桜田門外の変

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桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区)において水戸藩薩摩藩脱藩浪士彦根藩の行列を襲撃して、大老井伊直弼を暗殺した事件。

経緯

外桜田門と井伊藩邸の距離は600m。

安政5年(1858年)に南紀派に擁立されて大老に就任した井伊直弼は、将軍継嗣問題と通商条約案の勅許拒否という問題に直面していたが、南紀派一橋派の争いについては、血縁を重視する慣例と将軍徳川家定の内意に沿い、溜間を拠点とした南紀派の推す徳川慶福(将軍就任時に家茂と改名)を将軍の世子として決着させた。もう一つの懸案である条約勅許獲得問題は、ハリスの恫喝と幕府内の開国派に押される形で、孝明天皇の勅許がないまま安政の五ヶ国条約に調印した。(しかし、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものである。)大広間や大廊下の大名を中心にした一橋派の徳川斉昭松平春嶽は、それに対抗すべく規則外の不時登城を行って違勅と非難したが、「大政関東御委任」の立場を固めた井伊大老に処罰され、発言は封じられた。

朝廷の権威により回復を図ろうとする一橋派は京都で運動を行い、条約調印と斉昭・春嶽の排斥に激怒した孝明天皇は、幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を水戸藩に伝え、さらに幕府寄りの関白九条尚忠内覧から外して遠ざけた。水戸藩は写しを雄藩に送り賛同を求めたが、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が大名に直接指令するというのは、江戸開府以来前代未聞の出来事で、幕閣は狼狽した。井伊大老は、密勅は叡慮ではなく水戸の陰謀とする側近の長野主膳の注進に基づいて、徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させた。「天下分け目の御奉公」と井伊に表明した間部老中は、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中堀田正睦の失策を受け、着京後は態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、一方で長野や九条家家士の島田左近と連日協議した。そしてあいまいな弁疏を繰り返しつつ、一方で公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、政治運動に関わった諸藩の武士を捕らえていった。孝明天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという井伊大老の弁明に一通りの理解を内々に示したが、「公武一和」のために朝廷が井伊政権に屈したことで、安政の大獄はさらに加速する。

水戸藩では、密勅への対応をめぐって藩論が分裂したが、前藩主である徳川斉昭永蟄居の処分を受け、更に幕府より「戊午の密勅」の朝廷返還を求められていた。主君の処分解除には幕府へ恭順しなければならず、同時に返還を認めない過激派の抵抗もあり、藩内の膠着状態は続いた。さらに幕府自らが返還の勅命の草案を作って孝明天皇に認めさせるという荒業に出て、寸刻の猶予もなくなった。

返還阻止の運動は激化し、有志たちは藩境の長岡で街道を封鎖した。この長岡屯集は藩上層の工作により懐柔されて失敗し、過激派の藩士たちは活動の中心を江戸に移した。以前より攘夷派の高橋多一郎金子孫二郎などの水戸藩士と、薩摩藩の在府組である有村次左衛門は、双方の藩に仕えた日下部伊三治(大獄により獄死)を介した結合を維持していたが、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもっての京都における挙義を断行し、幕政を是正しようとする。

しかし、薩摩藩は島津斉彬急死後に実権を握った弟の島津久光が、江戸での「挙義」を黙認しつつも自藩の直接関与を抑制する方策をとった。そして、息子である藩主島津茂久が直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を強引に沈静化させた。ここに率兵上京は不可能となり、京都における攘夷派の蜂起は破綻する。しかし「斬奸趣意書」にあるように、幕政是正のためには井伊直弼の排除が必要不可欠とする水戸浪士たちは、関東における挙義を単独でも実行する方針を固めていた。薩摩との合流のため、高橋多一郎、金子孫二郎らは京へ上り、関東では関鉄之介率いる実行部隊が大老襲撃を断行するとして分かれ、関東組へは薩摩在府組のうち有村次左衛門が一人加勢した。

当日の早朝、一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠を出発し、東海道(現在の国道15号)に沿って進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(東京都港区慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速都心環状線を過ぎる)を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かう。藩には届捨てで脱藩を願い出ていた。そして、藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した(関係者一覧は下記)。井伊家には以前より警告が届いていたが、直弼は護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、あえて護衛を強化しなかった。

襲撃

桜田門外の変の想像図

当日は季節外れの大雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。襲撃者たちは「武鑑」を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。

駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。こうして護衛の注意を前方に引きつけておいた上で、黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストル[1]を駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。

発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、独自に修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなってしまった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、太平の世に慣れ文弱の徒となっていた藩士の多くが算を乱して遁走した。それでも意地と廉恥を知る数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った者が多い上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置される。護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、銃創と鞘袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどした。

こうした不利な形勢の中、二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど、襲撃者たちをてこずらせた。同じく駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重症を負わせたが、銃創が酷く闘死した。その時の永田太郎兵衛の刀が、子孫の永田茂鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。

もはや護る者のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられた。さらに有村次左衛門が荒々しく扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼のを掴んで駕籠から引きずり出した。直弼は無意識に地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」(「キエーッ」という気合い)とともに、振り下ろされた薩摩刀によって胴体から切断された首は、あたかも鞠のように雪の上を飛んだという。襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に鮮やかに描かれている。

有村らは勝鬨を上げ、刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げようとしたが、斬られて昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に斬りつけた。小河原は広岡子之次郎らによって膾のように斬り倒されたが、門の内側から目撃した人物の表現によると、朦朧と一人で立ち向かい、数名の浪士に斬られ尽くした有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決する。小河原は即日絶命するが、ほかに数名でも自分と同じような決死の士がいれば決して主君の首を奪われることはなかった、と無念の言葉を遺している。

襲撃を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。

死傷者とその後の処分等

襲撃側

最初に駕籠目がけて斬り込んだ稲田重蔵は、河西に斬り倒され即死した。有村次左衛門のほか、広岡子之次郎、山口辰之介、鯉渕要人は、多くの士卒が遁走する中で踏みとどまった数名の彦根藩士による必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首した後に自刃した。襲撃の指揮者・関鉄之介は各地を逃亡した後、2年後の文久2年(1862年)に越後の湯沢温泉(現在の新潟県岩船郡関川村)で捕らえられ、江戸で斬首された。

大坂で薩摩藩兵の上京を待っていた高橋多一郎・荘左衛門親子は幕吏の追捕を受け、四天王寺境内にて自刃した。薩摩藩士有村雄助と共に上坂の途上にあった金子孫二郎も、伏見で捕らえられ江戸で斬首された。大坂で薩摩藩との連絡役であった川崎孫四郎は幕府に探知され自刃した。

他の者も多くは自首したり捕縛された後に殺害されたり、獄死している。増子金八海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びた。

井伊家側

襲撃により、藩主である直弼以外に8人が死亡し(即死者4人、後に死亡した者4人)、13人が負傷した。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、2年後の1862年(文久2年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対しての処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。

影響

老中阿部正弘の示した雄藩との協調体制を否定し、伝統的な幕閣主導型の体制と秩序を復活させるとともに朝廷の政治介入を阻止するという井伊大老の路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、江戸定府・徳川姓の親藩で「副将軍」と巷間で称される水戸藩徳川家と、譜代大名筆頭の彦根藩井伊家が仇敵となり、長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜し、幕府政治の安定性も損なわれて、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となる。また、18年後に発生する大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)に至るまでの、実力行使と武力による血なまぐさい争乱の時代が幕を開けることとなった。

水戸藩士はその後も文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけて、第一次東禅寺事件坂下門外の変天狗党の乱などの争乱事件を起こしている。天狗党の乱の際に、彦根藩士は「直弼公の敵討ち」と戦意を高揚させ、中山道を封鎖して筑波山から京都に向かった水戸藩士を迎撃しようとしたため、やむなく天狗党は美濃から飛騨を経て越前に入り、敦賀で降伏した。武田耕雲斎など水戸浪士352人はここで処刑される。なお、彦根藩士が水戸浪士を処刑した刑場は来迎寺である。

井伊家のその後

井伊直弼(彦根城博物館所蔵)

当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ち、また暗殺された直弼自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。

直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家からは直弼への見舞品が藩邸に届けられている。これにならい、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には当の水戸藩の者もおり、彦根藩士たちの憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けたという。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。

しかし、襲撃後の現場には尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中に知れ渡った。「赤備の武勇」はすっかり文弱と化していたが、直弼の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭」をもじって「いい鴨を 網でとらずに 駕籠でとり」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で 枕いらずの 御病人」「遺言は 尻でなさるや 御大病」「人参で 首をつげとの 御沙汰かな」などの川柳も相次いだ。

1862年(文久2年)に率兵上京した島津久光は、勅使大原重徳を擁して幕政の刷新を要求し、幕府は松平慶永の主導で井伊政権の清算を図った(文久の改革[2]。末期の井伊政権を支え、直弼死後に幕閣をまとめた安藤信正は、同年初めの坂下門外の変で水戸浪士の襲撃から難を逃れたものの、久世広周と共にこの改革で老中を罷免された。また、井伊家は直弼の失政を理由に、石高を35万石から25万石に減らされるとともに京都守護の家職を剥奪され、松平容保京都守護職に宛てられた。これに先立って、彦根藩は直弼の腹心だった長野主膳宇津木景福を斬首・打ち捨てに処したが、結局のところ減封を免れることはできなかった。この後、彦根藩は幕府を守る立場から距離を置きだすことになる。

減封は、明治になってから思わぬ憶測を井伊家周辺に及ぼした。華族令施行に伴い、旧藩主の直憲は伯爵に叙されるが、この爵位は減封後の石高を基準としたものであった。草高35万石で、近江半国領主という国持大名に準ずる格式に沿うならば、1階級上の侯爵となるはずとの思惑も、井伊家の周辺にあった。そのため「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」との説も流れた。

しかし、減封後の現石は9万石程度であり、さらには仮に減封がなくても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。そもそも爵位の基準は版籍奉還の時点の現石が基準であり、「安政の大獄の恨み」などというのは全くの俗説である。彦根藩はすでに鳥羽伏見の戦いの時点で薩摩藩兵とともに東寺大津を守備するなど、最初から勤王の姿勢を示しており、近藤勇を逮捕する手柄を立てるなど実戦での功績も評価され、賞典禄2万石を与えられている。直憲は有栖川宮家から夫人を迎えており、井伊家は旧譜代大名の中では、むしろ厚遇されたと考えるべきである。

和解

桜田門外の変で敵対した両藩のお膝元である水戸彦根が和解して親善都市提携を結んだ時期は、事件発生から110年後の1970年であった。水戸市からは偕楽園の梅、彦根市からは堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で「殿様市長」として知られた井伊直愛であった。水戸と彦根を和解させた都市は敦賀市であったが、敦賀は水戸天狗党がことごとく殺された土地である。水戸と敦賀が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだ時期は1964年だった。その後、彦根市は水戸市と高松市の姉妹都市提携の仲立ちまでしている。

関連人物

桜田十八士

彦根藩側

  • 井伊掃部頭直弼(大老 彦根三十五万石藩主。享年46)
  • 岩崎徳之進重光(伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡)
  • 小河原秀之丞宗親(小姓。闘死。享年30)
  • 加田九郎太包種(騎馬徒士。闘死。享年31)
  • 河西忠左衛門良敬(剣豪。闘死。享年30)
  • 日下部三郎右衛門令立(物頭。負傷、藩邸で死亡。享年39)
  • 越石源次郎満敬(負傷、帰邸後死亡)
  • 沢村軍六之文(闘死)
  • 永田太郎兵衛正備(闘死)
  • 朝比奈三郎八(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
  • 朝比奈文之進(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
  • 小幡又八郎(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
  • 小島新太郎(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
  • 長野十之丞(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)
  • 藤田忠蔵(軽傷、帰邸の為入獄、1862年斬首)
  • 水谷求馬(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)

襲撃に関与

  • 金子孫二郎教孝(郡奉行。首謀者 伏見にて捕縛、1861年斬罪。享年58)
  • 高橋多一郎愛諸(小姓頭取、矢倉奉行。首謀者の一人 大坂にて自刃。享年47)
  • 高橋庄左衛門諸恵(多一郎の長男 大坂にて自刃。享年19)
  • 有村雄助兼武(次左衛門の兄 薩摩藩とのパイプ役、金子、佐藤と共に上方に上る 伏見薩摩藩邸にて捕縛、切腹。享年26) 
  • 佐藤鉄三郎寛(金子に従い補佐、その後、金子と共に伏見で捕縛。追放刑 変名は安島鉄三郎。暗殺や上方道中に関して後世に書き残した。明治期に水戸藩吏。1915年没。享年80)
  • 川崎孫四郎健幹(郡吏 大坂で連絡係 自刃。享年35)
  • 小室治作(高橋に随行、自刃)
  • 大貫多介則光(高橋に随行、捕縛後獄死。享年26)
  • 山崎猟蔵恭礼(薩摩藩士との連絡役、捕縛後絶食死。享年33)
  • 島男也竜雄(笠間藩士。高橋に随行、捕縛後1861年獄死。享年53)
  • 小野寺慵斎(土浦藩士。兵学者。参謀の一人 1861年自刃)
  • 宮田瀬兵衛(変後に一味だと熊本藩に自訴、獄死。享年47)

その他

  • 飯田左馬忠彦国学者、同事件への関与を疑われて囚われたために抗議自殺した。享年62)
  • 滝本いの(関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の妓。鉄之介の潜伏の手助けをした。鉄之介を追う幕吏に捕らえられ伝馬町牢で拷問により獄死。享年23)
  • 佐久良東雄良哉(京都妙法院の武士。高橋多一郎・庄左衛門を匿ったため捕縛、絶食死。享年50)
  • 後藤権五郎輝(郷士。変には関わっていないが元一味。広木松之介を名乗って自首。1862年獄死。享年32)

碑・塚・墓

  • 東京都港区愛宕神社境内には「桜田烈士愛宕山遺跡碑」がある。
  • 大阪市四天王寺には高橋多一郎、荘左衛門親子の顕彰碑がある。
  • 大阪市の生国魂神社には川崎孫四郎自刃の碑がある。
  • 茨城県東茨城郡茨城町長岡には、水戸藩士らが襲撃を期して江戸に向かう際に髪を埋めた「水戸浪士の毛塚」がある。
  • 東京都荒川区南千住にある南千住回向院には、刑死した水戸浪士の墓と、滝本いのの顕彰碑がある。
  • 東京都世田谷区豪徳寺には、直弼護衛のため殉職した彦根藩士8人の「桜田殉難八士之碑」がある。
  • 広島県立歴史博物館所蔵、福山藩の儒学者・菅茶山の弟子・門田朴斎の五男がこの事件に関する伝聞を集めた『骨董録』(こっとうろく)にて、当日行列後方に居て事件を目撃した井伊家中間の証言が見つかった。[3][4]

題材とした作品

※発表順

小説
映画
テレビドラマ
漫画
ブックレット
  • 桜田門外ノ変 時代を動かした幕末の脱藩士 (2010年) - 黒沢賢一

参考文献

脚注

  1. ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、このピストルは現物が出現し、そこには高度な旋条線が刻まれていたという。当該項を参照
  2. ^ 生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
  3. ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
  4. ^ 秋の企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」‐広島県立歴史博物館に於ける『骨董録』公開を告げる広島県「ブンカッキーネットひろしま(ひろしま文化・芸術情報ネット)」記事(2010年7月11日閲覧)

関連項目

座標: 北緯35度40分39.6秒 東経139度45分9.6秒 / 北緯35.677667度 東経139.752667度 / 35.677667; 139.752667