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**: 『紀』一書・『記』では、息石耳命に代えて[[常津彦某兄]](常根津日子伊呂泥命)を入れる。
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** 第二皇子:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代'''[[懿徳天皇]]'''。
** 第二皇子:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代'''[[懿徳天皇]]'''。
** 皇子:[[磯城津彦命]](しきつひこのみこと、師木津日子命) - 猪使連の祖(紀)。子に和知都美命(蠅伊呂泥・蠅伊呂杼姉妹の父)(記)。
** 皇子:[[磯城津彦命]](しきつひこのみこと、師木津日子命) - 猪使連の祖(紀)。子に和知都美命([[倭国香媛|蠅伊呂泥]]・蠅伊呂杼姉妹の父)(記)。
『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。
『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。



2021年4月25日 (日) 10:02時点における版

安寧天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「安寧天皇」

在位期間
綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日
時代 伝承の時代
先代 綏靖天皇
次代 懿徳天皇

誕生 綏靖天皇5年
崩御 安寧天皇38年12月6日 57歳[注 1]
陵所 畝傍山西南御陰井上陵
漢風諡号 安寧天皇
和風諡号 磯城津彦玉手看天皇(紀)
師木津日子玉手見命(記)
父親 綏靖天皇
母親 五十鈴依媛命(紀)
河俣毘売(記)
皇后 渟名底仲媛命(紀)
阿久斗比売(記)
子女 息石耳命
大日本彦耜友尊(懿徳天皇
磯城津彦命
皇居 片塩浮孔宮(片塩浮穴宮)

欠史八代の1人。
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安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)。『日本書紀』での名は磯城津彦玉手看天皇欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。

略歴

神渟名川耳天皇(綏靖天皇)の皇子。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命(『日本書紀』)。兄弟に関する記載は『日本書紀』『古事記』ともにない。父帝が崩御した年の7月に即位。即位2年1月、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を移す。即位3年2月、鴨王事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命を皇后として息石耳命大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、磯城津彦命を得た。即位38年、崩御。

  • 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと) - 『日本書紀
  • 師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと) - 『古事記

漢風諡号である「安寧」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]

事績

日本書紀』『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。 磯城県主クロハヤの館で生まれ、そのときに朝日が輝いたのでこの名が付いた。

系譜

系図

                           
 
 
 
天照大神(アマテラス)
 
 
 
 
 
 
須佐之男命(スサノオ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天忍穂耳命(アメノ オシホ ミミ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栲幡千千姫(タクハタチヂ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
邇邇芸命(ニニギ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木花之佐久夜毘売(コノハナノ サクヤ ビメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火遠理命(ホオリ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊玉姫(トヨタマ ヒメ、アマテラスの姪)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鸕鶿草葺不合命(ウガヤ フキアエズ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
玉依姫(タマヨリ ヒメ、トヨタマヒメの妹)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若御毛沼命(ワカミケヌ、神武天皇、四男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメ タタラ イスズ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦五瀬命(ヒコイツセ、長男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲飯命(イナイ、二男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三毛入野命(ミケイリノ、三男)
 
 
 
 
 
 
 
火闌降命(ホスソリ)- - - 隼人
 
 
 
 
 
 
 
火明命(ホアカリ) - - - 尾張氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天穂日命(アメノ ホヒ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天甕津日女神(アメノ ミカツ ヒメ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
出雲氏
 
 


后妃・皇子女

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

  • 皇后渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと、渟名襲媛)
    『日本書紀』本文による。事代主神の子の天日方奇日方命の娘。
    ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の川津媛、第2の一書では大間宿禰の娘の糸井媛とし、『古事記』では師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘の阿久斗比売(あくとひめ)とする[2]。この波延は世代的に磯城県主・黒速の息子にあたり、黒速が天日方奇日方命の別名と見られることから、波延は系図にいう太祁知遅若命と見る説もある。また阿久斗比売は単に渟名底仲媛命の別名と見る向きもある[3]
    • 第一皇子:息石耳命(おきそみみのみこと)
      『紀』一書・『記』では、息石耳命に代えて常津彦某兄(常根津日子伊呂泥命)を入れる。
    • 第二皇子:大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、大倭日子鉏友命) - 第4代懿徳天皇
    • 皇子:磯城津彦命(しきつひこのみこと、師木津日子命) - 猪使連の祖(紀)。子に和知都美命(蠅伊呂泥・蠅伊呂杼姉妹の父)(記)。

『日本書紀』本文では子を息石耳命・大日本彦耜友尊の2人とするが、同書一書や『古事記』では常津彦某兄・大日本彦耜友天皇・磯城津彦命の3人とする。

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[4]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 綏靖天皇5年
    • 誕生
  • 綏靖天皇25年
    • 1月、21才で立太子
  • 綏靖天皇33年
    • 7月、即位
  • 安寧天皇2年
    • 1月、片塩浮孔宮に遷都
  • 安寧天皇3年
  • 安寧天皇11年
  • 安寧天皇38年
    • 12月、崩御。享年は57歳、『古事記』では49歳という[2]
  • 懿徳天皇元年
    • 8月、畝傍山南御陰井上陵に葬られた

安寧天皇 片塩浮孔宮阯碑
奈良県大和高田市

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)、『古事記』では片塩浮穴宮[5]

宮の伝説地については、次の3説がある[5]

  1. 奈良県橿原市四条町付近 (『帝王編年記』『和州旧跡幽考』)
  2. 奈良県大和高田市三倉堂・片塩町 (『大和志』『古都略紀図』)
  3. 大阪府柏原市 (『古事記伝』『大日本地名辞書』)

安寧天皇前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置することから、候補としては第1・2説が有力視されるが明らかでない。大和高田市では石園座多久虫玉神社境内に「片塩浮孔宮阯」碑が建てられている(北緯34度30分28.76秒 東経135度44分31.63秒[6]。なお、現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名(例:浮孔駅)は、全て第2説を基にした近代以降の復古地名になる。

陵・霊廟

安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵
(奈良県橿原市

(みささぎ)の名は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市吉田町にある俗称「アネイ山」に治定されている(北緯34度29分24.80秒 東経135度46分38.01秒[7][8][9]。宮内庁上の形式は山形。

陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山西南御陰井上陵」、『古事記』では「畝火山の美富登(みほと)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山西南御陰井上陵」として兆域は東西3町・南北2町、守戸5烟で遠陵としている[9]。しかし後世に所伝は失われ、元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定された。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている[9]

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに安寧天皇の霊が祀られている。

考証

実在性

安寧天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、兄弟継承を父子継承に書き換えた可能性があること、磯城県主十市県主=十市氏=中原氏との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[10](詳細は「欠史八代」を参照)。

名称

和風諡号である「しきつひこ-たまてみ」のうち、「しきつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、安寧天皇の原像は「たまてみ(玉手看/玉手見)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[2]

脚注

注釈

  1. ^ 『日本書紀』本文では57歳とするが、立太子時で21歳とする記載では67歳となる。

出典

  1. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  2. ^ a b c 安寧天皇(古代氏族) & 2010年.
  3. ^ 宝賀寿男「長髄彦と磯城県主の系譜」『古代氏族の研究⑦ 三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年。
  4. ^ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  5. ^ a b 片塩浮孔宮(国史).
  6. ^ 片塩浮孔宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
  7. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  8. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  9. ^ a b c 畝傍山西南御陰井上陵(国史).
  10. ^ 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。

参考文献

  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 川副武胤「安寧天皇」中村一郎「畝傍山西南御陰井上陵」(安寧天皇項目内)岡田隆夫「片塩浮孔宮」
  • 「安寧天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588 

関連項目

外部リンク