長波 (駆逐艦)
長波 | |
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基本情報 | |
建造所 | 藤永田造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 夕雲型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1939年度(マル4計画) |
起工 | 1941年4月5日 |
進水 | 1942年3月5日 |
竣工 | 1942年6月30日 |
最期 | 1944年11月11日戦没 |
除籍 | 1945年1月10日 |
要目 | |
基準排水量 | 2,077t |
公試排水量 | 2,520t |
全長 | 119.3m |
最大幅 | 10.8m |
吃水 | 3.76m |
ボイラー | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 52,000hp |
最大速力 | 35.0kt |
燃料 | 重油:600トン |
航続距離 | 18ktで5,000浬 |
乗員 | 225名 |
兵装 |
新造時 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 Ⅱ×2 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九三式魚雷16本) 爆雷×18乃至36 |
長波(ながなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の4番艦である。
艦歴
1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として藤永田造船所で建造、1942年(昭和17年)6月30日に竣工して一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍となる。
竣工後、横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入されて横須賀に回航された後[1]、相模湾方面での哨戒に従事[2]。また、7月20日に横須賀を出撃してキスカ島へ資材輸送任務に就き[3]、帰途に輸送船を護衛して8月4日に横須賀に帰投した[4]。
ガダルカナル島を巡る戦い
8月31日、第二水雷戦隊(田中頼三少将(海軍兵学校41期))に第三十一駆逐隊が編制されて巻波とともに編入され[5]、瀬戸内海で訓練を行って待機した[6]。9月6日、第三戦隊(戦艦金剛、榛名。栗田健男中将・海兵38期)を護衛して呉を出撃[7]。トラック諸島に進出後は前進部隊に編入され、ガダルカナル島の戦いに関わる海上作戦に加わることとなる。
10月11日、第二水雷戦隊はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を艦砲射撃する第三戦隊を護衛してトラックを出撃。10月13日から14日にかけての深夜に行われた砲撃においては、襲来してきた魚雷艇の一群を追い払った[8]。砲撃後、第三戦隊とともにガダルカナル島を後にした第二水雷戦隊は、同じくヘンダーソン飛行場砲撃に向かう重巡洋艦妙高、摩耶の護衛に旗艦の軽巡洋艦五十鈴と第三十一駆逐隊を加勢させる事として兵力を分割した[9]。妙高と摩耶は10月14日夜にガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して枕を並べて全滅した高速輸送船を見つつ、10月15日夜に艦砲射撃を敢行[10]。砲撃は約1時間で終わり[11]、第三十一駆逐隊も砲撃を行った。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊(近藤信竹中将・海兵35期)および第三艦隊(南雲忠一中将・海兵36期)主力と合流し[12]、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた。10月26日の南太平洋海戦を経て、10月30日にトラックに帰投した[13]。
11月3日、第二水雷戦隊は外南洋部隊増援部隊としてトラックを出撃してショートランドに向かう。11月6日深夜、第三十一駆逐隊を含む駆逐隊四隊は、ガダルカナル島への鼠輸送を行うためショートランドを出撃[14]。途中でB-17 の空襲を受け、戦死者3名と重傷者7名を出し、一番砲塔などに被害があった[14]。深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した[15]。間を置かず、第二水雷戦隊は11月12日に、第三十八師団(佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船とともにショートランドを出撃し、タサファロングに突入する第一分隊を護衛した。しかし、11月14日になって輸送船団はヘンダーソン飛行場から飛来した空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の艦載機[16]、陸軍機、海兵隊機による8度にわたる反復攻撃を受け、11隻の輸送船は約半数が沈没するか引き返した。田中少将は駆逐艦と残存の4隻の輸送船をサボ島沖に向かう第二艦隊の後につけさせ、第三次ソロモン海戦(戦艦の夜戦)が生起した隙を突いて輸送船をタサファロングの浜辺に擱座させた[17]。第二水雷戦隊は11月15日にショートランドに帰投した[18]。
ルンガ沖夜戦
輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると、ガダルカナル島に対する輸送作戦はドラム缶を用いた鼠輸送に切り替えた。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと第八艦隊(三川軍一中将・海兵38期)に二度意見具申したが[19]、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された[20]。二度も意見を却下された田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を降ろし、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた[21]。警戒艦は第三十一駆逐隊の諸艦に割り振って、警戒隊と二つの輸送隊の警戒担当とし[22]、田中少将は長波を臨時の旗艦とした。
11月29日夜22時45分、第二水雷戦隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した[23]。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 に発見される[24]。これを受け、南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は「東京急行」を阻止すべく、カールトン・H・ライト少将の第67任務部隊を出撃させた[25]。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、警戒隊の高波は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備え、長波、巻波も輸送隊からやや離れて警戒の任務にあたった。21時12分、高波が第67任務部隊を発見する。敵発見の報を受けて、田中少将はドラム缶を投棄させて戦闘態勢に入った。ルンガ沖夜戦の始まりである。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び、直ちに反撃の酸素魚雷を発射したものの、袋叩きの末航行不能となった[26]。その隙を突いて他の駆逐艦も酸素魚雷を発射し、その槍衾は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった。先頭のミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) には魚雷が2本命中し艦首を吹き飛ばし、ミネアポリスの後方を包んでいたニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) も魚雷の射線に飛び込み、艦首に魚雷が命中してミネアポリス同様に鼻先を失った。3番艦ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) は損傷したミネアポリス、ニューオーリンズ両艦を避けるべく左に舵を切ったが、両艦からの火災によってペンサコーラの艦影が浮かび上がり、日本側による2度目の雷撃の格好の目標となってしまった。ペンサコーラには1本が後部マスト直下の左舷側に命中し、機械室が破壊され砲塔3基が使用不能になった上、大火災が発生した。4番艦ホノルル (USS Honolulu, CL-48) は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった[27]。ノーザンプトンは左に大きく倒れ、3時間後に傾斜して燃えながら沈没していった。 高波は23時30分頃に自沈の処置を始めたが、同37分、米艦隊の魚雷が艦尾に命中し、爆雷、爆薬庫が爆発し沈没した。長波は海戦で大口径弾の至近弾を受けた軽い損害だった。[28]。
昭和17年12月から昭和18年前半の戦い
しかし、海戦には勝利したものの本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった。そのため、12月に入ってからも輸送作戦が繰り返される事となった。12月3日から4日にかけての第二次輸送、12月7日から8日にかけての第三次輸送、12月11日から12日にかけての第四次輸送に従事するが[29]、空襲や魚雷艇の妨害などによって輸送作戦は上手くゆかなかった。12月14日にラバウルに後退してからはムンダへの輸送作戦に参加する[30]。12月25日から26日にかけては、コロンバンガラ島への輸送任務に向かう途中でアメリカの潜水艦シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) の魚雷攻撃を受け、さらに護衛の駆逐艦卯月と衝突して二重の損傷を負った輸送船南海丸(大阪商船、8,416トン)に対する救援活動に従事した[31]。12月30日、第二水雷戦隊司令官が田中少将から小柳冨次少将(海兵42期)に代わり、引き続き長波を戦隊旗艦とした[32]。
年明けた1943年(昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送に参加の後トラックに下がる事となり、1月14日にトラックに到着した[33]。小柳少将は着任後1ヵ月で伊崎俊二少将(海兵42期)に司令官の座を譲り、長波から将旗を撤収した[32]。1月14日から3月7日にかけてはトラックで整備を行い[34]、3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後舞鶴に回航され、舞鶴海軍工廠で修理に入った[35]。修理後横須賀に回航されて、空母雲鷹、冲鷹を護衛してトラックに向かう[36]。5月8日に雲鷹、冲鷹に戦艦大和を加えてトラックを出港し、5月13日に横須賀に帰投の後、北方部隊に編入された[37]。占守島片岡湾に進出して行動を開始するも、故障発生により再び舞鶴海軍工廠で修理が行われ、修理後は幌筵島に進出した[38]。
キスカ・ブーゲンビル・ラバウル
7月7日、キスカ島撤退作戦第一次作戦に警戒部隊として参加する。しかし、第一次作戦はキスカ島方面の霧が晴れてきたことで中止となり[39]、幌筵島に帰投した。再挙を期して、第二次作戦は7月22日から開始された。しかし、7月26日夕方に多重衝突事故があり、前を航行中の初霜の艦尾が左舷艦尾にぶつかり、外板に少し凹みが生じて若干量の浸水もあったが作戦に支障は無かった。撤退作戦後、8月3日に北方部隊の指揮から離れて原隊に戻ることとなった。響とともにタンカー日本丸(山下汽船、9,971トン)を舞鶴近海まで護衛し[40]、舞鶴海軍工廠で9月4日まで修理を行った[41]。
修理後の9月15日、島風とともに重巡洋艦鳥海、摩耶を護衛して横須賀を出撃し、トラックを経由してラバウルに向かう[41]。護衛任務終了後はトラックで待機し、10月17日からはマーシャル諸島方面に出撃する第三艦隊(小沢治三郎中将・海兵37期)と第二艦隊(栗田健男中将)の護衛に就いた[42]。11月に入ってラバウルへの緊急輸送を行った後[43]、ブーゲンビル島トロキナ方面に殴り込みをかける第五戦隊(大森仙太郎少将・海兵41期)を護衛してラバウルを出撃。11月1日から2日にかけての深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦を経てラバウルに帰投後、11月5日の第1回のラバウル空襲に遭遇するが、被害はなかった。11月6日から10日にかけては第十戦隊(大杉守一少将)とともにトロキナへの逆上陸作戦に従事した[44]。
この頃、11月5日の空襲に満足したハルゼー大将は、更なる戦果拡大を狙って太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に新手の空母任務部隊の派遣を要請[45]。ニミッツ大将はギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)を派遣することに決した[45]。11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が行われた。第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)はブーゲンビル島北方から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた[45]。これに対し、ラバウルから発進した偵察機は第50.3任務部隊を発見[46]。これに伴い、ラバウル在泊の駆逐艦は折からのスコールにまぎれて港外に脱出しつつあった[46]。7時15分、急降下爆撃機十数機の攻撃を受けて後甲板に被弾し、操舵不能になったうえ爆圧でスクリューが脱落して航行不能となった[47]。ラバウルにて仮修理を受け、本格的な修理のため曳航されて後送される事が決まり、12月3日に軽巡洋艦夕張、駆逐艦文月の護衛下、駆逐艦水無月に曳航されてラバウルを出港[48][49]。5日までは駆逐艦天霧も護衛に協力、計三回連合軍機と遭遇したが被害を受けることはなかった[48]。8日、トラックに入港[48]。1944年(昭和19年)1月15日、軽巡洋艦長良に曳航されてトラックを出港し、1月25日に呉に帰投して本格的修理に入った[50]。
フィリピンの戦い
2月10日、森艦長は第二艦隊司令部附へ転任した[51]が、後任艦長の発令はすぐには行われずそのまま修理を行い、6月1日になり新艦長の飛田清少佐(海兵56期)が横須賀鎮守府附[52]から就任した[53]。6月下旬に修理を終えた後の7月9日、大和、武蔵、第四戦隊など第二艦隊の中枢を護衛して臼杵湾を出撃。途中、沖縄の第三十二軍(渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行い、任務終了後はリンガ泊地に直接向かって7月16日に到着。訓練に励んだ。
10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾で補給の後、10月22日に出撃した。だが、翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕がアメリカ潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) の、僚艦摩耶がデイス (USS Dace, SS-247) のそれぞれ雷撃に遭い沈没し、高雄がダーターの雷撃で大破して戦線離脱した。朝霜とともに損傷した高雄の警戒と護衛にあたっていたが、翌10月24日にボンベイ礁に座礁したダーターの攻撃のため分離し、水雷艇鵯とともにリーフ上のダーターを砲撃。13ミリ機銃と写真、可能な限りの鹵獲品を得て、分捕った13ミリ機銃は後檣右舷側に装備された[54]。次いでシブヤン海で第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受けて大破し、コロン島経由でブルネイ湾に下がる妙高の護衛に就いた[55]。損傷艦の護衛を努めた結果、レイテ沖海戦本体の戦闘には加わらなかった。海戦後、マニラに進出しレイテ島行きの多号作戦に投入される事となった。
11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を護衛してマニラを出撃。翌11月9日夕方にオルモック湾に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚げできなかった[56]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25 とP-38 の攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)と輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没し、戦隊旗艦霞および朝霜とともに救助作業にあたり、輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は秋霜以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた[57]。この後、朝霜、若月とともに木村少将から第三次輸送部隊と合流するよう命令を受ける。霞に香椎丸の生存者を移した朝霜とともに第四次輸送部隊から離脱し、21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊に合流した[58]。
第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機[59]による空襲を受けた。浜波が真っ先に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した[59]。続いて若月、部隊指揮官の第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(海兵44期)座乗の戦隊旗艦島風も被弾し、輸送船は全滅していた。やがて、激しい対空戦闘の末に弾薬が尽きた長波は右舷艦橋下に被弾し、艦右側にも至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は艦首を上げて沈没していった。第三次輸送部隊は朝霜ただ一隻を残して全滅し、早川少将も戦死した飛田艦長は生き残った乗員数十名を引き連れて、いまだ浮いていた浜波に乗り移った[60]。飛田艦長は乗員を各部署に配置させて機関の再始動にも成功したが、マニラ帰投に必要な缶用の真水が欠乏していたので浜波を陸上砲台にしようと決心した[61]。しかし、潮流に流されて擱座に失敗し、浜波に残っていた糧食で夕食をとった後就寝[62]。翌12日、飛田艦長以下の長波の乗員は浜波を離れ、陸上から迎えに来た大発に移ってレイテ島に上陸した[62]。浜波の船体がその後どうなったのかは定かではないが、飛田艦長は生還して、戦後海上自衛隊に入隊した[63]。
1981年(昭和56年)、長波の元乗員10名によって、京都霊山護国神社に長波の慰霊碑が建立された[63]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 駆逐艦長
- 隈部傳 中佐:1942年6月30日[65] - 1943年11月25日[66]
- 森卓次 少佐:1943年11月25日[66] - 1944年2月10日[51]、以後1944年6月1日まで駆逐艦長の発令無し。
- 飛田清 少佐/中佐:1944年6月1日[53] - 1944年12月5日[67]
脚注
- ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319500, pp.48,49
- ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.22
- ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319700, pp.27
- ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030319800, pp.11 、C08030320800, pp.26
- ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030320800, pp.20
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030095600, pp.5
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030097200, pp.4,5
- ^ 『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.16,29,30
- ^ 『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.36
- ^ 『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37
- ^ 『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.37,38
- ^ 『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.73
- ^ 『第二水雷戦隊戦闘詳報』pp.71
- ^ a b 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.15,16
- ^ 南太平洋海戦での損傷の修理中、艦載機をヘンダーソン飛行場に移動させていた(木俣『日本水雷戦史』232、233ページ)
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.23
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.7
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.38,40
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.40,41
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,2,42,43,44
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.1,3,4
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.44,45,48
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099000, pp.45,48
- ^ ポッター, 306ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.52
- ^ 木俣『日本水雷戦史』242ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030098800, pp.51
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.4,6
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.6
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030099600, pp.25,26,33
- ^ a b 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.7
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.5,10
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100200, pp.10 、C08030100400, pp.7 、C08030100500, pp.7
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100500, pp.12,15
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100600, pp.6
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030100700, pp.6 、『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084000, pp.8
- ^ 『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084400, pp.15,35,45
- ^ 『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084500, pp.47
- ^ 『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030085200, pp.15
- ^ a b 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101200, pp.7
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101300, pp.7
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- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.13
- ^ a b c 『戦史叢書96』413ページ
- ^ a b 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101400, pp.48
- ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)431頁『「長波」の曳航護衛』
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101800, pp.15
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030102000, pp.14
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- ^ 昭和19年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1401号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072097000 で閲覧可能。
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参考文献
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- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年十一月一日至昭和十七年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030098800, C08030099000
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030099600
- 特設運送船南海丸『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 南海丸戦時日誌』(昭和17年12月1日〜昭和18年3月31日 南海丸戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030670500
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年一月一日至昭和十八年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100200
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年二月一日至昭和十八年二月二十八日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100400
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100500
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年四月一日至昭和十八年四月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100600
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030100700
- 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年3月1日〜昭和18年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084000
- 舞鶴鎮守府『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030356400
- 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084400
- 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084500
- 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年7月22日〜昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030085200
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101200
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十月一日昭和十八年十月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101300
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101400, C08030101500
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030101800
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十九年一月一日 至昭和十九年一月三十一日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030102000
- 軍艦高雄『昭和十九年十月三十日 軍艦高雄戦闘詳報 自昭和十九年十月二十三日至昭和十九年十月二十五日対潜戦闘』(昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030570200
- 多号作戦第四輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『多号作戦戦闘詳報第二号(自昭和十九年十一月八日至昭和十九年十一月十一日第四次輸送作戦) 』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087600
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 永井喜之、木俣滋郎「アメリカ重巡「ノーザンプトン」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ、1988年、ISBN 4-257-17208-8
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 橋本衛「駆逐艦「長波」残弾なし!完結編」『丸 第45巻・第1号』潮書房、1992年
- 田村俊夫「米潜「ダーター」の機銃を装備した「長波」」『歴史群像太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
- 田村俊夫「「長波」とした写真の訂正」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-606020-1
関連項目
外部リンク