バッシャール・アル=アサド

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バッシャール・アル=アサド
بشار الأسد
Bashar al-Assad

2022年

任期 2000年7月17日 – 現職
副大統領 ファールーク・アッ=シャルア

アティーヤ・アル=アッタール


出生 (1965-09-11) 1965年9月11日(58歳)
シリアの旗 シリア
ダマスカス県
ダマスカス
政党 アラブ社会主義バアス党
配偶者 アスマー・アル=アサド
ハーフィズ・アル=アサドと家族。後列左から二人目がバッシャール、中央が事故死した兄バースィル

バッシャール・アル=アサドアラビア語: بشار الأسد‎, 転写:Bashshār al-Asad, 英字表記例:Bashar al-Assad、1965年9月11日 - )は、シリア医師政治家、第5代大統領(在任2000年 - )、バアス党地域指導部書記長。宗教的にはアラウィー派に属す。前任のハーフィズ・アル=アサド大統領の次男。日本の報道機関ではバッシャール・アサドと表記される。

概要[編集]

ダマスカスで生まれ育ったバッシャールは、1988年にダマスカス大学を卒業。シリア軍軍医として働いた。4年後の1992年、ロンドンに本部を置くウェスタン眼科病院眼科を専門とする大学院に通った。

1994年、バッシャールの兄にあたるバースィルが交通事故で死去したため、再びシリアに帰国。陸軍士官学校に入学し、1998年のレバノン占領に当たった。2000年7月17日、ハーフィズ死去に伴い後継者として政権を世襲、大統領に就任し全権を掌握した。2000~2003年まで、民主主義と政治の透明性を強化する「ダマスカスの春」政策を実行したが、隣国イラクフセイン政権終焉により同政策を終了。ハーフィズ程のカリスマが無く、また経済自由化による貧富の差拡大でアサド政権はみるみる不安定化していった。2005年2月、杉の革命でレバノンからシリア軍を撤退せざるを得ない状況にも追い込まれている。

アサド政権は非常に高度な個人独裁国家であり、全体主義警察国家で特徴づけられている。バッシャールは自らの統治を「世俗的」であると称しているが、さまざまな政治学者や観察者は、アサド政権が国内の宗派間の緊張を利用していると指摘している。シリア内戦までのアサド政権の特徴は、検閲略式処刑強制失踪、少数民族の差別、国家による広範な監視であり、内戦後もその状態を維持し続けている。またグータ化学攻撃を含む戦争犯罪大量虐殺人道に対する罪を犯している。アサド政権を支持する国々は、イラン中国ロシアベネズエラニカラグアスーダン英語版などの新冷戦における「東側」であり、アメリカをはじめとする西側諸国から孤立している。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ハーフィズ・アル=アサド大統領の次男としてダマスカスに生まれた。幼少の頃に父がクーデターでシリアの全権を掌握するなど、政治は常に身近な所にあったが、兄弟や姉と異なり本人は政治や軍事への関心は少なく、控えめで穏やかな人間として育ち、父とは政治の話をしたことがなかったという。

学校時代は優秀で模範的な生徒だった。ダマスカス大学医学部を卒業後は軍医として働いた後、1992年に英国に留学、ロンドンのウェスタン眼科病院で研修していたが、当時も政治への関心は人並み程度だった。なおこの頃、後の妻アスマー・アル=アサドと出会っている。彼女は英国で生まれ育ったスンニ派シリア人で、ロンドン大学キングス・カレッジを卒業後JPモルガン英語版の投資銀行部門でM&Aを手がけるキャリアウーマンだった。ファッション誌『ヴォーグ』では、「優雅で若く、同国の改革の象徴」などと紹介され、英王室ダイアナ元妃になぞらえ、「中東のダイアナ」とまで称賛された。記事のタイトルには「砂漠のバラ」と冠されている[1]

後継者へ[編集]

一族で後継者とみなされていたのは、兄でハーフィズ・アル=アサドの長男にあたるバースィル・アサドであった。しかしバースィル少佐が交通事故で事故死したことから、やむを得ず留学を中断、シリアに帰国して後継者となった。このことに関する2つの逸話として、父ハーフィズに電話で「バースィル兄さんが志した道を歩む」と後継者になる決意を述べた。あるいは、周囲の親しい人々には「別に大統領になりたいわけでは無い」とも語ったとされる。また帰国時にマスコミに対しては「医者と違って政治家は血が流れないから楽だよ」というジョークで応じていた。

権力の掌握[編集]

しかし、すでに職業軍人として活躍していた父や兄に対して、眼科医のバッシャールに国を率いるだけの能力があるのか疑問視された。それでも医務局付き大尉の肩書を持ち、軍医としての軍務経験を持っていたので、帰国後は再度シリア陸軍の軍務に付き、ホムス士官学校・機甲師団局での勤務を経て1994年よりダマスカスの軍事高等アカデミー参謀コースで学ぶなど、高級軍人としてのキャリアを歩むようになった。その終了後は機甲師団司令官に昇進、1995年1月には少佐に、1997年には参謀本部付き中佐に、1999年1月に同大佐に昇進した。

また、兄の権力基盤だった共和国防衛隊の実質的な指揮権を掌握し、さらに政治実績を積むためにレバノン問題担当大統領顧問として、同国の親シリア派政治家であるエミール・ラッフード大統領の就任やサリーム・アル=フッス英語版首相の選出を後押ししてレバノン内政に介入した。このことが後の対レバノン関係に禍根を残すことになる。

1999年には、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどのアラブ諸国を訪問。さらにフランスのジャック・シラク大統領とも会談し、シリア政府の次期後継者として周辺国にアピールした。

腐敗との戦い[編集]

2000年、バッシャールは「古参と新たな血の融合」「腐敗との戦い」といった新たな運動を唱え、体制内部の腐敗一掃とあらゆる分野での改革を訴えた。それに呼応するように3月8日、汚職疑惑があったマフムード・ズウビー英語版首相率いる内閣が総辞職し、新たに清廉で実直として評価が高かったアレッポ県知事ムハンマド・ムスタファー・メロ英語版がバアス党大会で首相に指名され、3月14日にメロ内閣が発足した。この内閣には、バッシャールが指名した23名の実務や行政手腕が買われた50歳以下の中堅・若手閣僚も含まれていた。今までのシリアの内閣は、大統領が国防・外務・情報・経済担当大臣を選び、他の大臣については情報・治安機関が人選を行っていたが、今回は実質的にバッシャールが人選を行った。

「腐敗との戦い」において最初のターゲットになったのは、前首相のズウビーであった。2月には「首相在任中の行動規範が、党の価値観、道徳に反し、法を逸脱して国家の名誉、党の名声に被害をもたらした」としてバアス党地域指導部にて党を除名され、首相辞任後は公金横領容疑で起訴され、資産を凍結する懲罰措置が取られた。そして逮捕日当日の5月21日、ズウビーは自宅で拳銃自殺を遂げた。この事件についてはさまざまな説が飛び交い、数日前からズウビーの健康悪化や自殺未遂の噂が流れ、政権による暗殺との憶測も呼んだ。一説によると、ハーフィズ・アサドの妻の一族であるマフルーフ家の指示により、北朝鮮との天然ガス密売の取引に失敗したため、詰め腹を切らされたとの説もある。

ズウビー自殺を皮切りに、党や政府の高官が次々と腐敗の容疑で逮捕されていった。これは体制内部の粛清と、綱紀粛正を進めるバッシャールに対して恐威の念を抱かせるという二重の意味があったとされる。

大統領就任[編集]

モスクワを訪問したバッシャール・アサド大統領とアスマ夫人(2005年1月)
ダマスカスの旧市街の壁に描かれたバッシャールと、彼の「神がシリアを守る」という言葉(2006年)
ラタキアで行われたバッシャール・アサド支持派の集会
シリアからの移民によって開かれたアサド大統領を支持する集会(オーストラリアシドニー、2011年)

2000年6月10日に父ハーフィズが死去すると翌日陸軍大将に昇進、軍最高司令官に任命され、6月18日にはバアス党書記長に就任。7月10日に信任を問う国民投票を実施し、7月17日に後継大統領に就任した。

2001年にはアスマー・アル=アサドと結婚した。スンニ派の夫人は、アサド父子の出身母体である少数派のアラウィー派による最大宗派のスンニ派支配というイメージを払拭することが期待された。また英国育ちでもある彼女は、とかく閉鎖的な印象をもたれがちなシリアを西側諸国にアピールするスポークスマンとしての役割をも果たしてきた。

バッシャールは大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いためあまり国政で主導権を握ることはせず、もっぱらハーフィズ時代以来の首脳が政務を行っているのが政権の実態である。憲法で承認された絶大な大統領権力はバッシャール時代になるとあまり行使されなくなった。2007年5月には大統領に再任された。

2010年末よりはじまったアラブの春はシリアにもシリア内戦として飛び火し、批判の矛先はシリアの国家元首であるバッシャールにも向けられることとなった。反政府デモに対して当初は憲法改正や内閣改造、社会保障の拡大など妥協案も示されたが、デモの拡大に際し武力による鎮圧を企図したため、多数の死者を出すこととなった。このことにより国際社会からの批判も高まっているが、いまだ解決の糸口は見えていない。騒乱が内戦となって長期化するなか、欧米に支援された自由シリア軍シリア国民連合の統治能力に対する懐疑や、占領地域で厳格なシャリーアに基づいた統治を行う過激派組織ISILアル=ヌスラ戦線等のアルカイダ系反政府勢力の跋扈から、シリア国内では少数派ムスリム(アラウィー派ドゥルーズ派十二イマーム派など)やキリスト教徒を中心にアサド政権を支持する声も決して少ないとはいえず、また周辺諸国の利害関係や、独立を望む各地のクルド人勢力の動きも絡みあって、事態は複雑化している[2][3]。2014年の大統領選では88.7%の得票率を得て三選された[4]

2020年8月12日、議会演説中に体調を崩して一時退出。その後、議場へ戻り演説を再開したが体調面での不安が報道された。大統領側は体調不良の理由を、前日から何も食べていなかったためと説明している[5]

2021年3月8日には、アスマ夫人と共に新型コロナウイルスへの感染が発表された(3月30日、大統領府が完治を発表)。

2021年5月26日の大統領選挙英語版で得票率95.1%で四選(内戦に拡大する前の反政府デモ期に政権側から示された妥協案の2012年の憲法改正で2任期制限が設けられているが、改正以前の任期は対象外とされている)。イドリブ県の反体制派が支配する地域では投票が実施されなかった他、非バアス党や非翼賛政党の野党であっても広義では体制派に含まれる人民議会議員35名以上の推薦が立候補条件であるなど、反体制派や欧米諸国からは不正選挙と批判を受けた[6]

独裁者・外交関係[編集]

米紙ワシントンポストの週刊誌「パレード」の「世界最悪の独裁者」ランキングにて第12位に選ばれている。ブッシュ政権(当時)は、シリア封じ込め策をとっていた。アサド政権は対イスラエル闘争を続けるパレスチナのハマスやレバノンのヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、欧米から「テロ支援国家」と名指しされている。

2003年のイラク戦争後は、イラクからの難民や、逆にイラクに潜入する武装勢力がシリアに集まり、アメリカ合衆国との関係が悪化。さらに2005年のラフィーク・ハリーリーレバノン首相暗殺事件をきっかけに米欧を中心とする国際的な圧力を受け、シリア軍のレバノンからの全面撤退を強いられた。レバノンや中東和平問題をめぐり、イスラエルとの関係は現在も悪いままである。伝統的な友好国のロシアだけでなく、2004年6月に訪中して胡錦濤国家主席と会談を行うなど中国との関係も重視しており[7]、中国は2つのシリア最大の産油企業の大株主であり[8]、国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い[9]北朝鮮と核開発で協力しているという疑いをアメリカに持たれ、2007年9月にはイスラエル空軍によるシリア空爆が行われたと報じられている。後に北朝鮮と核開発で協力しているという見解をアメリカは公式見解として発表する。

イスラム協力機構アラブ連盟から追放されるまでスンニ派諸国と対立する一方で、先代以来の友好関係にあるイランとの関係を強固なものとし、また隣国トルコイラクとの関係を劇的に改善しているため、イラク戦争後の不安定な中東の政治状況の中で孤立を回避するよう努めていることがうかがえる。

ただ、2009年オバマ政権発足直後からアメリカが上院外交委員長らを相次ぎシリアに送ったことを「まず対話を始めて互いに問題解決にかかわることが大切だ」と歓迎しており、若干対米関係を修復させる態度を示している。

日本では2011年(平成23年)9月9日に、バッシャールが資産凍結の対象者となった[10]

2017年4月6日 米軍はシリアに対して「化学兵器を使用した報復」として、トマホークミサイル59発を使用してアサド政権軍の空軍基地に対するミサイル攻撃を実施した。 これはトランプ政権の、軍事介入に慎重だった前オバマ政権との違いをアピールした物と見られており、シリアとアメリカの関係悪化が懸念される。

2017年4月、AFPでのインタビューで、シリアで起きた化学兵器攻撃への関与を否定した。「テロリストと結託しているという我々の印象は米国を中心とする西側諸国がミサイル攻撃の口実を得るために作ったものだ。」と反論した。国連内では「世界のあらゆる首都で計画されている陰謀の一部」と主張した[11]

2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻では、「ソ連崩壊後の崩れた世界秩序を回復し、歴史を修正するものだ」と評価し、ロシアを支持した[12]

画像[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 巧妙メディア戦略…「砂漠のバラ」と呼ばれたシリア大統領夫人の"虚像" - 『産経新聞』2012/7/1
  2. ^ 山田敏弘 (2012年3月14日). “メディアが伝えないシリア国民の本音”. ニューズウィーク. http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/04/post-2504.php 2013年9月7日閲覧。 
  3. ^ “シリア内戦――近隣諸国の事情”. CNN. http://www.cnn.co.jp/special/interactive/35036542.html 2013年9月7日閲覧。 
  4. ^ “シリア大統領選で、アサド氏の再選に国民が歓喜”. イルナー通信. IRIB. (2014年6月5日). http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/45694-シリア大統領選で、アサド氏の再選に国民が歓喜 2014年6月6日閲覧。 
  5. ^ シリアのアサド大統領、体調不良で議会演説中断…何も食べず「血圧下がっていた」”. 読売新聞. 2020年8月12日閲覧。
  6. ^ “アサド氏、95%得票で圧勝”. 共同通信社. (2021年5月28日). https://this.kiji.is/770765530745339904?c=39546741839462401 2021年5月28日閲覧。 
  7. ^ “Syria President Al-Assad visits China”. チャイナデイリー. (2004年6月22日). http://www.chinadaily.com.cn/english/doc/2004-06/22/content_341612.htm 2018年11月4日閲覧。 
  8. ^ “Belt and Road: Middle East takes the slow road to China”. AFPBB. (2017年9月26日). https://www.euromoney.com/article/b14r59l2nbv4g6/belt-and-road-middle-east-takes-the-slow-road-to-china 2018年8月28日閲覧。 
  9. ^ “ロシア、国連安保理のシリア非難決議案に拒否権 各国は反発”. BBC. (2017年4月13日). https://www.bbc.com/japanese/39586021 2018年8月28日閲覧。 
  10. ^ 2011年(平成23年)9月9日外務省告示第315号「国際平和のための国際的な努力に我が国として寄与するために講ずる資産凍結等の措置の対象となるシリアのアル・アサド大統領及びその関係者等を指定する件」
  11. ^ “アサド大統領がシリアでの化学攻撃を否定”. Onebox News. (2017年4月21日). http://oneboxnews.com/articles/assad-is-denying-chemical-weapons-attacks-2017-4 2020年9月16日閲覧。 
  12. ^ ロシアのウクライナ侵攻を評価 シリアのアサド大統領 - 中日新聞Web 2022年2月25日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
ハーフィズ・アル=アサド
シリア大統領
2000年 -
次代
現職