ゲーベン (巡洋戦艦)

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Bundesarchiv Bild 134-B0032, Großer Kreuzer Goeben.jpg
竣工直後の巡洋戦艦「ゲーベン」
艦歴
発注: ブローム・ウント・フォス
起工: 1909年12月7日
進水: 1911年3月28日
就役: 1912年7月2日
退役: 1954年
その後: トルコ海軍へ1914年8月16日売却
1973年から1976年にかけて解体
除籍: (退役と同年)
性能諸元
排水量: 常備 22,979トン、満載 25,400トン
全長: 186.5m
全幅: 29.5m
吃水: 9m
機関: シュルツ・ソーニクロフト式石炭専焼水管缶24基(1930年に石炭・重油混焼缶に改造)
+パーソンズ式低速タービン2基&高速タービン2基4軸推進
最大出力: 52,000hp(1930年:82500hp)
最大速力: 25.5ノット(1930年:28ノット)
航続距離: 14ノット/4,120海里
燃料: 石炭:3,100トン
乗員: 1,053名
兵装: SK L/50 28 cm(50口径)連装砲5基
SK L/45 15 cm(45口径)単装砲12基
SK L/45 8.8 cm(45口径)単装砲12基
50 cm水中魚雷発射管単装4門
(1930年代以降:SK L/50 28 cm(50口径)連装砲5基
SK L/45 15 cm(45口径)単装砲10基
SK L/45 8.8 cm(45口径)単装高角砲8基
40mm機関砲単装12基)
装甲: 舷側装甲:100~120~270mm(水線面)、
200mm(第一甲板舷側部)、
50mm(弾薬庫水線面下部)、
30mm(機関区水線面下部)
甲板装甲:50mm
主砲塔装甲: 230mm(前盾)、
200mm(側盾)、
170mm(後盾)、
130mm(天蓋)
副砲ケースメイト装甲: 150mm
バーベット部:230mm
司令塔:350mm(前盾)、
250mm(側盾)、
-mm(後盾)、
60mm(天蓋)

ゲーベンドイツ語:Goeben)は、ドイツ海軍巡洋戦艦モルトケ級巡洋戦艦の2番艦。第一次世界大戦勃発直後にオスマン帝国に売却され、16世紀スルタンセリム1世にちなんでヤウズ・スルタン・セリムトルコ語:Yavuz Sultan Selim)と改名された。「ヤウズ」は、スルタン・セリム1世のあだ名である。二次にわたる近代化改装を経て第二次世界大戦後まで運用された。

ドイツ海軍時代[編集]

本艦はブローム・ウント・フォス社によってハンブルク造船所で建造された。ゲーベンとは、普仏戦争で活躍したアウグスト・カール・フォン・ゲーベンde:August Karl von Goeben)にちなんで命名されたものである。本艦は、ドイツ帝国の海外侵食に押される形で新編成された地中海艦隊旗艦として配備され、同じく新鋭のマクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウを伴い1912年11月に出航し、道中を完熟訓練の場として地中海に到着した。地中海に配備後は「お披露目」として各地を周り、ギリシャブルガリアイタリアエジプトを歴訪、1914年5月にはイスタンブルを訪れた。

同年7月28日オーストリア=ハンガリー帝国セルビアが戦争状態に入ると、本艦はドイツ帝国の参戦に備えてアルジェリア沖へ向かった。8月3日フランスへの宣戦後に、2日に秘密裏に結ばれたドイツとオスマン帝国の同盟によってイスタンブルへの回航を命じられた。

ゲーベンとブレスラウの逃走航跡図

ゲーベンは軽巡洋艦ブレスラウと共にアルジェリア沿岸を砲撃し、フランス陸軍の輸送を妨げようと試みた。砲撃自体は成功したものの、肝心の陸軍はまだ移動前であったために被害は限定的なものであった。むしろ、この行為は追っ手に自らの存在を証明する何よりの証拠となってしまった。これ以降、ドイツ地中海艦隊は「逃げの一手」を打ち地中海を逃げ回った。この頃、イギリス地中海艦隊は巡洋戦艦3隻・装甲巡洋艦4隻という強力な火力を持ち、高速軽巡洋艦4隻を擁する有力な戦力を持っていたのだが、ドイツ地中海艦隊はイギリス艦隊の追跡をかわした。

本艦隊はダーダネルス海峡へ到達、8月16日にイスタンブルに入りオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムとなった。一方、ブレスラウはミディッリと改名されて売却された。この時、乗組員はそのままオスマン海軍に移り、引き続きドイツ人将兵の手によって運用された。

ヤウズ・スルタン・セリム[編集]

オスマン帝国「ヤウズ・スルタン・セリム」となった本艦。

オスマン帝国がゲーベンとブレスラウを自国海軍に編入したのには、次のような事情があった。

1900年代当初のオスマン帝国は、艦隊のほとんどの艦が型遅れの装甲艦と小型で使いにくい水雷艇で構成されていた。さらに多額の経費を要してイギリスの支援により整備した造船所ドックは、維持運営に十分な予算もなく艦艇の整備が十分になされていない状態であった。更に国家財政の極度の悪化から、ギリシャ海軍が列強から新鋭艦を購入し増強されていくのに対抗しようにも、新鋭艦の購入など見込めない状態であった。

このような国家の窮状は1900年代になって国民の知るところとなり、有志により「オスマン艦隊国民援護協会」が設立され、全国民に海軍整備のための寄付が募られた。この活動により、まずドイツ帝国海軍前弩級戦艦ブランデンブルク級4隻のうち2隻が一隻100万リラで購入され、それぞれ「バルバロス・ハイレッディン(旧:クルフェスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム)」と「トゥルグト・レイス(旧:ヴァイセンブルク)」と命名のうえ1910年8月21日に海軍に編入された。その後さらに寄付は集まり、ドイツよりS165級大型水雷艇駆逐艦)4隻が購入された。

更にイギリスのヴィッカーズ社との交渉により34.3cm砲10門を持つ超弩級戦艦(後の「エリン」)1隻と、ブラジルが代金が払えず建造停止状態となっていた30.5cm砲14門の弩級戦艦(後の「エジンコート」)1隻を購入できる手筈となっていた。しかし、両艦が完成し、代金が支払われ、乗員の訓練も開始した矢先にイギリスは一方的に戦艦2隻を接収してしまった。この行為にオスマン帝国の世論は激昂し、イギリスへの強い不信感が露わとなり、反英感情が国民に芽生えた。

そのような空気の中、親交のあったドイツから最新鋭の巡洋戦艦と軽巡洋艦がやってきたこととなる。イギリス政府は硬軟取り混ぜてイスタンブル水域からのドイツ地中海艦隊の退去を求めたが、当時オスマン帝国の実権を握っていた青年トルコ党政権は、自らの親独的な立場から、この国民の反英感情を背景に両艦の自国海軍編入を主張し、ドイツに接近を図ることとしたのである。

金角湾のオスマン艦隊。中央がヤウズ・スルタン・セリム、肖像は当時のスルタン・メフメト5世

こうして買収されたヤウズ・スルタン・セリムは、オスマン帝国海軍の主力として黒海で活動することになった。

1914年10月29日、オスマン海軍は黒海沿岸のロシア領各地を攻撃した。ヤウズ・スルタン・セリムは駆逐艦サムスンタショズを伴ってセヴァストーポリの砲撃を実施したが、砲台の反撃で被弾し退避した。帰路、ロシアの機雷敷設艦プルートを撃沈し駆逐艦レイテナーント・プーシチンを損傷させた。また、汽船Idaを拿捕した。オスマン帝国海軍による攻撃はロシアの宣戦布告を招き、第一次世界大戦にオスマン帝国も参戦することとなった。

11月18日、本艦はサールィチ岬の海戦にて30.5cm砲弾を受けて小破し死者13名、負傷者3名を出した。12月、ヤウズ・スルタン・セリムは輸送船の護衛とバトゥミ砲撃を行った。それからの帰路、12月26日ボスポラス海峡の入り口付近でロシア艦艇の敷設した2発の機雷を両舷に一個ずつ触雷し、合わせて2,000トンの浸水が発生。修理中に度々出撃を重ねたために完了までに数ヶ月の修理を要することとなった。当時のオスマン帝国海軍の工廠には本艦が入渠できる規模のドックがなく、オスマン帝国海軍は大型のケーソンを製作して本艦の損傷箇所の修理を行った。本艦はこの後も1918年にセヴァストーポリで入渠するまで入渠修理の機会が得られず、艦底や機関の状態は次第に悪化していった。

ボスポラスに停泊するゲーベンとブレスラウ。(1915年)

1915年4月に復帰し商船2隻を撃沈するが、ボスポラス海峡口におけるロシア主力艦隊との戦闘で被弾損傷、さらに同年末には黒海艦隊により強力なインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦2隻が就役し優位が揺らいだ。1916年1月8日、ヤウズ・スルタン・セリムはケフケン島沖にてロシア弩級戦艦インペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ交戦した。この戦闘では双方とも命中弾はなかったが、ロシアの弩級戦艦の優位は明白となった。2月、ヤウズ・スルタン・セリムはトラブゾンへ兵員や兵器等を輸送した。7月4日、ヤウズ・スルタン・セリムはトゥアプセを砲撃し、2隻の船を沈めた。

1917年12月、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリによる地中海への出撃が決定された[1]。この作戦の参加艦艇は2隻のほか水雷艇4隻と潜水艦1隻であった[1]。作戦に先立ち参加艦艇はまずゾングルダクへ行き石炭を補給[1]

1918年に撮られた「ヤウズ・スルタン・セリム」

1918年1月18日に演習名目でマルマラ海への集結命令がだされ、1月19日に各艦は指定場所へと向かった[1]。同日16時にはダーダネルス海峡へ向け出発し、20日6時前には海峡から出た[2]。水雷艇は低速などを理由に海峡入り口でヤウズ・スルタン・セリムおよびミディッリと分離された[3]。6時10分にヤウズ・スルタン・セリムが触雷したが[2]、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはインブロス島へむかいそこで敵艦船などを攻撃した。ヤウズ・スルタン・セリムはまず商船や通信施設を攻撃し、それから先行していたミディッリとともにイギリスのモニターM28ラグランを撃沈した[4]。それから2隻は新たな目標を求めてリムノス島ムドロス湾へむかったが、その途中でミディッリが触雷し、その救援活動中にヤウズ・スルタン・セリムも触雷[5]。ミディッリはさらに触雷し、敵艦隊の来襲の恐れなどがあることからヤウズ・スルタン・セリムはその場を離れて帰路についた[6]。ミディッリはこの後にも触雷し、沈没した。9時48分にヤウズ・スルタン・セリムも3度目の触雷をしたが、無事にダーダネルス海峡入り口に到着した[7]。だが、11時32分に海峡内で座礁し、装甲艦トゥルグート・レイスなどの助けを借りて1月26日に離礁に成功するまでの間爆撃を受け、300以上投下された爆弾のうち2発が命中した[8]


4月末には、防護巡洋艦ハミディイェとともにセヴァストーポリを砲撃し、終戦まで同港に進駐した。

ヤウズ[編集]

1936年にマルタ島で撮影されたヤウズ。
1946年に撮影されたヤウズ。迷彩塗装が施されている。
イスタンブルに停泊するヤウズ。後檣が撤去されている。(1946年)

第一次世界大戦が終結し、オスマン帝国が倒れてトルコ共和国が成立すると、旧オスマン帝国海軍の艦船はトルコ海軍の管轄下に入った。

1926年から1930年にかけてフランスのサン=ナゼール・ペノエ造船所によってギョルジュク海軍工廠にて修理と平行して第一次近代化改装が行われ、石炭専焼主ボイラーを石炭・重油混焼缶へ改造する事により出力・速力の改善がなされた。また、射撃指揮装置の更新、更に大戦の戦訓により水中魚雷発射管の撤去による水雷防御の向上がはかられ、8.8cm高角砲や40mm機関砲を装備して対空攻撃能力向上がなされた。

改装後にトルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ・セリムYavuz Selim)として再就役し、さらに1936年ヤウズYavuz)と改名した。1938年ケマル・アタテュルクの遺体をイスタンブルからイズミットまで運んだことで、トルコではよく知られている。

ヤウズに大きな改装がなされることはなかったが、1941年の第二次近代化改装で対空射撃の障害となっていた後檣が撤去され、そのままの姿で第二次世界大戦後も在籍した。

本艦は1948年には、軍事的というよりも既に象徴的な存在となっていたが、1952年にはNATOの艦番号370を付けられた。1954年に退役し予備艦となった後の1963年に、西ドイツ政府より購入の申し入れがあったがトルコ政府はこれを拒否した。1966年になると今度はトルコ政府より西ドイツへ売却が持ちかけられたが、当時の西ドイツの政治状況の変化により旧時代の記念艦に過ぎないヤウズが買収されることはなかった。結局、1971年に解体業者に売却され、1973年6月7日に港を離れた後、同年7月から1976年2月にかけ、両大戦を経験した最後の巡洋戦艦は解体された。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Battle on the Seven Seas, p.209
  2. ^ a b Battle on the Seven Seas, p.211
  3. ^ Battle on the Seven Seas, pp.210-211
  4. ^ Battle on the Seven Seas, pp.212-213
  5. ^ Battle on the Seven Seas, pp.213-214
  6. ^ Battle on the Seven Seas, pp.215-216
  7. ^ Battle on the Seven Seas, p.217
  8. ^ Battle on the Seven Seas, pp.219-220

参考文献[編集]

  • Gary Staff, Battle on the Seven Seas: German Cruiser Battles 1914-1918, Pen & Sword Maritime, 2011, ISBN 978-1-84884-182-6

関連書籍[編集]

  • 世界の艦船増刊 ドイツ戦艦史』No.405(海人社)1989年3月号増刊
  • 『世界の艦船増刊 イギリス戦艦史』No.429(海人社)1990年11月号増刊
  • 『世界史リブレット 小松香織著 オスマン帝国の近代と海軍』(山川出版社)2004年2月出版
  • 『山川歴史モノグラフ 小松香織著 オスマン帝国の海運と海軍』(山川出版社)2002年11月出版

外部リンク[編集]