「永野護 (政治家)」の版間の差分
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1890|9|5|1970|1|3}} |
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|出身校 = [[東京大学|東京帝国大学]] |
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|所属政党 = (無所属→)<br/>([[自由党_(日本_1950-1955)|自由党]]→)<br/>[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |
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|称号・勲章 = |
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|世襲の有無 = 1世 |
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|親族(政治家) = [[永野鎮雄]](弟) |
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|職名 = 第26代[[運輸大臣]] |
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[[永野一郎|一郎]] [[永野耕二|耕二]] [[永野彰|彰]] [[永野健二|健二]] 今村雅樹 [[永野康之|康之]] [[永野弘|弘]] |
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[[瀬戸内海]]、 |
[[瀬戸内海]]、広島県[[下蒲刈島]][[三之瀬]]、[[浄土真宗]][[本願寺派]]の弘願寺が本家に当たる。父・法城は寺を継ぐことを嫌い、[[裁判官]]となって[[中国地方]]の[[裁判所]]を転々とするが、最初の赴任地・濱田で生まれたのが護である。その後島根県[[松江市]]で生まれたのが[[永野重雄]](のち[[新日本製鐵]]会長、[[日本商工会議所]]会頭)、山口県[[岩国市]]で生まれたのが[[永野俊雄]](のち[[五洋建設]]会長)、[[山口市]]で生まれたのが[[伍堂輝雄]](のち[[日本航空]]会長)。父・法城が[[判事]]を辞め、[[広島市]]で[[弁護士]]事務所を開業した時生まれたのが[[永野鎮雄]](のち参議院議員)と末弟[[永野治]](のち[[石川島播磨重工]]会長)である。父の転勤に伴い[[転校]]を繰り返し中学卒業後上京、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]では柔道部主将を務めた。その後永野家が一家で広島に帰った時には、護は[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]在学中だった。 |
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まもなく父親が病没。護の東大の親友が[[渋沢栄一|渋澤榮一]]の子息だったため、渋澤は護の苦境を知り、息子の勉強相手という名目で月額50円の謝礼を出した([[2010年代]]前半の貨幣価値では約40 - 50万円に相当)。護はそれを郷里に仕送りし、弟妹の養育費に充てた。弟5人は全員大学に進学している。東大法学部を、後に[[最高裁判所長官]]を務める[[田中耕太郎]]に次ぐ二番で卒業。就職先には事欠かない立場であったが、渋澤の秘書・顧問弁護士となり、後半生を渋澤の番頭格として尽くした。 |
まもなく父親が病没。護の東大の親友が[[渋沢栄一|渋澤榮一]]の子息だったため、渋澤は護の苦境を知り、息子の勉強相手という名目で月額50円の謝礼を出した([[2010年代]]前半の貨幣価値では約40 - 50万円に相当)。護はそれを郷里に仕送りし、弟妹の養育費に充てた。弟5人は全員大学に進学している。東大法学部を、後に[[最高裁判所長官]]を務める[[田中耕太郎]]に次ぐ二番で卒業。就職先には事欠かない立場であったが、渋澤の秘書・顧問弁護士となり、後半生を渋澤の番頭格として尽くした。 |
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東洋製油取締役、山叶証券専務、丸宏証券会長、東京米穀取引所常務理事、[[帝人]]など40余の役員を務め、やがて「政商」的な存在となっていった。 |
東洋製油取締役、山叶証券専務、丸宏証券会長、東京米穀取引所常務理事、[[帝人]]など40余の役員を務め、やがて「政商」的な存在となっていった。1923年、[[正力松太郎]]・[[中島久万吉]]・[[河合良成]]・[[後藤圀彦]]・[[伊藤忠兵衛]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}・[[小林中]]らと「番町会」を結成し中心メンバーとして政界の橋渡し役として活躍。「番町会」は当時巨大な力を持っていた。1927年、「虚構の事件」といわれた「[[帝人事件]]」で逮捕されるも無罪。この一件で[[台湾銀行]]から帝人の[[株式]]を引き出すというアイデアを考えたのは永野といわれている。1942年から戦中、戦後と[[衆議院議員]]を2期務めた。 |
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戦後、[[公職追放]]となり<ref>『朝日新聞』1946年2月10日一面。</ref>、出所後の[[岸信介]]を会長、社長を[[足立正]]、取締役に永野、[[藤山愛一郎]]、[[津島寿一]]、[[三好英之]]、[[監査役]]・[[瀬越憲作]]とする[[東洋パルプ]]を設立<ref>岸信介、[[矢次一夫]]、[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]『岸信介の回想』[[文藝春秋]]、1981年、97頁</ref>。[[広島銀行]]をバックに |
戦後、[[公職追放]]となり<ref>『朝日新聞』1946年2月10日一面。</ref>、出所後の[[岸信介]]を会長、社長を[[足立正]]、取締役に永野、[[藤山愛一郎]]、[[津島寿一]]、[[三好英之]]、[[監査役]]・[[瀬越憲作]]とする[[東洋パルプ]]を設立<ref>岸信介、[[矢次一夫]]、[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]『岸信介の回想』[[文藝春秋]]、1981年、97頁</ref>。[[広島銀行]]をバックに広島県[[呉市]]に工場を建設するが、うまくいかず[[王子製紙#沿革|王子製紙]]に売却した。1956年、[[広島県選挙区]]から[[参議院議員]]に当選。同年、[[ホセ・ラウレル]]の推薦を受け、対[[フィリピン]]賠償交渉の全権委員を務めた<ref>『追悼 小林中』小林中追悼録編集委員会、1982年、156頁</ref><ref>{{Cite web|url=https://doi.org/10.11375/kokusaiseiji1957.75_130|title=対比賠償交渉の立役者たち|accessdate=2019-02-13|publisher=国立研究開発法人科学技術振興機構|format=PDF|website=科学技術情報発信・流通総合システム|author=吉川洋子}}</ref>。政治家としては戦前は[[翼賛政治会]]・[[翼壮議員同志会]]に、戦後は[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]・[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に所属した。岸信介の指南役ともいわれ1958年、[[第2次岸内閣]]の[[運輸大臣]]に就任した。大臣就任早々、[[日本社会党]]から不信任案を突き付けられたという逸話も残る。[[小沢一郎]]の盟友だった[[佐藤守良]]は永野の秘書を長く務めた。1970年1月3日死去。[[享年]]79。亡くなる3日前に 『南無阿弥陀仏、音もせで散る、柿紅葉』という一句を残した。 |
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護の子、[[永野嚴雄|永野厳雄]]はのち[[広島県知事一覧|広島県知事]]、[[永野健]]はのち[[三菱マテリアル]]会長及び[[経団連|日経連]]会長になった。 |
護の子、[[永野嚴雄|永野厳雄]]はのち[[広島県知事一覧|広島県知事]]、[[永野健]]はのち[[三菱マテリアル]]会長及び[[経団連|日経連]]会長になった。 |
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[[太平洋戦争]]敗戦直後の[[1945年]]9月[[原子爆弾投下|原子爆弾]]により焦土と化した[[広島市]]でおこなわれた講演録を元に、『敗戦真相記―予告されていた平成日本の没落』と題して |
[[太平洋戦争]]敗戦直後の[[1945年]]9月[[原子爆弾投下|原子爆弾]]により焦土と化した[[広島市]]でおこなわれた講演録を元に、『敗戦真相記―予告されていた平成日本の没落』と題して2002年に出版し、2012年8月には重版された。 |
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==脚注== |
==脚注== |
2019年3月22日 (金) 04:24時点における版
永野 護 ながの まもる | |
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1956年頃撮影 | |
生年月日 | 1890年9月5日 |
出生地 | 島根県浜田市 |
没年月日 | 1970年1月3日(79歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
所属政党 |
(無所属→) (自由党→) 自由民主党 |
親族 | 永野鎮雄(弟) |
第26代運輸大臣 | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1959年4月24日 |
選挙区 | 広島県第2区 (中選挙区) |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1942年4月30日 - 1946年4月9日 |
在任期間 | 1952年10月1日 - 1953年4月18日 |
選挙区 | 広島県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1956年7月8日 - 1962年7月7日 |
永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年1月3日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員、参議院議員。島根県濱田市生まれ。戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄。
来歴・人物
永野小佐衛門 (常浄) ┃ (略) ┃ 法城 弘願寺11代(継いでいない) ┏━━╋━━┳━━━━┳━━━┳━━━┳━┓ 護 重雄 男(早世) 俊雄 伍堂輝雄 鎮雄 治 ┣━━━━┳━━━━━━┓ 厳雄 健 正 ┣━━┓ ┣━━┓ ┣━━━┳━━┓ 一郎 耕二 彰 健二 今村雅樹 康之 弘
瀬戸内海、広島県下蒲刈島三之瀬、浄土真宗本願寺派の弘願寺が本家に当たる。父・法城は寺を継ぐことを嫌い、裁判官となって中国地方の裁判所を転々とするが、最初の赴任地・濱田で生まれたのが護である。その後島根県松江市で生まれたのが永野重雄(のち新日本製鐵会長、日本商工会議所会頭)、山口県岩国市で生まれたのが永野俊雄(のち五洋建設会長)、山口市で生まれたのが伍堂輝雄(のち日本航空会長)。父・法城が判事を辞め、広島市で弁護士事務所を開業した時生まれたのが永野鎮雄(のち参議院議員)と末弟永野治(のち石川島播磨重工会長)である。父の転勤に伴い転校を繰り返し中学卒業後上京、第一高等学校では柔道部主将を務めた。その後永野家が一家で広島に帰った時には、護は東京帝国大学法科大学在学中だった。
まもなく父親が病没。護の東大の親友が渋澤榮一の子息だったため、渋澤は護の苦境を知り、息子の勉強相手という名目で月額50円の謝礼を出した(2010年代前半の貨幣価値では約40 - 50万円に相当)。護はそれを郷里に仕送りし、弟妹の養育費に充てた。弟5人は全員大学に進学している。東大法学部を、後に最高裁判所長官を務める田中耕太郎に次ぐ二番で卒業。就職先には事欠かない立場であったが、渋澤の秘書・顧問弁護士となり、後半生を渋澤の番頭格として尽くした。
東洋製油取締役、山叶証券専務、丸宏証券会長、東京米穀取引所常務理事、帝人など40余の役員を務め、やがて「政商」的な存在となっていった。1923年、正力松太郎・中島久万吉・河合良成・後藤圀彦・伊藤忠兵衛[要曖昧さ回避]・小林中らと「番町会」を結成し中心メンバーとして政界の橋渡し役として活躍。「番町会」は当時巨大な力を持っていた。1927年、「虚構の事件」といわれた「帝人事件」で逮捕されるも無罪。この一件で台湾銀行から帝人の株式を引き出すというアイデアを考えたのは永野といわれている。1942年から戦中、戦後と衆議院議員を2期務めた。
戦後、公職追放となり[1]、出所後の岸信介を会長、社長を足立正、取締役に永野、藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役・瀬越憲作とする東洋パルプを設立[2]。広島銀行をバックに広島県呉市に工場を建設するが、うまくいかず王子製紙に売却した。1956年、広島県選挙区から参議院議員に当選。同年、ホセ・ラウレルの推薦を受け、対フィリピン賠償交渉の全権委員を務めた[3][4]。政治家としては戦前は翼賛政治会・翼壮議員同志会に、戦後は自由党・自由民主党に所属した。岸信介の指南役ともいわれ1958年、第2次岸内閣の運輸大臣に就任した。大臣就任早々、日本社会党から不信任案を突き付けられたという逸話も残る。小沢一郎の盟友だった佐藤守良は永野の秘書を長く務めた。1970年1月3日死去。享年79。亡くなる3日前に 『南無阿弥陀仏、音もせで散る、柿紅葉』という一句を残した。
護の子、永野厳雄はのち広島県知事、永野健はのち三菱マテリアル会長及び日経連会長になった。
太平洋戦争敗戦直後の1945年9月原子爆弾により焦土と化した広島市でおこなわれた講演録を元に、『敗戦真相記―予告されていた平成日本の没落』と題して2002年に出版し、2012年8月には重版された。
脚注
参考文献
- 『敗戦真相記』バジリコ、2002年
- 『私と映画・海軍・仏さま』 松林宗恵(1985年3月、大蔵出版)