エルフ (バンド)
エルフ Elf | |
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別名 |
The Electric Elves The Elves |
出身地 |
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ジャンル |
ブルースロック ハード・ロック |
活動期間 | 1967年 - 1975年 |
レーベル |
エピック・レコード MGMレコード |
共同作業者 | レインボー |
旧メンバー |
ロニー・ジェイムス・ディオ ニック・パンタス デヴィッド・フェィンスティン ダグ・サーラー ミッキー・リー・ソウル ゲイリー・ドリスコール スティーヴ・エドワーズ クレイグ・グルーバー マーク・ナウシーフ |
エルフ(Elf)は、アメリカ合衆国のハード・ロック・バンド。1967年、ニューヨーク州コートランドで結成。結成メンバーは、ボーカルとベースにロニー・ジェイムス・ディオ、キーボードのダグ・サーラー、ドラムスにゲイリー・ドリスコール、そしてギターにデヴィッド・フェィンスティンとニック・パンタス。当初はThe Electric Elvesというバンド名だったが、その後、省略してThe Elvesとなり、最終的にさらに短くElfとなった。
概要[編集]
実際に活動していた時期はあまり知名度は高くなかったが、消滅した途端に「レインボー」の母体として、またロニー・ジェイムス・ディオの出身バンドとして、世界中のハード・ロック・ファンから注目を浴びる…というやや皮肉な境遇を辿った。ただディオのメロイック・サインとともにエルフ消滅後、グループに加わったメンバーのニューヨーク界隈のヘヴィメタル、スラッシュ・メタルシーンに影響を与えた功績は大きい。
略歴[編集]
1970年にギタリストのニック・パンタスが交通事故で死亡し、メンバーを加えずに活動するようになる。さらにダグ・サーラーがグループを去り、ミッキー・リー・ソウルがバンドに加わる。
1972年、当時ディープ・パープルのメンバーだったイアン・ペイスとロジャー・グローヴァーが彼らの演奏を観て気に入り、2人の共同プロデュースによりパープル・レコーズ(Purple Records) からファースト・アルバム『エルフ』をリリースする。そしてディープ・パープルのアメリカ国内ツアーのオープニング・アクトを務める。この時のメンバーは、
- ロニー・ジェイムス・ディオ(当初は本名の「ロナルド・パダヴォナ」とクレジットされていた[1]) - ボーカル、ベース
- デヴィッド・フェンスティン - ギター
- ゲイリー・ドリスコール - ドラムス
- ミッキー・リー・ソウル - キーボード
1973年、ロニー・ジェイムス・ディオがボーカル専任となり、クレイグ・グルーバーがベーシストとして加入、デヴィッド・フェンスティンが抜けて、新任のギタリストとしてスティーヴ・エドワーズが加入した。このメンバーで同年10月に再スタートした。
1974年3月、ロジャー・グローヴァーのプロデュースによりセカンド・アルバム『キャロライナ・カウンティ・ボール』をリリース。ディープ・パープルのイギリス・ツアーのサポートも務めるなど、序々にキャリアを積み、知名度を高めていく。
同年暮れからサード・アルバム『バーン・ザ・サン』のレコーディングを開始したが、ほぼ同時期にリッチー・ブラックモアがエルフともにソロ・シングルのレコーディングを進めたため、一部の音楽マスコミが「このサード・アルバムにリッチー・ブラックモアが参加しているらしい」と誤報を流した(後にディオがブラック・サバスのメンバーとして来日した際、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集者がディオに質問し、誤報であることを確認している[2])。結局、1975年にリリースされた3作目には、同郷のコートランド出身のパーカッショニスト、マーク・ナウシーフが参加している。
リッチー・ブラックモアは、ロジャー・グローヴァーのソロ作品『バタフライ・ボール』でのディオのボーカル・ワークに感銘を受けて、デイープ・パープル脱退後、計画していたソロ・プロジェクトにボーカリスト、共同作曲者としてディオを迎え入れる。結果としてギターのスティーヴ・エドワーズをグループから排除しソロ・シングルとして制作した「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」と、そのカップリング曲としてロニー・ジェイムス・ディオと共作した「16世紀のグリーンスリーブス」をリッチー・ブラックモア名義とした上でリッチー・ブラックモアズ・レインボーを名乗るようになった。ゲイリー・ドリスコール、ミッキー・リー・ソウル、クレイグ・グルーバーが、コージー・パウエル、ジミー・ベイン、トニー・カレイに替わり、バンド名もレインボーと改め、契約所属したパープル・レコードもオイスター・レコードへと変わった。そして、配給元のポリドール・レコードによるビッグ・マーケット取得のためにエルフは消滅する。
各メンバーのその後[編集]
- ロニー・ジェイムス・ディオはこちらを参照。
- ミッキー・リー・ソウルは、イアン・ギラン・バンド、ホワイトスネイクなどパープル・プロダクションの仕事を受けつつ、現在、ディープ・パープルにはキーボードの技術者として関わっている。
- マーク・ナウシーフは、ドラマーとしてイアン・ギラン・バンドに参加した後、シン・リジィ、ゲイリー・ムーアのG-Forceを経てミュージック・ビジネスとは一線を画したバリやジャワのガムランなどの民族音楽学を修得し、アヴァンギャルド音楽シーンで活動している。
- クレイグ・グルーバーは、1983年ゲイリー・ムーアのバンドに参加後、ゲイリー・ドリスコールやブルー・チアーのギタリストであったダック・マクドナルドらと「Bible Black」というグループを結成し、アルバム『Bibble Black』をリリースする。その後、「INFINITE METAL WERKZ」というカスタム・メイドのベース・ギターの会社を設立したが、2015年5月5日、前立腺癌との闘病の末に死去した。
- ゲイリー・ドリスコールは、ローカル・バンドで活動し、1985年にダック・マクドナルド、ビリー・シーン、アンスラックスのプロデューサーであるカール・ケネディらとともにフラッグ・アルバム『Thrasher』[1]を制作。1987年6月に他殺体としてニューヨーク州イサカ(Ithaca)にて発見されたと伝えられている。薬物取引による事件に巻き込まれたとみられている。
- 結成時のメンバーであるダグ・サーラーは、音楽マネージメントの仕事に就き、現在はアート・ガーファンクル、リトル・フィート、ブルース・ホーンズビーらを抱えるマネージメント会社メトロポリタン・タレントを運営している。
- デヴィッド・フェィンスティンは、グループを抜けたあとアメリカのヘヴィメタル・バンド、ザ・ロッズを結成、80年代に活動後2008年に再結成してノルウェーでギグも行っている[2]。また彼はディオの従兄弟でもある。
ディスコグラフィ[編集]
スタジオ・アルバム[編集]
- 『エルフ』 - Elf (1972年)
- 『キャロライナ・カウンティ・ボール』 - Carolina County Ball (1974年) ※米国盤タイトル『L.A./59』
- 『バーン・ザ・サン』 - Trying to Burn the Sun (1975年)
コンピレーション・アルバム[編集]
- The Gargantuan Elf Album (1978年)
- Ronnie James Dio: The Elf Albums (1991年)
- And Before Elf... There Were Elves (2011年) ※The Elves時代の12曲を収録
シングル[編集]
- Hey, Look Me Over / It Pays to Advertise 7" (1967年) ※The Electric Elves名義
- Walking in Different Circles / She's Not the Same 7" (1969年) ※The Elves名義
- Amber Velvet / West Virginia 7" (1970年) ※The Elves名義
脚注[編集]
参考文献[編集]
- シンコー・ミュージック刊「リッチー・ブラックモア・レインボー編」ISBN 4-401-61202-7
- シンコー・ミュージック刊「ブリティッシュ・ロックの王者:紫神=ディープ・パープル」0073-61021-3129