仁明天皇
仁明天皇 | |
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元号 |
天長 承和 嘉祥 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 淳和天皇 |
次代 | 文徳天皇 |
誕生 | 810年 |
崩御 | 850年5月6日 |
陵所 | 深草陵 |
諱 | 正良 |
別称 |
日本根子天璽豊聡慧尊 深草帝 |
父親 | 嵯峨天皇 |
母親 | 橘嘉智子 |
女御 |
藤原順子 藤原沢子 藤原貞子 |
子女 |
道康親王(文徳天皇) 宗康親王 時康親王(光孝天皇) 人康親王 平子内親王 国康親王 重子内親王 久子内親王 他多数 |
仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。
系譜
嵯峨天皇の第二皇子[1]。母は内舎人橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。
- 女御(皇太后):藤原順子(808-871) - 藤原冬嗣女
- 第一皇子:道康親王(文徳天皇)(827-858)
- 女御(贈皇太后):藤原沢子(?-839) - 藤原総継女(一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデルという)
- 女御:藤原貞子(?-864) - 藤原三守女
- 女御:滋野縄子 - 滋野貞主女
- 女御:橘影子(?-864) - 橘氏公女
- 女御:藤原息子
- 更衣:紀種子(?-869) - 紀名虎女
- 更衣:三国町 - 三国氏女
- 皇子:貞登
- 宮人:藤原賀登子 - 藤原福当麻呂女
- 第六皇子:国康親王(?-898)
- 宮人:藤原小童子 - 藤原道長女
- 皇女:重子内親王(?-865)
- 宮人:高宗女王 - 岡屋王女
- 宮人:山口氏
- 皇子:源覚(849-879)
- 宮人:百済王豊俊女
- 女嬬:百済王永慶 - 百済王教俊女
- 皇女:高子内親王(?-866)
- 生母不明
系図
50 桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
51 平城天皇 | 伊予親王 | 万多親王 | 52 嵯峨天皇 | 53 淳和天皇 | 葛原親王 | 良岑安世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岳親王 | 阿保親王 | 54 仁明天皇 | 有智子内親王 | 源信 〔嵯峨源氏〕 | 源融 〔嵯峨源氏〕 | 源潔姫 | 恒貞親王 | 平高棟 | 高見王 | 遍昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在原行平 | 在原業平 | 平高望 〔桓武平氏〕 | 素性 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
54 仁明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
55 文徳天皇 | 58 光孝天皇 | 人康親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
56 清和天皇 | 惟喬親王 | 59 宇多天皇 | 藤原基経妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
57 陽成天皇 | 貞純親王 | 真寂法親王 (斉世親王) | 敦実親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源清蔭 〔陽成源氏〕 | 源経基 〔清和源氏〕 | 源雅信 〔宇多源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
天長10年(833年)3月6日、叔父に当たる淳和天皇の譲りを受けて即位。当初、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が立太子した。これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、それを利用して甥である道康を立太子させたい藤原良房の陰謀があったと言われている。
嘉祥3年(850年)3月19日に病にかかり、文徳天皇に譲位。同年3月21日に崩御。
天皇は幼少時から病弱であったとされ、『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。また、『三代実録』の藤原良相の薨去の記事では、天皇は良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとする記事が載せられている。
江戸時代の儒学者・頼山陽は、天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際には受け付けず、事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたことを厳しく非難している(『日本政記』)。
和風諡号・異名
和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。和風諡号を奉贈された最後の天皇である。御陵の在所を以って深草帝(ふかくさのみかど)という異称がある。
在位中の元号
陵墓・霊廟
深草陵(ふかくさのみささぎ)に葬られた。
宮内庁によって京都市伏見区深草東伊達町に陵墓が指定されているが、これは文久の修復のさいに造られたもので根拠が乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。
脚注
- ^ 『本朝皇胤紹運録』では第一皇子、『神皇正統記』・『椿葉記』では第二皇子とする。村田正志は同じ弘仁元年生まれとされている源信が、天皇よりも月日的に先に生まれたとする所伝があったと推測している(村田正志『村田正志著作集 第4巻證註椿葉記』(思文閣出版、1984年)P241)。