そして誰もいなくなった
『そして誰もいなくなった』(そしてだれもいなくなった、原題: Ten Little Niggers/And Then There Were None[1])とは、1939年に刊行されたアガサ・クリスティの長編推理小説である。
概要
イギリスで新聞連載、アメリカで雑誌連載の後、1939年11月6日にイギリスのコリンズ社「クライム・クラブ」より "Ten Little Niggers" 、翌年1月にアメリカのドッド、ミード社「レッド・バッジ・ミステリー」より "And Then There Were None" として刊行された。
孤島から出られなくなった10人が1人ずつ殺されていくというクローズド・サークルの代表的作品であるとともに、「童謡殺人」(見立て殺人)の代表的作品でもある。全世界で1億部以上を売り上げ、その評価はクリスティ作品中でも特に高く代表作に挙げられる。作者自身により戯曲化されており、何度も舞台や映画、テレビドラマとして上演されている。中でもルネ・クレール監督の1945年の映画はよく知られている。
作品の評価
- 作者ベストテンでは、1971年の日本全国のクリスティ・ファン80余名の投票、および1982年に行われた日本クリスティ・ファンクラブ員の投票のいずれにおいても、本書は1位に挙げられている[2]。
- 各誌の海外ミステリー・ベストテンでは、1975年『週刊読売』で2位、1985年『週刊文春』で4位、1999年『EQ』で3位、2005年『ジャーロ』で3位、2006年『ミステリ・マガジン』で3位、2010年『ミステリが読みたい!』1位と、近年においても高評価を維持している。
- 1995年にアメリカ探偵作家クラブが選出した『史上最高のミステリー小説100冊』の本格推理もののジャンルで1位、総合では10位に評価されている[3]。
あらすじ
イギリス、デヴォン州のインディアン島に、年齢も職業も異なる10人の男女が招かれた。しかし、招待状の差出人でこの島の主でもあるU・N・オーエンは、姿を現さないままだった。やがてその招待状は虚偽のものであることがわかったが、迎えの船が来なくなったため10人は島から出ることができなくなり、完全な孤立状態となってしまう。
不安に包まれた晩餐のさなか、彼らの過去の罪を告発する謎の声が響き渡った。告発された罪は事故とも事件ともつかないものだった。その声は蓄音機からのものとすぐに知れるのだが、その直後に生意気な青年が毒薬により死亡する。さらに翌朝には召使の女性が死んでしまう。残された者は、それが童謡「10人のインディアン」を連想させる死に方であること、また10個あったインディアン人形が8個に減っていることに気づく。
さらに老将軍の撲殺された死体が発見され、人形もまた1つ減っているのを確認するに至り、皆はこれは自分たちを殺すための招待であり、犯人は島に残された7人の中の誰かなのだ、と確信する。
誰が犯人かわからない疑心暗鬼の中で、召使、老婦人、元判事、医者が死体となり、人形も減っていく。そして、残された3人のうち2人が死に、最後の1人も犯人がわからないまま精神的に追いつめられて自殺、そして誰もいなくなった。
エピローグ
後日、救難信号を発見した島の近くの村の人間が、島で10人の死体を発見し、事件の発生が明らかとなる。事件を担当するロンドン警視庁は、被害者達が残した日記やメモ、そして死体の状況などから、(それは読者が知りえたのと同じくらいに)事件の経緯、大まかな流れをつかむ。そして、当時の島の状況から、犯人が10人の中にいると考えると矛盾が生じるため11人目がいたと推理するが、それが何者で島のどこに潜んでいてどこに消えてしまったのかまではわからない。
しかし、ある漁師がボトルに入った犯人の告白文を見つけたことから真相が明らかになる。
事件の真相
犯人はローレンス・ウォーグレイヴ判事である。彼は、幼少より生物を殺すことに快楽を感じていたが、同時に正義感も強かった。そのため、両方の願いをかなえる職業として、犯罪者に死刑判決を下す裁判官を務めていたが、退官後は殺人の衝動を抑えきれなくなった。ただし正義感は持ち続けており、罪のない者を殺すことには抵抗があったため、法律で裁かれない殺人を犯した9人の人間を集めて、1人ずつ殺していく計画を実行したのである。
彼は作中では6番目に殺害されることになるが、それは巧妙な偽装死であり、すべてが終わった後に告白文を記述、海に流して本当に自殺したのだった。
戯曲版
童謡には歌詞が2通りあり、1つは「首を吊る」で、もう1つは「結婚する」となっている[4]。クリスティはこれを利用して、自身が手がけた戯曲では小説と異なり生存者が存在する結末になっている。舞台で登場人物すべてを殺すのはまずいとの配慮で結末が変更されたとされている。映像化された作品も戯曲版を基にしている。
戯曲では最後に残ったヴェラに対して首吊りロープを準備したウォーグレイヴ判事が犯人として登場し、ウォーグレイヴ判事がヴェラに対して愛していたロンバートを殺害した罪悪感を盾に自殺を促すが、ヴェラに銃で撃たれたはずのロンバートが実は銃で撃たれておらず生きたままでウォーグレイヴ判事の目の前に現れ、ウォーグレイヴ判事は計画の失敗を悟り、ヴェラとロンバートは生存するストーリーになる。
登場人物
招かれた10人
- ヴェラ・エリザベス・クレイソーン
- 秘書・家庭教師を職業とする娘。
- 謎の声によると、家庭教師をしていた病弱な子供に、泳げるはずのない距離を泳ぐことを許可して溺死させた。
- フィリップ・ロンバート
- 元陸軍大尉。
- 謎の声によると、東アフリカで先住民を見捨てて食糧を奪い、21人を死なせた。
- ウィリアム・ヘンリー・ブロア
- 元警部。
- 謎の声によると、偽証により無実の人間に銀行強盗の罪を着せて、死に至らしめた。
- ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ
- 高名な元判事。
- 謎の声によると、無実の被告を有罪にするように陪審員を誘導して、死刑判決を出した。
- エミリー・キャロライン・ブレント
- 信仰のあつい老婦人。
- 謎の声によると、使用人として使っていた娘に厳しく接し、その結果自殺させてしまった。
- ジョン・ゴードン・マカーサー
- 退役した老将軍。
- 謎の声によると、妻の愛人だった部下を故意に死地に追いやった。
- エドワード・ジョージ・アームストロング
- 医師。
- 謎の声によると、酔ったまま手術をして患者を死なせた。
- アンソニー・ジェームズ・マーストン
- 遊び好きで生意気な青年。
- 謎の声によると、自動車事故で2人の子供を死なせた。
- トマス・ロジャース
- オーエンに雇われた召使。
- 謎の声によると、仕えていた老女が発作を起こしたときに、投与すべき薬を投与せず死なせた。
- エセル・ロジャース
- オーエンに雇われた召使で料理人。
- ロジャースの妻。謎の声によると、ロジャースと同じく、発作を起こした老女を助けようとせず死なせた。
その他
- オーエン夫妻
- インディアン島の持ち主。召使のロジャース夫婦を含めて招かれた10人は会ったことがない。
- 夫は Ulick Norman Owen (ユリック・ノーマン・オーエン)、妻は Una Nancy Owen (ユナ・ナンシー・オーエン)と名乗って招待状の差出人になっている。略すとどちらも U.N.Owen 、UNKNOWN (何者とも判らぬ者)とかけられている。
- アイザック・モリス
- 数々の悪事に手を染めているが、決して尻尾はつかませない狡猾な男。オーエン夫妻の代理として、インディアン島の売買や管理を手配していた。そのためロンドン警視庁は事件発覚後もオーエン夫妻の正体を解明することができなかった。
- 10人がインディアン島に集められた日に別の場所で死亡していたことが、後に明らかになる。
- フレッド・ナラカット
- インディアン島への船を操縦した人物。食事等も彼が運んでくる予定であったが、結局姿を現さなかった。
- トマス・レッグ卿
- ロンドン警視庁副警視総監。この事件の担当者。エピローグにて事件を総括する役割を持つ。
解説
本作はクローズド・サークルの代表作としてよく挙げられる。また、同じくクリスティの代表作である『アクロイド殺し』のように叙述トリックの要素が用いられている。本作は第三者視点で描かれ、さらに登場人物の心中も直接明らかにされるが、この中でウォーグレイヴ判事の(その偽装死も含めた)描写は、巧妙な文章によって読者が誤解を招くように表現されている(翻訳版に関しては訳の問題上この限りではない)。
最後にウォーグレイヴ判事が挙げる3つのヒントの1つ燻製にしん (Red Herring)には、「人の気をそらすもの」という意味がある。すなわち、アームストロング医師は誰か(当然、犯人)に欺かれたという意味を持つ。また、同じくヒントの1つ「カインの刻印」とは、旧約聖書に登場する「カインとアベル」のカインが、神に付けられた印のことである。これは神が、カインが誰からも殺されないように付けたものであり、すなわち、ウォーグレイヴ判事は誰からも殺されない(自殺である)という意味である。
登場する童謡はマザーグースの1つとして分類されるが、大元の "Ten Little Niggers" はイギリス人のフランク・グリーンが1869年に作った作品であり、 "Ten Little Indians" はアメリカ人のセプティマス・ウィナーの作詞・作曲による1868年の作品 "Ten Little Injuns" (テン・リトル・インディアンズ)に由来し、それぞれの童謡の作者が明らかなため厳密にはマザーグースではないという見方もある[5][6]。
差別用語の改編と改題
1939年の発表当時の原題は "Ten Little Niggers" (10人の小さな黒んぼ)であった。これは作中に登場する童謡を暗示したものである。しかし、Nigger (ニガー)は、アフリカ系アメリカ人に対する差別用語であったため、米版では "And Then There Were None" (そして誰もいなくなった)と改題して発行された。後に英版も "And Then There Were None" と改題される。なお "And Then There Were None" とは、鍵となる童謡の歌詞の最後の一文である。
また米版は発行にあたって、話の鍵となる童謡 "Ten Little Niggers" も "Ten Little Indians" (10人のインディアン)に改編されており、中身も黒人の少年からインディアンの少年に改編されている。同様に舞台となる島の名前も "Nigger Island" (ニガー島、または黒人島)から "Indian Island" (インディアン島)へと変更された。それに合わせて、タイトルも "Ten Little Indians" としたものが発行され、映像化もされた。なお、日本の清水俊二訳クリスティー文庫版では米版に準じており、歌の名前は「10人のインディアン」であり、島の名前もインディアン島である。
また、インディアンも差別用語であるため、近年、英米で発行されている物は童謡が "Ten Little Soldiers" (10人の子供の兵隊)と改編されている物もある。
映像化作品
映画
- And Then There Were None (そして誰もいなくなった、アメリカ、1945年)
- Ten Little Indians (姿なき殺人者、イギリス 1965年)
- Ten Little Indians (そして誰もいなくなった、1974年)
- Десять негритят (10人の小さな黒人、ソ連、1987年)
- Death on safari (サファリ殺人事件、アメリカ、1989年)
テレビドラマ
日本語版
- そして誰もいなくなった(清水俊二訳) 早川書房(ハヤカワ・ポケット・ミステリ196)、1955年6月
- 世界ミステリ全集 1 アガサ・クリスティー 早川書房(『そして誰もいなくなった』清水俊二訳の他『愛国殺人』『フランクフルトへの乗客』を収録)、 1972年2月
- そして誰もいなくなった(清水俊二訳) 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)、1976年4月
- そして誰もいなくなった(清水俊二訳) 早川書房(ハヤカワ文庫クリスティー文庫)、2003年10月
- そして誰もいなくなった(青木久恵訳) 早川書房(クリスティー・ジュニア・ミステリ 1)、2007年
- そして誰もいなくなった(青木久恵訳) 早川書房(ハヤカワ文庫クリスティー文庫)、2010年11月
『死人島』(清水俊二訳)という邦題で1939年に雑誌『スタア』に連載されたのが初訳である。その底本は単行本ではなく、雑誌(サタデイ・イヴニング・ポスト)と考えられる。
戯曲版
- そして誰もいなくなった(福田逸訳) 新水社、1984年1月
関連書籍
- 『本棚のスフィンクス 掟やぶりのミステリ・エッセイ』直井明、論創社 - 当作品のプロットについて、詳細に分析した文章が収録されている。
影響を受けた作品
本作に影響を受けた主な作品を、以下に年代順に記述する。
- 『ダブル・ダブル』(エラリイ・クイーン、1950年)
- ライツヴィルで「金持、貧乏人、乞食に泥棒、お医者に弁護士、商人、かしら(チーフ)」とマザー・グースの唄[8]の順に発生した連続殺人の謎を、探偵・エラリイ・クイーンが解き明かす。
- 作者は1930年代後半に童謡殺人をテーマとした長編作品の構想を描いたが、たまたま本作と同じプロットであったため執筆を中断せざるを得なくなった[9]。その後、複数のマザー・グースを扱った『靴に棲む老婆』(1943年)を執筆した後、ようやくこの作品で本作同様1つの童謡の歌詞の順に起きる連続殺人の作品を執筆するに至った。
- 鬼首村で手毬唄の順に起きた連続殺人の謎を金田一耕助が解き明かす。
- 童謡殺人という点で『獄門島』ではまだ物足りなさを感じていた作者が、深沢七郎の楢山節考を読んで童謡の創作を思いつき、手毬唄を創作して執筆した作品[10]。
- 『殺しの双曲線』(西村京太郎、1971年)
- 都内で双生児による連続強盗が頻発する一方、ホテル「観雪荘」の主人から招待された6人の見知らぬ男女が積雪に閉ざされた中、順に殺されていく。そして1人殺されるごとにボーリングのピンが減っていく。
- 双生児の入れ替えがメイントリックであることを、作品の冒頭で作者自身が明らかにしている。
- 『一、二、三 - 死』(高木彬光、1973年)
- 登場人物の1人にドイツ語で “EIN,TWEI,DREI - TOD” (一、二、三 - 死)と記された手紙が届けられ、それを機に「鬼の数え歌」[11]の歌詞の順に起きた連続殺人の謎を、謎の名探偵・墨野隴人(すみのろうじん)が解き明かす。
- 作品中で、童謡殺人を扱った推理作品の例として『僧正殺人事件』と本作が挙げられている。
- 『「そして誰もいなくなった」殺人事件』[12](イヴ・ジャックマール&ジャン・ミシェル・セネカル、1977年)
- 「そして誰もいなくなった」の舞台を上演中のパリのジェラール座で、遅れて楽屋に入った主人公以外の役者9人全員と、もう1人正体不明の人物が殺されていた。
- お互いを「エラリイ」「アガサ」「カー」など有名推理作家の名前で呼び合う推理小説研究会の一行7人が角島と呼ばれる孤島を訪れ、島の唯一の建物「十角館」で次々と殺されていく。
- 『そして誰かいなくなった』(夏樹静子、1988年)
- 沖縄を目指す豪華クルーザーのインディアナ号に正体不明のオーナーから招待された5人の見知らぬ男女が、2人のクルーとともに謎のテープにより告発され1人ずつ殺されていく。そしてそのたびに、彼らの干支の置物が消えていく。
- 最後の1人となった主人公のために本作同様、首吊りロープが用意されるが、犯人の思惑どおりになるのを嫌った主人公は自ら海に飛び込む。
脚注
- ^ 詳しくは#差別用語の改編と改題を参照。
- ^ 1971年の投票は『ゴルフ場の殺人』(創元推理文庫、1976年)巻末解説を、1982年の投票は乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10(6)『アクロイド殺害事件』(集英社文庫、1998年)巻末解説を、各参照。
- ^ 作者作品では他に、12位に『アクロイド殺し』、19位に『検察側の証人』、41位に『オリエント急行の殺人』が選出されている。
- ^ 田中潤司は『マザー・グースのうた』第5集(谷川俊太郎訳 草思社 1976年)の付録のエッセイ「推理小説とマザー・グース 2 -クリスティのこと― 」の中で、マザー・グースの研究書のたいていの本には「結婚して誰もいなくなった」の歌詞の方が掲載されていることから、最後の1人が「首を吊る」という歌詞はクリスティの創作ではないかという疑問を呈している。
- ^ マザーグースは原則として作者不詳の伝承童謡であるが、現実としてこの童謡は他にも作者が明らかな「きらきら星」などと合わせて多くのマザーグース集成本に採用されている。
- ^ 平野敬一著『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』(中公新書、1972年)の中で「作者や発表時期がはっきり確認できる比較的新しい作品のいくつかが、伝承童謡の仲間入りをしている」と記され、この童謡がその1例として紹介されている。
- ^ 『真説 金田一耕助』(横溝正史著・角川文庫、1979年)参照。
- ^ 作中で歌われているのはアメリカの歌詞であり、イギリスでは歌詞が異なり「鋳かけ屋、仕立て屋、兵隊、船乗り、金持ち、貧乏人、乞食、泥棒」と歌われる。
- ^ 『ダブル・ダブル』(エラリイ・クイーン著・ハヤカワ文庫、1976年)の巻末解説参照。
- ^ 『悪魔の手毬唄』(横溝正史著・角川文庫旧版、1971年)の大坪直行による巻末解説、および『横溝正史読本』(小林信彦編・角川文庫、2008年改版)参照。
- ^ 作品中では、明治の中ごろまで四国の田舎に残っていた「悪党の数え歌」「鬼の数え歌」などと言われるものだと説明されている。
- ^ 『11人目の小さなインディアン』の改訳題。