紫 (バンド)

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基本情報
出身地 日本沖縄県
ジャンル ハードロック
活動期間 1970年1981年
2000年
メンバー
宮永英一(ボーカル
ジョージ紫(キーボード
RAY (ベース
LEON(ドラム
佐藤圭一(ギター
旧メンバー
下記を参照
  

(むらさき)は1970年に結成された沖縄県ハードロックバンド。沖縄県のロックバンドの草分け的存在である。

目次

[編集] メンバー

1975年から1978年
  • ジョージ紫(キーボード)
  • 宮永英一(ドラム、ボーカル)
  • 城間正男(メインボーカル)
  • 城間俊雄(ベース)
  • 下地行男(ギター)
  • 比嘉清正(リードギター)
2000年から現在
  • ジョージ紫(キーボード)
  • 宮永英一(ボーカル)
  • RAY (ベース(ジョージ紫の長男))
  • LEON(ドラム(ジョージ紫の次男))
  • 佐藤圭一(ギター)

[編集] 来歴

1968年
1969年
  • UCLAを中退し帰還した日系三世比嘉ジョージ(ジョージ紫)がピーナッツに加入し、「ジョージ紫グループ」に再編。ジョージ紫はディープ・パープルに深い影響を受けており、その後のバンドの音楽性を左右する存在となる。メンバーはジョージ紫(key)、城間俊雄(b)、城間正男(vo)、城間勉(g)、ミツル(ds)。
1970年
  • 下地行男(g)が加入、城間勉が脱退。バンド名を「紫」とする。
  • オリジナルメンバーはジョージ紫(key)、城間俊雄(b)、城間正男(vo)、下地(g)。4人の他は様々なメンバーチェンジがあり、サイドギター、サックスパーカッションなどが入ることもある流動的な編成だった。
  • 12月20日コザ暴動
1971年
  • 「万座ビーチ・ロック・コンサート」に出演。しかし、このコンサートでは興奮したファンの一人がピストルを振りかざし、あげく黒人刺殺事件にまで発展するという惨事が発生した。
1972年
  • 5月15日沖縄本土復帰
  • コザのセンター通りにあったクラブ「チャンピオン」にて演奏活動を行う。
1973年
  • 1月、宮永英一(dr)加入。
1974年
  • 1月、宮永が脱退し「コンディション・グリーン」に参加。国吉重敏(dr)加入。
  • クラブ「タイガー」の共同経営者となる。以降はここを拠点にライブ活動を行う。
1975年
  • 4月、宮永が再加入。宮永と国吉のツインドラムスに。
  • 7月、国吉が脱退、比嘉清正(g)加入。
  • ジョージ紫(key)、宮永(dr,vo)、城間正男(vo)、城間俊雄(b)、比嘉(g)、下地(g)の6人編成は1978年まで続く。
  • 8月8日、大阪「8・8ロックデー」に突如ゲストとして登場し、本土上陸を果たす。後にリリースされたオムニバスアルバム「'75 8・8 ROCK DAY LIVE」にそのライブの模様が収録された。
1976年
  • 4月1日にファーストアルバム『MURASAKI』、12月に『IMPACT』を続けて発売。日本のロックバンドのレコードセールスの壁と言われていた[要出典]1万枚を大きく上回る4万枚もの売り上げを記録した。
  • 翌年にかけての北海道から九州にわたるライブツアーを実施。
1977年
  • 「ミュージックライフ」誌77年度の人気投票で国内部門グループ第1位、6人のメンバーも各プレイヤー部門でそれぞれトップランキング入り、2枚のアルバムも3位と5位を受賞。
  • TBSぎんざNOW!」で生演奏を披露。
  • それまで拠点としていたクラブ「タイガー」を閉店。以後はライブハウス「紫」をバンド解散まで経営する。
1978年
  • 全国ツアーの他、5月には12インチシングル『STARSHIP ROCK'N ROLLERS』を発売。
  • 年内にアメリカでのレコーディング、ヨーロッパ各国でのレコード発売が予定されていたが、ジョージ紫、宮永、比嘉の3人が突然脱退を決める。メンバーそれぞれの音楽性の不一致とマンネリが理由とされる[要出典]
  • 9月22日 那覇市民会館でラストコンサートを行う。
    • 城間兄弟と下地が残留、新しいメンバーを迎え紫を引き継ぐ。
    • 宮永はコンディショングリーンに再加入しアメリカ録音のアルバムを発表。
1979年1982年
  • 新メンバーで活動継続していた紫は1981年に解散。
    • 城間正男は「メッツ」というバンドでボーカルをとり、城間俊雄はコザのクラブでを演奏を行う。その後、城間兄弟は紫とは打って変わったAOR系のバンド「ISLAND(アイランド)」を結成。
    • 下地は紫脱退後、音楽活動から離れ、資格をとり就職する。
  • ジョージ紫はアメリカからメンバーを集め1979年に「MARINER(マリナー)」を結成。2枚のアルバムを発表。メンバーのビザの問題があり、翌1980年に解散。同年、現代音楽家、上地昇の交響詩「あけもどろ」の上演に参加。1982年にはテノール歌手大井学とのジョイントで、作曲家宮良長包の作品をアレンジしたアルバム「青い風・沖縄」を発表するなど、沖縄県出身アーティストとの共演によるクラシックと琉球音楽の融合を図る。また1981年には「ジョージ紫&オキナワ」を結成。
  • 宮永は1979年に再結成された「キャナビス」に参加、翌1980年バンド名を「SAN-DIEGO(サンディエゴ)」に改めCBSソニーよりデビュー。その他、テレビドラマ「猿飛佐助」の主題歌製作や、チャーアン・ルイスなど東京での数多いセッション活動、ドラムクリニックなどをこなす。
  • 比嘉は「エナジー」というバンドを結成し、音楽活動をする傍ら、普天間でライブハウスを経営。
1983年
  • 城間兄弟がライブハウス「ISLAND」を開店。
  • 宮永が沖縄県へ戻る。元コンディショングリーンのギター、シンキと「HEAVY METAL ARMY」、後に「EASTAN ORBIT」として2枚のアルバムを発表。
  • 沖縄市で開催された「MURASAKI WHY NOW? Piacefull Love Rock Concert」(第1回ピースフルラブ・ロックフェスティバル)にて一時再結成(ライブの模様は同名タイトルのCDになってビクターより発売)。東京でもライブが行われた。
1984年1993年
  • ジョージ紫&オキナワに宮永がボーカルとして加入。1985年には現「ディアマンテス」のギターであるターボらを加えメンバーチェンジして紫を再結成するが、間もなく解散。
  • 城間兄弟率いるアイランドは1989年に『stay with me』を発表。1993年に発売されたファーストアルバムにはジョージ紫が曲を提供。
  • 宮永は1988年に「ZODIAC」を結成。また、自分のルーツである琉球音楽に傾倒し、ケーシー・ランキンとともにユニット「琉球マジック」を結成。
  • ジョージ紫は1989年にロックオペラ「シャングリラ・琉球」を発表。
  • 1992年に沖縄復帰20周年を記念して東京・BIG EGG CITYで開催された大琉球祭に、下地行男以外のメンバーが紫を再結成し出演。
  • 来沖したイアン・ギランのソロライブの際に前座をつとめた。
1994年
  • ライブハウス「ISLAND」にて、“同窓会”と称して再結成ライブを一夜限りで行う。
1997年
  • 音響の屋嘉部詳が交通事故で死亡。その死を悼み、メンバーは屋嘉部の生前の願いだった紫の再結成をかなえるべく集結し、交通遺児チャリティーというコンセプトで9月28日、宜野湾市野外海浜公園で一夜限りの再結成ライブを行う。その模様はアルバム「BACK TO THE ROOTS」として発売。
1998年
  • 11月22日東京渋谷ON AIR EASTで開催された「THE NIGHT OF OKINAWA HARD ROCK, ROCK'N ROLL WILL NEVER DIE」に出演。
1999年
  • 宮永とジョージ紫を中心に「NEW紫」を結成。メンバーはジョージ紫の長男のレイ(b)、次男のレオン(dr)、比嘉(g)、宮永(vo)、ジョージ紫(key)。
2000年
  • 東北出身のギタリスト佐藤圭一が比嘉の代わりにギターをつとめ、正式にメンバーとして加入。
  • 以降、メンバーはレイ(b)、レオン(dr)、佐藤(g)、宮永(vo)、ジョージ紫(key)という5人編成。
2004年
  • 1月23日、NEW紫は大阪で開催されたハードロックサミットに参加。翌日は佐藤がBOW WOW山本恭司と競演。
2007年
  • 7月8日、沖縄市コザ運動公園野外ステージで開催された「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」(25回記念)にジョージ紫、宮永、下地、比嘉の4人で出演。

現在はコザのライブハウス「7th Heaven KOZA」にて定期的にライブを行う。 ピースフルラブ・ロックフェスティバルにも毎年参加。

[編集] ディスコグラフィ

[編集] 外部リンク