式守伊之助 (41代)

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41代式守伊之助
41st Shikimori Inosuke
Sumo pictogram.svg
Shikimori Kandayu 11 IMG 5570-2 20170304.jpg
住吉大社での横綱土俵入りにて
(2017年3月4日)
基礎情報
行司名 木村英樹 → 木村和一郎 → 11代式守勘太夫 → 41代式守伊之助
本名 今岡英樹(いまおかひでき)
生年月日 (1959-09-22) 1959年9月22日(60歳)
出身 島根県出雲市
所属部屋 高田川部屋
データ
現在の階級 立行司(式守伊之助)
初土俵 1975年5月
幕内格 2005年9月
三役格 2013年5月
立行司 2019年1月
備考
2018年12月25日現在

41代式守 伊之助(しきもり いのすけ、1959年9月22日 - )は、大相撲立行司高田川部屋所属。本名は今岡 英樹(いまおか ひでき)。

人物[編集]

島根県出雲市出身。少年時代は高砂部屋の元大関前の山(8代高田川)のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行司志望だった訳ではなく(身長が160cmで力士規定に満たないため)、どうしても親方に裏方でもいいから弟子入りしたいと自己PRの手紙を書いているうち、最後の一文に「行司になりたい」と書いてしまったという[1]

1975年5月場所、木村英樹の名で初土俵[注釈 1]40代式守伊之助の1場所後輩に当たる。40代伊之助より上の世代とは年齢が離れている(伊之助より1枚上だった4代木村正直(2013年1月死去)とは6歳差)ということもあり、彼とは付き合いが深いようで、新弟子時代は何度も相撲を取って勝負していたという。

大柄な体格が印象的で、ニワトリの首を絞めたような、やや詰まり気味で太めの掛け声が特徴である[要出典]椎間板ヘルニアによる休場が稀にあるが、裁きそのものは全般的に無難にこなしている。しかし、時折土俵下に転落や土俵上で転倒してしまったり、負けた力士に軍配を挙げてしまう等、近年は不運にも悩まされている。

2012年1月場所に、木村和一郎から11代式守勘太夫を襲名[注釈 2]

同年5月場所千秋楽、大相撲史上初となる平幕同士の優勝決定戦となった前頭4枚目栃煌山-同7枚目旭天鵬戦(旭天鵬が勝ち初優勝)を、幕内格筆頭行司であった勘太夫が裁いた[注釈 3]

2013年3月17日の理事会において、4月25日付で三役格に昇進することが決まった[3]。これは同年1月場所後に4代正直が亡くなったうえ、5月場所後に立行司36代木村庄之助が定年を迎えることによる。

番付序列と年齢の関係上、序列上位の立行司である40代伊之助が11代勘太夫より誕生日が3か月遅いため、11代勘太夫は立行司となり定年となる65歳まで務めあげたとしても立行司の最高位である木村庄之助を襲名することなく停年退職するものと見込まれていたが、40代伊之助が2017年冬巡業最終日に不祥事を起こしたことにより、その責任を取る形で2018年の1月場所から5月場所まで出場停止・謹慎した上、5月場所終了後の同月28日付で辞職願が受理され、同月末日付で退職した[4]

先代伊之助退職後も立行司昇格は見送られていた[5]が、2018年9月27日の理事会で、初場所の番付発表日の12月25日付で立行司に昇格し、41代式守伊之助を襲名することが決定した[6]。停年まで勤め上げると約6年近く行司の最高位を務めることになる。

立行司に昇格後も、毎日のウォーキングにスクワット100回など、行司として取組の細部をよく見える一番良い位置に、また土俵上での攻防に巻き込まれないよう素早く移動できるよう、年齢に負けないよう鍛錬を重ねている[7]

エピソード[編集]

  • 十両格昇進時から20年間(1992年1月場所 - 2011年11月場所)名乗った行司名は木村和一郎(きむら わいちろう)であったが、その和一郎の名は前の山(8代高田川)の本名「和一」からとったものである。
  • 部屋の若い力士の四股名をつけることが得意であるという。中でも剣晃の四股名は入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願って勘太夫自身が名づけたが、その剣晃は小結まで進むも30歳で病死した。
  • 高田川部屋所属の力士・前乃勝は長男だったが、2011年3月下旬、稽古場でクモ膜下出血で倒れ、5月の技量審査場所から休場、土俵復帰を目指していたが、2012年6月、ドクターストップが掛かり、19歳で引退、部屋での断髪式では自ら介添え役の行司を務める一方、娘と共に餞のハサミを入れた。引退後は父の故郷である島根県出雲市で画家として活動している[8]
  • 2009年1月場所の9日目、前頭7枚目北勝力-同9枚目土佐ノ海の取組中に北勝力の足に躓き、土俵下に転落した。すぐに土俵に戻り、軍配を挙げることはできたが、会場は爆笑に包まれた。これは、翌日のスポーツ紙に掲載されるほどの珍事であった。
  • 2013年5月場所5日目、前頭3枚目宝富士-同4枚目碧山戦で、碧山が宝富士を引き落としに破ったが、勘太夫は碧山に「宝富士~」と四股名を誤って勝ち名乗りを上げてしまい、いったん土俵下に降りた碧山を呼び戻し、改めて勝ち名乗りを上げ直した[9]。碧山は初日から5連勝であったが、なぜか翌日から白星に見放され千秋楽まで10連敗し、この場所5勝10敗の成績であった。
  • 同年9月場所3日目、関脇妙義龍-小結髙安戦で、髙安が左上手からの上手捻りで妙義龍を横転させた際、妙義龍の足が勘太夫に危うく接触しかけたが、避ける間もなくバランスを崩し自らも倒れるハプニングがあった[10]
  • 2015年1月場所14日目、および同年3月場所14日目の照ノ富士-逸ノ城戦で、2場所連続水入りとなる取り組みを裁いたが、足の位置を決める動作は良かったものの(1月場所は水入りの場合の確認手順不足もあり、足の位置も十分な確認はとれていないまま水に分かれてしまった)、水入り前の両者の廻しの位置の確認が十分ではない状態で勝負を再開してしまった[注釈 4]
  • 2015年3月場所限りで37代木村庄之助が停年退職し、立行司が40代式守伊之助1人となったため、同年5月場所より現在に至るまで1日2番裁く取組のうち1番が横綱の取組となること(場所終盤で横綱同士の取組があるときは該当しない)、各場所千秋楽の「これより三役」の触れとその直後の1番を行っている[注釈 5]
  • 2017年1月場所後に、大関・稀勢の里が横綱に昇進したため、次期41代式守伊之助が誕生するまでの間、場所終盤までの裁く2番は横綱戦となる(19年前の4横綱時代、立行司は2人いたが、立行司が裁く取組は3番のため、場所終盤前までは、三役格が1番裁いた。当時裁いた行司は8代式守勘太夫[注釈 6])。
  • 2018年1月場所初日、横綱稀勢の里-小結貴景勝[11]、同年7月場所12日目、関脇御嶽海-大関髙安戦、同年11月場所4日目、横綱稀勢の里-平幕栃煌山戦でそれぞれ物言いがつき、協議の結果、行司軍配差し違えとなった。
  • 2019年1月場所5日目、横綱白鵬ー平幕錦木戦で、取り直しとなった一番で俵でバランスを崩し土俵下に転落するも、勝負が決まる瞬間はしっかり見ており、転落しながらも軍配を離すことなく、また差し違えることなく白鵬に軍配を上げた。
  • 2019年1月場所8日目、第125代天皇明仁が在位中としては最後となる天覧相撲の結びの一番の触れで、歴代の立行司は「この相撲一番にて、結び」と言ってきたが、41代伊之助は「結びにござります」と触れあげた。その理由について、(陛下に対する敬語として)「結び」よりも「結びにござります」のほうがより丁寧な印象があるから、と取組前のNHKの取材に答えている。

20年ぶりの「三役格行司」の結びの一番[編集]

  • 2015年11月場所、8日目から3日間の出場停止となった40代式守伊之助に代わり、結びまでの2番を裁いた。立行司以外が結びの一番を裁くのは、木村庄之助式守伊之助が不在だった1994年3月場所以来[12]
  • 2度目は、2017年5月場所7日目から10日目まで、立行司40代式守伊之助が咽頭炎のため休場[注釈 7]。それに伴い、2015年11月場所9日目以来となる、結び2番を裁くことになった。なお、11日目より40代伊之助が復帰したため、1994年3月場所以来、23年ぶりとなる「三役格行司」が千秋楽の触れを行うことはなかった[注釈 8]
  • 3度目は、2018年1月場所は前述の通り立行司40代式守伊之助が不祥事により出場停止のため、再び結び2番を裁くことになり、23年ぶりに「三役格行司」が千秋楽の触れを行った。40代伊之助は不祥事発覚直後に提出していた辞職願が出場停止処分が明けた5月末日をもって正式に受理され、退職した。そのため7月場所からは番付上でも立行司が空位となり、2019年1月場所に41代式守伊之助を襲名するまでの間、三役格筆頭行司として結び2番を裁くこととなった。

経歴[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ この名は北勝力(現谷川)の本名と同じ。
  2. ^ これまでの勘太夫の襲名は、式守與之吉を経て襲名することがほとんどであったが、與之吉を経ず襲名し、大相撲関係者を驚かせた。しかし、前例のケースを経ず襲名するのは、40代式守伊之助(木村吉之輔→11代式守錦太夫。錦太夫は、通常、式守慎之助を経て襲名)のパターンがある。
  3. ^ 優勝決定戦に於いては出場力士の番付最上位の格に合う行司が裁くという規定があるため。この時の栃煌山対旭天鵬戦の場合は共に平幕力士による優勝決定戦であったことから、その当時、幕内格行司の筆頭であった11代勘太夫が務めた[2]
  4. ^ 両者の態勢の最終的な決定はビデオ室からの情報を基に勝負審判が決めることとなっているため、行司が勝負審判(特に正面審判長)の了解なしの状況では勝負再開はできないが、勝負審判が体勢不十分のまま取組再開の合図を出してしまったため。
  5. ^ これより三役の残り2番は式守伊之助が合わせる。よって、勘太夫は役相撲にかなう力士(勝ち力士)に懸賞がかかっている場合は懸賞金と弓矢の矢を手渡す。
  6. ^ ただし、当時の29代式守伊之助が体調不良等での休場が続き、2番裁くことが比較的多かった。
  7. ^ 伊之助の声の不調は初日からであったが、日を追うにつれ悪化し、休場前日の6日目は伊之助本来の甲高い発声と程遠い声で異変に気付く人も多かった。
  8. ^ 当時、千秋楽の触れを行ったのは、序列上位であった3代木村善之輔(後の29代式守伊之助)。

出典[編集]

  1. ^ 行司の頂点、新・式守伊之助 差し違えなら「切腹」覚悟:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2019年1月21日閲覧。
  2. ^ 優勝決定戦 相撲記者・佐々木一郎
  3. ^ 相撲協会が理事会”. 日刊スポーツ (2013年3月17日). 2013年3月17日閲覧。
  4. ^ “セクハラ式守伊之助の辞職で24年ぶり立行司不在に”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. (2018年6月1日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201806010000159.html 2018年6月4日閲覧。 
  5. ^ 次期立行司昇格に向けての最初の場所初日に土俵裁きでいきなりの差し違えや軍配の迷いが時折あったり、他の三役行司も差し違い等があり、立行司に求められる点での失点があり、すぐには決まらなかった。勘太夫本人も「手つき不十分」での行司待ったでは体を張って両力士の間に割って止めるなど、筆頭行司としての役目はしっかり果たしていた。
  6. ^ “三役格行司の式守勘太夫が41代式守伊之助に昇進”. 日刊スポーツ. (2018年9月27日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201809270000765.html 2018年9月27日閲覧。 
  7. ^ 41代式守伊之助59歳 日課はスクワット100回 - 大相撲裏話 - 相撲・格闘技コラム : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. 2019年1月28日閲覧。
  8. ^ “元力士、絵画とがっぷり四つ 父の故郷で再出発”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2018年5月2日). https://mainichi.jp/articles/20180502/k00/00e/040/304000c 2019年3月2日閲覧。 
  9. ^ 碧山 行司に 宝富士と呼ばれる - YouTube
  10. ^ 妙義龍vs高安 2013/9/17 - YouTube
  11. ^ この日は40代伊之助が不祥事により出場停止になり、実質的に筆頭行司としての「初日」に差し違えという痛恨の「黒星」となってしまった。
  12. ^ 式守勘太夫が結びの裁き 伊之助の出場停止で代役:日本経済新聞
先代:
40代式守伊之助
式守伊之助 (41代)
2019年 -
次代:
(襲名中)