瀬底島
瀬底島 | |
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NASAにより撮影された衛星写真(2015年10月)。 | |
所在地 | 日本・沖縄県国頭郡本部町 |
所在海域 | 東シナ海 |
所属諸島 | 沖縄諸島 |
座標 | 北緯26度38分46秒 東経127度51分54秒 / 北緯26.64611度 東経127.86500度座標: 北緯26度38分46秒 東経127度51分54秒 / 北緯26.64611度 東経127.86500度 |
面積 | 2.99 km² |
海岸線長 | 7.3 km |
最高標高 | 76.0 m |
プロジェクト 地形 |
瀬底島(せそこじま)は、沖縄県国頭郡本部町に属し[1]、本部半島の西方沖約600mの東シナ海に位置する[2]。
地理
地形・地質
セイヨウナシの形をした台地状の低平な島で[2]、面積2.99km²[3]、周囲7.3km[4]、標高76.0m[5]、2012年4月現在の人口は817人である[6]。隆起サンゴ礁の島で、主に琉球石灰岩で構成され[7][8]、島中央部は今帰仁帯と呼ばれる三畳紀の基盤岩類で成る[2][9]。2段または3段の海岸段丘が見受けられ[8][10][11]、その段丘面にはカルスト地形の一つであるドリーネが、さらに島北部にはカレンフェルトも発達している[2]。北方からの強風に晒される為、防風林が設置されている箇所もある[10]。集落は島中央を通る道路沿いに立地[12]、また島南岸には琉球大学熱帯生物圏研究センターの研究施設が所在する[2]。
行政区画
島全域は本部町の大字である「瀬底」に属し、瀬底島西約6kmの海上にある水納島も同字に帰属する[12]。
瀬底島は元来今帰仁間切の所属であったが、1666年に今帰仁間切から新たに伊野波間切として分割された[13]。翌年1667年に本部間切に名称を変更、『琉球国由来記』にも本部間切瀬底村と記述されている[14]。琉球王国時代初頭は瀬底村の1村のみであったが、1736年に石嘉波(いしかわ)村が農地開拓のため本部半島から移り2村体制となり、1896年(明治29年)に両村とも国頭郡へ編入、1903年(明治36年)に石嘉波村は瀬底村に合併された[15]。そして1908年(明治41年)に本部村瀬底、1940年(昭和15年)に本部町へ町制施行した[14][16]。
歴史
方言で「瀬底」は「シーク」また「シスク」と呼ばれる[5]。15世紀後半に編纂された李氏朝鮮時代の歴史書『海東諸国紀』には「師子島」とあり、沖縄本島間の海域は「世々九浦」と記載されている[5]。『ペリー提督沖縄訪問記』[2]と『ペリー艦隊日本遠征記』[5]には「スコ島(Suco Island )」と記され、瀬底島内の集落名は「シスコ(Sisuco )」とある[5]。瀬底島という名称は、17世紀前半に著された『琉球国高究帳』に記載され、それ以降この地名は一般に広まったとされる[2]。
先史から琉球王朝まで
先史時代の貝塚やグスク時代の多数の遺構が発見され[17]、中でも瀬底グスク(ウチグスク)では、青磁や染付けされた陶磁器が出土している[18]。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされる。1469年に第一尚氏王統最後の尚徳王が死去すると、同系の今帰仁按司の一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したと言われる。また、沖縄本島中部の具志川や石川(現在のうるま市の一地域)[17]からの移住者が、集落を築いたとも伝えられている。[19]
『球陽』(1394年条)には、瀬底島の島民によって放たれた家畜が農作物を食い荒らしたと、沖縄本島の健堅村の住民が非難したが、島民はこの苦情を聞き入れなかったという[5]。『球陽』(1736年条)には、本部間切の村々の農地が狭く、木を焼き払って田畑を開墾する有様であったとされる[20]。そこで、土地に余裕のある瀬底島に、本島から海を渡って石嘉波村が移転した[20]。
島内には水田はなく、また麻疹や天然痘などの疫病も度々発生し、飢餓に苦しむことも多かった[14]。1826年に飢饉による困窮のため、瀬底村は琉球王府から金銭を借り入れている[14]。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の親雲上である上間家の一人が1712年に清へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされる[14]。代々上間家は本部間切の地頭代を務め、1772年に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行った[21]。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、1831年に王府から掛軸と上布を与えられた[22]。
明治以降
瀬底島に井戸は存在せず、昔から天水に依存してきた[23]。現在でも雨水を蓄える貯水池が集落東側の御嶽に4箇所残存している[24]。旱魃で水不足に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していたが、1964年(昭和39年)にボーリング機材を用いて地下水を汲み上げ、幾分水不足は解消された[24]。そして1982年(昭和57年)に沖縄本島から海底送水が実施された[12]。1973年(昭和48年)に電話回線が開設[24]、また電力も対岸の本部半島から海底ケーブルで送電されている[8]。
1890年(明治23年)に島内に簡易小学校を設立したのが最初で、3年後に瀬底尋常小学校に改称した[14]。1921年(大正10年)に高等科が新設され、戦後に瀬底中学校を設置した[16]。2011年に瀬底中学校は沖縄本島の本部中学校へ統合される事が決定し[25]、翌年2012年3月11日に閉校式が行われた[26]。
産業
主な産業は農業で、サトウキビ、スイカ、が主要な産物で[7][8][17]、花卉類は通常の出荷時期を変えて生産を行っている[27]。過去にサツマイモや麦、豆類も栽培していた[24]。昭和初期に石灰質岩石のトラバーチンを産出し[8]、国会議事堂の建材に使用された[2]。ムンジュル笠と呼ばれる麦わら(方言でムンジュル)を編んで作った菅笠状の日笠が瀬底島の工芸品で、沖縄本島北部ではシーク笠(瀬底笠)とも言われる[28]。明治時代から1960年代まで農家の副業として生産してきた[23][24]。しかし、多種多様な帽子が大量且つ安価に生産される今日では、ムンジュル笠はそれらに圧倒され、1991年頃の生産人口はわずか2、3人までに衰退した[8]。
島西部海岸に位置する瀬底ビーチ(クンリ浜)には全長約1kmに及ぶ砂浜が広がり、毎年夏場の5 - 10月は観光客で盛況する[29]。またゴルフ場がビーチに隣接している[30]。平成のバブル景気以降にリゾートホテルが島西部に建設されていたが、開業を待たずして経営会社が倒産、施設が未完成で残されている現状である[27]。
文化
瀬底島中央部に、古来より中国における農業の神様として崇拝された土帝君の祠があり、当地で毎年旧暦2月2日に豊年祭が行われる[14]。またこの祭祀施設は2000年に国の重要文化財に指定されている[22]。周囲は石灰岩の石積みで囲まれ、その中に赤瓦屋根の祠がある[22]。戦時中に土帝君像は焼失し、戦後新たに作られた[29]。
昭和初期まで氏神に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われたが、1935年(昭和10年)から5年ごとに1回交互に開催するようになった[16]。村踊りは旧暦8月中旬の4日間、綱引きは11日に行われ、帰省者や近郊の沖縄本島から訪れる観客で賑わう[16]。島南部には参詣毛(サンケーモー)と呼ばれる小高い丘があり、そこから毎年旧暦5月15日に酒と肴を用意し祖先の故郷(本部や石川など)を訪れ、参拝するグングヮチウマチー(5月祭り)を行う[2][7][8][17]。獅子舞踊りや旧暦7月に伝統芸能「シヌグ」も催される[2][8]。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に開催する祭事で、沖縄本島北部や奄美群島の一部でも行われる[31]。毎年5月と11月に「ピージャーオーラサイ」と言われるヤギ同士で闘う伝統行事も行われる[6]。
瀬底島で使用される方言は沖縄北部方言に含まれるが、この方言の特徴である有気音と無気音の区別はない。それ以外の発音は他の琉球方言と比較して際立った特徴は見受けられず、また文法もほぼ変わらない。瀬底島の西に位置する水納島は瀬底島から移住した人々で構成されている為、瀬底島と同一である。[32]
交通
昔から瀬底島の沖合は荒れやすく、王朝時代から船舶の転覆・座礁事故が多発していた[14]。それに対して瀬底島と本部半島に挟まれた海峡は穏やかである為、外航船の避難港として利用されていた[33]。この一帯の海域は『球陽』には「瀬底二仲(シークタナカ)」、明治時代の水路誌には「瀬底港」と記されている[33]。1911年(明治44年)にアメリカの軍艦アルバニー号が来航、1944年(昭和19年)10月10日の十・十空襲では、停泊していた潜水母艦「迅鯨」などの艦船が攻撃を受けている[33]。
沖縄本島と架橋する以前は渡し船が唯一の交通手段で、1946年(昭和21年)から橋梁完成まで汽船が運航した[16]。当時の瀬底港と沖縄本島側の浜崎港(両港とも2006年に本部港に統合)[34]を1日11便で結び[12]、朝方と夕方には島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するため、頻繁に利用していた[35]。大橋開通後の瀬底港は漁港として使用され、現在は近くにビーチやキャンプ場が整備されている[34]。
1972年(昭和47年)から7年間、瀬底大橋の建設に関する調査が行われた[36]。1974年(昭和49年)に島内の主要道路が沖縄県道172号瀬底健堅線に指定され、1979年(昭和54年)に工事を着工した[37]。1985年(昭和60年)2月13日に完成し[38]、全長762mで当時の沖縄県において最長の橋であった[37]。また翌月の3月31日に完成を祝して島内に開通記念碑が建立された[38]。現在は島民の生活道路のみでなく、景勝地として観光資源の一翼を担う[37][38]。
この瀬底大橋を渡り本部町中心部や名護市と瀬底島を結ぶ路線バスが琉球バス交通と沖縄バスにより運行されているが、本数は少ない[39]。
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瀬底大橋
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瀬底大橋開通記念碑
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本部港の潜水母艦「迅鯨」鎮魂碑。後方に瀬底島を望む。
出典
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- ^ a b c d e f g h i j 『角川日本地名大辞典』「瀬底島」(1991年)p.423
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- ^ a b c d e f 『日本歴史地名大系』「瀬底島・瀬底村」(2002年)p.508上段
- ^ a b 加藤(2012年)p.139
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- ^ “まちの広報誌 第277号 64年の歴史に幕 瀬底中学校閉校式典” (FlipperMaker). 本部町企画政策課. p. 7 (2012年3月30日). 2013年2月16日閲覧。
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- ^ a b 『SHIMADAS 第2版』「瀬底島」(2004年)p.1186
- ^ 『日本歴史地名大系』「瀬底島・瀬底村」(2002年)p.508中段
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- ^ a b c “復帰30年特集シリーズ 4.技術者たちの声” (PDF). 一般社団法人 沖縄しまたて協会. pp. 68 - 69 (2002年10月). 2013年2月16日閲覧。
- ^ 65番 (PDF) ・66番本部半島一周線 (PDF) のうち瀬底経由の便と、76番瀬底線 (PDF) が経由する。
参考文献
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- 角川日本地名大辞典編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』 角川書店、1991年。ISBN 4-04-001470-7
- 平凡社地方資料センター編 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 平凡社、2002年。ISBN 4-582-49048-4
- 沖繩大百科事典刊行事務局編 『沖繩大百科事典』 沖縄タイムス、1983年。
- 日外アソシエーツ編 『島嶼大事典』 日外アソシエーツ、1991年。ISBN 4-8169-1113-8
- 菅田正昭編 『日本の島事典』 三交社、1995年。ISBN 4-87919-554-5
- 財団法人日本離島センター編 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス) 第2版』 財団法人日本離島センター、2004年。ISBN 4-931230-22-9
- 加藤庸二 『原色 日本島図鑑』 新星出版社、2010年。ISBN 978-4-405-07130-8
- 加藤庸二 『原色ニッポン 《南の島》大図鑑 小笠原から波照間まで 114の"楽園"へ』 阪急コミュニケーションズ、2012年。ISBN 978-4-484-12217-5
- 仲田邦彦 『沖縄県の地理』 編集工房東洋企画、2009年。ISBN 978-4-938984-68-7
- 中村和郎ほか 『日本の自然 地域編 8 南の島々』 岩波書店、1996年。ISBN 4-00-007938-7
- 河名俊男 『シリーズ沖縄の自然 琉球列島の地形』 新星図書出版、1988年。