リッチー・ブラックモア

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リッチー・ブラックモア
Ritchie Blackmore
Ritchie Blackmore in 2016.jpg
(2016年6月)
基本情報
出生名 Richard Hugh Blackmore
生誕 (1945-04-14) 1945年4月14日(71歳)
出身地 イングランドの旗 イングランドサマセット
ジャンル ハードロック
ヘヴィメタル
フォーク・ロック
プログレッシブ・ロック
ブルースロック
サイケデリック・ロック
職業 ミュージシャン
ギタリスト
作曲家
担当楽器 ギター
活動期間 1961年 - 現在
共同作業者 ディープ・パープル
レインボー
ブラックモアズ・ナイト
公式サイト http://www.blackmoresnight.com/
J.S.バッハ
ジミ・ヘンドリックス
ダス・ガイヤー・シュワッサー・ハウフェン

リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 本名:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア),1945年4月14日 - )は、イギリス出身のギタリストアメリカ合衆国在住。ミドル・ネームがハロルド(Harold)と表記されることも多いが、誤りである。身長179cm。

ディープ・パープルの元メンバーとして有名。その後、別のロックバンド・レインボーを率いた。現在はフォーク・ロック・プロジェクト、ブラックモアズ・ナイトで活動している。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第55位、2011年の改訂版では第50位。2016年、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入り。

概要[編集]

1970年代はブルース・ロック全盛期にありながらロック・ギターにクラシック音楽フレーズを導入。ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」、「スピード・キング」など多くの演奏を録音。

また、ストラトキャスターの多用、ステージの最後でのギター破壊など、彼のステージパフォーマンスは、ハードロック、ヘヴィメタルにおけるギターヒーロー像として現在にも受け継がれている。

幼少時代[編集]

イングランド西部の保養地、サマセットウェストン=スーパー=メアで生まれ、ロンドン近郊ミドルセックス州ヘストンで育つ。

11歳の誕生日に、当時の価格で7ポンドスパニッシュ・ギターを父親からプレゼントされ、その後、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)[1]

14歳の時、初めてエレクトリックギターカール・ヘフナー (Höfner)・クラブ=50を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。こうしてエレクトリックギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、ビッグ・ジム・サリヴァンに師事し[1]、ギターの腕前を向上させていった。

下積み時代[編集]

1960年、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れる。その後、学校を卒業した彼はロンドンヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。またこの頃から、スキッフル・バンドのザ・ドミネイションズザ・サフォナイツザ・デトネイターズマイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズといったローカル・バンドでセッションを行っていた[1]

その後、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、スター・クラブ (Star-Club) でスクリーミング・ロード・サッチ と出会い、セッションを行った。さらに後日、リッチーを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドであるロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり[1]、このバンドに在籍した2年間、ロード・サッチは、実力はあっても地味な印象しかなかったリッチー・ブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要請した[2]。ロード・サッチとのセッションと平行して、テルスター (Telstar) のヒットで知られるトーネイドーズ (The Tornados) のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。

1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、トム・ジョーンズや上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トーネイドーズのベーシストでもあった歌手ハインツ・バート (Heinz) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ジョー・ミークの関連でジ・アウトローズ(The Outlaws) に加入した。アウトローズはメインとしてレコードを出す傍ら、上記のハインツやジーン・ビンセント (Gene Vincent)の伴奏も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドであるハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズにリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。ジェフ・ベックジミー・ペイジと短期間セッションを行ったのもこの頃である。

1966年、二人の友人とハンブルクに再々渡航し、スリー・マスケティアーズを結成するが、すぐに解散、さらにマンドレイク・ルートというバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイスと知り合ってもいる。

ディープ・パープル時代[編集]

ディープ・パープル時代 (1971年)

1967年、当時サーチャーズドラムスボーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがリッチー・ブラックモアとフラワー・ポットメン (The Flower Pot Men) のバック演奏を務めていたキーボード・プレイヤーのジョン・ロードである。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、ボビー・クラーク(ドラマー)、デイヴ・カーティス(ベーシスト)を加えて、ラウンドアバウトというバンド名でとりあえず結成した。しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ボーカルにロッド・エヴァンスが加入、さらに、その時に付いて来たイアン・ペイスがボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「ディープ・パープル」に改め、アメリカの新興レコード会社、テトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「ディープ・パープル」を参照)。

ディープ・パープル再結成時(1984年)

リッチー自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。1975年6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的嗜好の食い違いなどから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた(その後はスティーヴ・モーズが加入している)。

レインボー時代[編集]

レインボー時代のリッチー。Live in Norway, 1977

1975年、ボーカルのロニー・ジェイムス・ディオ及びエルフを吸収する形でレインボー(当初はRitchie Blackmore's Rainbow)を結成。当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ブルースロックと中世的な音楽の両方を取り入れたハードロックを目指していた。セカンド・アルバムでボーカル以外のメンバーを入れ替え(特にドラマーとしてコージー・パウエルを迎え入れ)、最初の黄金時代を迎えるが、その後もメンバー交代が次々に行われた(以降のバンド自体の概要/活動歴は「レインボー」を参照)。合意形成型のディープ・パープルと違って、実質リッチーのワンマン・バンドだった。1984年に活動を休止。

1995年にはリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義のアルバム『孤高のストレンジャー』をリリースしているが、以前のメンバーはほとんど含まれなかった(ツアー・メンバーとして元メンバーのドラマーであるチャック・バーギが参加したのみ)。1997年にレインボーは活動を停止。

ブラックモアズ・ナイト - 現在[編集]

ブラックモアズ・ナイト - N.Y.公演(2012年)

1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成(その後結婚。リッチーにとっては4度目の結婚となる。#結婚歴参照)。 イギリス中世の音楽を現代風にアレンジした音楽である。 

リリースしたアルバムのいくつかがロシア、ドイツ、チェコでゴールドディスクを獲得している。アメリカ・イギリスでは殆どヒットしていないがニューエイジ賞やニューエイジ部門ベストヴォーカリスト賞などを獲得している。日本ではファーストアルバムが10万枚近く売れたが、その後のアルバム販売枚数はリリース毎で減少傾向にある[3]。現在までライブを含め9枚のアルバムを発表している。


(2012年)
2010年代以降

2015年7月、音楽媒体のインタビューで「来年の6月に、Rock(HR/HM)の欧州公演を企画している。それはレインボーディープ・パープルになる」と明かした。70歳になり、まだ体が動ける間の考慮と、ノスタルジアな気持ちになったのが大きな理由だと述べている[4]。本人の公式Facebookページでは、ツアーのポスター画像が公開され、ここではリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)名義で表記された[5]。その後、ツアーメンバーが発表され[6]、ドイツで2公演(モンスターズ・オブ・ロック)、イングランドで1公演が決定した[7]

2016年2月、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入りが決定。しかしパープルサイドが共演を拒否したこtpにより、受賞式には出席せず「実際、殿堂入りには全く興味ないと語っていた事がある」[8]

2016年6月、レインボー名義で、全3回の公演を実施[9]。リッチーは「反応次第では、まだ継続する可能性がある」と含みを残した[10]

音楽性[編集]

それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナーを取り入れ、クラシック曲も大胆に取り入れる等、音楽表現の拡大に寄与したとされている。 作曲家としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の多くを中心となって作ったとされている。

プロとしてプレイし始めた頃からDeep Purple第一期にかけては、ジムサリバンの影響が色濃く残っていたが、ブルース・ブレイカーズ~クリームでのエリック・クラプトンに影響を受け、ブルースロック的なテクニック、ベンディングや大きなヴィヴラートを自らのプレイに取り入れている(ハンドヴィヴラートはリッチー本人がクラプトンから直接習ったが、習得するのに数年かかったと語っている)。こうしてイン・ロック以降のスタイルを確立した。

使用機材[編集]

愛用のフェンダー・ストラトキャスター(1985年)

ハード・ロック演奏時に於ける使用楽器はラージヘッド仕様のフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップ・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する[11]ピックアップのワイアリングを換えるなどの改造[12]が施されていた。

ディープ・パープル初期は、ギブソン・ES-335を平行して使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、全面的にストラトキャスター[13]を使用している。ディープ・パープル再結成以降から近年ではアームはほとんど使用していない。95年のYOUNG GUITAR誌でのインタビューによれば「あの頃(活動初期)はアームを使うプレーヤーがあまり居なかったが、現在は多く用いられるようになったので止めた」と発言している。
エフェクターは1970年頃、イギリス製ホーンビー・スキューズ(Hornby Skewes) のトレブル・ブースター[14]を入手、第2期終盤まで使用。ダラス・アービターのファズフェイスを1969年から1971年頃まで使用していた[15]。1973年頃からアイワオープンリール・テープデッキTP-1011[16]を、改造しエコーマシンとして、1977年からモーグのベースペダル・タウラス・ペダル・シンセサイザー(TAURUS Ⅰ)[17]を使用している。アンプはマーシャルの200Wアンプ[18]を好んで使用していたが、再結成レインボー以降ではENGL社のハイゲインアンプが気に入り、現在まで多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」[19]と呼ばれる物を長年愛用している。

ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏している。

結婚歴[編集]

妻キャンディス・ナイト(2009年)

1960年代前半、ドイツのハンブルクでマーギットという女性と最初に結婚している。このマーギットとの間に1964年に生まれたのが、一時期アイアン・エンジェル (Iron Angel) のギタリストであったユルゲン・リヒャルト・ブラックモア。ユルゲンは現在、元レインボーのジョー・リン・ターナーなどと結成した新バンド「オーヴァー・ザ・レインボー」(Over the Rainbow)で活動している[20]

2度目の結婚は1969年9月で、同じくドイツ人女性のバブス・ハーディー(本名はバーベル)[21]

3度目の結婚は1981年5月で、エイミー・ロスマンという女性と結婚した[22]

ブラックモアズ・ナイトで活動をともにしているキャンディス・ナイトとは1989年から付き合い始め、1991年から同棲していたが、1994年に婚約し[23]、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した[24]。この26歳も年下の相手との間に、2010年生まれた娘がオータム・エスメラルダ・ブラックモア。

参考文献[編集]

  • 三木千寿 (1977年). リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞. シンコー・ミュージック. 
  • リッチー・ブラックモア研究会, ed (1993年). 『リッチー・ブラックモア ディープ・パープル編 / レインボー編』. シンコー・ミュージック. 
  • 天才ギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』. シンコー・ミュージック. (1998年). 
  • シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ . シンコー・ミュージック. (2008年). 

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』より。
  2. ^ 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』によれば、この経験は、その後のショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成に大きく貢献している。
  3. ^ 酒井康 (2003-06-04), Ghost of a Roseの日本語版ライナーノーツ, ヤマハミュージック, p. 5 
  4. ^ リッチー・ブラックモア、ついにレインボー&ディープ・パープル公演ジョー・リン・ターナー「リッチー・ブラックモアと何かやる」 - Barks
  5. ^ Ritchie Blackmore Official facebook
  6. ^ リッチー・ブラックモアのハードロック回帰は限定的、新生レインボーでワールドツアーやアルバムはないと発言 - amass
  7. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、いよいよ再復活 - BARKS
  8. ^ リッチー・ブラックモア、ロックの殿堂入り欠席を正式に表明 - Barks
  9. ^ 夢にまで見た、これが新生レインボー - BARKS
  10. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、「Burn」をプレイ - BARKS
  11. ^ 初期は鉄製の太い物へ、中期以降はステンレスへ交換。
  12. ^ 1975年頃、レインボー時代の電飾『虹』に起因するノイズ対策の為、ジョン・ドーク・スティルウェルがPUコイルのリワイア、ワックス含浸とピックガード裏全体に銅版シールドの改造を行った。Dawk Sound Limited
  13. ^ 年式は特に拘っていないが、1968年製の貼りメイプルBLK、1971年製のワンピース・メイプルSB、1972年製のナチュラル・メイプルを初期に愛用、中期以降は1974年製のホワイト・ローズを中心に愛用。
  14. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ P116~P117 参照 ISBN 978-4-401-63258-9
  15. ^ アルバム『DEEP PURPLE IN ROCK』、『FIREBALL』でそのサウンドが聴ける。
  16. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ P100, P118~122から引用 ISBN 978-4-401-63258-9
  17. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ P101、P116参照 ISBN 978-4-401-63258-9
  18. ^ アンプヘッドMARSHALL MAJOR - MODEL 1967改良版を1968年に入手、1993年の再脱退まで使用。
  19. ^ 本人は野球が嫌いなので五角形と呼んでいる。
  20. ^ BIO”. Official Site of J.R.Blackmore. 2010年7月15日閲覧。
  21. ^ Events 1969”. Sixties City. 2010年5月24日閲覧。
  22. ^ DPAS Magazine Archive. Darker Than Blue, 1981”. 2010年5月24日閲覧。
  23. ^ Between Us”. Candice Night Official Website (2006年7月). 2010年5月24日閲覧。
  24. ^ “RITCHIE BLACKMORE, Longtime Girlfriend CANDICE NIGHT Tie The Knot”. Blabbermouth.net. (2008年10月13日). http://www.roadrunnerrecords.com/blabbermouth.net/news.aspx?mode=Article&newsitemID=106777 2010年5月24日閲覧。 

外部リンク[編集]