式守伊之助 (41代)
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基礎情報 | ||||
行司名 | 木村英樹 → 木村和一郎 → 11代式守勘太夫 → 41代式守伊之助 | |||
本名 | 今岡英樹(いまおかひでき) | |||
愛称 | ズッコケ行司、ワイチロス、英樹さん | |||
生年月日 | 1959年9月22日(63歳) | |||
出身 | 島根県出雲市 | |||
所属部屋 | 高田川部屋 | |||
データ | ||||
現在の階級 | 立行司(式守伊之助) | |||
初土俵 | 1975年5月 | |||
幕内格 | 2005年9月 | |||
三役格 | 2013年5月 | |||
立行司 | 2019年1月 | |||
備考 | ||||
2018年12月25日現在 |
41代 式守 伊之助(よんじゅういちだい しきもり いのすけ、1959年9月22日 - )は、大相撲の立行司。高田川部屋所属。本名は今岡 英樹(いまおか ひでき)。
人物[編集]
島根県出雲市出身。少年時代は高砂部屋の元大関前の山(8代高田川)のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行司志望だった訳ではなく(身長が160cmで力士規定に満たないため)、どうしても親方に裏方でもいいから弟子入りしたいと自己PRの手紙を書いているうち、最後の一文に「行司になりたい」と書いてしまったという[1]。
1975年5月場所、木村英樹の名で初土俵。40代式守伊之助の1場所後輩に当たる。40代伊之助より上の世代とは年齢が離れている(伊之助より1枚上だった4代木村正直(2013年1月死去)とは6歳差)ということもあり、彼とは付き合いが深いようで、新弟子時代は何度も相撲を取って勝負していたという。
2012年1月場所に、木村和一郎から11代式守勘太夫を襲名[注釈 1]。
同年5月場所千秋楽、大相撲史上初となる平幕同士の優勝決定戦となった前頭4枚目栃煌山-同7枚目旭天鵬戦(旭天鵬が勝ち初優勝)を、幕内格筆頭行司であった勘太夫が裁いた[注釈 2]。
2013年3月17日の理事会において、4月25日付で三役格に昇進することが決まった[3]。これは同年1月場所後に4代正直が亡くなったうえ、5月場所後に立行司36代木村庄之助が定年を迎えることによる。
番付序列と年齢の関係上、序列上位の立行司である40代伊之助が11代勘太夫より誕生日が3か月遅いため、11代勘太夫は立行司となり定年となる65歳まで務めあげたとしても立行司の最高位である木村庄之助を襲名することなく停年退職するものと見込まれていたが、40代伊之助が2017年冬巡業最終日に不祥事を起こしたことにより、その責任を取る形で2018年の1月場所から5月場所まで出場停止・謹慎した上、5月場所終了後の同月28日付で辞職願が受理され、同月末日付で退職した[4]。
先代伊之助退職後も立行司昇格は見送られていた[5]が、2018年9月27日の理事会で、初場所の番付発表日の12月25日付で立行司に昇格し、41代式守伊之助を襲名することが決定した[6]。定年まで勤め上げると約6年近く行司の最高位を務めることになる。
立行司に昇格後も、毎日のウォーキングにスクワット100回など、行司として取組の細部をよく見える一番良い位置に、また土俵上での攻防に巻き込まれないよう素早く移動できるよう、年齢に負けないよう鍛錬を重ねている[7]。
エピソード[編集]
- 十両格昇進時から20年間(1992年1月場所 - 2011年11月場所)名乗った行司名は木村和一郎(きむら わいちろう)であったが、その和一郎の名は前の山(8代高田川)の本名「和一」からとったものである。
- 部屋の若い力士の四股名をつけることが得意であるという。中でも剣晃の四股名は入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願って勘太夫自身が名づけたが、その剣晃は小結まで進むも30歳で病死した。
- 長男の凜太郎は、高田川部屋所属の力士・前乃勝だったが、2011年3月下旬、稽古場でクモ膜下出血で倒れ、5月の技量審査場所から休場。土俵復帰を目指していたが、2012年6月、ドクターストップが掛かり、19歳で引退した。部屋での断髪式では自ら介添え役の行司を務める一方、娘と共に餞のハサミを入れた。引退後は父の故郷である島根県出雲市で画家として活動している[8]。
- 2015年3月場所限りで37代木村庄之助が停年退職し、立行司が40代式守伊之助1人となったため、同年5月場所より現在に至るまで1日2番裁く取組のうち1番が横綱の取組となること(場所終盤で横綱同士の取組があるときは該当しない)、各場所千秋楽の「これより三役」の触れとその直後の1番を行っている[注釈 3]。
- 2017年1月場所後に、大関・稀勢の里が横綱に昇進したため、次期41代式守伊之助が誕生するまでの間、場所終盤までの裁く2番は横綱戦となる(19年前の4横綱時代、立行司は2人いたが、立行司が裁く取組は3番のため、場所終盤前までは、三役格が1番裁いた。当時裁いた行司は8代式守勘太夫[注釈 4])。
- 2019年1月場所8日目、第125代天皇明仁が在位中としては最後となる天覧相撲の結びの一番の触れで、歴代の立行司は「この相撲一番にて、結び」と言ってきたが、41代伊之助は「結びにござります」と触れあげた。その理由について、(陛下に対する敬語として)「結び」よりも「結びにござります」のほうがより丁寧な印象があるから、と取組前のNHKの取材に答えている。
- 立行司昇進後、腰に差している短刀は、兄弟子である木村玉光から託されたものである[9]。
- 2020年5月には脳梗塞で倒れ入院し、2020年7月場所は全休した。一時は歩行が困難な状態にまで陥ったが、リハビリを重ね9月場所からは行司としての復帰を果たした。
- 次に示すように軍配差し違え、また他にも土俵からの転落などのミスや失態が度々生じていることから、なかなか木村庄之助への昇進が叶わず、40代式守伊之助もミスや失態が度々生じて結局不祥事を起こして退職したこともあり、木村庄之助空位の状態が長期化する原因となっている。
軍配差し違え[編集]
- 2020年1月場所8日目 大関豪栄道-小結阿炎戦
- 阿炎が土俵際で豪栄道を叩き込んだが、豪栄道に軍配があがったため物言いがつき、差し違えとなった[10]。
- 同年3月場所14日目 横綱鶴竜-関脇朝乃山戦
- 土俵際で投げの打ち合いとなり、軍配は朝乃山に上がったが、朝乃山の肘が先についており、差し違えとなった[11]。
- 2021年1月場所11日目 平幕隠岐の海-大関正代戦
- この一番では一度目の相撲でも物言いがつき、取り直しとなった。取り直し後の相撲では、隠岐の海が正代を寄り倒したかに見え軍配も隠岐の海に上がったが、隠岐の海に勇み足があったため差し違えとなった。打ち出し後、八角理事長に口頭で進退伺を申し出たが慰留された。2019年1月場所場所の立行司昇格後、5度目の差し違え[12]。
- 同年5月場所14日目 平幕遠藤-大関照ノ富士戦
- 投げの打ち合いで両者が倒れた際、照ノ富士に軍配を上げたが、3分半にわたる協議の末、照ノ富士の肘が先についているとの判断で、軍配差し違えで遠藤の勝ちとなった。これで立行司昇格後6度目の差し違えとなった[13]。
- 2022年1月場所9日目 小結明生-大関正代戦
- 土俵際で正代がうっちゃり気味に明生を投げたものの、正代の体が明らかに先に落ちており、NHKの解説でも明生の勝ちと放送した。しかし伊之助の軍配は正代に上がり、物言いの結果、軍配差し違えで明生の勝ちとなった。伊之助は「明生が勝ったのは分かっていたけど、東西が分からなかった」と説明した。立行司が一場所中に二度目の差し違いをする異例の事態となった。これに対して八角理事長は、「(4日目の)勇み足は仕方ないけど、今日のはしっかりしなければ駄目だ」などと苦言を呈した[14]。取組後、進退伺を協会に提出したが、八角理事長から慰留を受けた[15]。際どい相撲でないにも拘らず差し違えたことから、一部相撲ファンからも進退論が取り沙汰された[16]。
- 同年3月場所3日目 平幕宇良-横綱照ノ富士戦
- 照ノ富士が宇良を押し込んだが、宇良が肩透かしに行ったため土俵際でもつれ、ほぼ同時に土俵を割った。伊之助は照ノ富士の足が先に出たと見て宇良に軍配を挙げたが、物言いがつき、協議の結果、宇良の踵が先に土俵を割っていたとして軍配差し違えとなった。これで立行司昇格後9回目、実質的な首席として結びの一番を裁くようになってから12回目の差し違え[17]。
疑惑の二番[編集]
- 2022年5月場所8日目 小結豊昇龍-大関正代戦
- 同年同場所9日目 関脇若隆景-大関貴景勝戦
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ これまでの勘太夫の襲名は、式守與之吉を経て襲名することがほとんどであったが、與之吉を経ず襲名し、大相撲関係者を驚かせた。しかし、前例のケースを経ず襲名するのは、40代式守伊之助(木村吉之輔→11代式守錦太夫。錦太夫は、通常、式守慎之助を経て襲名)のパターンがある。
- ^ 優勝決定戦に於いては出場力士の番付最上位の格に合う行司が裁くという規定があるため。この時の栃煌山対旭天鵬戦の場合は共に平幕力士による優勝決定戦であったことから、その当時、幕内格行司の筆頭であった11代勘太夫が務めた[2]。
- ^ これより三役の残り2番は式守伊之助が合わせる。よって、勘太夫は役相撲にかなう力士(勝ち力士)に懸賞がかかっている場合は懸賞金と弓矢の矢を手渡す。
- ^ ただし、当時の29代式守伊之助が体調不良等での休場が続き、2番裁くことが比較的多かった。その場合は、2代木村容堂が1番裁く。
出典[編集]
- ^ “行司の頂点、新・式守伊之助 差し違えなら「切腹」覚悟:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2019年1月21日閲覧。
- ^ 優勝決定戦 相撲記者・佐々木一郎
- ^ “相撲協会が理事会”. 日刊スポーツ (2013年3月17日). 2013年3月17日閲覧。
- ^ “セクハラ式守伊之助の辞職で24年ぶり立行司不在に”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2018年6月1日) 2018年6月4日閲覧。
- ^ 次期立行司昇格に向けての最初の場所初日に土俵裁きでいきなりの差し違えや軍配の迷いが時折あったり、他の三役行司も差し違い等があり、立行司に求められる点での失点があり、すぐには決まらなかった。勘太夫本人も「手つき不十分」での行司待ったでは体を張って両力士の間に割って止めるなど、筆頭行司としての役目はしっかり果たしていた。
- ^ “三役格行司の式守勘太夫が41代式守伊之助に昇進”. 日刊スポーツ. (2018年9月27日) 2018年9月27日閲覧。
- ^ “41代式守伊之助59歳 日課はスクワット100回 - 大相撲裏話 - 相撲・格闘技コラム : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2019年1月28日閲覧。
- ^ “元力士、絵画とがっぷり四つ 父の故郷で再出発”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2018年5月2日) 2019年3月2日閲覧。
- ^ “伊之助 兄弟子継ぐ短刀”. 朝日新聞デジタル (2019年1月28日). 2022年1月18日閲覧。
- ^ “立行司の式守伊之助、結びの一番で軍配差し違え謝罪 - 大相撲 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2022年9月26日閲覧。
- ^ “立行司の式守伊之助、4度目の軍配差し違えで進退伺 - 大相撲 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2022年9月26日閲覧。
- ^ 結び正代戦差し違え式守伊之助が進退伺 理事長慰留 日刊スポーツ 2021年1月20日20時33分 (2021年1月21日閲覧)
- ^ “立行司の式守伊之助が進退伺、照ノ富士―遠藤戦で差し違え”. 読売新聞オンライン (2021年5月22日). 2022年1月18日閲覧。
- ^ “式守伊之助また軍配差し違え「しっかりしなければ駄目だ」八角理事長”. 日刊スポーツ (2022年1月17日). 2022年1月18日閲覧。
- ^ 第41代式守伊之助が1場所2度の差し違え 打ち出し後に進退伺い提出も理事長慰留 Sponichi Annex 2022年1月17日 19:54 (2022年1月20日閲覧)
- ^ 大相撲、また正代戦でミス「わざとやってんのか」厳しい指摘も 八角理事長も苦言、相次ぐ差し違え・接触に引退待望論も リアルライブ 2022年01月18日 15時30分 (2022年3月26日閲覧)
- ^ “式守伊之助が結びで軍配差し違え 大相撲、八角理事長に進退伺(共同通信)”. Yahoo!ニュース. 2022年9月26日閲覧。
- ^ a b c 大乱調の五月場所で微妙な判定続出…大相撲審判に「物言いつけろ」の声声声
- ^ a b c 夏場所の誤審騒動 なぜ物言いがつかなかったのか、なぜビデオ係は指摘できなかったのかを検証
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