「ルイ・ファン・ハール」の版間の差分
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サッカー界屈指の戦術家であり、選手個々の能力よりもシステムを重視する傾向がある。[[FCバルセロナ|バルセロナ]]時代には[[リバウド]] |
サッカー界屈指の戦術家であり、選手個々の能力よりもシステムを重視する傾向がある。[[FCバルセロナ|バルセロナ]]時代には[[リバウド]]、[[ルイス・フィーゴ]]、[[フアン・ロマン・リケルメ]]といった卓越したテクニックを持つ選手にも守備を強要し、軋轢を生んだ<ref name = "FOOTBALL CHANNEL">{{Cite web |url = http://www.footballchannel.jp/2014/05/02/post38885/2/ |title = マンU新監督候補、ファン・ハール。ファーガソン帝国を壊す“劇薬”、香川とソリ合わない可能性も |accessdate = 2014-5-8 |author = 海老沢純一 |authorlink = 海老沢純一 |date = 2014-5-2 |work = 海外サッカー > プレミアリーグ |publisher = [[フットボールチャンネル]] |page = 2 <!--|archiveurl = http://web.archive.org/web/20140508100821/http://www.footballchannel.jp/2014/05/02/post38885/2/ |archivedate = 2014-5-8--> }}</ref>。試合中、自チームの勝敗に関わらずベンチで熱心にメモを取る姿がしばしば見られる。[[FCバルセロナ|バルセロナ]]監督時代には、ファンから「落書きは便所でしろ!」と野次を受けた事もあった。 |
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⚫ | オランダ国外のクラブでも、オランダ人選手を積極的に獲得し重用する傾向がある。バルセロナでは[[パトリック・クライファート]]、[[ミハエル・ライツィハー]]、[[マルク・オーフェルマルス]]、デブール兄弟らアヤックス時代の愛弟子を中心にレギュラー選手の半数近くでオランダ人選手を起用し、その方針はバルセロナ地元紙などで酷評された。バイエルンでは[[マルク・ファン・ボメル]]をキャプテンに任命したが、ドイツ人でない選手がキャプテンになることはバイエルン史上初めてのことであった。若手選手を積極的に起用する傾向がある。2度のバルセロナ監督時代には10代の頃の[[シャビ]]や[[アンドレス・イニエスタ]]をカンテラからトップチームに引き上げて重用した。バイエルンではトップチーム昇格一年目の[[トーマス・ミュラー]]、[[ホルガー・バトシュトゥバー]]をレギュラーに抜擢し成果を上げたが、[[ルカ・トーニ]]、[[ルシマール・ダ・シウヴァ・フェレイラ|ルシオ]]など実績のあるベテランを冷遇し彼らの退団へと繋がった。 |
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試合中、自チームの勝敗に関わらずベンチで熱心にメモを取る姿がしばしば見られる。[[FCバルセロナ|バルセロナ]]監督時代には、ファンから「落書きは便所でしろ!」と野次を受けた事もあった。 |
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⚫ | バルセロナ監督時代にヨハン・クライフから批判された経緯から、クライフを「一生許さない」というほどの対立関係である。ロナルド・クーマンとはアヤックスのテクニカル・ディレクター時代に対立したが、2012年のオランダ代表監督就任を契機に和解したと見られており、代表選手の多く所属するフェイエノールトの監督であるクーマンとは多く連絡を取っている<ref>http://www.ad.nl/ad/nl/1049/Oranje/article/detail/3347975/2012/11/14/Koeman-en-Van-Gaal-kunnen-het-prima-vinden.dhtml</ref>。ステレオタイプ、規律に厳しく自信過剰のイメージがつきまとうが、バイエルン・ミュンヘン時代を経て2度目のオランダ代表監督就任後は「父親役」として若い代表選手たちと熱心にコミュケーションを取り、オランダメディアからも成長を評価されている<ref>http://www.ad.nl/ad/nl/1049/Oranje/article/detail/3347894/2012/11/14/Ludwig-von-Gaal-wordt-Van-Gaal-2-0-een-en-al-Freundlichkeit.dhtml</ref>。 |
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漫画『[[キャプテン翼#キャプテン翼 ROAD TO 2002|キャプテン翼 ROAD TO 2002]]』の登場人物である[[キャプテン翼の登場人物#ヨーロッパ (2)|エリック・ファンサール]]のモデルである<ref name = "FOOTBALL CHANNEL"/>。 |
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また若手選手を積極的に起用する傾向がある。2度のバルセロナ監督時代には10代の頃の[[シャビ]]や[[アンドレス・イニエスタ]]をカンテラからトップチームに引き上げて重用した。バイエルンではトップチーム昇格一年目の[[トーマス・ミュラー]]、[[ホルガー・バトシュトゥバー]]をレギュラーに抜擢し成果を上げたが、[[ルカ・トーニ]]、[[ルシマール・ダ・シウヴァ・フェレイラ|ルシオ]]など実績のあるベテランを冷遇し彼らの退団へと繋がった。 |
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バルセロナ監督時代にヨハン・クライフから批判された経緯から、クライフを「一生許さない」というほどの対立関係である。 |
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ロナルド・クーマンとはアヤックスのテクニカル・ディレクター時代に対立したが、2012年のオランダ代表監督就任を契機に和解したと見られており、代表選手の多く所属するフェイエノールトの監督であるクーマンとは多く連絡を取っている<ref>http://www.ad.nl/ad/nl/1049/Oranje/article/detail/3347975/2012/11/14/Koeman-en-Van-Gaal-kunnen-het-prima-vinden.dhtml</ref>。 |
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== 獲得タイトル == |
== 獲得タイトル == |
2014年5月8日 (木) 11:29時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
アロイーシウス・パウルス・マリーア・ファン・ハール Aloysius Paulus Maria van Gaal | |||||
ラテン文字 | Louis Van Gaal | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | オランダ | |||||
生年月日 | 1951年8月8日(72歳) | |||||
出身地 | アムステルダム | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1971-1973 1973-1977 1977-1978 1978-1986 1986-1987 |
アヤックス ロイヤル・アントワープFC ストルムフォーヘルス・テルスター スパルタ・ロッテルダム AZアルクマール |
0 (0) 43 (7) 25 (1) 248 (26) 17 (0) | ||||
監督歴 | ||||||
1991-1997 1997-2000 2000-2002 2002-2003 2005-2009 2009-2011 2012- |
アヤックス バルセロナ オランダ代表 バルセロナ AZ バイエルン・ミュンヘン オランダ代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ルイ・ファン・ハールことアロイーシウス・パウルス・マリーア・ファン・ハール(Aloysius Paulus Maria "Louis" van Gaal、1951年8月8日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手、サッカー指導者。なおルイはアロイーシウスと同根の名である。
オランダ語のgaの発音は日本語で表記するのが不可能であり、名前の日本語表記「ハール」は便宜的なものである。また、ファーストネームのLouisは外来語扱いであるため、「ルイス」ではなくフランス語風に「ルイ」と発音するのが慣例となっている
経歴
アヤックス
スパルタ・ロッテルダムやAZでプレーし、現役引退後、1986年に古巣AZのアシスタントコーチに就任した。その後すぐにアヤックスに移り、アシスタントコーチを務めたのち1991年に監督に昇格した。多くの有望な若手オランダ人選手を率い、92年にUEFAカップを優勝し監督として初めてのタイトルを獲得すると、94年から96年までエールディヴィジを3連覇した。なかでも94-95シーズンには34試合27勝7分、得失点差78という成績で無敗優勝を達成した。さらにこの94-95シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグでも無敗優勝している。多くのタイトルを獲得し、黄金時代を築き上げた。
バルセロナ
1997年にはバルセロナの監督に就任。初年度からリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイを優勝しダブルを達成。翌98-99シーズンもリーグ優勝を果たした。しかしUEFAチャンピオンズリーグでの不振とバルサファンとの関係悪化等を理由に2000年に退任した。この最初のバルセロナ監督時代にはジョゼ・モウリーニョがアシスタントコーチを務めており、一緒に仕事をしていた。
オランダ代表・バルセロナ復帰
2000年に辞任後はオランダ代表を率いたものの、2002年の日韓W杯の出場権を逃す。その後、バルセロナ監督に復帰したが不振で辞任した。
AZ
古巣アヤックスのテクニカル・ディレクターを経て、2005年に18年ぶりにAZに復帰。2006-07シーズンは、PSVアイントホーフェンやアヤックス・アムステルダムと最終節まで優勝を争ったが、最終節で敗れ優勝はならなかった。2008-09シーズンには他の強豪が不振にあえぐ中、3試合を残して優勝を決めた。これはAZにとって28シーズンぶり2度目のリーグ優勝で、エールディヴィジの3強(アヤックス・PSVアイントホーフェン・フェイエノールト)以外のチームがリーグ優勝をするのも前回のAZのリーグ優勝以来28シーズンぶりとなる快挙であった。
バイエルン・ミュンヘン
2009年5月13日、2009-10シーズンからバイエルン・ミュンヘンの監督に就任することが発表された。初年度からブンデスリーガ、DFBポカールを優勝しダブルを達成。チャンピオンズリーグでは決勝まで進出し、かつて師弟関係にあったジョゼ・モウリーニョ率いるインテルと互いにトレブルがかかった状況で対戦したが、2-0で敗れ準優勝に終わった。翌10-11シーズンは不振に陥り、シーズン途中にシーズン終了後の退任がチームから発表されたが、チームが4位に転落したこともあって、2011年4月10日に解任された。
アヤックス
2011年11月、アヤックスのゼネラル・ディレクターに招聘することが決定する。しかし、ヨハン・クライフテクニカル・アドバイザーが、人事に異議を唱え、裁判所に提訴。12月の一審で、人事が認められず、2012年2月の異議申し立ても認められなかった。
2度目のオランダ代表
2012年7月、オランダ代表の監督に再任。
人物
サッカー界屈指の戦術家であり、選手個々の能力よりもシステムを重視する傾向がある。バルセロナ時代にはリバウド、ルイス・フィーゴ、フアン・ロマン・リケルメといった卓越したテクニックを持つ選手にも守備を強要し、軋轢を生んだ[1]。試合中、自チームの勝敗に関わらずベンチで熱心にメモを取る姿がしばしば見られる。バルセロナ監督時代には、ファンから「落書きは便所でしろ!」と野次を受けた事もあった。
オランダ国外のクラブでも、オランダ人選手を積極的に獲得し重用する傾向がある。バルセロナではパトリック・クライファート、ミハエル・ライツィハー、マルク・オーフェルマルス、デブール兄弟らアヤックス時代の愛弟子を中心にレギュラー選手の半数近くでオランダ人選手を起用し、その方針はバルセロナ地元紙などで酷評された。バイエルンではマルク・ファン・ボメルをキャプテンに任命したが、ドイツ人でない選手がキャプテンになることはバイエルン史上初めてのことであった。若手選手を積極的に起用する傾向がある。2度のバルセロナ監督時代には10代の頃のシャビやアンドレス・イニエスタをカンテラからトップチームに引き上げて重用した。バイエルンではトップチーム昇格一年目のトーマス・ミュラー、ホルガー・バトシュトゥバーをレギュラーに抜擢し成果を上げたが、ルカ・トーニ、ルシオなど実績のあるベテランを冷遇し彼らの退団へと繋がった。
バルセロナ監督時代にヨハン・クライフから批判された経緯から、クライフを「一生許さない」というほどの対立関係である。ロナルド・クーマンとはアヤックスのテクニカル・ディレクター時代に対立したが、2012年のオランダ代表監督就任を契機に和解したと見られており、代表選手の多く所属するフェイエノールトの監督であるクーマンとは多く連絡を取っている[2]。ステレオタイプ、規律に厳しく自信過剰のイメージがつきまとうが、バイエルン・ミュンヘン時代を経て2度目のオランダ代表監督就任後は「父親役」として若い代表選手たちと熱心にコミュケーションを取り、オランダメディアからも成長を評価されている[3]。
漫画『キャプテン翼 ROAD TO 2002』の登場人物であるエリック・ファンサールのモデルである[1]。
獲得タイトル
- アヤックス
- エールディヴィジ 3回 (1993/94、1994/95、1995/96)
- KNVBカップ 1回 (1992/93)
- ヨハン・クライフ・シャール 3回 (1993、1994、1995)
- UEFAチャンピオンズリーグ 1回 (1994/95)
- UEFAカップ 1回 (1991/92)
- UEFAスーパーカップ 1回 (1995)
- インターコンチネンタルカップ 1回 (1995)
- バルセロナ
- リーガエスパニョーラ 2回 (1997/98、1998/99)
- コパ・デル・レイ 1回 (1997/98)
- UEFAスーパーカップ 1回 (1997)
- AZ
- エールディヴィジ 1回 (2008/09)
- バイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ 1回 (2009/10)
- DFBポカール 1回 (2009/10)
- DFLスーパーカップ 1回 (2010)
脚注
- ^ a b 海老沢純一 (2014年5月2日). “マンU新監督候補、ファン・ハール。ファーガソン帝国を壊す“劇薬”、香川とソリ合わない可能性も”. 海外サッカー > プレミアリーグ. フットボールチャンネル. p. 2. 2014年5月8日閲覧。
- ^ http://www.ad.nl/ad/nl/1049/Oranje/article/detail/3347975/2012/11/14/Koeman-en-Van-Gaal-kunnen-het-prima-vinden.dhtml
- ^ http://www.ad.nl/ad/nl/1049/Oranje/article/detail/3347894/2012/11/14/Ludwig-von-Gaal-wordt-Van-Gaal-2-0-een-en-al-Freundlichkeit.dhtml
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