以外で売買される自主流通米が増え、国内の流通販売は自由化された。

近年は西日本を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている[78]。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。

方式

二期作と二毛作

気候的に可能な場合は三毛作も行われている。

水田稲作と陸稲

水稲

稲の水田による栽培を水田稲作と呼び、水田で栽培するイネを水稲(すいとう)という。

に水を張り(水田)、底に苗を植えて育てる。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的であるが、東南アジアなどでは、水田の中に種籾を蒔く地域もある。深い水深で、人の背丈より長く育つ栽培品種もある。畑よりも、水田の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどが、水田を使っている。水田による稲作は、他の穀物の畑作に比べ、連作障害になりにくい。

陸稲

畑で栽培される稲を陸稲(りくとう、おかぼ)という。

水稲では殆ど起こらないが、同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する[79]

栽培法

初めに田畑にじかに種もみを蒔く直播(じかまき)栽培と、仕立てた苗を水田に植え替える苗代(なわしろ/なえしろ)栽培がある。

手順

(春)乗用田植機による田植え
(初夏)田植え後の水田
(秋)稲穂
(秋)自脱型コンバインによる稲刈り
(秋)刈田と稲の天日干し(稲杭掛け)
(秋)刈田と稲の天日干し(稲架掛け)

古くからの伝統的な方法

  1. の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。
  2. 圃場に水を入れさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
  3. 苗代(なわしろ/なえしろ)に稲の種・種籾(たねもみ)をまき、発芽させる(籾撒き)。
  4. 苗代にてある程度育った稲を本田(圃場)に移植する(田植え)。※明治期以降は田植縄や田植枠(田植定規)などによって整然と植え付けがなされるようになった。
  5. 定期的な雑草取り、肥料散布等を行う。
  6. 稲が実ったら刈り取る(稲刈り)。
  7. 稲木天日干しにし乾燥させる。※稲架(馳)を使用したハセ掛け、棒杭を使用したホニオ掛けなど
  8. 脱穀を行う(=もみにする)。
  9. 籾摺り(もみすり)を行う(玄米にする)。
  10. 精白(搗精)を行う(白米にする)。

最近の一般的な方法

  1. まず、育苗箱に稲の種・種籾(たねもみ)まき、育苗器で発芽させる。
  2. 次に、ビニールハウスに移して、ある程度まで大きく育てる。
  3. トラクターにて、田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。
  4. 圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。
  5. 育った苗を、田植機(手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。
  6. 定期的な雑草取り、農薬散布、肥料散布等を行う(専用の農業機械を使う)。
  7. 稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行うコンバインで刈り取る。
  8. 通風型の乾燥機で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。
  9. 籾すり機で籾すりを行う(玄米)。
  10. 精米機にかける(白米)。
  • 上記方法が標準方法というわけではない。その中でも栽培に関しては、さまざまな方法がみられる。特に、1,2で述べられている育苗の方法は、地域や播種時期、品種、農家の育苗思想・主義などからきわめて多様である。
  • 稲作には従来より除草剤を使用してきた。近年[いつ?]無農薬栽培法では除草剤を使用しないことがあるので、ノビエなどイネ科の雑草を手作業で除草しなくてはならなくなることがある。

生育段階

  • 育苗期
  1. 播種期
  2. 出芽期
  3. 緑化期:発芽器を使用しない、または発芽器から出した後にハウスなどで育苗・養生しない場合、緑化期はない
  4. 硬化期
  • 本田期
  1. 移植期
  2. 活着期
  3. 分蘖
  4. 最高分蘖(げつ)期
  5. 頴花分化期
  6. 幼穂形成期
    この時期は低温に弱く、やませの常襲地帯では深水管理が推奨されている。
  7. 減数分裂期
    花粉の基礎が形成される時期で、この時期にやませに遭うと障害型冷害が発生しやすい。
  8. 穂孕み期
  9. 出穂始期:圃場出穂割合10 - 20%
  10. 出穂期(出穂盛期):圃場出穂割合40 - 50%
  11. 穂揃い期:圃場出穂割合80 - 90%
  12. 開花期※稲は出穂しながら抽出した先端から順次開花をする
  13. 乳熟期
    この時期、猛烈な残暑に襲われると玄米の品質が低下する。
  14. 黄熟期
  15. 傾穂期
  16. 登熟期(糊熟期)
  17. 成熟期

日程の例(鳥取県地方の早期栽培)

4/2 - 5 発芽器で苗を発芽・育成(育成に3日間必要)
育てた苗は畑の小さいハウスに移動し、田植えまでそのまま育てる。
4/16 耕起(田起こし)。土を耕うん機で耕すこと。田には水は入れない。
4/17 - 29 荒かき。田に水を入れて土を耕うん機で耕す。
4/30 代掻き。土をさらに細かくする。田植えの3 - 4日前に実施。
5/3,4,5 田植え。田植え機使用による機械移植。
5/7 除草剤振り1回目。田植え後1週間以内に実施。
5/13 追肥。田植え後10日以内に実施。稲の元気が出るため。
5/28 除草剤振り2回目。田植え後25日以内に実施。
草刈。
6月 防除(=カメムシイモチなど病害虫の駆除)1回目。出穂前に実施。
防除2回目。出穂後の穂ぞろい期に実施。
7/23 - 8/6 穂肥(ほごえ)のための肥料まき1回目。
8/13 ↑ 2回目
9/2,3 稲刈り。

不耕起栽培

省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である[80][81]

冬季代かきによる方法例

[82]生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。

  1. 12月 - 翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。
  2. 圃場が固くなってから、溝に直接肥料と種籾を播く。
  3. 2 - 3葉期を過ぎたら水を張る。
  4. 必要に応じ、中干しを行う。

米ヌカを播く方法例

[83][84]

  1. 1月に米ヌカまいて、水を溜める(湛水)。
  2. 3 - 4月に一旦水を抜き、耕す(但し、状態によっては不要)。
  3. 再度湛水し、田植え。
  4. 必要に応じ、中干しを行う。
  5. 稲刈り後、湛水(冬期湛水)。

稲作文化

稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の食文化、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。

農耕技術では稲作のための農具や収穫具、動物を用いた畜力利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、カカシなど鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとのは様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では強飯ちまきなど多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの貯蔵法や、醸造してにするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、日本の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、田遊び田植田植踊御田祭御田植御田舞等、豊作を祈るための多くの予祝儀式収穫祭民俗芸能伝承されている。

宮中祭祀においても天皇皇居御田で収穫された稲穂天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する新嘗祭がおこなわれている。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。

脚注

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関連項目

外部リンク