世良公則&ツイスト

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世良公則&ツイスト
基本情報
ジャンル ロック
活動期間 1977年 - 1981年
レーベル ヤマハ音楽振興会
メンバー
世良公則(ボーカル)
ふとがね金太(ドラム)
鮫島秀樹(ベース)
神本宗幸(キーボード)
松浦善博(ギター)
旧メンバー
大上明(ギター)
太刀川紳一(ギター)

世良公則&ツイスト(せらまさのりアンドツイスト)は、世良公則を中心に結成された日本ロックバンド。後にツイストに改名した。ロックをメジャーに押し上げた最初のロックバンドである[1][2][3]

来歴[編集]

アマチュア期[編集]

バンドの前身といえるのは、世良が福山市の高校時代に加入したFBIバンドである[4]。このバンドがブルース志向だったため、当時ブルースが盛んだった大阪にメンバー全員で進学、同時にバンド名を"ツイスト"に変更した[5]。在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受け、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代[4][6]1977年、メンバーの大学卒業、バンドの解散のけじめに出場したヤマハポピュラーソングコンテストポプコン)に出場[7]。この際、メンバーで唯一プロを目指す世良に少しでも役立ててもらおうと"世良公則&ツイスト"にバンド名が変更された、と書かれた文献もあるが[8]、世良自身は後述する新規メンバーでプロデビューした時、大学時代のバンド"ツイスト"と差別化するために、敢えて"世良公則&ツイスト"としてデビューしたと話している[4]。 

世良公則&ツイスト期[編集]

1977年10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得。フォーク系シンガーが多かったポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのも初めての事で、これもひとつの"事件"だった[9]。世良公則&ツイストのグランプリ以降、ロック系の楽曲が増えた[10]。世良公則&ツイストがこの後、大きな人気を得たことで、ポプコンの名が世間に知らしめられ[11]、ポプコンはスターの登竜門として華々しくなっていった[12]。11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)からシングル版『あんたのバラード/世良公則&ツイスト』を発売した。予想してなかった両コンテストのグランプリに、メンバーの中でやっぱりプロでやりたいと言う者が出てきた。このメンバーでグランプリを獲ったので、このままこのメンバーで続けても問題はなかったのだが、それでは世良に都合が悪かった。と言うのは、既に解散を決めていたため、コンテスト終了後は、大学の同級生で別バンドにいて仲の良かったふとがね金太と新バンドを結成しようと約束していたからである[13]。結局、世良はふとがねとの約束を守り、バンドは予定通り解散させ神本宗幸[注釈 1]を残し、ふとがねと新メンバーを急ぎ探した。これは世界歌謡祭グランプリ歌手は「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)に出演するという慣例があって、出演が決まった1978年1月9日まで間が無く急ぐ必要があったためである[14]。結局、ふとがねの金太バンドにいた大上明と、関西で名前が知られていた鮫島秀樹、太刀川伸一を勧誘して1977年12月21日、新メンバーで"世良公則&ツイスト"を「結成」した[15]。このメンバーが、一般に知られる"世良公則&ツイスト"となる。こうした事情で、シングル『あんたのバラード』の演奏は、一般に知られるこのメンバーではなく、旧ツイストのメンバー(創始メンバー、Mas Sawadaら)によるものである[5][16]。このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べている[2][5]。「夜のヒットスタジオ」出演後、ヤマハのプロデューサーから勧誘を受け1978年2月に上京し正式にプロデビューとなった[17][18]

セクシーな世良のボーカルスタイルは高い人気を得て[7][19]、デビューシングル「あんたのバラード」(オリコン最高6位)、「宿無し」(最高3位)、「銃爪 (ひきがね)」(最高1位)、「」(最高5位)、「燃えろいい女」(最高3位)と、立て続けに大ヒットを飛ばし一気にスターダムにのし上った。ロックバンド・ミュージシャンが、シングルヒットを続けるのはそれまで前例が無かった[20]。また1978年7月10日に発売したデビューアルバム『世良公則&ツイスト』はオリコンで1位を記録、日本のロックバンドとしては、デビューアルバムが、チャートの1位を記録したのはこのアルバムが初めてであった[20][21]

世良公則&ツイスト、Char原田真二の三組は「ロック御三家」と呼ばれ[22]、それまでの日本のロックミュージシャンと違い、初めて『ザ・ベストテン』などのテレビのランキング番組や歌謡番組、「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した[2][23][24][25][26][27]。これがロックとは無縁だったファンを獲得することとなり、それまでのロックバンドにはなかった女性ファンを開拓して、新たな潮流を生み出すきっかけを創り出した[25][28]。日本語でロックできるアーティストがブラウン管に出てきたことは、日本のミュージック・シーンにとって大きな衝撃だった。ロックをお茶の間に持ち込んだのが彼ら「ロック御三家」だった[27][29]。「ロック御三家」のコンサートでは観衆の圧倒的多数は少女で占められた[30]。「ロック御三家」の出現以降、ミーハー向けの雑誌に、かなり専門的な音楽用語が増えた[31]野口五郎がミュージシャンと言い始めたのは「ロック御三家」登場以降のこと[31]Charは「俺たちがテレビに出たのが良かったのか悪かったのかは分からないが、要はロックはビジネスになって結果、他のジャンルの音楽と同じヒットチャートに入ってくるようになった」と述べている[32]

特に活躍が目立ったのが1978年1月から始まった『ザ・ベストテン』。社会的にも影響力の大きかった当番組に於いて、全盛期の沢田研二山口百恵西城秀樹ピンクレディーら、歌謡曲の大スターを抑えて、初年度のシングル・年間第1位(「銃爪 (ひきがね)」)、年間第3位(「宿無し」)を獲得[33]。特に3枚目のシングル「銃爪」は1978年の9月から11月まで同番組で10週連続1位と、3ヶ月の間1位に居座り、レコード売上げも94万枚に達した[7]。『ザ・ベストテン』10週連続の1位は、「ルビーの指環」(寺尾聰)12週連続に次ぐ歴代でも2位となる。同じヤマハ所属の中島みゆきは、頑なに当番組に出演しなかったが、世良公則&ツイストは積極的に出演した[23]。画面からはみ出す程のイキのいいパワーが、視聴者を魅了した[23]。『ザ・ベストテン』は、ニューミュージック系歌手の曲を紹介するというコンセプトで始まった番組であったため[34]、番組立ち上げ期に彼らの出演がなければ『ザ・ベストテン』が伝説になることはなかった。番組プロデューサー・山田修爾は、「間違いなくツイストは『ザ・ベストテン』初期の功労者のひとりである」と述べている[23]

「ロック御三家」のうち最初にテレビに出始めたのはCharであったが[注釈 2]、女子中・高生を中心に爆発的人気を得たのは、1977年10月にデビューした原田真二と翌11月にデビューした世良公則&ツイストであった[27][35]。特に1978年後半には、世良公則&ツイストは人気やレコードセールスの点では完全に他の二人に水をあけ、歌謡曲を含めてもトップスターになった[35]。当時の音楽誌は「いまようやく、日本のロックは世良公則&ツイストの手で、メジャーになろうとしている」と書いた[36]

歌謡曲ニューミュージックの全盛期に於いて「ロックも売れる」ことを初めて証明したバンドであった[7][37]。ロックの楽曲が最初に売れたのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのシングル「スモーキン・ブギ」(発売は1974年12月[注釈 3])、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年6月[38])であるが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド自体が"ロック"として見られておらず(宇崎竜童[39])、また当時は歌謡曲演歌フォークが強く、他にロック系の後続がなくロックはメジャーにならなかった[40][注釈 4]

"ロックのメジャー化"は、最も商業的に成功した世良公則&ツイストを筆頭とした「ロック御三家」と、マスメディアを拒否しながら、1978年に出したシングル「時間よ止まれ[41]と2枚のアルバム「ゴールドラッシュ」[42]、「LIVE後楽園スタジアム」[43]を全てヒットチャート1位にし、自伝本『成りあがり』のベストセラー長者番付でロック系ミュージシャンとして初めて1位となった矢沢永吉[27][44]や、「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れで世に出たサザンオールスターズ[注釈 5]、この年の年末から翌1979年にかけて大ヒットを出したゴダイゴ[注釈 6]甲斐バンド[注釈 7]ら、この時代誰も予想だにしなかったロック系のヒットラッシュからで、これらの大ヒットは音楽マーケットに大きな革命を起こした[3][11][27][20][45]。但し前記のように"日本のロック"は「世良公則&ツイストがメジャー化した」とする文献[46]や、「ロック御三家」が「日本のロックをメジャーに押し上げた」とする文献もある[47][注釈 8]

またバンドの形態という意味でも大きな功績を残している。基本的に楽器を持たず、ボーカルに徹する強力なボーカリストをフロントに立てるバンドスタイルは、ツイスト以降、甲斐バンド、ゴダイゴ、RCサクセションらが商業的に成功した事で、日本のロックバンドの一形態を作った。これは現在も売れるバンドの常套手段となっている。ツイストらが興したロックのメジャー化は、後のロック・バンドへも多大な影響を与えることになった[26][48]

なぜこの時期、日本のロックが売れたかと言えば、「ロック御三家」が出る前、1976年から1977年にかけてベイ・シティ・ローラーズキッススージー・クアトロランナウェイズら、英米のロックバンド・ミュージシャンが日本で売れて、日本のマスメディアにも大量露出した。スージー・クアトロは「サケロック大関」と日本酒のテレビCMもやった。こうした影響もあったかもしれない[49]

ツイスト期[編集]

1978年9月、大上が体調不良により休養。デビュー時から世良の人気が突出し、バンドながら雑誌類では世良一人での露出も多かった。大半の楽曲も世良が手掛けていたため、世良だけが注目されて、リーダーはふとがねというのも忘れ去られ、他のメンバーはただのバックバンドとして見られるようになってしまった。このため、バンドの結束を危惧した世良自身がバンド名から世良の名を外すとメンバーに提案し"ツイスト"に改名した[50]

この1978年暮れの「第20回日本レコード大賞」は最優秀新人賞が本命視されたが、スケジュールの都合との理由でノミネートを辞退した[51]。それまでもニューミュージック系歌手のテレビ拒否は珍しくなかったが、賞レースに関しては出演はしないまでも賞自体は受けていた。ましてやブラウン管でおなじみのツイストが賞レースを拒否したことは大きな物議を醸した[52]。 但し、同年の「第29回NHK紅白歌合戦」には出演した。全員初出場だったツイストやさとう宗幸原田真二渡辺真知子サーカス庄野真代の紅白六組は「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナーの括りのなかで続けて歌った後、ステージの上で一列に整列し、審査員の講評を受けるという前例のない非常に混沌としたステージをやった[53]ニューミュージックという言葉の意味、特にその範囲については多くの議論があるが、最もニューミュージックという言葉が盛んに使われた1970年後半の紅白歌合戦に於いて、"ロック"御三家と呼ばれたツイストと原田真二が"ニューミュージック"コーナーで歌ったということは、世間一般の当時の認識では、"ロック"は"ニューミュージック"に含まれていたということを意味する。また、その他の四組の顔ぶれをみても"ニューミュージック"は、かなり広いジャンルを包括したものと認識されていたのである。この年の紅白はピンク・レディーの出場辞退、続いて美空ひばりの「紅白は卒業しました」発言、更に紅白出場歌手発表日が江川卓の電撃的巨人入団と重なって吹き飛ばされるなど非常に混乱をきたした。

1979年、春の全国ツアー終了後、太刀川が脱退し松浦善博が加入。 1979年4月に出した二枚目のアルバム『ツイストII』もオリコン1位を獲得(二週連続)。資生堂の'79 夏キャンペーンイメージソング「燃えろいい女」(1979年4月発売、最高位3位)も大ヒット、SOPPO(1979年10月発売、最高位6位)もヒットし、この年の第30回NHK紅白歌合戦にも出場した。「ロック御三家」で二年連続出場したのはツイストだけで、この年、いずれも初出場だったサザンオールスターズ、ゴダイゴと共に出場。ロック系歌手の出演はこの三組だけであった。

ただツイストがコマソンをやったことは、ポリシーを持ってやってると思っていたファンのイメージを下げた[54]。当時はロックミュージシャンがCMをやると「商業ロック」「産業ロック」などと批判される時代であった。

1980年1月、それまで所属していたヤマハから独立し、個人事務所・MRT(ミュージシャン・レヴォリューション・トレイン)を設立した。ヤマハから独立したアーチストで成功例がないため不安視されたが、やはりその後、セールスは下降していった[55]。当時のテレビ局は、出演の機会を与える見返りとして、そのかわり売れたら協力してくれという暗黙の条件が含まれていた[56]。賞レースの季節になると所属事務所は、そのことで毎月10日はテレビ局と喧嘩していたといわれる[56]。ツイスト同様、2年目に各局の音楽祭に出る出ないで揉めたサザンオールスターズの所属したアミューズでさえ、当時テレビ局に潰されるのではと噂が出たほどである[56]。個人事務所を立ち上げて人気を維持させるのは難しかった。また、世良が高校時代の同級生と婚約を発表したことも大きな影響があった[57]。同年の「LOVE SONG」が最後のチャートイン曲となり、1981年12月25日に解散した。ベーシストの鮫島は解散後、いくつかのバンドを経てHOUND DOGに加入している。

メンバー[編集]

以下は1981年の解散時メンバー

以下は途中脱退メンバー

  • Mas Sawada(ドラム)※前身のFBIバンド時代からのメンバー
  • 大上明(ギター)※脱退後も『BEST&LAST』及び『ROUND2』の制作に参加
  • 太刀川紳一(ギター)

以下は準メンバー、サポートメンバー

世良、ふとがね、鮫島、大上はともに大阪芸術大学の卒業生である。

作品リスト[編集]

シングル[編集]

作詞、作曲は世良公則(「身に覚えは」の作詞・作曲はふとがね金太)。

  1. あんたのバラード (1977年11月25日)
    • 最高位こそ6位だがロングセラーとなる。
  2. 宿無し (1978年4月10日)
    • 50万枚を超す大ヒット。
  3. 銃爪 (ひきがね) (1978年8月10日)
    • ツイスト最大のヒット曲、No.1を獲得。
  4. (1978年12月21日)
  5. 燃えろいい女 (1979年4月5日)
    • 資生堂 '79 夏キャンペーン イメージソング
  6. SOPPO (1979年10月21日)
  7. LOVE SONG (1980年2月21日)
    • 日本航空 '80 沖縄キャンペーン イメージソング
  8. 身に覚え (1980年7月5日)
  9. レイディ (1980年11月21日)
  10. 恋のコレクトコール (1981年4月5日)
  11. SET ME FREE (1981年11月21日)

「性」からはツイストに改称。

アルバム[編集]

  1. 世良公則&ツイスト (1978年7月10日)
  2. ツイストII (1979年4月21日)
  3. The Heart Rock Party (1980年4月21日)
  4. TWIST ALIVE (1980年12月5日)
  5. Hip!! (1981年5月5日)
  6. BEST&LAST (1981年12月5日)
  7. ROUND 2 (1993年7月25日)
  8. LIVE BEST '93 (1993年7月25日)
  9. Live at Chicken George '96 (1996年11月25日)
    • 2枚組の一般発売版。1枚でジャケット別仕様のものがファンクラブ限定通販にて先行発売。

「ツイストII」からはツイストに改称。

ビデオ/DVD[編集]

  1. TWIST MY BEST (1981年) 1980年9月14日大阪万博広場でのライブを収録。
  2. よっしゃ。 (1993年) 1993年5月22日NISSIN POWER STATIONでのライブを収録。

再結成[編集]

1981年の最初の解散後、何度か再結成をしている。

  • 1987年7月16日に『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に登場し、「性」を演奏。
  • 1987年8月5・6日に広島ピースコンサートの2日目に1日限定で出演。この中から「宿無し」がV.A.ライヴアルバム『ALIVE HIROSHIMA'87』に収録。
  • 1993年には本格再結成して新作オリジナルアルバム発売とツアーを開催。ライブDVDも発売。
  • 1996年5月16、17、18日に神戸のライヴハウス「チキンジョージ」でライブを敢行。ライブCDを発売。
  • 1999年5月4日に日比谷野外音楽堂でのイベント・MUSIC DAYに出演。
  • 2003年には世良公則がツイストのカヴァーアルバムをリリースするのに合わせ、鮫島、神本のツイストメンバーに外国人ミュージシャンを加えた「MR.SERA+TWIST INTERNATIONAL」を立ち上げ、日本武道館などでライヴを行う(鮫島のサポートとしてベーシストの櫻井哲夫もゲスト参加)。
  • 2007年に「世良公則&TWIST INTERNATIONAL」名義のアルバム『JACARANDA』をリリース。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 神本はメンバーと同じ福山市の出身だが、大阪時代から加入したメンバーで学年も二年下。神本にはバンドを辞める理由がなかった。
  2. ^ Charのデビューは1976年6月の「ネイビー・ブルー」だが、テレビに出始めたのは翌、1977年6月の自作曲でない阿久悠とのコラボレーション「気絶するほど悩ましい」発売以降(『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』 1996年 ミュージック・マガジン 164、165頁、ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1999年 音楽出版社 51、84頁)。Charは曲が大ヒットしたとは言えず(気絶するほど悩ましい、オリコン最高位12位)、1978年初頭から始まった『ザ・ベストテン』でもCharは一度もランク入りすることはなく(スポットライトで1度出演)、1978年12月、麻薬問題で活動を一時休止しマスメディアから消えた(翌1979年活動再開)(『日本ロック大系』〈上、下巻〉417頁)
  3. ^ オリコン最高位4位。当時はオリコンの知名度はあまり高くなく、オリコン以外にミュージック・リサーチとミュージック・ラボという調査会社もあって(参考:『ホットドッグプレス講談社 1980年2月号、103頁)例えば『ザ・ベストテン』のレコード売り上げもこの三社の結果を集計したものだった。従ってレコードの売り上げは三社で異なるが、ミュージック・リサーチとミュージック・ラボの過去順位を、現在調査するのは困難なためオリコンの順位を掲載することとなる。
  4. ^ ダウン・タウン・ブギウギ・バンド以前のはっぴいえんどキャロルは、現在"日本のロックの祖"として評価されることが多いがレコードは売れなかった(『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』、168頁、キャロル最大のヒット曲「ファンキー・モンキー・ベイビー」最高位57位、8万枚)。はっぴいえんどが音楽的に評価され始めたのは何10年も後、元メンバーのそれぞれの活躍が目立って昔、日本語でロックをやっていたバンドということで評価されるようになった(『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』200頁、細野晴臣・鈴木惣一郎著『分福茶釜』2008年、平凡社、55-57頁、『証言!日本のロック』 アルテスパブリッシング 2009年 120頁)
  5. ^ サザンオールスターズがデビューしたのは1978年の6月で、原田真二がアミューズを辞めて同社の所属タレントが0になったため、代わりに売り出されたスターだが(Musicman-NET アミューズ 大里洋吉インタビュー別冊宝島1548号 音楽誌が書かないJポップ批評54、p20、21、35、36)。サザンオールスターズはデビューして2ヵ月鳴かず飛ばずで、7月31日の『夜のヒットスタジオ』でのブラジル人ダンサーを加えた派手な演出や、初年度の『ザ・ベストテン』が解散に向かうキャンディーズを全国に追いかけるというのがの目玉の一つだった関係で、同番組のプロデューサー・弟子丸千一郎と大里洋吉が旧知の間柄だったため、サザンオールスターズをライブハウスから中継の形で「スポットライト」(1978年8月31日)に登場させて売り出した。サザンオールスターズは「ロック御三家」と同様、テレビを有効に活用して売り出したスターでもあった(烏賀陽弘道著 『Jポップとは何か』 岩波書店、2005年、79-80頁、北中正和著 『にほんのうた 戦後歌謡史』 新潮社、1995年、198頁、北中正和著 『Jポップを創ったアルバム』 平凡社、2008年、142頁、『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1』、21頁、『別冊太陽 日本のロック』110頁、『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』、370-379頁)。桑田佳祐自身、「テレビやラジオに特別恩恵を受けた世代」と述べている(SWITCH special issue 桑田佳祐 2007-2008、2008年3月43頁)。デビュー曲「勝手にシンドバッド」が大ヒットしたのは同年の秋のこと(10月9日付、最高位3位)。前述のようにこの時期は、世良公則&ツイストの「銃爪(ひきがね)」が『ザ・ベストテン』の10週連続1位に居座っていた時期でもあり、サザンオールスターズが世に出たのは歴史的に見れば「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れとなる。Charがマスメディアから消えた代わりに「ロック御三家」に入ってきた形となったのがサザンオールスターズで、"ロックのメジャー化"ということで言えば、サザンオールスターズが世に出た時には、既にロックはメジャー化していた、と見ることも出来るのである サザンオールスターズのデビュー時の担当ディレクターだった高垣健も「サザンオールスターズのデビュー当時は、日本のロックポップスがビジネスになり始めた時期だった」と証言している(Musicman-NET
  6. ^ ゴダイゴが売れたのは1978年10月1日に発売した(大ヒットしたのは1979年、最高位2位)「ガンダーラ」から(ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1999年 音楽出版社 81頁、『別冊太陽 日本のロック』110頁、『日本ロック大系』〈上、下巻〉476、477頁)
  7. ^ 甲斐バンドが売れたのは自身もCMに出演したセイコーのCMソング「HERO(ヒーローになる時、それは今)」の大ヒット(1979年2月26日付からオリコン最高位1位2週連続)から。電通段階では、矢沢永吉、原田真二が先に上がったがメジャーに成り過ぎ等の理由で甲斐バンドの大抜擢になったもの。電通もセイコーも関係者で甲斐バンドを知っている人はほとんどいなかったという(田家秀樹著『ポップコーンをほおばって』 1987年 角川書店 117-122頁)
  8. ^ 長沢ヒロ&HERO インタヴュー これは「ロック御三家」と同時期に活動したロックバンド・「長沢ヒロ&HERO」が1978年、ロック誌に答えたインタビュー。当時いわれた"ロック御三家による日本のロックのメジャー化"について言及している。ドラムス高橋まことは、後にBOØWYに参加する高橋である。

出典[編集]

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    世良公則 カバーアルバム「BACKBONE」MV一般公募企画、優秀作品発表
    おんがく日めくり | YAMAHA
    【1978年10月】銃爪/日本のロックバンドのパイオニア ツイストの最大ヒット曲
    【ヒューマン】世良公則「毎日がセッション」(2/2ページ)
    世良公則、35周年記念カバーアルバムのミュージックビデオを公募
    「生身のロッカーでいたい」 世良公則さんインタビュー 産経新聞 2009年6月2日
    毎日jp - 音魂 第12回 世良公則 日本のロック定着に力を尽くした30年
    世良公則、35周年で初カバー集 モンパチ、尾崎らの名曲歌う
    世良公則がデビュー35周年記念ライブ開催。マーティー・フリードマン、野村義男と競演
    インタビュー | エンタテインメント | マイコミジャーナル
    [対決3] 茶の間にロックの風を吹き込んだ正統派バンド。 | 昭和40年男ゴダイゴ vs 世良公則&ツイスト。3番勝負解説!! | 昭和40年男
    デビュー35周年記念アルバム2タイトル同時発売!!
    世良公則&ツイスト(2):富澤一誠のフォークが好き
    世良公則がデビュー35周年記念ライブ開催。マーティー・フリードマン、野村義男と競演
    HMV 世良公則 / 照
    #358 映画音楽メドレー&ツイスト特集(ツイスト、スペクトラム)
    SERA Project | 世良公則オフィシャルサイト:世良公則
    日本ロック大系〈上、下巻〉 1990年 月刊オンステージ編集部白夜書房 415頁
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    世良公則 うたまっぷ
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    SONGS 第35回 世良公則 - NHKオンライン
    『Media View 1970-1999 売れたものアルバム』 東京書籍、2000年、199頁
    田家秀樹・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠共著『日本のベストアルバム』、シンコー・ミュージック、1992年、p102
  29. ^ 『一九七〇音楽人百科』136、137頁
    [対決3] 茶の間にロックの風を吹き込んだ正統派バンド。 | 昭和40年男
  30. ^ 週刊朝日、1978年6月23日号、142、143頁
  31. ^ a b 『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』、209頁
  32. ^ ギター・マガジン2010年3月号、リットーミュージック、19頁
  33. ^ 『ザ・ベストテン』264、270頁
  34. ^ 『ザ・ベストテン』188-189頁
  35. ^ a b FMfanコレクション 『ニューミュージックの本』 1978年 共同通信社 87、98頁
  36. ^ 『ニューミュージックの本』 75頁
  37. ^ 「生身のロッカーでいたい」 世良公則さんインタビュー 産経新聞 2009年6月2日
    oricon career 私の人生グラフ 時代の最前線にいるあの人の、過去・現在・未来を直撃 ...
    インタビュー | エンタテインメント | マイコミジャーナル
    J-ROCKベスト123 1968-1996 1996年 講談社 158-160頁
    1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック 1994年 学習研究社 129、136、137頁
    世良公則&ツイスト(2):富澤一誠のフォークが好き
    富澤一誠 青春のバイブル 1983年 シンコー・ミュージック 232頁
    ロック・クロニクル・ジャパン vol.1 1999年 音楽出版社 156頁
  38. ^ 6月23日付けから5週連続、オリコン最高位1位。
  39. ^ 『ミュージック・マガジン6月増刊 スペシャル・エディション[パート2] 1974-1977』 1996年 ミュージック・マガジン 324頁
  40. ^ 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』 立風書房 200頁
    『J-ROCKベスト123 1968-1996』 講談社 p158-159
    『別冊太陽 日本のロック』100、105頁
    『J-ROCKベスト123』158-160頁
  41. ^ 1978年6月12日付けから3週間1位。
    【わが社のお宝】時代に残るCMソング by資生堂(2)
  42. ^ 1978年6月12日付けから5週連続1位。
  43. ^ 1978年12月18日付け1位。
  44. ^ 矢沢永吉:富澤一誠のフォークが好き
    『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』200頁
  45. ^ Jロック&ポップスCD名盤ガイド 2001年 立風書房 60、200、237頁
    「生身のロッカーでいたい」 世良公則さんインタビュー 産経新聞 2009年6月2日
    oricon career 私の人生グラフ 時代の最前線にいるあの人の、過去・現在・未来を直撃 ...
    世良公則&ツイスト(2):富澤一誠のフォークが好き
    第64回 79年はロックの夜明け - 富澤一誠の55歳の決心!
    新星堂BLOG:高円寺レコード スタッフBLOG ROCK☆お茶の間に進出
    日本ロック大系〈上、下巻〉 1990年 月刊オンステージ編集部 白夜書房 415-417、505頁
    『別冊太陽 日本のロック』104頁、J-ROCKベスト123』158-160頁、『ニューミュージックの時代』 1993年 シンコー・ミュージック 137-140頁
    別冊宝島1548号 音楽誌が書かないJポップ批評54』、p20、21
    『ロック・クロニクル・ジャパン vol.1』、84頁
    『ロック・クロニクル・ジャパン vol.2』、81-83頁
    『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』60、61、200、237頁、『ニューミュージックの本』、87頁
  46. ^ 『ニューミュージックの本』、75頁
    世良公則&ツイスト(2):富澤一誠のフォークが好き
    毎日jp - 音魂 第12回 世良公則 日本のロック定着に力を尽くした30年
    HMV 世良公則 / 照
  47. ^ 『一九七〇音楽人百科』137頁
    『J-ROCKベスト123 1968-1996』、p159
    織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007
  48. ^ 『一九七〇音楽人百科』136頁
    世良公則、21世紀初のライヴ“GENTLE HANDS 21stc.”目前!
    昭和ジュークボックス【OnGen:国内最大級の音楽ダウンロードサイト】
    HMV 世良公則 / 照
  49. ^ 週刊朝日、1977年6月10日号45頁
    週刊朝日、1977年8月12日号44、45頁
    週刊朝日、1977年10月14日号32-34頁
  50. ^ 燃えろロックンローラー 134、135頁
    ニューミュージックの時代 1993年 シンコー・ミュージック 138、139頁
  51. ^ サンデー毎日、1979年1月7日号123頁
  52. ^ 燃えろロックンローラー 135-137頁
  53. ^ 長谷正人/太田省一 テレビだョ!全員集合 2007年 青弓社 234-235頁
  54. ^ 『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』、377頁
  55. ^ あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人 170-174頁
  56. ^ a b c 『ミュージック・マガジン11月増刊 スペシャル・エディション[パート3] 1977-1979』、378頁
  57. ^ 燃えろロックンローラー 143-151頁
    チャゲ&飛鳥プロジェクト/ヤマハ音楽振興会 PRIDE CHAGE&ASKA10年の複雑Ⅱ 八曜社、1989年、40頁

外部リンク[編集]