恒貞親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
恒貞親王/『前賢故実』より

恒貞親王(つねさだしんのう、天長2年(825年) - 元慶8年9月20日884年10月12日))は、平安時代前期の皇族淳和天皇の第二皇子。仁明天皇皇太子(のち廃される)。品位は三品。異称は亭子親王。法名は恒寂

目次

[編集] 経歴

異母兄・恒世親王の死後、淳和天皇の後継者とされた。天長10年(833年)従兄弟にあたる仁明天皇の即位に際し、嵯峨上皇の意向により立太子承和5年(838年紫宸殿において元服するが、天皇に拝謁する際に礼儀を備えており、紫宸殿を降りて拝舞する様子も雅やかで麗しかったという。その後、淳和上皇や恒貞親王は権力闘争に巻き込まれる事を憂慮して度々皇太子の辞退を申し入れたものの、嵯峨上皇や仁明天皇に慰留されてしまう[1]。だが、承和9年(842年)嵯峨上皇の崩御後まもなく発生した承和の変により、皇太子を廃された。

嘉祥2年(849年)三品に叙せられるが、まもなく出家して法号を恒寂と称した。真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺の初祖となった。仏道に深く帰依して常に精進持戒したという。元慶8年(884年陽成天皇が退位したあとの皇位継承問題が生じた際に、即位を要請されたがこれを拒絶した。死の直前に己の最期を悟り、衣服を浄め仏前に香華を備えて西方に向かって結跏趺坐の姿勢を取って入寂したと伝えられている。

[編集] 人物

性格はゆったりとして優雅であり、姿形が美しかったという[2]

[編集] 系譜

[編集] 脚注

  1. ^ 『恒貞親王伝』
  2. ^日本三代実録』元慶8年9月20日条

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス